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episode 15 私が選ばれた理由《わけ》

 瑞江さんにあてがわれている四人部屋は、以前と違ってすべてのベッドにカーテンが引かれていた。私は釉人に誘導されて、部屋の左サイドを目指していく。

 前回私が病院に来たときは釉人と入れ違いになってしまったらしく、瑞江さんに会うことができなかった。

 いまの私は婚約者という妙な役を担っているけれど、瑞江さんに会うこと自体は不本意なことなどではない。じつは瑞江さんに興味がある。なにせ少々気難しいところのある釉人が慕うほどの人物なのだ。きっと慈愛に満ちた女性にちがいない。

「ばあちゃん、俺だけど」

 釉人がカーテンに向かって声をかけた。

 あれっと思う。そこは以前鶏ガラパンチがいたベッドだ。

 もしかして瑞江さんはまた不在だったのだろうか。

「うん? ……ああ、今日はふたりで来たんか」

 カーテンが開けられて、なかから鶏ガラパンチが現れる。私は釉人の斜め後ろから、ふたりのやりとりを黙視していた。

「おう。新しい着替えな。引出しに入れとくよ」

 そう言って釉人はカーテンのなかに入り、鶏ガラパンチの私物がはいっているであろうチェストを開けた。

 私はこの事態についていけず、かといって口に出して訊ねることもできず、釉人に鶏ガラパンチにと視線がふらふら彷徨ってしまう。そんな私をベッドに腰掛けた老女は、じっと含みのある視線を寄越していた。

「……で、なんで連れてきたんね。お前の女か」

「そう。婚約してる。名前は黒金彩さん」

「……く、黒金彩です」

 紹介された手前、黙ったままでいるわけにはいかず、私は慌てて頭を下げた。

「会うのは二度目だけど名前は知らんかった。ああそう、彩ちゃんっていうんね」

 チェストから紙袋を取り出していた釉人が驚いた表情で振り向き、私に言った。

「ばあちゃんのこと知ってるの?」

「はい。前に着替えを届けたときに……」

「そっか。じゃあ、ばあちゃんの紹介はさらっとでいいよな。このひとが行橋瑞江さん。ガキんころ、施設で一番世話になったひと」

 全然さらっとでいいわけがない。

 頭のなかは釉人に対する総ツッコミ状態で、思考回路は正常に機能してくれない。

 黙りこくってしまった私を見て、鶏ガラパンチ改め瑞江さんがにやりと悪い笑みを浮かべた。

「あんたら婚約してるって?」

「そうだよ。いまそう言ったじゃん。式は来年を予定していて、ここんところずっと一緒に式場探ししてんだ」

「おかしいねえ。このねーちゃんはあんたのとこに勤めてるそうだけど、釉人とも工とも付き合ってないって断言していたよ」

 ああほらもう、付け焼き刃の間柄だからすぐにメッキが剥がれてしまう。

 ほら見たことかという気持ちと、あとで散々どやされるぞという警戒心から、私は上目遣いで彼を伺った。釉人は悠々とした態度でチェストから離れて私のとなりに並んだけれど、笑みを引きつらせていたのは私の角度からばっちり見えていた。

 それだけにとつぜん肩を抱き寄せたときは、心臓が停まるかと思った。

「なんだよ、彩は本当に恥ずかしがり屋さんだなあ。ばあちゃん、彩がプライベートを隠したのは店の信用を落としてはいけないっていう気持ちからだったんだよ。いまどき古風な女だろ」

 すんでのところで、驚愕の声が漏れそうになった。

 やや苦しいいいわけだったが、私は立場上その口実に乗らなければならない。とはいえ、私にできることなんて水飲み鳥のようにこくこくと頷くのが関の山だが。

 瑞江さんはなにも言わず、私をじっと見つめている。ボロが出るとしたら私のほうだと見抜いているのだろう。

「彩、来客用の座椅子とってきてくれる? 入口のそばにあるから」

 釉人が自然なかたちで私を解放した。だがスキンシップの余韻が消えず、背が一枚の板になってしまったように硬直してしまって歩くという簡単なコマンドさえスムーズに実行できない。

 僥倖なことに、背後ではすぐに私とはいっさい関係のない話が始まっていた。会話の主導権を握っているのは釉人なので、もしかして私に気を遣ってくれたのだろうか。いや、違う。瑞江さんの注意を自分へと惹き付けたのだ。

 私は出入り口に置かれた来客用の丸イスを手に取りつつ、いったん気持ちをリセットする。

 ピアスを開けてもらった代償が恋人役を演じることだなんて、ぜったい対価が釣り合っていない。だが引き受けてしまった以上、私は釉人の彼女になりきるほかないのだ。

 私は掛け声を発するように息をはくと、ふたり分の椅子を抱えてベッドに戻った。


 ベッドに腰掛けた瑞江さんと、そのかたわらに立っている釉人。なんとなくふたりは互いを牽制しあっているように見えるが、私はそれに気づかぬフリをして椅子を並べる。すると急に頭上から手が伸びてきて、ふたつの椅子がくっつかんばかりに寄せられた。

