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プロローグ

 あのころの我がシステム開発会社は恐慌のまっただ中にあった。


 固定客の受注が激減するわ、コスト削減の為に次々と派遣が切られるわ、タイトな納期がまかり通るわで、新卒採用で入社したての私も大変な激務を強いられていた。それに追い討ちをかけるようにやり手のSEが立て続けに辞め、当時の社員の残業時間はゆうに百五十時間を越えていたのである。

 そんな状況なので社内は常にピリピリしていたし、手に余る案件を振られても私はヘルプの声を上げることさえできなかった。結果私はミスを連発し、先輩からは連日顔に唾がかかるほど激しく罵られた。

 独り暮らしのアパートには寝るためだけに帰っているようなものだった。いいかげんもう忘れてしまいたいのに、いまだに終電のダイヤを記憶している。

 本当は、憧れの末に上京したのだ。それなのに私の東京での暮らしは地獄でしかなかった。


 ある日私は蓄積された疲労と私自身の力量不足のせいで、チームを巻き込んだかつてない大失態をしでかしてしまった。使えないやつは帰れと罵倒され、私はいつものメトロではなく新幹線に飛び乗った。

 本当は電車に揺られるのではなく、ホームに飛び込むつもりだった。もうなにもかも終わらせたかった。

 でも、どうしても心が決まらなかった。

 結果私は車中で嗚咽をあげ、無意識のままに両親の住む実家へと向かっていた。


 実家の最寄駅に降り立ったとき、すでに日付が変わろうとしていた。もちろんタクシーが待機している時間ではないので、徒歩以外の選択肢はなかった。

 木枯らしが吹きすさぶなか、私はしんと静まり返った道をとぼとぼと歩いた。明かりといえば店の常夜灯とコンビニだけで、それらを通りすぎると薄闇が続き、ひどく寂しい。勝手を知るかつての通学路とはいえ、若い女がひとりで出歩く時分ではない。だからだろうか、どこからともなく漂う肉の焼ける香ばしい香りに鼻が敏感に反応し、私はつい、足を止めてしまった。

 この町のすべてが寝静まっていると思っていただけに、ささやかな人の営みに安堵した。その拍子におなかがぐうと鳴り、慌てて腹部を抑える。

 もう何時間も飲み食いしていない。しでかしたミスのあまりの大きさにとてもじゃないが食欲がわかず、昼食どころか夕食さえとれなかったのだ。

 おいしそうな匂いに誘われ、私は幹線道路からはずれて脇道へと入った。嗅覚を頼りに馴染みのない道をうろうろと歩き、ついにそれらしき店を見つけた。木枠のドアのガラス部分から、滲むようにして光が漏れている。あたりには営業中であるのか否か判断できるものはなにもなかった。

 私はおそるおそる店の中をうかがった。だがガラス部分は思っていたよりも分厚く、景色が屈折してなにも見えない。

 そもそもここは本当に店なのだろうか。もし一般住戸ならば、私の行動は不審行為そのものだ。

 誰かに見つかったらおおごとだ。そう思ってドアから離れたそのとき、ガラスから漏れていた光が消えた。閉店なのだと思いきや、内側からドアが開かれたので、私はびっくりして固まってしまった。


「お嬢さん、いらっしゃいませ。そとは寒いでしょう。なかへどうぞ」


 建物のなかから出てきた人物は、光を背にして朗らかにそう言った。

 いまになって思えば、ここは飲食店であるのか否かを伺うのがまず最初にすべきことだったはずだ。だが当時の私は相手の声色に険がないことに安堵し、ついで胃にダイレクトに訴えかけるジューシーな肉の香りを胸いっぱいに吸い込んでしまって、複雑な思考をいともあっさりと手放してしまった。

「さあ、こちらへ」

 促されるままに、店内へ踏み出す。店の明かりはダウンライトとキャンドルしかなく、足もとがおぼつかなかったことをよく覚えている。

 ふと気になったのは壁際に連なって打ちかけられた布たちだ。オブジェのつもりなのかもしれないが、照明が暗かったため作成途中の舞台装置にしか見えなかった。


 やがて私は壁に向かってカタカナのコを描くように衝立てが立てられたペアのテーブル席へ通された。椅子に腰を下ろしたときに招き入れてくれた人物の顔を見上げたけれど、陰影が深くて顔をはっきりと確認できなかった。声色や仕草から、おそらく私と同じ二十代前半の男性だったように思う。

