表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
復讐屋さんの奴隷くん  作者: 志久タクイチ
9/12

復讐屋さんの奴隷くん⑨

復讐屋さん第九話、いつも通り更新です。

 くすくす。ひそひそ。

 ――――誰? あれやったの……

 ――――うっわやばくね? 怒らせたらまたキレられるぞー……。

 ――――また大場達の仕業か、女って怖えー……。

 ――――いい気味じゃん。何かあいつ偉そうだったし。

 ――――あれ、まだ学校来てんの? しぶとすぎー。

 ――――あんなん本当にあんのな、ドラマかよ……。

「…………」

 その『惨状』を見ても、長谷はまるで動じなかった。何も言わなければ、表情を変えもしない。人形のように、徹底的に無機質な表情だった。

 俺の隣――――つまり、長谷の机には、キャンパスに見立てたかのように、毒々しいほど鮮やかな絵の具が飛び散っている。色の付いた雫が、寒々しく床を叩いていた。

 しっかりと見なくとも、溢れんばかりの罵詈雑言が書き殴られていることが分かる。

 混ざり合っているせいで、その文字は読めないくらい潰れていたが、その濁った色は、目を覆いたくなるほど汚く見えた。

 ちらちらと、長谷を見る人間がこれだけいても、誰もこのことを咎めようとはしない。

「は、長谷……その、平気か……?」

 俺だって、他人の事は言えない。こんな何の慰めにもならない言葉しか掛けられないのだから。

 長谷を助けるために、なんて本気で言う人間は、ここにはいない。

 もちろん、俺も含めて。

 そう考えると、急に胸糞悪くなってきた。長谷をイジメている人間と俺が、同類のような気がして。

 イジメる人間とそれを見ない振りする人間は同じ、とはよく聞くものだが、それでもここまでしておいて罪悪感を感じない人間よりはマシだと思いたかった。その言い訳も、ただの現実逃避だと分かっているからこそ、余計に嫌になる。

「…………」

「いや、平気なわけないよな、ごめん。ええと、なんていうか……」

 次の瞬間、長谷の行動に思わず息を呑んだ。

 それとほぼ同時に、まるで汚い物に触れた時のような、甲高い悲鳴も遠くで上がった。

 長谷は、自分の制服のブレザーを脱いで、机に押し付け始めたのだ。

 まだ新しかった制服が、べたべたと汚れていく。

 机の上で形になった怨嗟の声を、一身に受け止めていく。

「お、おい長谷、止めろって!」

 俺が制止の声をかけても、無視する長谷。意地でも聞かないつもりらしい。

 もう、流石に放っておけない。

「だから止めろよ! 今雑巾持ってきて……」

「うるっさい!」

 もう一度止めようと伸ばした手を、長谷に振り払われた。

 きっ、と吊り上がった目で俺を睨む。

 が、その瞳に力はない。いつもの傲岸不遜な態度は見る影もなかった。

 憔悴して、少し疲れているようにも見える。

「私はっ……誰の力もいらない! 誰も信じない! 見てるだけで何もしないヤツがちょろちょろ出しゃばんな!!」

 激しい語調でそう言い捨てて、俺にブレザーを投げつけてきた。そして雑巾を探すためか、長谷は教室から出て行ってしまう。

 長谷がいなくなった直後、噴き出したようにクラスメイトの話し声が大きくなった。緊張から解放されたかのように、クラス中の空気が弛緩したのが分かる。

 長谷への罵倒がはっきりしているかしていないかの違いでしかないが。

「はあ……」

 こんな状況になってから、早いもので数日が経つ。あれから、一向に良くなるどころか、悪くなる一方だ。

 当然、大場は長谷をいないものとして振る舞っている。会話をすることもなく、お互い顔を見合わせもしない。

 長谷をイジメるのは、その取り巻き達だ。大場が指示しているのかどうかは分からないが、彼女自体は高みの見物を決め込んでいるらしかった。

 俺が知っているだけでも、二つか三つはそれらしいものを見ている。それらしいもの、と曖昧なのは、彼女達が目に付かないところでこっそりと『復讐』しているからだ。

 彼女たちがやっているのは火を見るよりも明らかだが、その証拠はない。テレビで学んでいることなのか、そういうところは本当に上手に誤魔化している。

 助けようにも、手出しができないのは当然だ。

 仕方ない、はずだ。

「……って、なんで俺があいつを助ける前提なんだよ」

 そもそも、長谷を助ける義理は俺にはない。

 俺も、長谷の被害者だ。階段から突き落とされ、さんざん馬鹿にされた。

 大場も、とばり姉の策略で分かっていたこととはいえ、やってもいないネコババを責められている。これくらいのことは、当然……なのかもしれない。

「…………」

 受け取ったブレザーを、椅子の背もたれに掛けた。出来るだけ汚れが目立たないように丁寧に。

「ったく、変なところで強情なんだからなあ……」

 最近になって、長谷のことがよく分かってきた気がする。多分、猫かぶりしていた時よりもずっと親近感が湧いているのかもしれない。

 長谷は決して、馬鹿な人間ではない。少なくとも俺よりはずっと頭は良い。……俺と比べてもフォローになってない気もするけど。

 そして例えば、長谷のカバン。

 その中に、めちゃくちゃに詰められた紙の束は、つい昨日まで教科書だったものだ。新品同様だったそれは、今ではボロボロに引き裂かれてしまっている。

 それでも構わずに、長谷が授業でレジュメよろしく束のまま使っているのを見た時は、こっちが後味の悪さを覚えたくらいだ。

 こんな風に、長谷は理性よりも強い『我』を持っている。地頭はあるが、いざという時は自分の頭よりも、感情を優先させるきらいがあるらしい。そういう、どうしようもない性格面での傾向なのだろう。

