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episode 17 この勝負、正攻法でいかせていただきます

「ねえ、これ撮っていい?」

 美樹の声に、私はハッと我に返った。最初は美樹を見ていたはずなのに、いつのまにか釉人を追っていた。どうしてこんな白昼夢を見てしまったのかと戸惑っているあいだに、釉人と美樹の会話がスムーズに流れていく。

「撮ってもいいけど、まだネットには出すなよ」

「……そっかあ」

「いつもどおりうちで情報出ししたあとに解禁な」

「ううん。うっかり上げちゃったらマズいから、やっぱり撮るの止めとこ」

「そう? 美樹はフォロワーが多いからさ、美樹のところからうちのサイトに流れてくる客もいたんだけどな」

 釉人はそう言いつつ、デミタスカップのディスプレイ作業に戻った。美樹は釉人のそばを離れず、彼の仕事を見守っている。

 誰もが口をつぐんでしまったので、フロアは静けさを取り戻した。工さんのカップをソーサーに戻す音が、やけに大きく響く。

 私だけがいつもの業務体制に戻れず、荒涼とした心を抱えて佇立している。

 そんなとき、急に釉人に話を振られた。

「黒金、これはどこのカップか分かるか」

 思ってもいなかった角度からの話題に、私は姿勢を正す。

「はい、あの、分かりません」

「即答かよ」

 釉人からは呆れ顔で突っ込まれ、工さんからは好意的な笑みを送られる。恥ずかしさで顔が火照りそうになったが、美樹からのブリザードのような視線に晒されて私の表情筋は一瞬にして凍った。幸か不幸か、おかげさまでポーカーフェイスを貫くことができたわけである。

「これはコールポート。前の買い付けで大量に仕入れてたんだ。ほら、カップの形状はどれも一緒だろ?」

 釉人が私を招くポーズをしたので、私は美樹に〈仕方ないんですよ、呼ばれたのだから〉という体裁を醸し出しつつ出向く。だがテーブルを覗き込もうにも美樹がベストポジションをキープしたままで見ることができず、結局釉人が代わりに場所をあけてくれた。

 テーブルに並んだデミタスカップは全部で五つ。いずれのカップも口縁がしっかり開いた朝顔のように、なだらかな波を描いている。ハンドル部分も特徴的で、アクセサリーキットのマルカンのようなサークルがふたつ、カップの側面にへばりついている。

 私はカップにそっと手を伸ばした。デミタスなだけあって、通常のコーヒーカップよりもひとまわり小さく、片手にすっぽりと納まってしまう。そんな小振りなカップには風景画が描かれていたり、息を飲んでしまうほど均一にジュールが打たれていたりして、実際に使用せずとも眺めているだけで楽しい。

「コールポートは高級ラインのデミタスカップをよく作ったんだ。なかでも風景画の描かれたデミタスは人気でコレクターも多い。穏やかな水辺に、光いっぱいの空と豊かな緑……。曇天に煙る町にいながら風光明媚な風景が描かれたカップで飲むコーヒーは、さぞかし美味かったんだろうな」

 釉人はうっとりしつつカップの縁を指で撫でた。彼がアンティークカップに陶酔するのはいつものことなので、私は引くことも突っ込むこともせず、手中のカップをまじまじと眺める。

「このジュールもすごいですね。少しでも集中力を欠いたら、珠が潰れてしまいそうです」

 青いジュールはおそらくトルコ石だろう。まるでカルピスの包装紙のように、青いドットがカップの側面に打たれている。そのひとつひとつの粒がぷくりと盛り上がり、指で触るとその凹凸具合がよく分かった。ソーサーに至っては、淵からカップの高台が納まる井戸という部位にかけてジュールが徐々に小さくなるよう打たれている。熟練の技士にしかなし得ない、高度な技術であることは一目瞭然だった。

