episode 16 本命は目のまえに
「おかえり。お疲れさま」
アイリスに戻ると、工さんが大人の余裕そのもののような笑みを浮かべ、迎えてくれた。
「おばあさんの具合はどうだった?」
「変わりない」
「そう。それはよかった」
釉人はカウンターに荷物を置くと、瑞江さんの状態について詳しく話しはじめた。
私も輪に加わるけれど、ふたりに口は挟まない。それなのに工さんは釉人よりも私を見つめる割合が多かった。鶏ガラパンチが瑞江さんだったと知った私がどんな反応をしているのか探ろうとしているのかもしれない。
もし釉人の思惑に気づかないまま与えられた婚約者役をまっとうできたなら、今朝工さんとの会話で生じた疑問もすっかり氷解したと、そう快活に報告できただろう。
でもいまは無理だ。上手に取り繕えそうにない。
私は工さんと目が合わないよう、視線を落とした。彼はひとの心の動きに敏感で、どんな小さな変化も見逃さない。視線が噛み合ないことに異変を察されるだろうが、心を事細かに暴かれるよりずっといい。
そんなことを思いつつ、私は無意識に耳をいじっていた。
「あれっ、彩さんのイヤリング……ピアスにしたんですか」
「え……ああ……釉人さんに……」
「釉人が?」
工さんはさすが気づかいのひとである。ふつうイヤリングがピアスになったことなど、そうそう気づかない。
どう経緯を説明しようか考えていところ、急に釉人が用意していた台詞を読み上げるようにして一気に喋りだした。
「あーそれはさ、黒金がしょっちゅう落としてたから手直ししてやった。俺さ、前々から思ってたんだけど、アイリスのユニフォームにもパールをつけない? カフスとかタイピンとかにつけたら、店の統一感出ると思うし」
「……ユニフォーム。統一感」
「そうそう、ユニフォームに統一感。同じもん身につけると仲間意識が高まるだろ? アンティーク調の台座を使って、アイリスの雰囲気を損なわないようにしてさ。俺、手先は器用だから、そういうの作れるし」
釉人はイヤリングをいじったという事実について触れられないよう、一生懸命話題をシフトさせようとしていることは明白だった。
「いやそのまえにさ、どうしてピアスに変えるにいたったのかを……」
「すぐ落とすから、黒金は。落とすといえば視線だよ。上品なパールづかいに客の視線も引き寄せられて、すてきなショップだから貢献したいわと、自然と俺の可愛いアンティークたちに金を落としていく」
「ずいぶん強引だなあ」
「女は細かいところに目がいきがちだから、店へのプラスのイメージになること間違いなし」
工さんがどのように切り込もうか考えている素振りを見せているが、釉人が会話のイニシアティブを譲らない。
やがて工さんが白旗を揚げた。
「釉人、話の続きはまたあとにしよう。そろそろお昼だから、なにか調達してきて?」
「えー。俺いま帰ってきたばかりで、出て行く気にならねえよ」
「饒舌にしゃべる元気はあるくせに?」
ふたりがふたたび小さな攻防を始めたので、私はすかさず手を挙げた。逃げ出すなら、いまがチャンスだ。
「私、行きます。そこのコンビニでいいですか」
「おー、黒金さんきゅ。俺ざるそば」
「こら、なに自然に用事言いつけてるんだ。彩さん、いいんです。僕が……」
「いえ、行かせてください。買いたい私物があるんです」
そう言いつつ私は下手な作り笑いを浮かべると、ドアへと向かった。外へ出る直前、肩越しにフロアへと振り返る。工さんが私に向かって小さく頷いたのが見えた。気持ちをリセットしておいでと、送り出されたような気がした。
ドアの閉まる音を背中で受けとめ、強い日差しのなかを歩いていく。熱風にくらりときた拍子に、釉人から打ち明けられた工さんとの本当の関係について、ふと思いをめぐらせた。
釉人と工さんは本当の兄弟ではなく、赤の他人。
変わったのは私の頭のなかにある彼らの情報だけで、ふたりの関係はなにひとつ変化はない。釉人は心の底から工さんを慕っているし、工さんも本当の弟のように釉人を慈しんでいる。
瑞江さんに私を婚約者と紹介したことといい、工さんを兄と偽っていたことといい、釉人は家族というものに対してなんらかのコンプレックスがある気がしてならない。その反面、家族の絆を渇望しているようにみえる。いい年して仲間内で揃いの装飾品を身につけたがることがいい例だ。