 人によっては、それを愚直とも言うだろう。でもそれは、俺にはないものでもある。

 だが今は、そのせいで、さらにイジメている側に火が付くことを分かっているのだろうか。

「……まあ多分、分かってるはずだけどな。でもそれならそれで、一体どうして……」

 なにか癪だが長谷本人よりもこっちがひやひやして見てしまう。彼女の意固地さが、とても現状の解決には至る気がしない。

 そして、とばり姉のあの一言もある。その性格まで、とばり姉の計画の内の一つな気がしてならない。

 そしてそのうすら寒い予感は、すぐに命中することになる。

 


❖❖❖


 

 二限目が終わって、三限目の授業が始まるところだった。

「おい、次の授業始まるぜ?」

 ぼーっとしていると、ちょうど近くにいた男子生徒に声を掛けられた。

「……なあ、次の授業ってどこだっけ?」

 人懐っこそうなたれ目が特徴的で、俺はこっそりこいつをタヌキと呼んでいたりしていた。

「はあ? そりゃお前、次が音楽なら音楽室だろうぜ」

「その音楽室の場所を教えてくれよ」

「……お前、知らねえのか? あの言わずと知れた復讐代行部の部員だろ? そんなでいいのかよ?」

「なんか誤解があるっぽいけどな、あれはとばり姉のワンマンクラブだよ」

「ははっ、ちげえねえ。こんなちゃらんぽらんが復讐とか大層なことしそうにないぜ。そんじゃあお隣の彼女と上手く行ってないとか?」

「……それはもっと誤解があるぞ。長谷に聞かれるなよそんなこと」

 そんな何でもない会話を挟みながら、俺たちは音楽室へと足を運んだ。

 長谷が自分の立場を悪くしている内に、俺はというと、クラスメイトと少し話せるようになった。

 もともと俺はそんな目立つ人間でもないし、俺への印象は、すぐにアクの強い長谷によってかき消されたのだろう。人の噂もなんとやら、とはよく言ったものだ。今やクラス全体で長谷をいびる流れが生まれている。

 こうして見ると、俺は長谷に救われたと言えるのかもしれない。彼女からしたら不本意なことだろうが、事実、俺への風当たりは弱まっている実感があった。

「このまま……」

「ん? なんか言ったか?

「いや……何でもない」

「早く行こうぜ、遅れちまう」

このまま長谷のことを忘れてしまうのが、俺にとって一番いいのだろう。

 もうしばらくすれば席替え、一年が経てばクラス替えだ。長谷とはいつか離れることになるのは間違いない。俺から厄介払いする必要もない。

 俺が何もしなければ、これで俺は幸せな学生生活を送ることが出来る。長谷のそれを犠牲にして。


 ――――七原くん、ね。これから隣どうし、よろしくね。

 ――――私、最初に隣になった人とまず話し掛けようって思ってたの。隣が七原くんでよかった。

「…………」

 ……あの言葉も、結局は嘘じゃなかったんじゃないのか? と思う時がある。たまたま、とばり姉の従弟である俺だったからこうなっただけで。

 本当は、本当にただ話し相手が欲しかっただけじゃないのか?

 それが猫かぶりだということを差し引いても、それだけ、友達が欲しかっただけじゃなかったのか……?

