episode 13 とかして、あけて
昼をとうに過ぎたころ、私たちはようやく作業を終えた。仕入れた商品は後日アイリスに届く手はずになっている。だから私たちは手ぶらで店をあとにした。
作業の途中、おじいさんの差し入れでコンビニのおにぎりをもらったので、それほど空腹を感じなかった。それでも釉人は腹が減ったと言い、店の近くのコンビニへ入っていってしまった。外で待つには暑すぎるので私も釉人についていこうとしたが、すぐそばにある大きな郵便局で切手を買ってこいと言い渡され、私たちは別行動をとった。
午後二時の太陽は肌に厳しい。私たちはお互い無言でアイリスの裏口へ回る。定休日のため空調がきいているわけがなく、勝手口を開けた瞬間あまりの熱気に私たちは怯んだ。
フロアの空調を動かすのはもったいないという理由から、釉人は給湯室だけエアコンの電源を入れた。意外にも経済観念のしっかりした男であるらしい。
釉人はふたり掛けのテーブルセットに腰掛けると、買ったばかりの冷やし中華を開け始めた。対面の席にはペットボトルのウーロン茶が置かれている。なにも言われていないが、きっと私への配慮なのだろう。
私は買った切手を手にして、釉人の正面に座った。
「切手はカウンターに置いておけばいいのでしょうか。それともバックヤードですか」
「……んー」
生返事である。食事中であることを考慮しても視線すら合わそうとしないのは、なんだか私の存在を軽んじられているような気がした。
休日にとつぜん電話をよこしてきたかと思えば有無も言わさず働かされて、仕事が終わっても謝辞すらなく、そのときの気分によって私への当たりも変化して。
釉人にとって私は気が置けない仲間などではなく、気づかい無用の相手だと思われているのだろう。
そう分かっているのに、私は彼からの無茶な要求を甘んじて受け入れてしまうのはいったいなぜ。流されやすい自分にほとほと嫌気がさす。
しばらくのあいだ言葉を交わさなかったのだが、釉人は急に思い立ったように顔を上げ、こちらに向かって顎をしゃくってみせた。
「飲めよ」
「……いただきます」
「あと、ピアスはさ、ちゃんと消毒して開けてやるからさ」
急に始まったピアスの話に、私はとっさに返事ができなかった。はっきりと拒絶の意を示したというのにまだ言うかと呆れてしまったが、釉人の顔を見てギクリとした。居丈高な態度はなりをひそめ、真剣なまなざしでテーブルの一点を見つめている。
「痛みだけはどうしょうもないけど、まあ、なるべく響かないように気をつけてやるし。それに……怖いっていう気持ちも分かる」
釉人が視線を注いでいるのはテーブルの上に乗ったコンビニのビニール袋だ。うっすらと中身が透けているそれに目を凝らして見てみると、消毒液と書かれていた。
私はハッとして、もう一度釉人の顔を見つめた。てっきりなかに入っているのはコンビニで買ったデザートや飲み物だと思っていた。私を厄介払いしたのはこのためだったのだ。
「はじめてピアス開けるなら抵抗があって当然だ。でもあんたとしては、なるべくそのイヤリングを身に着けておきたいんだろ? だからさ、イヤリングと同じ用途で活かすならピアスしかないって……単純に思ったんだ」
釉人は私のリアクションを待つかのように言葉を切り、ペットボトルの封を切った。そしてごくごくと喉を鳴らす。私はそのさまをじっと見つめていた。
「……まああれだ、どうしても決心がつかないなら、ペンダントとかブローチに仕立て直すっていう手もある」
ふいに視線が交差した。私は釉人を直視できなくて、うつむいてしまう。
ピアスを嫌がる私にしつこくけしかけてきたのは、単なるストレス発散なのだと思っていた。帰り道で釉人が不機嫌を貫いていたのは、サンドバックがものを言ったからだと思っていた。
すべて違っていたのだ。それどころか、どうすることが私にとってベストな答えなのか真剣に考えてくれていたのだ。
「それとも黒金が気にしているのは痛みからくる恐怖じゃなくて、イヤリングがピアスに変えられてしまうこととか?」
釉人が立てた仮説は、どれも私の本心を見抜いていた。痛みに対する恐れもあるし、祖母のイヤリングを勝手にいじることに対する罪の意識もある。
そのとき、私は唐突に気づいてしまった。釉人はイヤリングの由来を知っているような口ぶりだと。
もしかして工さんから聞いたのだろうか。いや、私の知る限り工さんはプライベートな情報を安易に洩らすような人間ではない。それがたとえ兄弟間であっても、である。就職して日も浅いが、私はそう確信している。
つまり釉人は、あの日私が勝手口で話していたことを聞いていたーー?
