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episode 14 恋人レッスン?

「業務にかこつけて、妙なお願いをしてすみません」

 バックヤードで病院に行く支度をしていたところ、開け放したままにしていたドアのそばで工さんが申し訳なさそうな顔をして立っていた。

「大丈夫です。病院にはこのあいだ行ったばかりでルートも覚えていますし、問題ありません。あ、午前の記帳は病院帰りにしますね」

 私は通帳をバッグに詰め込みつつ言う。ほかに工さんに確認しておくことはないかと考えを巡らせたところ、パッと脳裏に強烈なイメージが浮かんだ。鶏ガラパンチだ。

「彩さん? どうかしたんですか?」

「このあいだ病院に行ったとき、瑞江さんに会えなかったので荷物は同室の女性に託したんです。工さんならそのひとの名前をご存知だと思って」

「……どうでしょう。大部屋だから患者さんの入れ替わりもありますし……」

「そのひとは工さんのことをよく知っている様子でしたよ」

「そうなんですか? 誰でしょう? 僕はいつもおばあさんと話し込んでしまうので、まわりの患者さんのことはよく存じ上げないんですけど……」

 工さんが首を傾げて考え込んでしまった。私もさすがに老女の容姿を鶏ガラパンチと直接形容するのは憚られたので、言葉に気をつけつつ脳裏に焼き付いている強烈なイメージを言葉にする。

「そのひとはすごく痩せていて、頭がこう……くるくるときつめのパーマをかけた……」

「…………ああ」

 工さんが片手で顔を覆ったので、私は口をつぐんだ。工さんに思い当たる女性がいたようだ。

 だが見るからに反応がおかしい。工さんは顔に手を当てたまま、唸るように問いかけてきた。

「……彩さん、そのひとはどんなことを言っていましたか」

「えっ? ああ、ええと……たしか工さんのことを、のっぽだと……言ってました」

「ほかには」

「……ほか……。目の保養になるとか……」

「それから?」

「……どっちが彼氏か、とも」

 いつにない雰囲気の工さんに気圧されて、私はしどろもどりになりつつも、あの日の言葉をできうる限り再現した。べつに私が言い出したことではないが、工さんを前にして〈彼氏〉などという単語を持ち出すのは、すごく恥ずかしかった。

「……ああもう。本当にすみませんでした」

「いえ。こちらこそ不快な気持ちにさせてしまってすみません」

 工さんが頭を垂れたので、私も状況が分からないままに頭を下げる。

 釉人がバックヤードにやってきたのは、そんなときだった。

「……ふたりとも、なにやってんの」

 彼の登場をきっかけにして顔を上げたものの、私にはことの起こりをひと言で言い表す技量はない。一方工さんは、呆れた眼差しを寄越している釉人越しにフロアの時計を見て言った。

「それよりバスの時間だ。ふたりとも気をつけていってらっしゃい。それと彩さんの疑問は、病院に行けば自然と明らかになります」

「疑問? 疑問ってなんだよ」

「うん。ねえ釉人、どうしてお前はおばあさんのお見舞いに彩さんを連れて行くの。荷物だってひとりで持てるし、彼女が同行する意味はないだろ」

 工は含み笑いをして、釉人の質問に質問で返した。とたんに釉人が大袈裟なくらいに取り乱す。

「や、べつ、荷物は……! これは、業務の一環で……あっ、そう……うん、これは業務なんだ。お、俺たちふたりが店を出られないとき、代わりの人間を病院によこさなきゃならないだろ? その予行演習」

「……そうだね」

 荷物を片手に身振り手振りで心情を伝える釉人とは対照的に、工さんは腕組みをして小さく笑っている。釉人はムッとしたが、バスの時間が押し迫っているのは事実だ。

「黒金、行くぞ」

 釉人は私の顔も見ずにそう言うと、布製のトートバッグを肩にかけ、足を鳴らしてバックヤードを出て行った。


 坂の上病院を経由するバスは時間どおりにやってきて、私たちをピックアップした。通勤通学時間をとうに過ぎた今時分、乗客はまばらだ。私たちはふたりがけの席に座り、示し合わせたかのように長いため息をついた。

