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episode 1 はじめまして、アイリス

 時は流れて九ヶ月後。

 結局私は東京をあとにし、実家に舞い戻った。連日の終電帰宅に嫌気がさし、社内で辞表をしたためて上司に差し出したのだ。これまで職場に限界を感じても就職活動の煩わしさを想像して現状に甘んじていたが、ある日なにかがぷつんと切れてしまった。どう考えても就活のほうが楽だと、入社して今日までの就職失敗を肯定したのである。


 東京で就職していたわずか一年三ヶ月のあいだに、私の部屋は物置化していた。季節の家電製品や父の古くなったゴルフクラブ、母が興味本位で買ったのであろうエクササイズマシン、そして弟が使わなくなったゲーム機まで無造作に積み上げられていた。さすがにこの状態では眠れないので部屋を整理する運びになり、大きくて重量のあるものの処分は弟に任せ、軽くてリサイクルに回せそうなものは私が担当することにした。


 アンティークカップを手放すならここにしなさいと母に言われ、メモを片手に車を走らせること五分。たどり着いたのは『骨董コレクション・アイリス』だった。少し入り込んだところにある店だったので、母の妙な情報通ぶりに感心した。

 ドア横の壁にかかった屋号を横目で流し見つつ、上部がガラス張りになった鳶色の木製ドアを開ける。ドアチャイムがちりりんと控えめに鳴った。

 最初に目に飛び込んできたのは、ドアの真正面にある天井に届くほどの高いコレクションボードだった。まるで映画館のスクリーンのように幅広であり、この店を守る城壁のごとく壁に沿ってしつらえられている。

「いらっしゃいませ」

 左手から男性の声がして、そちらへと視線をやる。長身かつ若い男性が立っていたのでギョッとした。私は無意識のうちに、アンティークに関わる者は総じて年配者だという滑稽な概念を抱いていたらしい。

 毛先をルーズに遊ばせた黒髪の男性は、板張りの床の上を音も立てずに上品に歩き、私へと近づいてきた。そして私の手もとを見て言う。

「買い取りをご希望ですか」

「……はい。とくに予約はしてないんですけど……」

「構いませんよ。こちらにどうぞ」

 男はにっこり笑んでターンする。

 その瞬間、私の記憶のフタが開いた。一陣の風が吹いた草原のように、全身にさあっと鳥肌が立つ。

 いつかの夜に出逢ったマヨイガ。すべては夢のなかの出来事だと思っていたけれど、その鱗片に触れたような気がしたのだ。

「どうかなさいましたか」

「……あ、いえ。ごめんなさい。こういうお店は初めてで……」

 私は慌てて取り繕う。男性は笑みを崩さず、仕草だけでもう一度私を促した。

 驚くことはない。シチュエーションが似ていただけだ。

 私は心のなかで自身をそう諌め、歩き出した。


 男性に案内されたのは、コレクションボードの前に用意された、重厚な商談用テーブルセットだった。さっそく私はテーブルのうえに磁器の箱を積み上げる。男性が査定をはじめたので、こっそり周囲を見渡した。


 さすがアンティークカップ専門店。コレクションボードはひとつだけではなかった。店のドアの右隣と、入口から見て右手の壁際にも一般家庭では置けないようなサイズのコレクションボードが鎮座していた。表通りに面した窓際には、ディスプレイ用だろうか、豪華なティーセットやキャンドルがセッティングされたラウンドテーブルがあり、入口から左手の壁際にはボードと同様のマホガニー素材のレジカウンターが配されていた。それに店の雰囲気を決めるインテリアもひと味違う。幾枚もの葉が扇形のように広がる大ぶりの観葉植物に、天井には小振りだがクリスタルの輝きが美しい瀟洒なシャンデリアが吊り下げられていた。

「査定が終わりました。ひとつずつ説明していきますね。まずこのカップは焼きシミが見られますので、申し訳ございませんが買い取り価格にも反映させていただきました」

 男性はそう言いつつ、カップの内側を指差した。私は顔を近づけて彼の爪の先に注視する。よくよく見れば、そこには黒点がふたつあった。指摘されなければ分からないほどの小さなシミである。

 それからも男性は私にひとつひとつカップの状態を説明してくれた。私はチャンスとばかりに話に聞き入っているフリをして男性を見つめる。


 年のころなら二十代後半といったところだろうか。すっきりとしたフェイスラインに、前髪に隠れて見えにくいが形の整った濃い眉。一度も染めたことがなさそうな青い黒髪は、毛先に緩くウェーブがかかっているため重たく見えない。涙袋のある目尻の下がったアシンメトリーの瞳が色っぽく、じっくり目が合うと火をつけられたかのように体の芯が熱くなってしまう。それに、日本人離れした高い鼻と厚みのある唇、はっきりと確認できるのど仏に、長い指先とごつごつと骨の浮き出た手など、看過できないほど濃厚なフェロモンを前に、否応にも異性であることを意識してしまった。


 それから私は男性が提示した買い取り証書にサインをし、無事に現金を受け取った。臨時収入にしてはいい価格だったが、母がどれほど元手をかけたのか分からないので、手放しに喜べなかった。