「あ」
私は弾かれたように顔を上げ、釉人を見据えた。釉人は不機嫌そうな表情で私を見返すが、その眼差しは決して攻撃的なものではない。
これまでいくども受けてきた当たりの強さは、あくまでポーズなのだ。そうでなければ私のイヤリングを探すために土砂降りのなかを這いつくばって探さないだろうし、瑞江おばあさんの着替えを届けにいったお礼も口にしなかっただろう。
心臓に似た場所へ、熱いものが流れていくのを感じる。思考は拡散するばかりでとても冷静でいられない。
でも、不思議と悪くない気分だった。
釉人は口が悪いけれど、彼なりに私のことを考えてくれているのだ。
「……イヤリングをピアスにします」
「……穴、開ける?」
「はい。あの……やってもらえますか」
「いいよ。じゃあ、決心が揺らぐ前に済ませるか」
釉人はそう言うと、早速消毒液に手を伸ばして立ち上がった。
ぐっと距離をつめられたことで、急激に侵された私のパーソナルスペース。横髪に触れられて、耳を露にされる。これはピアスを開けるためだと頭では分かっているのだが、痴態をさらしてしまったような気持ちになり、思わず肩をすくめそうになった。
「消毒するぞ」
「はい」
淡々とした釉人の声が、ごく間近から聞こえる。聴覚に意識を集中させると、微かに呼吸の音まで拾うことができた。
釉人の指が外耳にかぶさり、消毒をスプレーされる。降り掛かる細やかな刺激に肌は過敏に反応して、背中までぞくぞくと粟立った。
「開ける瞬間はチクッとするからな」
「はい」
おじいさんの質屋で見た、白いパンチのような器具を耳に当てられた。たぶんピアッサーだ。
「……あんた、全然怖がらないのな。すんげえ肝が据わってる」
どこか笑いを堪えたような口調はいつになくやわらかい。否応にも私のボルテージはもうひと段階上がる。
そんなことないと、そう言いかけた瞬間にぱちんと音が爆ぜた。声は出ないまでも鋭い痛みに顔をしかめてしまう。
「無事に貫通」
ひどい不意打ちだ。でも抗議の声を上げられない。釉人が口もとに笑みを浮かべつつ私の顔を覗き込んだせいだ。いつかの壁ドンくらいに近い距離に、胸にビリビリと微弱な電流が流れる。
「今度は反対側。体、動かせるか? 痛くて無理?」
「大丈夫です」
なんてことはない、体調を確認するためだけの会話だ。それなのに自分が釉人にとって特別な存在になったのだと、勘違いしてしまいそうになる。
私は変なことを口走ってしまわないよう、口を一文字に結んだ。そんな私の姿を見て、釉人は誤解したようだった。
「やっぱり痛かった?」
「いいえ……でも二度目のほうが、なんだか勇気が要って……」
「ああ、分かる。それにさっきのはカウントなしの本番だったしな」
会話の途中でもう片方の耳も釉人の手によって暴かれ、消毒液を掛けられた。堪えきれずに肩をすくめると、急に沈黙が下りた。
いま釉人はなにを思っているのだろう。
私は気配で釉人の感情を探ろうとするが、それよりも早く釉人の声が下りてくる。
「体の力を抜いて。大丈夫、痛くない。むしろ気持ちいいかもしんない」
「……ふふ」
思いがけない冗談を聞いて、小さく笑ってしまった。その隙に、針が私の耳たぶを貫通した。
またやられた。二度目の不意打ちだ。
「終わった。な? あっけなかったろ?」
「……だまし討ちじゃないですか」
「終わりよければ、だろ。……あ、こら動くな。ピアスつけるんだから」
釉人はそう言って、ファーストピアスのパッケージを開けた。ピアッサーはともかく、ピアスまでつけてもらえるとは思わなかった。至れり尽くせりのサービなんて釉人らしくない。なんだか座りの悪さを感じてしまう。
しばらくして、もう一度釉人が私の髪に触れた。優しい手つきで髪を耳にかけられ、開けたばかりのピアスホールにそっとファーストピアスを差し入れられる。少し引っかかりを覚えたが、堪えられないほどの痛みではない。それに痛みよりも、真横にいる釉人の存在のほうが、私の心をかき乱していた。
釉人のにおいがする。
降り始めた淡雪のようにすっと消えていく、心地よい香り。香りの強い紅茶に似ている。
「……ほんと、顔色変えねーのな。もしかして全然痛くないの?」
「……心臓の音に合わせてズキズキしてます」
「氷で冷やしとくか?」
「いえ。様子を見ます」
「そう?」
釉人は私の反対側の髪を指でかき分け、ほてった耳を晒す。指の腹でそっと外耳に触れられると、呼吸の仕方さえ忘れそうになってしまった。
釉人はまるでアンティークを扱うように私に触れる。フェザータッチでくすぐったく、自分が繊細な壊れ物になったような気さえする。
「じゃあ最後のピアス、入れるぞ」
「はい」
瑕穴を押し広げられる痛みはたしかにあるのに、拡張されることに対して恐怖以外にも喜びに似た感情がわく。それは少し誇らしいような、苦しいような、形容しがたい感覚だ。