 驚いて見上げると、釉人が笑みを浮かべていた。

「椅子、近すぎませんか」

「なんなら膝に座る?」

 無理ですと叫ぶわけにもいかず、高速で手を振るわけにもいかず、もちろん是非になど言う度胸もなく、私はひたすら脳みそからだらだらと汗を流して固まっていた。

 こんなに鈍い反応ばかりしていては釉人の怒りを買ってしまう。そう思ったが彼は一笑して私の手を取り、椅子に座らせた。そして私の髪を耳にかけつつ、ささやくように言ったのだ。

「いじわるしてごめんね?」

 ひーっと声にならない叫びが、脳みそから鼻の穴へ抜けていく。

 ほんとうにこのひとは釉人なのだろうか。こんな釉人、私は知らない。

 釉人が私に構いっきりだったこのときも、瑞江さんからの視線を痛いほどに感じていた。言葉に出さないまでも、恋人であることを疑われているのは明白だ。

 いつまでもうつむいているわけにいかないので、私はおそるおそる顔を上げた。瑞江さんとばっちり目が合い、にやりと笑いかけられた。補食された気分だった。

「彩ちゃん。あんた、この子のどこが気に入ったの」

「え……っと……」

 とつぜんの突っ込んだ質問に、私は横目で釉人を見た。釉人はなにも言わずに、折り目正しく微笑んでいる。

 その表情を見た瞬間、ぞわりと恐怖を覚えた。いいかげん自分で切り抜けやがれという釉人の心の声が、私にははっきりと聞こえたのだ。

「……あ、アンティークに対する姿勢が……紳士的で……その、手つきが……」

「手つき?」

「はい……。手つきが、すごく優しいんです……。それは、壊さないようにというだけじゃなくて、アンティークたちが重ねてきた歳月に敬意を払っているようで……。私はアンティークについて素人で、社名と絵柄を一致させることに精一杯ですが……いつか釉人さ……くんのように知識を飛び越えて、アンティークを愛することができたらなって……思うんです」

 しんと、沈黙が下りた。なにかいけないことを言ってしまったのかと焦ったが、瑞江さんは怪訝な表情ひとつ見せず、にやりと笑った。

「そうかそうか。あんたは釉人に首ったけだね?」

「……はい」

 答えた瞬間、顔が異様なくらい燃え上がった。とんでもないことを言ってしまったと思うけれど、これでよかったのだと自らの心臓をいさめる。

「で、あんたはどうなんだい」

「うーん……あらためて言葉にしろって言われてもな。恋愛はロジックじゃないから表現するのは難しい」

 あ、逃げたなと思わず睨みつける。すると虚空でさまよっていた釉人の瞳がこちらへと向いた。

「はじめはかわいい子だなーくらいにしか思わなかったんだけど、仕事でどんなに厳しく指導しても、弱音を吐かずに食らいついてくるから興味を持った」

 急にさらりとすごいことを言い出したので、私は刮目かつもくした。一方釉人の顔には動揺の〈ど〉の字も見当たらない。

「彩はさ、笑うとほっぺがほおずきみたいになって可愛いんだ。でも機嫌を損ねてムッとした顔も、ほほ袋に木の実を詰め込んだリスみたいで可愛い。服装だって清潔感のある上品な格好が多いし、ごはんの食べ方もきれいだ。そっとしてほしいときに、適度に放っておいてくれる、そういう嗅覚の鋭さも心地いい。それから、アンティークに関する知識はなくても、勉強したうえで果敢に質問してくる姿勢は評価したい」

 涼しい顔をして口がむず痒くなるような台詞を次々と吐くので、私のほうが目をそらしてしまった。

 大盤振る舞い状態の褒め言葉に、酔いが回ったようにくらくらとめまいがする。ところどころ身に覚えのある言動が交じっているあたり、どこまでが釉人の本心なのかと気にしてしまう。そんな自分に気づいたとき、頭をかきむしりたい衝動に刈られた。

 瑞江さんは半笑いした表情をキープしたまま、釉人と私を交互に見つめ、そして無言で頷いた。

「ばあちゃん、満足した?」

「まだまだ。もっと瑞々しい話を聞かんと若返らん」

「もう十分だろ。俺ら仕事があるから、そろそろ帰るな」

 釉人は瑞江さんの返事を聞き流しつつ、片手を私へ差し出した。とても自然な所作しょさだったので、私も気負うことなくその手を掴んだ。

「じゃあな」

「また伺います」

 私たちは瑞江さんに別れを告げると、手をつないだまま病室をあとにした。


 つないだ手はエレベーターに乗っても解放されなかった。少し強めに腕を引けば簡単に自由になれそうで、だからこそ私も強い意志を持ってほどく気にはなれなかった。

 私は釉人を見上げる。彼は降下していく階数表示を見つめたまま、一瞬たりともこちらに意識を寄越さない。

 食べ方がきれいだとか、アンティークの勉強をしているだとか、いつのことを指して言ったのだろう。

 私は自分が思っていた以上に釉人の視線を浴びていたらしい。その事実は戸惑いを覚えるほど、喜びのほうへ傾いていた。


 私が現実に返るまで、そう長くはかからなかった。廊下で出会った職員や、ナースステーションのスタッフ、見舞いにきたのであろう一般人、そのすべてのひとたちがすれ違いざまに釉人と私を見比べて驚くからだ。