「俺は……」

「七原っ、危ねえ!!」

 そんな考え事をしていた時だった。

 タヌキが叫んだ。その大声が耳に届いて、その意味を捉えかねた瞬間。

 いきなり、『何か』がぶつかった。全身にのしかかるような、大きくて重い『何か』。

 当然、そんなものを支えられるわけがない。まともに構えていても無理だったと思う。

 俺が下敷きになる形で、勢いよくその場に崩れ落ちた。 

 摩擦で肩が燃えるように熱い。痛む肩を尻目に、その『何か』を見た。

 そして、驚く。

「は、長谷……!?」

「いっつぅ……アンタ、どこ見て歩いてんのよ、馬鹿……」

 確かに、まぎれもない長谷だった。いつもの眼鏡が無いが……。

「長谷、何でお前……つうか、重いんだけど……」

「は、はあっ!? 私の何が重いって? このまま押し潰されたいわけ⁉」

「ぐえっ、ご、ごめん! 悪かったから降りてくれ! いや降りて下さいませお願いしますマム!」

「ふざけてんの?」

 長谷の全体重が、俺のか細い首に掛けられる。まるで容赦がない。

「ぎゃあああ……! ぎ、ぎぶ、ぎぶぅ……」

「お、おい長谷、やりすぎだぜ……」

「――――あ?」

「や、すまん、何でもない」

「おいこら助けろおおお……!」

 やいのやいのと言い合いながら、長谷は俺から離れた。

 この感じも、かなり久しぶりな気がする。

「いてて……ったく、乱暴だな」

「うっさいわね、アンタが悪いんでしょ。悪かったって自分で言ったじゃない」

「いや、そのことを謝ったわけじゃ……何でもないっす」

「よろしい」

 相変わらず、そういうところはめざといと言うか、なんというか。

「……なあ長谷、一体なにがあったんだよ? ていうかどっからぶつかったんだ?」

 ほこりを払うような仕草をする長谷に、声をかける。

「…………」

 何故か、答えずにそっぽを向く長谷。

 といっても、既にその反応は慣れっこな俺である。

 だが、長谷のその表情は、曇っているように見えた。

 黙ったまま、周囲に散らばっている教科書を拾い集めようとする。

「おい、七原……」

 と、そこでタヌキがこっそり耳打ちしてきた。多分、敢えて長谷に聞こえないように。

「俺、長谷が階段から落ちてきたの見たぜ……」

「っ!? まさか……」

 実体験がそうさせたのか、大場の取り巻きの仕業じゃないかとすぐに思い至った。

 その俺の心の内を読んだのか、タヌキは眉をひそめた。

「大場達がやったのかは分からないぜ。流石に見えなかったからな。でも、長谷は自分で階段からずっこけるようなやつじゃないだろ?」

 その的確な推測に、思わず俺は長谷に視線を向ける。

「っ……!」

 教科書を拾おうと屈んだその時、長谷の表情が大きく歪んだ。

 教科書を手に取ることも無く、おそらく無意識に足首を抑えて、そのまま膝をついた。

「長谷!? どうした!」

「何でもない、来んな!」

 激しい拒絶。明らかに普通じゃない。

 彼女の額は、びっしょりと冷や汗を垂らしていた。

「来んなっつってんでしょ⁉」

 近づく俺たちを、追い払うように手を薙ぐ。

 が、その声にタヌキが静かに答えた。

「そんな顔されても説得力ないぜ。どれ、ちょっと見せてみな」

 そう言って、長谷の抑える手をどかして、ソックスに手を当てるタヌキ。

 そして少し遠慮する素振りを見せた後、患部らしい足首を曝した

「これは……見事にぐねったもんだぜ。真っ赤に腫れてら」

「……見んじゃないわよ、変態」

「変態結構。とにかく保健室に連れてくべきだろうぜ、なあ七原」

「あ、ああ。そうだな」

 突然声を掛けられて、思わず間の抜けた返事しか出来なかった。

 一体何で、と思っていると、タヌキは長谷の教科書を拾って長谷に手渡した。

「……なんか、手馴れてるんだな」

「おう、中学じゃ野球部のマネやってたからな。捻挫くらいすぐ分かるんだぜ」

 そして、こう続けた。

「音楽室はこの階段上ってすぐ右だからな、七原。先生には適当に言っとくから、長谷には優しいお前に頼んだぜ」

 ……気を使ってくれたのか? そのいやにニヒルな笑みには、何を考えているのかうかがえない。

 そのまま階段を上ろうとしたところで、振り返る。

「あ、そうそう! 俺にはちゃんと絈野宏かせのひろっつうナイスな名前があるんだぜ! なんでかタヌキって言われがちだけどな」

 俺もそう思ってたなんて言えない。決して苗字を知らなかったわけじゃなかったが。とりあえず、このことは墓場まで持っていくことに決めた。

 からからと笑いながら、タヌーー絈野は今度こそ去って行った。

「何か、本当にタヌキみたいに食えないヤツだな……」

 とはいえ、絈野がいたおかげで、助かった。俺一人ならどうしていいか分からなかっただろう。

「……眼鏡」

 ふと、ぼそりと長谷が呟いた。

「どうした、長谷?」

「……私の眼鏡は、どこ? 目、悪いから分からない」

「もしかして、落ちた拍子に外れたのか?」

 渋々、といった風に頷く長谷。

「そう、ね……。別に、頼んでるわけじゃ!」

「分かった分かった。ちょっと待ってろ、探してみる」

「ふん……すっかりあの女に調教されてんのね」

 そんな憎まれ口を背中で受けながらも、長谷の眼鏡を探した。自分でも言うのもなんだが、呆れるほど甲斐甲斐しいものだと思う。

「あ……」

 そして、見つけた。

 見つけは、したのだが……。

「壊れてる……」

 フレームがぐにゃりと折れ曲がり、レンズはヒビが入ってしまっていた。鼻当ての片方もどこかに無くなってしまっている。

 素人が見ても、これは買い替えないといけないと分かる。

「七原?」

「あ……長谷、その」

 背後の視線が痛い。マズイ、殺されるかもしれん。

 長谷の目が悪くて良かった。蛇ににらまれた蛙よろしく、がたがた震えている様子は見られて面白い物じゃない。

「その、なんて言ったらいいのか……」

 なんとも歯切れの悪い言葉を紡ぐ。

 かと言って、ゴメンと謝るのもなにか違うと思う。俺がやったわけではないのだから。

