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episode 9 鶏ガラパンチ

 それはいつもと代わり映えのない猛暑日のことだった。

 工さんの頼みでアイリスのメールマガジンを作成していたところ、バックヤードに工さんが入ってきた。 

「あの、ちょっといいですか」

「はい」

 私は作業の手を止めて、回転いすごと振り返る。背後に立っていた工さんは、小さな紙袋を手にしていた。

「実は釉人がこれを置き忘れたまま病院に行ってしまって……」

 そう言いつつ紙袋に手を突っ込み、出した手にはパジャマとおぼしき衣服があった。

 つい先ほど釉人はアイリスをあとにしたばかりだ。小さめのボストンバッグを手にしていたのでおばあさんのお見舞いに向かったのだろうと思っていたが、その推測に間違いはなかったようだ。

 私は椅子から立ち上がって言う。

「じゃあ私が走って追いかけます。いまならまだ間に合うかもしれないですよね」

 そう言いつつ工さんから紙袋を受け取ると、工さんは安堵したような顔をした。

 バス停は大通りを出てすぐのところにある。いざ私は、手荷物ひとつでキツい日差しのなかを飛び出していった。


 息を弾ませてバス停にたどり着いたものの、釉人の姿はなかった。時刻表を確認すると、発車時刻から三分ほど過ぎていた。

 ため息をついて身を翻すと、向こうから工さんが手を振りつつ近づいてくる。彼は私のところまでやって来ると、茶封筒を掴ませた。

「やっぱりもう行ってしまいましたよね。申し訳ないのですが、次のバスで病院に向かってもらえませんか。僕が追いかけたほうがスムーズですが、店をほったらかしにはできないので……」

「私なら大丈夫です。どの停留所で降りたらいいですか」

 こうして私は思いがけず釉人たち兄弟の祖母がいるという坂の上病院に行くことになった。



 坂の上病院はアイリスからバスで二十分ほどの場所にある、病床数百四十の中堅規模の病院だ。建物も新しく、傷病者を緊急度によって振り分け、治療や搬送の優先順位を決めるトリアージという制度も導入されているらしい。

 私はあらかじめ工さんから聞いていたとおりトリアージを通りすぎ、総合受付のそばのエレベーターに乗って三階を目指す。そしてナースステーションでおばあさんーー行橋瑞江ゆくはし みずえの病室を訊ね、そこで得た室番号を口中で呟きつつ廊下を歩いた。

 たどり着いたのは、ベッドが四方に配された大部屋だった。そのうちひとつのベッドが空いており、残りの三つが使用中らしくカーテンを引いている。そのためなかの様子はわからない。

 てっきり釉人がいるものだと思っていただけに、私は戸惑ってしまった。ネームプレートもカーテンの内側にあるようで、肉眼では行橋瑞江さんを探すことができない。

 立ち往生していると、左手前のベッドのカーテンが開いた。パンチパーマをあてた老女と目が合ったので、ギョッとしてしまった。

「誰ね」

 急にしゃがれた声で話しかけられ、私はさらに狼狽した。七十代くらいの老女は、押し黙った私を上から下までジロジロとつぶさに観察している。

 この老女の言う〈誰〉とは、私が何者であるかを問うているのだろうか。それともどの患者に用があるのか訊ねているのだろうか。

「あの……私は行橋瑞江さんのお孫さんの店で働いている者です。瑞江さんはどのベッドですか」

「どんな用ね」

「お孫さんの忘れ物を届けにきたんです。中身はパジャマだと思うんですけど……」

「……はあん……そうね」

 老女はにやりと笑い、身をよじってベッドから降りようとした。慌てて手を貸そうとするが、やんわりと制される。

 彼女のベッドのうえにはスケッチブックが置いてあり、はっきりとは見てとれなかったが風景画が描かれていた。私がそちらに気をとられているあいだに、老女はスリッパに足を通し、すくりと立ち上がった。百五十センチという小柄な私よりも、さらに背が低い。それに痩せぎすすぎて、まるで鶏ガラのようだ。そのうえ髪は強烈なパンチパーマである。

「瑞江さんは散歩。若い兄ちゃんと一緒だよ」

「そうなんですか……」

 入れ違いになってしまったようだ。だがここで立ち往生していても仕方がない。ふたりがどのあたりに散歩に行ったのか訊ねようとしたとき、鶏ガラパンチさんが親指で戸口を差した。

