episode 12 電話一本で呼び出すなんて
八月一日。この日も朝から茹だるような暑さだった。店は定休で必然的に私も休みだったのだが、なぜか釉人に呼び出され、駅前にやってきた。
釉人は先に到着していたようで、柱に背を預けて携帯をいじっていた。濃紺のリネンシャツに細身の黒色カーゴパンツというシンプルな出立ちにハッとさせられたのは、いつものカフェエプロン姿に慣れてしまっていたからだろう。完全な私服姿を前にして、そんな必要もないのに一瞬目のやり場に困ってしまった。
一方、釉人は私を見るなり不機嫌そうに言い放った。
「遅い」
そのひとことを受けて、私は声を失う。
前々から約束していたのなら、その言葉を甘んじて受け入れたかもしれない。だが釉人に連絡をもらったのは、いまから一時間前のことである。起き抜けに「すぐに駅に集合」と言われ、慌てて身繕いをして駆けつけた私に非はないはずだ。
釉人は突然くるりと背を向け、駅構内に向かいはじめた。私はその後ろを小走りになってついて行く。
「どこへ行くんですか」
とつぜん呼び出された私は、行き先も目的もなにひとつ教えられていない。
「質屋だ、質屋」
釉人は面倒くさそうにそう言うと、券売機でひと駅分の切符を二枚購入した。
私が釉人に連行されたのは、アパートの一階に店を構えているらしい大変鄙びた質屋だった。黄色いビニールのオーニングに屋号が書かれているが、長年雨風に晒されたらしく、〈質〉の字の貝だけが残っている有様だ。
店は施錠していないようで、釉人は引き戸を開けてなかに入って行く。私もおそるおそるあとに続いた。
質屋のなかは生温く、独特な匂いがした。クロスが長年かけて吸い続けたひとの体臭や香水などを吐き出しているのだろう。
私は家主のいない店内を見渡した。個人病院の待合室ほどの広さを有した店内に、ガラス張りのショーケースが置いてある。だがそこには値札や商品を立てかけるプラスティックのスタンドが秩序なく散らばっているだけで、なかは伽藍堂だ。店の壁に備え付けられた棚も、形の古いバッグやスカーフ、それにギターなどの楽器が横倒しになって取り残されていた。
「おーい、じーさん。俺だけどー」
釉人が衝立ての向こうに広がる穴のような空間に向かって呼びかけた。
ややあって、ごそごそとひとの気配がする。
「おー、よう来た。まあ上がって茶あ飲めや」
「いらねー。さっさと見繕って退散したい。貧乏神に取り憑かれそう」
「ふん、小僧が。相変わらず減らず口を叩く」
ランニングシャツにステテコ姿というパンチの効いた出立ちのおじいさんは、肩にかけたフェイスタオルで禿頭を拭きつつ再び衝立ての奥へと戻って行った。
「行くぞ」
釉人は私を見ずに言い、穴へと向かう。私も仕方なく彼に続いた。
穴のなかは、よくあるアパートの一室だった。釉人の情報によると、このアパート自体がおじいさんの持ち物であるらしい。
「いまどきの客は、コマーシャルやってるような大手のところに行くんだわ。うちに来るやつなんざ馴染みの貧乏ばかりで、ろくな質草持ち込まねえ」
「じーさん、店畳んだあとはどうするんだ」
「店もアパートも、なにもかも売っぱらっちまってホームだ。海が見えるんだ、そこは。日がな一日、海見てすごすんだよ」
「……ふーん」
釉人はそう言ったきり、プライベートな話はしなかった。
私は釉人に渡されたマスクとエプロンを身につけ、指示通りに仕事を始める。
そう、これは倒産した質屋からアンティーク品を仕入れる仕事なのだ。ワンピースなど着てこなくてよかったと、パンツルックの自分に内心拍手を送る。
呼び出されたときは、釉人がどういう気持ちで私に電話をよこしたのか、さっぱり分からず身構えた。いまになって、なぜ電話を受けたあのとき、用件だけでも訊ねなかったのかと悔やまれる。言いつけどおりにのこのこやって来るなんて、しつけの行き届いた犬みたいではないか。
でも少し頭を働かせたら、釉人に美樹という恋人がいる以上、私を呼び出す理由なんて仕事以外にないと見抜けるはずなのである。
私はつらつらと思いを巡らせつつ、おじいさんの生活空間と思われる食器棚を開ける。どういうわけだか虚しい気持ちに襲われて、マスクの内側でこっそり唇を食んだ。
「嬢ちゃん、大事に扱ってくれよ。それはこの店の目玉だったもんだ」
「はい」
いつのまにかおじいさんが背後に立っていた。私はすぐに気持ちを切り替えて、一枚ごとにパッキンが挟まっているプレートのタワーに手を伸ばした。
「そいつぁ、シノワズリよ。強烈な緋色だろ。一枚一枚職人が手描きしてるから、同じ表情の品物はふたつと無え。俺んところにはな、大きなトレイ付きのティーセットがある。全部合わせて百万は下らねえ」
「ひゃく……」