 いっそのこと、堂々と開き直って――――。

「……まさか、壊れたの? 眼鏡」

「ご、ごめん! なんか、その、とにかく悪かった!」

 前言撤回。俺には無理だ。謝り倒して平にご容赦願うしかない。

「……そう」

 せめて張り手一発で、と身構えていたのだが、返ってきた声は思ってたより小さかった。

 長谷の方を見る。

 般若の如く、眉間に皺を寄せてもなければ、キレすぎて口元がひくついてもいない。〝何も、怒っている様子が無かった〟。

「は、長谷……?」

「何よ、そんな鳩が豆鉄砲食らったような声して」

「いや、でも……」

「アンタ、怒って欲しかったの? マゾなの?」

「断じてマゾではないけどさ! でも、その……何て言うか」

 慌てる俺を見て、ふっとため息を溢す長谷。

「別に怒ってないっつの。所詮物だし、壊れるときは壊れるわよ。寿命も近かったし。そんなんでいちいちキレてたらキリがないわ」

 そう言って、絈野から受け取った教科書をぎゅっと抱えた。

「ただ……」

「おい、七原と長谷か?」

 長谷が口を開きかけてすぐ、被せるように声が掛けられた。

 受け持ちの授業なでもあるのか、担任が近寄って来た。

「お前ら、もう急がないと授業遅れるぞ」

「いや、そうですけど、それどころじゃ……」

 ちら、と長谷の方を見やる。

 長谷は、何故か首を振っていた。

 『止めろ』とでも言うように。

「ええっと、長谷が怪我してるんです。俺が連れてってやろうと思、って……」

 言い切る前に、思わず声がしぼんでしまった。

 俺を――――いや、〝俺たちを見る、その目〟。

 疲れた、というような、相手すること自体が面倒くさいと言わんばかりの、蔑視の目だった。

「あのなあ……今度は一緒になってサボりか? 言ったろ、何でも分かるって。教師舐めるなよ」

 誰かを見捨てる時の目は、こんな色のない目をしているものなのか。

「高校生だろ? いい加減そんな子供っぽいことは止めて、ちゃんと授業に出ろ。嘘を吐くな。あと、長谷」

 長谷に、味方はもういなかった。

 俺の知らないところで、もう誰も信じれない所まで来てしまっていたのだ。

「大場にまだ謝ってないらしいじゃないか、あのこと。深入りする気はないがな、本当に幼いというかなんというか――」

 これが、一人という感覚。

 聞いた話を推測すれば、長谷は、この状況を中学の頃に過ごしてきたはずだ。

 言うことを信じてくれる味方すらいない。

 こんな、辛いとしか言いようがない状況を、何年も、何年も。

「――とにかく、次の授業に行ってくれ。俺も堂々とサボりを見逃す気はないぞ」

「いや、だから……」

 それでも、食い下がるつもりだった。それでもせめて、と思っていた。

 この時、長谷は何を思っていたのだろう。

 後ろから小さな力がくい、と袖を引っ張った。

 長谷だった。しかし今度はゆっくりと、首を横に動かした。

 そして、落ち着いている時の彼女の瞳が、俺を見据えた。

「……分かったよ」

 こういう時は、長谷の中で本当に冷静な答えが出ている時だ。

 その長谷が、諦めろと言うのなら、俺がどうこう出来るわけがなかった。

「おい七原、なに教師にため口利いてんだ」

「長谷に言ったんですよ」

「はあ?」

「授業、行きますんで。……行こう、長谷」

「…………」

 長谷は何も答えない。

 だが、俺の差し出した手を頼りに、ゆっくりと立ち上がった。

 その様子に何も言うことなく、小さい舌打ちを残して担任は立ち去っていった。

「……さて、あいつも行ったし、まずは保健室かな」

「アンタも小狡くなったわね」

「仕方ないだろ、俺にだって従いたくない人間くらいいる」

「もう誰かに従うってところには諦めてんのね」

「言うな……」

 肩を貸しながら、長谷を保健室まで連れて行く。

 授業には間違いなく遅れるだろうが、もう気にもならなかった。

 俺は――――……。

「七原? なんか言った?」

「……いや、何でもない。そういや、この眼鏡どうする? 一応、持ってるけど、もう使えそうにないよな」

 割れたガラスに気を付けながら、念のために長谷に見せる。

 長谷は、その壊れようを見ようとしなかった。一点を見るような目をしながら、何の気無しに口を開いた。

「それ、母親のなのよね」

「え……?」

「もう何年も家に帰ってないけどね。今頃違う男作ってんのか、一人街の片隅に追われてんのか。もうどうでもいいことだけどね」

 突然の内容に、俺は何も言えない。

「…………」

「最後……四年くらい前か。使ってたのをもらったの。どうしてこんなクソ古い眼鏡もらうことになったのかは忘れたけど」

 どうでもいいことなら何故、それを俺に言ったのか。ただ、誰かに聞いて欲しかっただけなのか。それを聞いて、何か返してやるべきだったのか.

 俺には、分からなかった。

 長谷は俺の顔を少しだけ覗き込むようにしてから、口元を緩ませた。

「だから、もらっとくわ。もう使う気はないけど……なんというか、記念みたいな感じで」

「記念?」

「そ。母親の、娘記念。形見ってつもりでもないけど、押し入れの奥にでも入れて埃被せとくわ」

 それだけ言うと、貸していた肩を翻し、俺の身体を静かに押し離した。

「……長谷?」

「もうここまででいいから。さっさと授業行ってよ」

「ここまで来たんだったら、最後まで付いて行ってもいいだろ。遠慮とか長谷らしく……」

「そうじゃない」

 抑揚がないながらも、強い感情が込められたその声。そして諦めたようにへらり、と笑うその表情に、思わず気圧されてしまった。

「アンタは、どう思ってるの? 今のこの状況を。ちょっと前までは、アンタが下で、私が上だった。でも、いつの間にか私と七原の、クラスでの立場は逆転してて、こうして情けなく……アンタに助けられて」

「……それは」

「しっかし、アンタを階段から突き落としたら、まさか今度は私が落とされるなんて、これなんて皮肉よ? 流石の久代とばりも、このこと聞いたら笑い転げるわよね。こんなに上手くいくなんて、まるでおとぎ話みたいね、つったりしてね」