 立っているだけで汗が噴き出すほどの真夏日だ。車内の冷えた空気が、火照った肌に心地よい。

 しばらく会話もせずにリラックスしていたところ、急に腕に冷たいものを感じ、私は驚いて隣を見た。釉人が二の腕にペットボトルを押し当てている。

「工の差し入れ。水分はこまめにとれってさ」

「……いただきます」

 私がお茶を受け取ると、釉人はもう一本のペットボトルを取り出して、がぶ飲みしはじめた。

 水かさが減っていくのに合わせて、釉人ののど仏が上下する。その豪快な仕草は獣を彷彿とさせられた。

 実際釉人の体は上背があるうえに引き締まり、しなやかなネコ科の猛獣のようだ。ツンツンと尖った雰囲気もイメージに拍車をかける。

 私の視線が気に触ったのか、釉人がじろりと私を睨んだ。

「なに」

「……いえ。工さんは気遣いのひとだなと思って。素敵なお兄さんですね」

 釉人が無言でキャップを締めた。なにかしら返事があると思っていたが、釉人から言葉は出ない。

 どうやら会話は一方的に打ち切られたらしい。私はこっそりため息をついた。

 やっぱり釉人の考えていることはよく分からない。そもそも私がこうやって釉人とともに病院へ向かっていることもさえも意味不明なのだ。


 昨日給湯室で、私は釉人に恋人のフリをしてほしいと頼まれた。病院にいるおばあさんの前で婚約を誓った仲であることをアピールし、未来は安泰だと安心させたいのだと言う。

 孫の行く末を思案する祖母のために、おばあちゃんっ子の釉人がひと肌脱ぎたいという気持ちは分からなくもない。でもなぜその役目が私なのか。美樹というれっきとした恋人がいるではないか。それに工さんにまで内緒でことを進めることにも不信感が募る。


「俺たち、他人なんだ」

「……ええ、まあそうですね」

「いや、俺とあんたがじゃない。俺と工が」

 えっ、と口に出したつもりだったが、声が喉の奥に張り付いて音が出なかった。

「俺、物心がついたころには親とは別々に暮らしてたんだ。小学校低学年くらいまではいくつかの施設を転々とさせられて、最後に行き着いたのが養護施設あいりす。そこで工と出逢った。だから、はじめのころにあんたに言った俺たち兄弟っていうのは……嘘。腹違いの兄弟でもない。俺たち、いっさい血は繋がってないんだ」

 釉人は視線を落とし、ペットボトルのキャップを緩めたり締めたりと手遊びを繰り返した。

 突然始まった釉人の独白に私はすっかり驚いてしまい、ろくに相づちさえ打てなかった。

 工さんが見せた釉人への気遣いや、ときおり釉人がのぞかせた工さんへの厚い信頼が頭をよぎる。兄弟特有のあうんの呼吸めいたものを感じていただけに、釉人の言葉が信じられなかった。

「出逢ったのが施設でも、工自身は孤児じゃない。あいつんちの実家っていうのがちょっと引いてしまうくらい裕福で、地元民からの信頼も厚い名士なんだ。金銭面であいりすを支援していたこともあって、工もしょっちゅう施設に遊びにきていた。だから工とは兄弟じゃなく幼なじみってわけ」