百万。その金額を聞いて、手袋の内側で汗がぶわりと噴き出した。とたんにおじいさんは嬉々とした表情を見せる。おそらく怖じ気づいた私を面白がっているのだ。
「バブルの時代はこんなのがおもしれえくらい流れてきたけどなあ……。いまじゃこんくらいの一級品はなかなかお目にかかれねえ」
「……はい」
私はおじいさんの話を聞きつつ、あらかじめ用意されていた巨大風呂敷のうえにプレートを並べていく。その際、プレートの裏をちらりと見てみた。ヘレンド・ハンガリーと書かれていた。
これはあとになって調べて分かったことだが、この緋色のプレートはゲデレと呼ばれるヘレンド初代のシノワズリシリーズであるらしい。ちなみにシノワズリというのは中国的なデザインを意味する言葉だ。
このゲデレには窓から見た風景のように、小枠ごとに松竹梅の縁起ものが描かれている。口縁の下部には唐草に似たシンプルな文様が横ばいに伸び、東洋の気配が満載だ。
ゲデレは当初〈西安の赤〉と呼ばれていたが、美貌で知られるオーストリアのエリザベート皇妃がハンガリーのゲデレ宮殿に度々訪れ、これを愛用したことからゲデレの名で親しまれるようになった。洋式の宮殿に中国趣味の茶器が揃えば、それは大変な存在感があったことだろう。
「これはエミルローズ、それはミラマーレ。どっちもヘレンドのシノワズリだな。マイセンもウースターもシノワズリのパターンを作ってるが、やっぱりヘレンドが一番精緻で艶やかだ。……おい嬢ちゃん、カップの取っ手を見てみろ」
おじいさんはそう言って、私のとなりの棚から水色のシノワズリのカップを取り出した。赤いウロコのようなデザインがとても鮮やかで目を惹く。それはトゥッピーニの角笛というシリーズだと教えてもらった。
「中国人の姿が描かれてるだろ」
取っ手の部分に注目すると、たしかにひとがたがくっついていた。マンダリンと呼ばれる清の時代の官史だ。半円状の中国帽子をかぶり、青いチャイナ服を着ている。両手で自らの体を抱き、まるで祈っているように見えた。
「愛嬌があって面白れえよなあ」
おじいさんの語り口から、本当に磁器が好きなのだと窺い知れた。いくら安定した余生のためとはいえ、これらを手放すのはいかほどの心情か、私には計り知ることができない。
私はしんみりとした気持ちになりつつ、次の段に重ねられているプレートに手を伸ばした。それを見るなり、急におじいさんが声を潜める。
「……おっ、それはいわくつきの逸品だ。嬢ちゃん、あんまり触らねえほうがいい」
おもがけない台詞に、私は思わずプレートを棚に戻した。
「うちに質入れしたやつがとんでもねえ曲者でな……ああ、思い出しただけで気分が悪くなる」
おじいさんの煽りにつられて腕の産毛が総立ちし、ぞくぞくと嫌な悪寒がする。
いったいどんなものが持ち込まれ、長年質屋を営んできたおじいさんを恐怖に陥れたのだろう。
私は俄然プレートに興味がわいた。
「……あの、いわくつきとは」
「若いころにヘタを打った話さ。持ち込まれた化粧箱の底には細工がしてあって、うちの店をヤクの取引場にしやがった」
「えっ」
「おかげでうちの店はサツに目えつけられて、痛くもねえ腹探られてよ。質屋の世話になろうってもんのなかには、そりゃあ人様に言えないような過去があったりするもんさ。それがお前、サツなんかにうろつかれちゃあ、客もビビって商売上がったりよ」
「はあ」
幽霊奇譚にほど遠い真実がつまびらかにされ、私のなかでうずうずしていた好奇心はみるみるうちに萎んでいく。だがおじいさんは私との温度差に気づかないようで、その後もしきりに過去の武勇伝を語り、上機嫌そのものだった。
「おい、じーさん。風呂敷足りねー。予備ある?」
おじいさんの会話ストッパーになったのは釉人だった。おじいさんはその場から動かずに口頭で風呂敷の場所を教えただけだったが、私としては話題を変えるいいきっかけになった。
「おじいさんは釉人さんと古くからの付き合いなんですか」
「あん? ……いんや、古いこたあねえ。一年くらいだろ」
釉人たち兄弟がアイリスの屋号を掲げて商売を始めたのは一年前だ。釉人とおじいさんの掛け合いは円熟したものだったので、出会って一年という年数の浅さに少々驚いた。
鶏ガラパンチのことといい、釉人はお年寄りに対してのみフレンドリーなのかもしれない。
「ところで嬢ちゃん、目当てのもんは見つかったのかい」
「目当てと言っても……。それは……」
いまから釉人がじっくり見てみないことには分かりません。そう答えようとしたが、おじいさんの憐れみ深い眼差しに驚き、私は言葉を失った。
なぜ同情するような素振りを見せられたのだろう。
釉人からは今回は出張買い取りの仕事だと言われたが、なにか裏があるのだろうか。
