episode 10 折尾美樹の襲来
釉人とはなんの変化もないまま二日が過ぎた。私が釉人に強い関心を持ったのは、あのときあの瞬間だけのことで、探究心は持続しなかった。
当然だ。新しい刺激もイベントも起こらなかったのだから、気持ちもこれ以上昂りようがない。だから朝に顔を合わせても、食事のタイミングがかぶっても、業務上言葉を交わすことになっても、べつに動揺するような事態には陥らなかった。
そのとき私は朝の業務を終え、バックヤードにこもってSNSでちまちまと広報活動をしていた。フロアには客がいないらしく、ときおり釉人と工さんの笑い声が漏れ聞こえる。
作業をするなかで、ふとアイリスのことを記事にしているユーザーを見つけた。アーカイブは美容とファッションに関するものばかりで、若年層であることが容易に想像できた。つい気になってアイリス関連以外の記事にも目を通してみる。読み進めるうちにある疑惑が浮かび、私は慌ててユーザー名を再確認した。
「ちょっと、嘘でしょ……」
私はディスプレイを凝視したまま呟く。
このユーザーは、よく足を運んでくれる上得意のひとりかと思いきや、全国に流通している有名なファッション雑誌のモデルだったのだ。しかもアップされている写真はアイリスのホームページからの転写ではなく、モデル本人が撮ったと思われるものである。
これはいったいどういうことなのだろう。
私は動転して立ち上がってしまった。そしてそのまま回れ右をして、フロアに飛び出す。
ふたりは会話を止めてこちらを注視した。いつにない行動をとる私を見て、なにごとかと思ったのだろう。
「あの、モデルの、うちの店が、写真で」
「……はあ? わけ分からねえ。一旦落ち着け」
釉人に不審な眼差しを向けられ、私は我に返った。ひと呼吸置いたあと、順を追ってありのままの事実を語ろうとしたが、そもそも男性であるふたりは女性雑誌など見ないだろうし、そうなるとモデルのことも知らない可能性が高い。つまり、いくら私が言葉を重ねても感動値が低くなってしまうことは歴然だった。
「おい、どうした。なんで黙る。電池切れか」
「こら釉人。煽らない」
私が口をつぐんだまま言葉を探していると、唐突にドアチャイムが鳴った。反射的に三人そろってドアを見る。
そこには件の雑誌モデルのミキがいた。
「……えっ」
我が目を疑う私をよそに、両脇にいた男性陣はなんのためらいもなく歩み出る。そのうえ動揺のドの字も感じさせない低いテンションで、ふたりして彼女に話しかけていた。
「こんにちは、いらっしゃい」
「おーミキ。今日は仕事ないのか」
「んー。あるにはあるけど、夕方からだし。ネイルサロン行くついでに遊びにきた」
「そりゃあ優雅なスケジュールで」
いま私の目の前で信じられない光景が繰り広げられている。釉人が二十代女子の憧れモデルのミキと、対等に会話しているのだ。
三人の会話に割り込むわけにいかず、かといってこのままバックヤードに引っ込んで生のモデルを目撃する機会をふいにする気もなく、私は不格好にもその場に突っ立ったままでいた。
「あれ、釉人? あたしにそんな軽口叩いていいわけ? あたしも少なからずここの売り上げに貢献してるんだけど」
「もしかしてオンラインのこと言ってんの? ネット上のやり取りだから、客の年齢なんて分かんないし、そもそもそのひとらがミキの信者かどうか判断できないから」
「信者ってなに。ファンって言ってくんない?」
釉人が横柄な態度を前面に出している。でも私のときとは、なにかが決定的に違う。表情がとても自然で、どことなく優しい。
ミキはヤレヤレといった具合で肩をすくめた。釉人との応酬になれているようすだった。
「ね、このあいだ店に卸したカップを見せてよ。小さい花柄が並んでるやつ」
「……リモージュ?」
釉人はそう言いつつ、ミキの視線を窓際のテーブルへと誘導した。そこには先日ネットに上げたばかりのティーカップとプレートがディスプレイされていた。
「あーそうそう、これこれ! すごくかわいい!」
フランスのリモージュ市に窯を拓いたアビランド社。そのアビランドの定番シリーズ三百三十番は、ミニバラのガーランドと控えめなリボン、そして口縁にはスプレーでまぶしたような金彩が施されている。バラを主体に扱いながらも華美に偏らず、可憐かつロマンティックなデザインであるゆえに日本にもコレクターが数多いる。
ミキはひと通りはしゃぐと、ショルダーバッグからカメラを取り出し、釉人に許可を取らないままシャッターを切りはじめた。
「えっ……」