 彼女の言葉に、思わずはっとした。

 理由は二つある。一つは、長谷がやはり誰か――大場達に突き落とされていたということ。

 そして、もう一つ。長谷は、今の状況の背景にとばり姉がいることに気付いている。

「長谷、とばり姉の仕業だって……」

「知ってるわよ、それくらい。そもそも、大場に私をあそこまで貶めるほどの器量は無いわ。中学の噂の件含め、すぐに誰か――というか久代とばりの入れ知恵だって思った。財布も……あれからちょっとしたら、久代とばりが盗める機会があったことに気付いてた」

 その時にはもう遅かったけど、最後に言い足しておいてから、気恥ずかしそうに肩をすくめた。

 事もなげにそう言うが、後知恵ながらもとばり姉の目論見を全て言い当てている。その思考力に素直に感服した。

「あいつに負けた私を、心の中じゃ七原も見下してんでしょ? はっきり言えばいいじゃない。『負け犬』って、私がアンタにしたように」

「…………」

「ねえ、どうして何も言わないの? ほら、言いたいこともあるでしょ……何とか言ってよ七原‼」 

 激昂した長谷が、俺の懐へと飛び込んだ。もちろん、その速さに俺はなす術もない

 そして長谷の拳が、俺の胸倉を強く叩いた。

「言えっつってんでしょ!? 変に同情して助けんな! クラスの誰もそうしないのに、一人手を差し伸べて善人ぶんな! 何もできないくせに、奴隷のくせに!! そんなとこだけ偉そうな顔で私を見んなよ!」

「…………」

 何も、言えなかった。

 俺の半端な感情は、長谷にまで見抜かれていて、そして長谷を傷つけている。

 とばり姉が俺を甘ちゃんと称したのも、今なら分かる。結局俺は、長谷に優しくなんかなかったのだ。

 長谷の頭が垂れて、その額が押し当てられる。ふわり、と良い匂いが舞った。

俺の視点から、自分の顔が見られないようにしているかのように、視線を地面に落としていた、

「そんなことされて喜ぶとか思ってんの⁉ 信じるとでも思ってんの⁉ 馬鹿じゃない? 私はね、もう水はぶっ掛けられた、靴隠されてから、髪も掴まれたし、カバンも便器に突っ込まれたこともある。それだけならいいわ、それが私だけなら! でも、でもあの子は……!」