 人間の目というものは、時として口よりも正直だ。だから寄せられたその視線の意味するところくらい私でも分かる。

 もちろん誰もが私たちのことを不似合いなカップルだと大っぴらにあげつらったわけではない。だが大量生産された安価なチョコなのに、わざとブランドのショップバッグに入れられたような気がして、とても肩身の狭い思いをした。

 しょせんはハリボテの恋人なのだ。釉人から受け取った優しさも、見知らぬひとから寄せられる眼差しも、すべてはフィクションであり、それに対して私が一喜一憂する必要なんてない。


 病院を出てしばらくしたころ、とつぜん釉人に手を引っ張られた。つられて私が腕を持ち上げたところ、釉人が不快そうな顔をする。

「あちぃ。もういいかげん放せよ」

「すみません」

 繋いでいた手の力のかげんは、釉人のほうにイニシアティブがあった。それなのにとっさに強く出られると反射で謝罪をしてしまうのが私の悪いクセだ。

 釉人はとくになにも言わず、再びバス停に向かって歩きはじめた。歩く速度も格段に上がっている。私は小走りであとを追った。

「ツイてねー」

 バス停で時刻表を確認すると、バスは言ってしまったばかりだった。次のバスの到着は十二分後であり、病院に戻るには短すぎる時間である。

 釉人は木製のベンチに荷物を投げ、その隣に腰を下ろした。先ほどとは打って変わってしまった釉人の態度に動じつつも、私は荷物を挟んで横に座る。

 ベンチにはひさしがついていないので、夏の太陽の光を直接浴びてしまう。背後には青々と茂ったイチョウの樹が並んでいるが、その樹齢は若く、こちらに日陰を寄越すには背が足りない。

 私はわずかな涼を求めて、カバンからすっかりぬるくなってしまったお茶を取り出した。釉人が声をかけてきたのは、そんなときだった。

「次回からも頼むわ」

 私はキャップを回す手を止める。次を所望されたことに驚いた。

「……おばあさん、疑ってましたよ」

「続けるうちに信じてくれる。……信じさせなきゃダメなんだよ」

 釉人は膝に腕を乗せ、前屈みになって祈りのポーズをとる。

 その声色には先ほど病室でみた優しさなんて微塵も感じられないのに、彼の不条理な申し出を受け入れてしまいそうになる。

 釉人はずるい。そんなふうに言われると、断ろうとしている私が極悪人のようではないか。

「……どうして私なんですか」

「……なにが」

「釉人さんには美樹さんがいるじゃないですか」

 自分で言った言葉なのに、胸をえぐられるような思いをした。

 釉人は私を見ないまま答える。

「……あいつはダメだろ……いろいろと」

「いろいろ……」

「あとあと面倒くせえんだよ。黒金ならうちのスタッフだし、割り切ってフリができるだろ?」

 耳の奥に綿が詰まったように、聴覚に異変が起こった。どくどくと心臓が警鐘を鳴らしている。感情がついていかないのは、思い描いていた展開とはまったく違うからだ。

 釉人はバッグからペットボトルを取り出すと、一気に呷った。上下するのど仏が、私のパルスと同期する。

「いまは仕事とばあちゃんのことでいっぱいいっぱいで、これ以上ゴタゴタを抱えたくないし。ましてや恋愛ごとなんか勘弁。だからさ、黒金がいてくれて助かる」

 釉人はようやく私のほうを見た。そして照れ隠しのように早口でさんきゅと言った。


 まわりの景色がみるみるうちに遠のいていく。全身の血液が真っ黒に染まり、内側からどろどろと腐っていくような感覚を覚えた。だめだ、いけないと強く念じても、一度始まった腐化は止められない。


 どうして私はいま、釉人を憎らしいと思っているのだろう。


 肌をじりじりと焼かれているはずなのに、体の芯がうすら寒い。恋人のまねごとをして、釉人とのあいだに恋と呼ばないまでも特別な関係が芽吹いたと勘違いしてしまったからだ。

 釉人が立ち上がって、空になったペットボトルをバスの時刻表のそばに設置されたゴミ箱に放る。私はたっぷりと残ったぬるいお茶を抱えつつ、そのさまを黙って見ていた。


 ようやく釉人の考えが分かった。知ってしまったからこそ、虚しさで胸がいっぱいになる。

 美樹が担って当然の婚約者役に私へと白羽の矢が立ったのは、釉人自身が美樹と将来を見据えた付き合いをしていないからだ。


 時間ぴったりにバスが私たちの目の前に滑り込んできた。先ほどにも増してガラガラの席に、離ればなれに座る。釉人は私の行動に対して、不審そうにする素振りすら見せなかった。

 となりに座らないのは、暑いという理由だけではない。

 そんなことにすら気づいてもらえないなら、私が怒るのも筋違いだろう。


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