「まあなあ、十年以上むかしのことだしなあ。いまじゃあ廃業してる質屋も多いだろ。一手に引き取られたならまだしも、分割されたら探しだすのも相当な骨よ。それにあれは、に……」
「……だっ!」
おじいさんの話に完全に聞き入っていた私は、突然背後から下された脳天チョップに心の底から驚いた。とっさに釉人だと思う。
いくら私が乗っている踏み台が幅の広いものだとはいえ、動揺して転倒する恐れもある。どういうつもりだという気合で振り返ると、釉人は仏頂面で私を見据えていた。
「口より手え動かしてくんない? 休み返上でここ来てる俺の身にもなれよ」
「……すみません」
「そんなんじゃバイト代も出せねーぞ」
釉人は捨て台詞を残して背を向けた。
釉人の迫力に押されて勢いで謝ってしまったが、休日返上を強要されたのは釉人ではなく私のほうだ。
こういうときとっさに言葉が出ない自分が、ひどくもどかしい。
マスクのなかで口をへの字にしていたら、おじいさんがかたわらにしゃがみ込み、なにかを拾い上げた。
「嬢ちゃん、あんたなんか落としてるぞ」
「えっ」
おじいさんの手のなかにあったのは、私のイヤリングだった。またしても落としてしまったのだ。おそらく釉人にチョップされた衝撃が原因であろう。
私はイヤリングを受け取ると、せめてもの反撃に釉人を一瞥しーーギクリとした。とっくに私への関心を失くしたと思われた釉人がこちらを振り返っており、じっと私を見つめていた。
「……また落としたのかよ」
「はあ」
「はあじゃねーだろ。あんたそれ本当に大事なものなのか? 管理が甘すぎるだろ」
そう言われても、イヤリングを落とした原因の半分は釉人にもあると思う。
だがここで反論したところでいい展開へと転がらないことは明白だ。
結局私は釉人をあしらいつつ、イヤリングを耳に近づけた。すると釉人が大股で近づき、私の手首を掴む。突然の脈絡のない行動に、私は驚くことしかできなかった。
「……なんですか」
「だーかーら、つけてもまたすぐ落とすだろ」
「気をつけます」
「馬鹿か。ちょっと貸してみろ」
言い終わるよりも早く、釉人は私が手にしていたイヤリングを奪う。そしてイヤリングの金具をチェックし始めた。べつに留め具が馬鹿になっているとか、ぐらついているとか、そういった不具合はなかった。短期間で二度も落としてしまったのは、単に私が緩く締めていたからだ。
「じーさん、半田ごてってある?」
「あるこたあるが、売りもんだ」
「……金の亡者め」
「じじいも生きてくには金がかかんだよ」
おじいさんはそう言って、どこかへ行ってしまった。そして数分もしないうちに戻ってきて、封を切られていない新品状態の半田ごてを釉人に渡した。
「五百に負けといてやらあ。あとこれはサービスだ」
そう言っておじいさんは、半田ごてと一緒に手のひらサイズのパンチのような器具と小さな釘のような金具を釉人に差し出した。釉人はフンと鼻を鳴らす。
「ワンコインなら、いっそタダで譲れよな」
隠すことなく渋面を作りつつ、パンツのポケットから長財布を取り出すと五百円をおじいさんに渡した。おじいさんはにやりと笑う。
「まいど」
私は釉人の手のひらを覗き込んだ。サービスとして受け取ったのは、ピアス用の金具だ。
ようやく釉人がなにをしようとしているのか悟った。
「イヤリングをピアスにするんですか」
「ああ。ここが片付いたらやってやるよ」
その言葉を聞いた瞬間、困惑した思いが表情に出てしまったらしい。釉人は不機嫌そうに、なんだと問いかけてくる。
「私、ピアスホール開いてません」
「開けりゃあいいだろ」
暗ければ明かりをつければいいと、そのくらいの気軽さで言われて私は絶句した。
釉人は私の気持ちに添おうとせず、視線を上げて、なにやらぶつぶつ呟いている。
「あとは必要なのは消毒液くらいか。帰りにドラッグストアに寄るか」
このままでは釉人の思いどおりに事が進んでしまいそうだ。
私は慌てて率直な気持ちを打ち明けた。
「ちょっと待ってください。私はピアスを開けるつもりはありません」
「……何度もぽろぽろ落としてるだろ。ピアスに替えれば紛失のリスクは減る」
ムッとした調子で言われたが、私は意志を曲げるつもりはなかった。だいたいひとの体に穴をあけるなど、独断で決めていいはずがない。
「なに、怖いの?」
「怖いです」
おそらく釉人は私を煽ることで自分の描いた筋書きとおりに事を運ぶつもりだったのだろう。だがそんな陳腐な手に乗るほど私は青くない。
本心のままに返答した結果、さすがに釉人は言葉に詰まったらしい。一瞬視線を泳がせたあと、頭を掻きつつ「まあいいや」と呟いて、再び私に背を向けてしまった。
これは、無茶な要求を押しつけてきた釉人を撃退したと、そう捉えていいのだろうか。
私はすっきりしないまま、すらりとしなやかな体躯をもつ、憎たらしい狐男の背を見つめた。