「あ、『あの子』……?」

 俺が聞き返すと、はっと息を呑む長谷。気付いたときには、自然と口を衝いて出ていたといった様子だった。

「~~~~っ! うっさい、忘れろ! アンタには関係ない! アンタのことだって、もとから信じてなんてないんだから……!」

 気付くと、俺の胸の上で作られた握り拳が、かすかに震えていた。

「長谷、お前泣いて……」

「…………」

 抱きしめられるような距離で、どうしたらいいのか分からずに、俺の手だけが宙を泳ぐ。

あるいはこれが、ハリウッド映画とかの創作物の出来事ならキスでもしようものだが、内容が内容だけに、そんな雰囲気でもなかった。

 何か、慰めになる言葉は無いか。

「長谷……? その、大丈う゛ぐぇっ!」

 そう思って、もう長谷に一度呼びかけたのと、俺の鳩尾に固い肘鉄が突き刺さったのはほぼ同時だった。

蛙が潰れた時のような、とはよく聞く表現だが、ぶっちゃけそれ以上に、自分でもどこから出したと思わざるを得ない気持ち悪い声が飛び出た。

 もちろん、長谷の仕業だ。

「かっ、かひゅっ……ぅえっ」

 痛みに耐え切れず、膝から崩れ落ちる俺。悶え苦しみ、呼吸困難にもがく俺と、その様を仁王立ちで見下ろす長谷。

 ……こいつは悪魔の申し子か何かか。

「お、おまっ……肘は止めろよ……マジで死ねるから」

「ふん、七原のくせに近いっての。気持ち悪い」

「お前が近づいたんだろ……痛っ」

 キスだとか考えてた結果がこれだ。そんな色っぽい展開が俺たちにあるわけがない。

「ていうか、一応気にしてたんだな。そういうの」

 てっきり、そんなこと気にする性分じゃないと思っていた。

「は、はあ? アンタ、鏡でも見たら? んな脂ぎった顔で、自意識過剰じゃないの?」

「そしてこの酷い言い様……あれ? なんだか痛みとは違う涙が……」

「喜んでんじゃないわよドM奴隷」

「間違いなく喜びの涙ではないからな⁉」

 でも、この感じ。

 長谷が俺を馬鹿にして、それを俺がツッコむ。このやり取りは、嫌いじゃない。

「……はは、そっか」

 いや、違う。そうじゃない。

 嫌いじゃない、じゃない。

 今更、本当に今更分かった。

「は? 今度は何よ?」

 今までずっと、思い違いをしていた。

 復讐することへの後ろめたさや、罪悪感に絡まれ続けていた。

 そのせいで、自分でも、どうして長谷を気にかけていたのか分からなかった。

 何のことは無い。まったく、難しいことじゃなかった。

 長谷との会話が好きだから、俺はこうしてここにいる。今、目の前に長谷がいる。

 こんな簡単なことを、俺は見逃していたのだ。

 復讐が、俺の気持ちを曇らせた。

 ずっとそばにあったものなのに、遠回りしてやっと見つけたような気分だ。

 軽い虚脱感と、確かに満ちている充足感があった。

「はあーあ、ったく。ずっと悩んでたのは何だったんだか……」

「だから、何の話? いい加減にしないと殴るわよ」

「おう、それもいいかもな」

「……なにアンタ、とうとう悟った?」

「お前が思ってるのとは違う意味でな」

 いい加減、痛みもなくなってきたところで、ゆっくりと身体を起こした。

 身体がさっきまでとは打って変わって軽い――なんて、そんなことは無い。俺の想い一つが変わったところで、何か変わるわけがない。

 むしろこれからどうするかを考えるだけで、気が重いったらない。

 ――――それでも、投げ出そうという選択肢だけは、もう無かった。

「……やっぱ、俺も付いてくよ。保健室まで」

「しつこいわね、いいっつってんでしょ。てか来んな。うっとしいから」

 言うと思った。でも、もう引く気はない。

 誰かに流されっぱなしは、もううんざりだ。

「俺がそうしたいんだ。頼むよ、何もしないから連れて行ってくれ」

「……ふん、もういい。好きにすれば」

 それだけ言って、長谷は保健室へと足を向ける。その背中を追いかける。

 肩を貸そうとすれば怒られそうだったから、見守るような形になったのが何だかおかしかった。

「……俺は、長谷を助ける」

 彼女の背中に向けて、たったその一言を噛みしめた。言葉にしてしまえば、吹けば飛ぶように軽い誓いを。

 決意というには、何の力も根拠も確証もない、ないない尽くしの淡い願望を。

 ――――全ての決着はまだ、着いてない。



❖❖❖



「……ご馳走様。下げて頂戴」

「はーい。お夕飯の後のお茶とお菓子があるよー? とばりちゃん、食べる?」

「今日は紅茶で結構よ。今日はこれから忙しくなる気がするから」

「またお仕事ー?」

「仕事とは関係ないけれど……そろそろ美島から『アレ』の躾の報告に来ると思うわ。明日……いえ、明後日まで帰ってこれないかもしれないわね。適当に部屋を使ってていいわよ」

「あらー、分かった。お弁当はいくつ作ったらいい?」

「そうね……五食分で大丈夫だと思うわ。出来るだけ日持ちするメニューでお願い」

「うん、分かった。あと戸締りだけちゃんとしておくねー」

「ええ、お願いね」

「はーい。お茶出してきまーす」

 普通なら一家団欒で取るダイニングも、広い分、とばり姉一人だけの食事だとひっそりと味気ない。

とばり姉の食事は、いつも日鞠が作っているものだ。

〝とばり姉が、それだけしか口に入れられない体質だと聞かされたのは、つい最近のことだった〟。

 誰かからの貰い物だけでなく、店で作った惣菜、弁当は絶対に食べない。

 好き嫌いは無いらしいが……要は他の人間が作ったものだと、とばり姉はアレルギー反応を起こして食べられない、一種の強迫性の偏食障害らしい。日鞠でも、その壁を乗り越えるのは苦労したと言う。