「……よし、おしまい。きれいに開いたし、問題はなさそうだ」
熱を伴った痛みが続いている。いまの私をサーモグラフィーで見ると、耳だけ真っ赤に色づいているのだろう。たぶん。
「ありがとうございました」
私は釉人の目を見て礼を述べた。釉人はなにも答えず、代わりにそうと分かるほど口角を上げる。
私たちにしては近すぎる距離。それでも目をそらすことができない。
脈動と呼応するように、耳全体に痛みが響く。逃げ場を求めるように、熱が体中を駆け巡っている。
いまの私の心と体は乖離していて、二秒先の自分の気持ちさえ分からない。
固まっていた私の前で、釉人はピアッサーを片付けはじめた。私は慌てて、その手伝いをしようと空き箱を手繰る。
すると釉人に牽制された。
「いま動くと痛むだろ。いいからじっとしてろ」
「……ありがとうございます」
釉人が優しいのは、もはや気のせいではない。少しずつ私に心を許してくれていることが窺い知れて、それがじんと胸を打つほど嬉しかった。
「あとはイヤリングをピアスに替えるだけだな」
釉人はテーブルの上に半田のキットを広げ、作業を始めた。私は対面に座ったまま、彼の仕事を見つめる。
「黒金、ピアスの留め具とって」
釉人が熱したコテをイヤリングの背面に当てつつ言った。私は指示されたとおり、釉人の邪魔にならない位置にピアスの留め具を置く。
「イヤリングをピアスに替えるのはすぐだけど、実際耳につけられるのは一週間後だからな。それまでファーストピアスで穴が塞がらないようにしとけよ」
「はい」
「消毒はしなくてもいいけど、ちゃんと水で洗っとけ」
「はい」
釉人の指の狭間から、コテで熱されて金がとろりと蕩けたのが見えた。
「……ほんと、すげえ女だな」
「え?」
「あんたが口数の少ない人間だってことは分かってたけど、痛みに対しても同じスタンスだとはな。美樹のときなんて大騒ぎだったぞ」
柔んだ金の上にピアスの金具が乗せられて、とろとろだった金が冷えていく。私はそれが完全に冷えきるさまを見届けることなく、顔を上げた。私の瞳に映った釉人は相変わらず柔らかい表情をしており、手もとを見つめている。
釉人は美樹にも同じことをした。
その事実が耳の奥で膨張し、周囲の音が聞こえにくくなる。視界も急に狭まり、一気に暗幕が下ろされた気分だった。
「痛い痛いって喚くもんだから、じゃあピアス開けるのやめるかって言うと、ダメだやれってごねるんだよ。めちゃくちゃだよ、あいつ」
「……それは……大変でしたね」
「そう。病院でやれって言ったのに、俺じゃなきゃ嫌だって散々喚かれて」
渋々といった口調だが、表情はまったく嫌そうではない。
それもそうだろう。恋人に身を委ねられたなら、男としての矜持も満たされるはずだ。
そう思った瞬間、私は雷に打たれたように、劇的なまでの衝撃を受けた。
そうだ。釉人には美樹がいるのだ。どうしてそれをいまのいままで忘れていたのだろう。
「よーし。これでほっときゃ完成だ。ほら見ろよ、上手いもんだろ」
「……はい。ありがとうございます」
釉人は私の反応などそう重要ではなかったようすだった。自分の仕事ぶりをひとりまじまじと見つめ、満足そうに頷いている。
「アンティークは飾るものだっていう意見もあるけど、使用するに十分耐えうるものなら、無理に飾らずに本来の使い方をしてやればいいと俺は思う。これもそうだ」
釉人が人差し指の腹で、ピアスになったばかりのアンティークジュエリーを優しく撫でた。
釉人のそのひとことで、私はここ数日の釉人の行いをあますことなく理解できた。
釉人の私に対するこの厚意は、すべて彼の特異なるアンティーク愛を発端としたものだったのだ。カップとイヤリングでものは違えど、釉人にとって慈しむべき存在なのだろう。
私のなかで釉人の厚意がひとり歩きしていた。私たちは同じ職場で働いているという、ただそれだけの間柄なのに。
燃え盛っていた血潮が、嘘のように引いていく。それでも耳だけは変わらず熱を孕み、ズキズキと痛んで貫通の事実を物語る。
数秒前まですっかり高揚しきっていた自分がバカバカしく、ただただ滑稽だった。浮かれ惚けていたことを釉人に知られなかったことが唯一の救いと言えよう。
「イヤリングを手直ししてくださってありがとうございました。仕事とは関係ないことでお手間を取らせてしまってすみません」
「……いや、べつに」
私が礼を述べると、釉人は顔を上げて私を見た。彼の表情にわずかな緊張が走ったように見えたのは、私の気のせいだろうか。
いつにない不審な態度に、私は釉人の出方を待つ。彼は熟考と呼んでもいいほど十分な時間をおいたあと、意を決したように口を開いた。
「じつは俺、黒金に頼みたいことがあるんだ」
「はい」
「……俺の女でいてほしい」