「とりあえず、ここ出よか」

 鶏ガラパンチさんの押しの強さに抗えず、成り行きで廊下の一角にある談話コーナーへと連れ出されてしまった。席に着くなり缶ジュースまで奢ってくれようとしたので、私は慌てて就業中であることを理由に、丁重に厚意を辞退する。

「病室にいると息が詰まっちまう。みーんな辛気くせえの」

「こうやって外を眺めるだけでも、気分転換になりますね」

 鶏ガラパンチさんは私の返しに気分を良くしたらしく、にやりと笑った。

「瑞江さんは釉人さんとよく散歩に行かれるんですか」

「そうね。週に一、二度来てるね」 

 私は瑞江さんの行方やその人柄を知りたかったのだが、話を振れば少しズレた返事が返ってくる。そういうわけで、知りたい情報をピンポイントで得ることはできなかった。

「あんた、あそこ勤めてどれくらい」

 しばらく世間話を続けていたら、話題は私自身のことへと移っていた。

「一ヶ月も経ってません。研修の身です」

「ふたりともいい男だから目の保養になるだろ」

 いったいなにが目的の会話なのだろうか。私は話の行き着く先が見えず、曖昧に返事をする。

 とはいえ鶏ガラパンチさんは、釉人だけではなく工さんのこともよく知っている様子である。あまり下手なことは言えないと発言を自制していたら、鶏ガラパンチさんがこちらに向かって手を突き出してきた。よくよく見てみると、小指が一本立っている。

 ああ下世話な話かと落胆するなか、鶏ガラパンチさんは果敢に突っ込んできた。

「あんたどっちのコレ?」

「私は単なる従業員ですので」

「気にもなんないのかい」

「仕事を覚えるので精一杯で」

 鶏ガラパンチさんはフンと鼻を鳴らした。情けないと言わんばかりの目つきを寄越されても、私の答えが翻るわけがない。

「まあそうだね。のっぽは狸だし、子狐も懇ろにしてる姉ちゃんがいるしね」

 のっぽというのはおそらく工さんのことで、子狐というのは釉人のことだろう。

 ネーミングセンスに感心したいところだが、思いがけない釉人の色恋情報のリークに一瞬思考がショートした。

 普段から異性の客の気を惹く釉人のことだから、恋人のひとりやふたりいてもおかしくないはずなのに、いままで女性の気配がなかったものだからまったくの寝耳に水であった。

 鶏ガラパンチさんは相づちを打つことさえ忘れてしまった私を覗き込み、饒舌に続けた。

「姉ちゃんはモデルだよ。相当べっぴんだ。こないだも一緒に来てたね」

 このあいだというのは、四日前のイヤリングをなくした午前中のことだろうか。

 それとなく鶏ガラパンチさんに窺ってみるとビンゴだった。

 ため息が出そうになる。恋人とお見舞いデートをして心に余裕ができたから、午後は私が失くしたイヤリング探しを手伝ってくれたのだろうか。

 私は慌てて頭を振った。

 釉人が起こした行動の理由など、私の気にするところではない。偽善だろうとなんだろうと、私のもとにイヤリングが返ってきた。その事実で十分だ。

 私は無事に感情の舵取りをとり、すっぱりと話の流れを変えた。

「もう少しお話ししていたいのですが、仕事中なのでこのへんで失礼しますね。それと大変申し訳ないのですが、この紙袋を行橋瑞江さんに渡しておいてもらえないでしょうか」

「……ああ、いいよ。婆に付き合ってくれてありがとね」

 私はずっと手にしていた紙袋を鶏ガラパンチさんに渡した。

「あんた、また来るんかい」

「そう言いつけがあれば」

「工によろしく言っといて」

 鶏ガラパンチさんの言葉は粗野だが、不思議な人情味を感じる。それは相手の目を見て話すことや、本当に突っ込まれたくない領域には踏み込まない絶妙な分別があるからだろう。