逆に言えば、もはやとばり姉と日鞠の間には、お互いに身内のような強い信頼で結ばれているということだった。

「……さて、と」

 日鞠もいなくなって、とばり姉はふとため息を溢した。

 時間にして一時間。とばり姉がようやく俺を視認したとばかりに口を開いた。

「アキ、アナタ……何時までそうしてるつもり?」

 何時までこうしてるか? そんなこと、俺が知るわけがない。


 ただ今絶賛土下座中で、時計も見えやしないというのに。


「いいのよ別に、食事をしても? ずっと土下座して空腹でしょう? 何かやらかしたのならともかく、何もしてないのに奴隷に罰を与えるほど鬼じゃないわよ? うふふ」

「…………」

 ぺちぺちと煽るようにして俺をはたきながら、優しげに話すとばり姉。驚きの白々しさだ。俺の言わんとすることは、全て察しているくせに。

 今顔を見れば間違いなく、今にも吹き出しそうなのをこらえているはずだ。

 別に、とばり姉に強制されたというわけじゃない。俺が望んでやっていることだ。

 正直、こうすることで効果があるのかすらも分からない。

 でも、ここは我慢だ。

「……頼む、とばり姉」

「ん?」

俺が唐突にこんなことをしてる理由は、ただ一つ。

「長谷を、大場達のイジメから助けてやってくれ」

 イジメを作り出した張本人にイジメを止めさせようとするというのも、なんだか間抜けな話だ。

 長谷がこの場に居たら、間違いなく俺に掴みかかるだろう。とばり姉に助けてもらうくらいなら、このままでもいいと言う姿が目に浮かぶ。

 だが、このままでいいわけがない。状況は悪化するばかりだ。このまま行って、万が一にも命にかかわるようになるわけにはいかない。

 とばり姉は俺のこの頼みを拒否するだろう。

 そこから先をどうすればいいのか、ずっと考えてきた。

 果たして上手くいくかは分からないが、今はやるしかない。長谷のためにも。

「お断りよ」

 その返事は聞く前に知ってた。

「まあでも、アキの土下座を見て食べる夕飯は良かったわよ。昔はよく人の土下座を食事の肴にしてたし、懐かしくなったわね」

 その趣味は聞きたくも知りたくもなかった。

「その土下座に免じて、ってわけには……?」

「前にも言ったはずよ、徹底的に潰すって。というよりそもそも、もう長谷沙雪に関しては私はノータッチよ。興味すらないわ」

 俺が口を開きかけた時、扉が開き、日鞠の声が割り込んだ。

「とばりちゃーん、お茶持ってきたよー?」

「ありがとう。そこらへんに置いておいて」

「はーい。……えっとー、アキくんの分は、いる? 一応、簡単なお菓子は持って来たんだけどー……?」

「あ、欲しいっす。そこらへんに置いといてください」

「あらー、ふふ。はーい」

 そこで何故か笑う日鞠。だが今日はその微笑みに合わせてしまうと色々マズい。

 彼女がいると、この手の真面目な話がそのままどこかへ流されてしまう気がする。そういう雰囲気を、彼女は持っている。今になって、日鞠の存在が厄介だ。

 とばり姉がちゃんとこの話を聞いてくれる可能性はただでさえ少ないのに、引きずれば引きずるだけ、さらに減ってしまう。

「……で、話はそれだけよね? もう結論は出ているでしょう?」

 案の定、とばり姉は露骨にこの話を終わらせようとする。

 いつもならここで引き下がっている俺も、今はそんな悠長なことはしてられなかった。

「そんな殺生な……何でとばり姉は、そんなに長谷の事が憎いんだよ?」

「くどいわね。確かに復讐に憎悪は不可欠でも、復讐代行に私情はもっての他よ。私に……復讐代行部に仇を成す人間は排除すべき。ただ単にそれだけでしかないわ」

 俺の言葉にむっとしたのか、俺の頭に容赦なく足を乗せてきた。

 踵でごりごりと俺の頭を弄る。適度にイラつく痛さ。でも、それに釣られてしまえばとばり姉の思う壺だ。せっかくここまでかろうじて来ているのに。

 心の中で一度、気持ちを整理する。慎重に、そして丁寧に言葉を選ばないと、こっちの魂胆を悟られてしまう。

 出来るだけ抑揚のない声色で、そして誘導だと思わせない語調でとばり姉に尋ねた。

「……ってことは、とばり姉は長谷が怖いってことなのか?」

「……ふうん?」

「……あ、あらー」

 とばり姉の足の動きが不意に止まる。日鞠も、ほんの小さく困惑の声を漏らした。

 だが、とばり姉に返事をさせることなく、続けざまに俺は言葉を紡ぐ。俺の『うっかり』発言に気を惹かれている今しかない。

「あ、いや、悪い! 変な意味は無いけど、つい……で、でもさ、それだけ長谷は人材的には優秀なんじゃないのか? とばり姉にそこまで言わせるなんてさ、俺には無理だろ」

「…………」

「違うのか……? 俺は、そう思ったんだけど」

「……まあ、そうね」

 わずかに考える素振りを見せたあと、とばり姉はそう答えた。

「実際、長谷沙雪の豪胆さというのか、変な漢気みたいなものには、大場都達もなかなか苦労してるみたいね。もともとの機転の良さに加えて、中学の頃の経験が生きたのかしら。ここで堂々と開き直れる、精神的な強みは認めるわ。……もっとも、事の発端の一部がその気の強さのせいでもあるのが、何とも皮肉だけれど」

「まあ確かに、色々とハイスペックなやつだからな……」

 とばり姉の冷静で、ごく客観的な長谷への分析が紡がれる。まるで心の内を直接覗いてきたかのような的確さに、思わずなるほど、と唸ってしまいそうになった。

 だが、このとばり姉の『語り』を聞いた時、こうも思った。

〝釣れた、と〟。

「あ……だったら、さ」 

 とばり姉が、この話題に少し興が乗り始めている。そして、俺が思った通り、長谷を認めている節がとばり姉にはある。

  ここしかない。最初で最後のチャンスが降りてきた。

 床に着けていた頭を持ち上げて、とばり姉を見据えた。

「〝だったら、長谷を復讐代行部の部員にしたらどうだ〟?」

 これにいち早く反応したのは、日鞠だった。

「あらー! 沙雪ちゃん、部員になるの? わーい、すごーい!」

 彼女は俺の言葉を聞いて、無邪気な声を上げた。今時万歳して喜ぶ人を、俺は久しぶりに見た。

 だが、問題はとばり姉だ。こちらをなんとか説得しないと、意味が無い。

 嬉しそうに目を輝かせる日鞠を尻目に、俺は続けて説き伏せにかかる。

「そうだよ、とばり姉も長谷の強みは分かってるんだろ? 頭も回るし、気持ちも強い。そんな人材を、このまま捨てるのはとばり姉らしくないんじゃないか?」

「…………」

 とばり姉は、理屈っぽいところがある。自分の利益を合理的に見出さなければ、即座に切り捨てるような人だ。

 だが逆に、日鞠の話にあったように、とばり姉の中で価値があり、信頼のおける人間には一定以上の情をかけ、かばいたてることも少なくないようだ。

 ということは、長谷の具体的なメリットを挙げ連ねてやれば、あるいは……。

「それに、長谷が信用出来ないっていうならなおのこと、手元に置いておいた方が安全なはずだ。強い敵を味方に取り込むのも、よくある方法だし、そうしたら復讐代行部も――」