私は片手で耳たぶに触れる。ファーストピアスの金具が爪に当たって、その振動が拡張したての穴に響いた。
「家族かあ……」
なぜだろう。釉人は私にも工さんと同じ絆を求めているような気がする。
それは釉人のテリトリーに迎え入れ立てたことと同義であるのに、心は落ち葉でできた腐葉土のように複雑な色へと沈んでいた。
*
その日は朝から客入りも少なく、まかないをとったあともまったりとした時間は続いていた。
仕立て直したホームページは順調に機能しているし、オンラインショップも少しずつ売上数を伸ばしている。洗濯物もあっという間に乾いて取り込み済みであるし、買い出しもとくにない。パソコンを使う事務作業もあるのだが、急ぐような案件ではないうえに、いまは工さんが使用している。
「ふわ……」
私はカウンターのなかでダイレクトメールに宛名シールを貼りつつ、ついうっかりあくびをしてしまった。
慌てて口もとを押さえて、窓際に配置された猫足の円形テーブルを見る。デミタスカップのディスプレイを製作していた釉人はすぐさまその手を止め、こちらをじろり睨んだ。
なんという地獄耳。
私は飛んでくるであろう小言に耐えるため身構えたが、釉人は私を捉えたまま私以上の大あくびを披露した。
退屈にうんざりしていたのは、私だけではなかったらしい。釉人がにやりと笑ったので、私も努力して口もとを緩ませた。
「こう暇だと眠くなるな。コーヒー飲もっか」
「……じゃあ、私淹れてきますね」
「おう」
ラフな調子で返されて、私も平静を装いうなずき返す。そして釉人の視線を背にしつつ、給湯室に入った。
恋人役を引き受けて以来、釉人が私に対して身構えることが少なくなった。私の祖母の思い出話と、釉人の家族に対するコンプレックスがシンクロして、私は彼に受け入れられたのかもしれない。
きっと釉人から期待されているのは損得勘定の存在しない信頼関係だ。そこに付随する私の役割も分かっている。妹のような立場を求められているのだろう。
瑞江さんの前ではあんなに情熱的に私への思いを語っていたくせに。
このままこの関係を維持していきたいと思う反面、正体の掴めない熱い衝動が間欠泉のように吹き上がる。私はシーソーのように揺れる心を均すがごとく、エスプレッソマシーンのスイッチを入れた。大きな作動音に遮られ、客が入店してきたことにも気づかなかった。
「コーヒー淹れましたけど、給湯室で飲みますよね?」
フロアのほうへ顔を出して叫ぶと、ふたつの顔がこちらに振り返った。思わずびっくりして固まっていると、釉人の隣にいた美女が大きく目を見開かせ、すぐにうんざりとした表情を作った。
「やだ、うるさい。ここは何屋?」
「まあまあ。コーヒーはいったって。美樹も飲む?」
「いらなーい。飲んだらオーラルケアしなきゃなんないし」
美樹はすぐに私から視線をそらし、そう言った。さらにわざとなのかそうでないのか分からない絶妙な所作でこちらに背を向け、釉人の前に立つ。美樹は大きな帽子をかぶっているため、私からはまったく釉人の顔が見えなくなってしまった。
「誰かと思えば美樹か。遊びにきたの? ……あ、コーヒーのいい香りがする」
私たちのやり取りを聞きつけたのだろう。バックヤードから工さんが出てきた。私は思わずホッとした。
「いま淹れたばかりです。飲みますか」
「もちろん。持ってきてもらえますか」
工さんはゆったりと歩き、カウンターのなかに入って腰を下ろした。客が来るかもしれないというのにフロアで飲むつもりらしい。自由なオーナーだと思う。
私は指示されたとおり、コーヒーをフロアに運んだ。工さんはカップを受け取ると、さすがに天板には置かず、カウンターの下にこっそり忍ばせる。
工さんから一緒にここで飲もうと提案されたが、首を振って辞退した。そのあいだも美樹の物であろう視線を背中にビシビシと感じていた。
「……シャツにラペルピン。そのスタイルがアイリスのデフォルトになったの?」
「さすが美樹。見てるところが違うね」
コーヒーを啜りながら工さんが笑う。そんな彼のシャツの襟には、小粒のパールがちょこんと乗っていた。