 鶏ガラパンチさんが席を立ち、手すりを頼って病室へ戻ってく。加勢されることを厭うひとのようなので、私も歩行の補助はしなかった。


「……名前、聞き忘れたな」

 鶏ガラパンチさんが病室に入った直後にそんな思いがよぎったが、時すでに遅し。私は諦めてエレベーターへ向かって歩きはじめた。

 病院の正面玄関を出たとき、ふと、釉人を思った。ここで待っていれば会えるかもしれない。だが私が携帯を持っていない以上釉人と落ち合える可能性は低かったし、工さんが私に期待しているのは早期帰社ではないだろうか。それに気まぐれな釉人のことだから、私を見るなり不機嫌になる可能性だって高い。いくら傲慢な釉人に慣れたとはいえ、私だって傷つかないわけではないのだ。

 私はバス停方面へ視線を戻し、再び歩き出した。頭のなかを占めているのは鶏ガラパンチさんのことだ。そう言い聞かせる。強烈な印象だったあの人のことを、工さんに話してみよう。きっと笑ってくれるし、彼女にまつわる面白いエピソードも披露してくれることだろう。

 気を許したらチラつく釉人のプライベート情報を、私はとるに足らないものとしてこれ以上考えまいとしていた。



 アイリスに戻ると釉人がいて、老婦人相手に接客をしていた。カウンターにいた工さんは私に気づくなり、こっそりとアイコンタクトをはかる。お疲れさまと労われていることは明白だった。

 私は接客の邪魔にならないよう、足音を殺してカウンターに近づいた。

「釉人はさっき戻ってきたんです。入れ違いになってしまいましたね」

「病院では瑞江さんに会えなくて。荷物は同室の患者さんに託しました」

「構いません。暑いなか、ありがとうございました。少し早いですけど、お昼に行っていいですよ。釉人が帰りに買ってきてくれました」

 私は交通費として渡された茶封筒を工さんに返すと、すぐに給湯室へと逃げ込んだ。釉人が横目で私を窺ったような気がしたが、気づかなかったふりをした。


 給湯室の冷蔵庫には、コンビニで買ったと思われる冷麺がみっつ入っていた。私は麦茶を用意して、席に着く。

 食事をはじめてしばらくしたころ、誰かが給湯室にやってきた。顔を上げると、釉人の姿がある。彼も食事にするらしく、冷蔵庫を漁りはじめた。

 私が給湯室に入ったことは知っていただろうから、釉人は昼食のタイミングをずらすものだと思っていた。

 べつに私たちは衝突しているわけではないけれど、ふたりっきりになるのは気まずい。

 さっさとかき込んでここから出ようと、俄然食べるスピードを上げる。

「すっげー食いっぷり。鯨みてえ」

 そのひとことで、釉人の行動理由を一瞬で解した。私がいることを分かっていながらあえて給湯室に来たのは、私をなじりにきたのだ。

 苛立ちはしたが、意気んで言い返すような案件でもない。私は視線を上げて釉人を見返し、なにも言わずに食事を続けた。

 視線を冷麺に戻すあいだ、ほんのわずかに見えた釉人は少し焦っているようだった。

 他人を平然と傷つけるくせに、いざ自分が空気のように扱われることには冷静でいられないタイプなのかもしれない。

 顔がよくても性格がコレでは、なびいてくる異性もたかがしれてるだろう。

 私はつらつらとそんなことを考えつつ、冷麺をすすった。

「あんたさあ、ばあちゃんとこ来たんだって?」

 まさかふたこと目があるとは思わなかったので、露骨に驚いた顔をしてしまった。釉人ははなから私の表情など見てなかったようで、冷麺の器に視線を落としたまま続ける。

「服を届けてくれたって聞いた。ありがとな」

「…………いえ」

 好戦的な会話の応酬になるだろうと身構えていただけに、私は味気ない相づちを打つことが精一杯だった。釉人ももうこれ以上会話を続ける気がないらしく、給湯室には互いの麺をすする音のみが響く。

 釉人から感謝の言葉を口にされたのは初めてだ。このあいだはこのあいだで、ゲリラ豪雨のなか、なんの見返りも要求されずにイヤリングを探してくれた。

 突っかかられたかと思えば労われ、落ち込んでいるかと思えば攻撃的になる。

 そう、釉人のスタンスは一貫しない。

 このひとは、ほかにどんな顔を持っているのだろう。

 一度疑問を覚えると、気になって頭から離れない。私は探究心にじりじりと火がつくのを感じていた。

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