 男性に送り出される際、私はふとレジカウンターに目を留めた。男性は私の視線の先に気づき、幾種類もあるリーフレットのなかから無作為に二枚を手に取る。

「これは美術館のお知らせと割引チケット、こちらは来月開かれる蚤の市のご案内です。気になるものがありましたら、どうぞお持ち帰りください」

 男性がそう言って私のほうへとリーフレットを差し出した。

 そのときカウンター横の窓から強い風が入り込み、カウンターのうえに積み上げられていたリーフレットの山を薙ぎ払った。リーフレットはバタバタと強い音を伴って私たちのあいだを飛んでいく。風はすぐにおさまったが、カウンターのうえは乱れ、手のひらサイズの観葉植物も倒れて土をばらまいてしまっていた。

「わあ、これはひどい」

 男性はまず窓を閉め、それから観葉植物や高価そうなオーナメントを起こした。私は店中に散らばったリーフレットをかき集め、種類ごとに分ける。

「黒金さま、どうぞそのままで」

「ひまですから……お手伝いします」

 私の返しに、男性が甘く微笑む。私は心臓を指で軽く押さえつけられたかのような、甘美な衝撃を受けた。

 彼はおそらく他人の目にさらされることに慣れているのだろう。容姿の優れた人間特有の悠然とした態度で、気取った仕草など微塵も感じられない。

 私は心のなかで彼の微笑を繰り返し再生しつつ、すべてのリーフレットをカウンターに戻し終えた。ほうきとちりとりで砂を片付ける男性にひと言声をかけてから去ろうと顔を上げると、彼は目を見開き、こちらを見ている。正確に言うと、今しがた並べたばかりのリーフレットを見ていた。そんなに驚かれるほど片付けるのが早かっただろうか。そう思っていると、男性は戸惑ったように言った。

「黒金さまは、最近うちの店にいらしたことがありましたか」

「……いいえ?」

 予想外の質問に私も狼狽する。男性はちりとりとほうきを床に置くと、思案顔で私のほうへ歩み寄った。

「うちのサイトか、笠原美樹のSNSを見たことは?」

「……ないです」

 笹原美樹は最近よく聞く美人モデルだ。そんな女性の名が突然出てきたので、ますます話が見えずに困惑してしまう。

 私は不安そうな表情をしていたのだろう。男性はスイッチを押したかのようにパッと表情を変えて、再びフェロモンも濃厚に笑んだ。

「いろいろと詮索するような真似をして申し訳ございません。いともあっさりとリーフレットをもとどおりに並べてくださったので、僕の記憶違いでここ数日のあいだにあなたとご縁があったものかと……」

 彼はそう言ってカウンターに目をやった。そこには大小併せて十四種類のリーフレットが大小ふたつの扇に整えられ、上下に重なるよう並んでいる。私が記憶を頼りに再現したものだ。

 私はどういうわけかひとよりも記憶力がいい。トランプ程度の情報量なら、その配列を見たとおりのまま記憶できる。とはいえ数日経てば記憶も不鮮明になるし、逆にいい加減忘れたいのに鍋にこびりついた焦げ目のようになかなか落ちない情報もある。たとえば前職での失態を罵る先輩たちの表情などがそうだ。

 男性は私が口を開くのを待っていた。自身のことを詳しく話すつもりなど微塵もなかったが、主の指示を期待する従順な大型犬のような瞳を向けられて、つい生来の特異体質を語ってしまう。

「それは稀な才能ですね。興味深い話を打ち明けてくださってありがとうございます。お陰で僕のもやもやも解消しました。仕事にも有効な能力でしょうから、職場で重宝されるでしょう」

 私が話し終えると、男性は感嘆の吐息を洩らした。

 彼の何気ない問いかけに、私は内心苦笑いして答える。

「……私、いま休職中なんです」

「……そうですか」

 男性の表情に緊張が走り、再び思案顔になってしまった。おそらく慰めの言葉を探しているのだろう。だが詫びなど不要なのである。ブラック会社を退職した私は、いまや心身ともに健全な日々を送っている。いまさら過去を気の毒がられても虚しいだけだ。

 彼に謝罪させまいと適当に言葉を紡ごうとしたとき、男性が再び妖艶な笑みを浮かべ、あることを口にした。それは私の予想だにしないひと言だった。

「どうでしょう黒金さま、うちにシュウショクなさいませんか」

「……えっ」

 エロティックな唇から〈就職〉という言葉が出るとは思わず、私は飾り立てるという意味合いをもつ〈修飾〉を思い浮かべた。

「うちはアンティークカップを専門に取り扱っている店で、覚えることはたくさんあります。ですからあなたがうちにきてくださったら、僕の負担も軽くなって助かります」

「……あの、もしかして私がここで働くということですか」

「はい。そのつもりでお誘いしています。もしかしたら前職での支給額よりも少なくなってしまうかもしれませんが、そのぶんうちは勤務時間が緩やかです。体を壊すような激務はまずありません」

 まるで過去の私を見透かされたようでどきりとした。それと同時に心が揺さぶられたことも事実だ。なにせ私は求職中の身である。実家に出戻り、肩身の狭い思いをしているので、早いところ安定した仕事に就きたいと考えていた。

「立ち話もなんですから、詳しい話はさあ、こちらで」

 男性は私の気持ちが揺れていることを見抜いたらしく、商談用のテーブルへと私を誘った。その魅力的なエスコートを拒否できず、再び私は天板に象嵌模様が入った重厚なテーブルに着くことになった。


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