 釉人は再びペットボトルを口に当てた。しゅわしゅわと泡の弾ける音が洩れ聞こえてくる。

 釉人と工さんが本当の兄弟ではなかったとしても、私の人生観が大きく変わることなどない。

 ないはずなのに、やけに心臓が大きな音を立てている。

 私はそっと釉人を盗み見て、次の瞬間、心臓がひときわ大きく脈打った。

 端正な横顔に滲む憂愁の色。いつかの夜の出来事がよみがえる。

 あれはたしか、ロイヤルコペンハーゲンのフローラ・ダニカーー。

「驚いた?」

「……はい」

「でも俺は、工のことを本当の兄貴みたいに思ってるから」

 分かっている。いま耳にしたばかりの情報が、今日まで見てきた釉人たち兄弟像に、すぐに取って代わるわけがない。

 こういうとき、口べたな自分をもどかしく思う。

 もっと釉人の安堵を誘うような気のきいた台詞を言えばよかった。もしかしたら釉人は私にプライベートな話を打ち明けたことを後悔してしまったかもしれない。

 私はおそるおそる釉人を窺う。幸いにも彼は気を悪くしたようすは見られず、私は少しほっとした。

 そのとき、ふと思った。釉人と工さんが赤の他人というのなら、いまから会いにいくおばあさんとは、いったい誰の縁故なのだろうか。

 釉人は沈黙している私の思考を正確に読み解いたらしい。彼は私の目をひたりと見つめ、言った。

「病院にいるばあちゃんは、孤児院で世話になったひと。施設長なんだ」

 がたがたと揺れるバスの振動が頭に響く。それに合わせて私の頭のなかで広げられた釉人たちを取り巻く相関図のピースがバラバラと崩れていく。

 坂の上病院まで、あと少し。瑞江元施設長に初お目見えする前に、私は釉人たちの人間関係を最初から書き直すことにした。


 エレベーターの上昇が止まり、ドアが開いた。瑞江おばあさんはこのフロアにいるらしい。

 エレベーターを下りようとした瞬間、私は釉人にそっと耳打ちされる。

「いいか、自分の役目を忘れんなよ。彩」

「えっ……」

 唐突に、名字ではなく名前を呼ばれた。私は一気に動転してしまい、その場に凍り付いてしまった。釉人はそんな私に一瞥を寄越し、先に行ってしまう。

 私の心臓はかなり速いスピードで脈打っているが、決してときめいたわけではない。よく分からない事態に対する警戒ゆえの動揺だ。

「……役目」

 口中で呟き、冷静を取り戻そうと試みる。

 私は釉人の恋人のフリをするために同行しているのだ。

 これ以上動じないよう、当初の目的を心の中で何度も反芻し、自身を諭す。

 気持ちが落ち着くのに、そう時間はかからなかった。

 エレベーターを下りて釉人のあとを追うと、彼はナースステーションで足を止め、誰かに会釈していた。以前私が訪ねたときは至って事務的に対応されたのだけれど、さすが釉人と言えよう。遠目から見る限り、看護スタッフたちはみな好意の笑みを浮かべて釉人を見ている。

「あ、やっときた」

 私が釉人の横に並ぶと、彼は私を見下ろし、いつもよりもやさしい声色で上品に微笑んだ。

 一瞬私は怪訝な表情をしてしまったかもしれない。職場に置けるオフィシャルスマイルを披露され、私はまたもや身構えてしまったからだ。

 釉人はそんな私に構うことなく腕を差し出し、当然のように腰を抱いた。え、と思った瞬間には強く引き寄せられ、私の頬が釉人の胸にぶつかった。

「俺の婚約者、彩です。いまからばあちゃんに紹介するんですよ」

「えーっ!」

 叫んだのは私ではない。いや、私も心のなかで大いに絶叫したが、それ以上に取り乱したのはナースステーションで働く女性陣だ。

 釉人は彼女たちの悲鳴を聞き届けると、ふたたび私を見下ろしてにっこり微笑む。そして腰に手をまわしたまま、私を病室へと誘った。 

「……あの」

「彩とは来年の夏に結婚する」

「えっ」

「挙式は親しい身内だけ呼んで海外で。出会いは一年前、友だちの紹介で」

「ちょっ……」

「いいから聞け。そんで頭に叩き込め。俺の好きな手料理はローストビーフ。俺が彩に贈った誕生日プレゼントは、ブランドものの鋳物ホーロー鍋。……あーその前に、あんた誕生日いつだっけ」

「待って釉人さん、あの……」

 心の準備ができていないままに謎の設定を言い渡されても困る。だが釉人は聞く耳など持たなかった。

「それから俺のことは釉人と呼べ」

「えっ」

「ほら、呼んでみろ。予行演習だ」

「……えっと……ゆ、ゆう……」

「あー、やっぱだめ。呼び捨てされると腹立つ。くんづけあたりがベストか」

 釉人の傍若無人な振る舞いを受けて、私は急に馬鹿らしくなってしまい、動揺してばかりだった気持ちもフラットな状態に戻っていった。そしてため息まじりに口にする。

「……釉人くん」

「おっ、やればできるじゃん。ばあちゃんに会ってもその調子で」

 釉人は私の気持ちなど露知らず、嬉しそうに笑う。そして大部屋のドアをゆっくりと開けると、再び作り物の微笑を浮かべて私を室内へエスコートした。


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