私は驚愕した。カメラなんて撮りかたひとつで、たぐいまれなる逸品がジャンク品であるかのように写ってしまう。素人が気分で撮っていいわけがない。ましてやそれをネットに公開するなんて。
思わず洩れてしまった驚きの声が、ミキの耳に届いてしまったらしい。彼女は顔を上げて私を捉えると、しまったと言わんばかりに狼狽えた。
「ちょっと釉人、お客さんがいるじゃない! あんたちゃんと接客しなさいよ!」
「はあ?」
「ほらっ、バックヤードのほう!」
「ああミキ、いいんだよ。あのひとは彩さんといって、うちの従業員なんだ」
「えっ……」
工さんの説明を聞いて、ミキは見る見るうちに表情が変わっていく。客だと勘違いしていたときはとっさに笑顔を向けられたが、アイリスの関係者だと知るやいなや好意の気配は消え、能面のような顔をして私を見つめている。
私の真後ろにあるドアがバックヤードに通じていると分かっているところをみると、この兄弟とはかなり親密な関係なのだろう。
空間の裂け目のような沈黙が下りた。完全に押し黙ってしまったうえ、私から目をそらさないミキに居心地の悪さを覚え、彼女の視線から逃れるためにもぺこりと頭を下げた。
「黒金彩と申します。最近入社したばかりです」
「……社員? バイトじゃないの?」
その声色には驚きのほかにトゲが含まれていた。これ以上なにを言っても機嫌を損ねそうで、どう会話を続けたらいいのか分からない。
そんなときに助け舟を出してくれたのは、やはり工さんだ。
「いまは試用期間中だけど、いずれ社員になってもらうつもり。とても物覚えがいいから、僕たちもずいぶん楽させてもらってるんだよ」
工さんの発言を受けて、ミキは睨みつける対象を私から工さんへと移した。
美人の正視は迫力がある。穏やかで大抵のことには動じない工さんも、向けられた鋭い視線に戸惑っているようすだった。
ミキはふいっと視線をそらし、再び釉人に詰め寄る。
「ねえ、ちょっと釉人。これどういうことよ。あたし全然聞いてないんだけど」
「……あー、なんつーか……その、成り行き?」
あの釉人までもミキに圧され気味だ。私は信じられない気持ちでふたりのやりとりを見つめる。
「成り行きで従業員雇うわけ? あたしがここで働くって言ったときはダメだの一点張りだったくせに!」
「えーっと……あのときは開店前で、ひとを雇うだけの余裕はなかったんだよ」
「余裕が出てきたとき、あたしに声かければよかったじゃない!」
「み、ミキは仕事があるだろ……」
いつも高圧的な態度の釉人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。言葉だけではなく体ごと詰め寄られ、ふたりは密接しすぎている。なんだかそれが、やけに心に引っかかる。
「仕事? は。そんなの結果論じゃん。あたしが本腰入れて雑誌の仕事をするようになったのは、この店に断られてからだからね」
「分かってる、分かってるって!」
「全然分かってない! なんなの? いつも私を蔑ろにして……」
急にミキのトーンが変わった。涙の気配に、釉人の横顔に一層焦りが増す。
「お、おい、なに言ってんだよ。蔑ろにしたことなんてないだろ」
「今回の件なんてそうじゃん。見ず知らずの他人雇うくらいなら、あたしに声をかけなさいよっ」
「……ミキに? いやあ……それは……」
「なにその歯切れの悪い返事!」
「だってほら、その……ミキがいたら……いろいろと……気が散る……から」
ぼそぼそと周囲を気にするようなしゃべりかただったが、私の耳にはしっかり届いていた。おまけに釉人の顔は少し赤らんでいるように見える。
すうっと心の芯が冷えていく。
突如始まった内輪もめにどういうわけか私が動揺しているなんて。
心臓を細い糸で締め上げられたかのような刺激に翻弄されるなんて。
私に同調するように、再びフロアは沈黙の濃度を増していく。いつもは耳に心地よいフロアに流れる有線のジャズも、このときばかりは心に馴染まず、不自然な音の羅列にしか感じられなかった。
このひずみのような静けさに耐えきれなくなったのは、ほかの誰でもない釉人だ。彼はそわそわしつつ、工さんに視線をやった。その意図を汲んだらしい工さんは苦笑しつつ、ゆったりとした足取りで私のほうへとやってくる。
「さあ、そろそろ仕事に戻りましょうか」
「……はい」
工さんに促されて、私はゆっくりと体を反転させる。
フロアに背を向ける一瞬、ミキの表情が見えた。モスグリーン色の大きな瞳は私を捉えている。そこには穏やかさのかけらもない。容赦のない目つきに、私の肌はぞくりと粟立った。