美樹は私へと視線を移し、ある一点に目を留めた。耳だ。
「……ふうん。イヤリングとおそろいなんだ」
私の瞳に映るのは欠点などなにひとつない、完全なシンメトリーの貌。容姿が整っているぶん、まるでビスクドールと向き合っているような錯覚を覚える。感情もしまい込んだ表情に、ぞくりと身の毛がよだった。
「いやいや、イヤリングじゃなくてピアス。彩さん、ちょっと失礼。ほら、釉人が仕立て直したんだ」
工さんが私の髪に指を入れて耳たぶを露にする。私は工さんになされるがまま佇立し、不快の色が投入された美樹の顔を見ていた。そのうしろで釉人が、しまったという表情を浮かべている。
美樹は帽子を取り、空いている片手を腰に当てて釉人へと振り返った。
「なに? 釉人が仕立て直したって?」
「う、うん。キットがたまたま手に入ったから」
「あたしもおそろいにしたかった」
「いやー……これってコットンパールだし。美樹にはもっと上等な一点物が似合うだろ」
傍目にも滑稽なほど、釉人は懸命になって美樹をフォローしている。バカバカくなった私は、美樹がこちらに背を向けていることをいいことに、つい工さんと目配せし合った。
しかし悪いことはできないもので、不運にもその瞬間を美樹にばっちり見られてしまった。とたんに迫力が増した美樹の能面顔に、私は内心冷や汗をかく。
私の焦りを煽るがごとく、美樹は冷ややかな声で続けた。
「店のなかで飲食。スタッフ同士の談笑。そのうえ髪に触れるというセクハラ。オーナーとしてのリテラシー低っ」
「いやあ……さすがに言い返せないなあ。ねえ、彩さん」
「あっ美樹、ちょっと見てみろよ。こないだ入荷情報出してたのはこれ。ネットにはまだ現物はアップしてないんだ」
釉人が美樹の背を抱いて、無理矢理私たちから意識を逸らさせた。釉人のこなれた仕草に私はハッとする。
日中釉人のそばにいる私を目の敵にしている恋人の美樹。そんな彼女の機嫌を損ねないよう甲斐甲斐しく世話を焼く彼氏。その図式がいま目の前にある。
突きつけられた現実に、私はすっかり怯んでしまった。
いくら私が釉人から直々に恋人役を任されたとはいえ、それはあくまでフリなのだ。本命は目の前に居て、私にはない華やかな存在感を放っている。
「ねえ彩さん」
言葉をなくした私にやさしく声をかけてくれたのは工さんだ。私はすべての意識を工さんに向けることで、ぐしゃぐしゃに踏みつけられた心を必死に均す。
「アンティークカップで淹れたてのコーヒーを味わう。美樹には叱られましたけど、これはオーナーの特権なのでやめません」
「でもお客さんが来たらびっくりされますよ」
「焼肉の香りがしたら驚かれるかもしれませんが、カップがたくさん並んでいる店でコーヒーの香りがしても、それは不思議なことじゃないでしょう?」
「まあ……そう言われると、そうなのかもしれません」
私たちは控えめに笑い合う。気持ちが負へと傾くまえに工さんののんびりした口調に包まれて、私の心はゆっくりと冷静さを取り戻していった。
いつどんなときでも工さんは自然に場の雰囲気を和らげてくれるし、気難しい釉人さえも工さんにかかれば容易くコントロールされてしまう。工さんとの会話を楽しみに来ている常連客だっているくらいだ。
だからこそ先ほどの美樹の態度には驚いた。釉人と工さんへの対応があからさまに違いすぎて、こちらのほうがひやりとさせられたくらいだ。
工さんの人柄に触れて昂った気持ちが緩和されることはあっても、怒りが増すことなどない。少なくとも私がいままで見てきたひとたちはみなそうだ。
美樹にとって釉人以外の男はみな口をきくに値しない人間なのだろうか。もし本当にそう思っているのなら、私が思っている以上に美樹は思い切った人物である。
私は興味本位で美樹を観察する。釉人のそばにぴたりと寄り添い、笑うたびに肩で釉人の胸へボディータッチしている。
美樹を見下ろす釉人の目はやさしい。体の力も抜けていて、いつ美樹を抱きしめてもおかしくないほどリラックスしている。
実際にはそんなことをしていないのに、釉人が美樹の頭に触れ、指先で髪を滑り、額にキスを落とす姿を想像した。映画のワンシーンのような美しい映像に胸が苦しくなるけれど、私はその意味を深く考えまいとしていた。