「こういうジュール打ちの技法をあられ仕上げって言うんだ。コールポート社はカップだけじゃなく、花瓶や香水瓶にもこの技法をよく使った」

「香水瓶ってすごく小さいのに。見た目だけじゃなく、感触でもその技法の素晴らしさが楽しめるって、すごいことですよね」

 私がため息をつきつつカップを戻すと、釉人が満足そうに頷いた。少し顔が上気しているので、私の返事に満足しているらしい。

 こうやってカップについて講釈してもらえるようになったのも、私をアイリスのメンバーとして受け入れられた証拠だと思っている。

 嬉しさでほほが緩みそうになったが、それは美樹が許さなかった。

「ねえ釉人、そろそろ買い付けにいくんでしょ。もう日程は決めてるの?」

「ん? ……ああ、来月にイギリスに行くつもり。でも細かい日程は未定。いまディーラーとのやり取りしてる最中なんだ」

 突然美樹が話に割り込んで来て話題をかっさらっていってしまったので、私の高揚しかけていた気持ちはあっという間に萎えてしまった。それに頭上で飛び交う話は、私にとってまったく知らないものだ。そのため口を挟むこともできず、私はふたりのあいだでじっと耳を傾けるほかない。

「このあいだの買い付け旅行は安いホテルだったし、食べ物もほとんどパンばっかりでショボかったし、あっち行ったりこっち行ったりしてヘトヘトになったけど、なんだか小さいころを思い出して楽しかった。だから次も絶対ついていきたいな。ね、日程決まったら教えてね?」

「いや、今回は俺ひとりで行くことになってる。なあ、工」

 釉人の視線が私を飛び越え、カウンターにいる工さんへと向かった。工さんはこちらの話に始終耳を傾けていたようで、片肘をカウンターに乗せ、顎を支えたまま小さく頷いている。

 今度は美樹が顔から笑みを消した。

「……なんで? どうして? 店を閉めて行くんじゃないの?」

「前の買い付けはアイリスがオープンする前だったから美樹も誘って行けたけど、いまはそういうわけにもいかないだろ。それにあのときとは違って店には黒金がいるから工の負担も軽くなったし、アイリスのことはふたりに任せて俺ひとりで動ける」

「待ってよ。あたし一緒に行くつもりでいたのに……」

「いやいや、遊びで行くわけじゃないし。そもそも俺は本来バイヤーだし。それに美樹だって売り出し中の大事な時期なのに、休暇もらうなんてできっこないだろ」

「それは……」

 美樹はもう言葉にならなかったようで、そのままうな垂れた。その拍子に彼女のつややかな髪が肩から一房はらりとこぼれ落ちる。その姿を見ても、同情心がわかなかったどころかすべてが美樹の思い通りにならずにすんでよかったと思ってしまった私は最低な人間かもしれない。

「こら美樹。落ち込むなよ」

「……ん」

「旅行なら、そのうち社員旅行と称して美樹も連れてってやるし」

 釉人がこちらのほうへ一歩踏み出したので、私は反射で真後ろに下がった。

 釉人が腕を上げて美樹の頭に触れ、やさしく跳ねる。声色も羽が生えたかのように軽やかであたたかい。

 私はとっさに目をそらし、ふたりから離れた。彼らのやりとりを視界に入れてはいけない気がした。

「そのかわり、前みたいな貧乏旅行でも我慢しろよな」

「一緒にいられるなら全然平気。でも……余計なひとがついてくるのはイヤ。もっと言うと、ふたりっきりがいい」

「えー……それいま言う?」

 背後でカップル同士の話が弾んでいる。工さんが肩をすくめたのち、私に目配せしつつバックヤードを指差した。たぶん仕事に戻ろうという合図なのだろう。美樹もそのようにしてもらいたいようだ。肩越しに見えた美樹は釉人のシャツを掴み、私をキツく睨みつけていた。