 腰を落ち着けてしばらくすると、男性からフルートグラスを差し出された。水だと思って口に含んだそれはまぎれもなくお酒だったので、私はむせてしまった。

「お、お酒……?」

「はい。この日のために、とっておきの一本をあけました」

 キャンドルの明かりを頼りにグラスをよく見れば、細やかな糸のような気泡が絶え間なく上っていた。唖然としていると、今度は別の男性が料理を運んできた。

「どうか夢のなかの出来事だと思ってお付き合いください」

 苦笑するような口調とともに、目の前に金縁の大皿が滑り込んできた。ブロッコリーときのこのガーリックサラダに、マスタードソースがかかったローストビーフ、アボガドとシュリンプのピンチョス、そして螺旋階段のようなかたちがかわいいフリッジのボロネーゼ、それらが完璧としか言いようがない盛りつけで配置されている。

 感動するよりも先に、私は血の気が引いてしまった。お酒といい、この豪華なプレートいい、ここの料理はいったいいくらするのだろう。

 青ざめているであろう私を尻目に、男性ふたりがフルートグラスを翳してきた。ふだんお酒を飲む習慣がない私でも、その仕草の意図するところくらい分かる。

「乾杯」

「待ってください。あの……私、これ頼んでないです」

 ようやく絞り出せた言葉がそれだった。

 とたん私の胃はきゅうと痛みを覚える。このひと言により男性たちをがっかりさせると確信したからだ。

「それは気にしないでください」

「いえ、そんなわけには……」

「私たちは今日とてもいいことがあったので、あなたにもそのお裾分けです」

「でも……」

「過ぎた遠慮は無粋ですよ」

 男性は人差し指を唇に当てる仕草をした。傷心の私を快く招き入れてくれたうえに、そんなふうにやさしく宥められて、私はもはやなにも言えなくなってしまった。

 食事をするよう促されて、おそるおそるフォークを入れた。茹で加減、塩加減、カットサイズ、すべてが非の打ち所なく絶妙だった。ゆっくりと食事をしていたつもりだったが、徐々にフォークを動かすスピードが上がり、止まらなくなってしまった。極度の疲労に加えて、ふだん飲まないお酒が入ったことによりいい気持ちになり、食欲が増してしまったのだと思う。

「今夜のディナーが、どうかお嬢さんの力になりますように」

 ウェイターの声は低くてやさしく、とても心地よかった。どうしようもないほど荒んでいたはずの心が、まるで魔法を掛けられたかのように高揚して弾んでさえいた。

 私はふわふわとした浮遊感を制して、彼の瞳を覗き込んだ。赤の他人の、それも若い男性の顔を至近距離でまじまじと見つめるだなんて、そんなはしたなくも大胆な行動に出たのは酔っていた証拠だ。

 彼の瞳は伸びらかで、じっと見つめ返されると温かい気持ちになった。そんなわけないのに、このひとは天使なのではないかと思ったくらいだ。


 目を閉じれば、あのときの高揚がよみがえってくる。

 ちょっとやそっとでは忘れられないくらい、すてきな夜だった。おいしい料理は胃だけではなく、心まで満たしてくれた。

 あの夜の出来事は夢だったのかもしれない。その証拠に後日記憶を頼りにあの飲食店を探したが、見つけることができなかった。

 もしかして私はあの夜マヨイガに行き着いたのだろうか。

 それとも摩耗した私の意識が作り上げた素敵な幻だったのだろうか。


 あれがなんだったにせよ、マヨイガでのひとときが私に立ち直るきっかけを与えてくれた。当時は不幸のどん底にいると嘆いていたが、あの仕事のポカも人生における苦い経験のひとつでしかないことに気づくことができたのだ。死ぬことを安易に選択しなくてよかったと思う。


 ただ、あのマヨイガを思い出すとき、ちょっとした後悔が伴う。

 もう二度とたどり着けないにしても、せめて店の名前くらい聞いておくべきだったーーと。


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