 バックヤードに入ると、無意識にため息が出た。工さんは聞こえなかったフリをしてくれたので、よけいに恥ずかしいやら申し訳ないやらで気持ちが沈んでいく。

「いま、次回のセール商品を選定してるんです。彩さんにも手伝ってもらいたいんですけど、いいですか」

「はい。大丈夫です」

 工さんは私が美樹に対して苦手意識を持っていることを察しているのだろう。自然な調子で私にフロアに出なくてよい口実を与えてくれる。弁解するのも面倒くさくて、私は工さんの助け舟にさっさと乗り込んだ。


 それから私はホームページにセールの特設ページを設けることを提案したり、工さんにホームページリニューアル後の売り上げアップの推移を見せてもらったりするなかで、ささくれ立っていた気持ちは次第に癒えていった。フロアの様子が気にならなかったと言えば嘘になるが、じゃれ合うようなやり取りが洩れ聞こえてこなかったので、私も平常心を保つことができた。

 工さんとの会話はミルクと黒糖をたっぷり入れたあたたかいコーヒーのようで、ほっと心が安らぐ。釉人のようにアンティークカップに極度に神経質ということもないので、業務中不必要に緊張を強いられることもない。

 口べたでのんびり屋の私は工さんと波長が合う気がしているのだが、それは一方通行の認識ではないと思っている。私と一緒にいるときの工さんは無理に話題を探したり、無言に耐えられないという雰囲気がいっさいないからだ。

 そんな具合で和やかに仕事をしていたとき、なんの前触れもなくバックヤードの扉が開いた。私と工さんは笑顔のまま振り返る。私たちはこの瞬間まで、ホームページに上げる画像は使用感をイメージしやすいように実際にケーキを乗せてプレートの撮影してみたらどうかという話で盛り上がっていたのだ。

「あれ? 美樹、どうしたの」

 バックヤードに入ってきたのは美樹だ。表情が乏しいせいだろうか、顔色が悪いように見える。

 美樹はぽかんとしている私たちを無言で見比べ、そしてつっけんどんに言い放った。

「仕事、してもらおうと思って」

「ええっと……仕事ならしてるよ。そう見えない?」

 工さんが小さく笑いつついなすが、美樹の刺々しい態度は一向に軟化しない。むしろいっそう眉根が寄り、目つきも鋭角になった気さえする。

「あたしはそのひとに用があるの」

 顎で指されたのは驚くべきことに私だった。

 こちらに話が飛んでくることもないと油断しきっていただけに、素っ頓狂な声が出る。

「……私、ですか?」

「そう言ったでしょ」

 刃に似た視線がまっすぐ私に向けられたので、ひくりと喉が鳴った。

 美樹は腰に手を当て、つかつかと歩み寄り、座っている私を見下ろす。

「友だちに誕生日のプレゼントを贈りたくて。こういうのって男性の店員に聞くより女性の店員のほうが頼りになるでしょ」

 そんなわけないだろうと心のなかで毒づいたが、もちろん顔には出さない。

 私はアイリスに就職してまだ二ヶ月も経たないペーペーである。冷静に考えて私ごときが、アンティークカップに愛を誓った釉人に知識も美的センスも敵うわけがないのだ。

「友だちってモデル仲間? 同い年の?」

「……そう」

 美樹は、話に入ってきた工さんを睨みつけつつ答えた。私は工さんに嫌な思いをさせてはいけないと、自ら進んで立ち上がる。

「分かりました。協力させていただきます」

「そう? よろしく」

 美樹は口ではそう言いつつも、当然という顔をしていた。

 いまになって気づいたが、釉人はバックヤードの入口で佇み、面倒なことになったと言わんばかりにこめかみを押さえて突っ立っていた。そんな釉人を見たとたん、梅雨の湿気のように心がじっとりと翳る。猫なで声まで出して大切にしたい恋人なら、その手綱くらいしっかり握っておいてほしい。

 私は彼に一瞥もくれず、フロアに躍り出た。慌てたように小声で名前を呼ばれたような気がしたが、振り返らなかった。

 私は両足を適度に開き、フロアにそびえるアンティークの山を見据える。

 こうなったら正面切って、美樹を唸らせるようなアンティークカップを選定してみようではないか。


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