「……もういいわ、アキ」

しかし、そこでとうとう、とばり姉が俺の言葉を遮った。

 とばり姉を見上げてーーぎくり、と肩を震わせた。

 その目は、呆れているとも、飽きたともとれる、冷めやかな色を浮かべていたから。

「え……?」

 戸惑う俺に、ゆっくりと子供を諭すような口調で、とばり姉は言った。

「……アキ、アナタは、復讐心というものを甘く見過ぎよ」

「復讐心……? 俺は、長谷に対してもうそんな気は……」

「馬鹿ね。アナタのじゃない、長谷沙雪の方よ」

「長谷の、復讐心?」

 一体どうして、そこで長谷が出てくるのか。

「まあまずは、アキの交渉の評価から話しましょうか」

「は……?」

 俺が疑問符を浮かべていると、とばり姉が紅茶を口に運んだ。

 離した口から、話が続けられる。 

 それはぞっとするほど丁寧に、詳しく。

「……まとめると、最初に無条件で長谷を助けろ、という断られても当然のダミー、今度はハードルを下げて応えやすい要求を見せる。これがさっきのアキの考えよね。単純だけれど、交渉の基本は抑えてあるわね。長谷紗雪のことを恐れてるんじゃないか、と一度訊いて私の関心を引いたのもグッド。アキにしては、なかなか知恵を絞った方かしら。実際、挙げたメリットは一生懸命で魅力的だったわけだし、悪くはなかったわよ」

「な、そんなことまで……」

 ……正直、分が悪い説得だとは思っていた。相手がとばり姉である以上、長谷を助けないと意地になってしまえばそれまでだったから。

 だが、ここまで言われてようやく、俺は自分の敗北を実感し始めていた。俺ととばり姉との間にある圧倒的実力差が、今ここで目に浮かぶようにはっきりと感じ取れてしまっていた。

とばり姉の言うことは、全部俺の中で考えていたことをなぞるように的中していた。あまつさえ、それに対する感想と評価まで。これでは、説得もくそもないじゃないか。

 俺ととばり姉は、勝負すらしていない。相手にさえされてないのだ。

 ……こんな化け物じみた相手を、どうやって出し抜けと?

「……何時からだよ? 俺がそんなこと考えてるって、どうして思ったんだ……?」

「何時からと言われたら、長谷紗雪を怖がってるんじゃないかってアキが言った直後ね」

「直後……?」

 そんな前から、と思うよりも先に、とばり姉が指を一本立てて告げる。

「アナタ、前々からよく毒舌は吐く方だけれど、〟それにしては謝るのが早すぎたのよ。まるで、最初からその反応を見越して、そうしようと決めていたみたいに〝」

 ……そんなこと、考えもしなかった。俺自身が気付かなかった些細なことすら、とばり姉には明らかな不審の元となったというのか。

「それが、私を説得しきれなかったミスの一つ」

 そして、隣の中指をゆっくりと立てる。

「もう一つ、アキの話には、決定的なものが不足してる。『あの長谷沙雪が本当に心からそんなことをするのか』という点。つまり、長谷沙雪の憎悪がどうなったのかという所の誤魔化しが全くなってないわ。逆にもう少しハッタリの使い方が分かってたら、使い物になるかもしれないけれどね」

 そして、欠点までつらつらと言いあげていく。

 まるで、先生に出した作文を添削されているかのような気分だ。

「い、いや……でも、それはこれから長谷を説得して……」

 我ながら、苦しい言い訳だった。そんな言葉で、あのとばり姉が許すはずがない。

「もし長谷沙雪がそんな説得に応じるような人間なら、私はいらない」

 案の定、とばり姉はばっさりと俺の言葉を断ち切った。

「彼女のなによりの価値は、絶対に私に靡かない憎悪だと、私は思ってるわ。中学の頃から一貫して、私を打ち倒そうとする姿勢は、いっそ好ましいとすら感じてる。だからアナタは、長谷沙雪のそういう想いを侮ってしまってると言ってるのよ」

 ここでようやく、とばり姉の言う『長谷紗雪の復讐心』の意味が分かった。

「な、何言ってんだ! ふざけんな!」

 そして、無性に腹が立った。本当に不思議だった。自分でも、変な怒り方をしていると思う。

 まるで自分のためであるかのように、長谷へのとばり姉のそのいいぐさに怒っていたから。

「長谷の復讐心? それが一番の価値?〟そんなこと他の誰よりも、とばり姉が語るな〝!」

 思わず、声を荒げた。視界の端で、先ほどから会話に入れてない日鞠が、その声の大きさに飛び跳ねる。

 頭は真っ白で何も考えてないのに、口だけはまるで別の生き物のように動き続けた。

「数か月前からこうなるように仕立てておいて、最後はノータッチ宣言して大場達に責任転嫁してるのは誰だよ! とばり姉だろ⁉ そんな最初から逃げ道作ってる人間が、あいつを分かった気になってんじゃねえよ!」

完全に勢い任せに、流れに身を任せる感覚で声を上げていた。喋るだけで肩で息をするようになるなんて思わなかった。呼吸すら忘れていたのかもしれない。

 そして半ば自棄な気持ちで、俺はとばり姉を睨んだ。とばり姉はそれでも、至って平静のまま、俺を見据えていた。

「……だったらあれか? このままそんなもののために放っとけっていうのか? 最悪な結果になるかもしれないのに? そんなのおかしいだろ!」

「アナタは何も分かってない」

「そんなプライドだけの復讐心なんて、分かりたくもないね」

「長谷紗雪は間違いなく私と同意見よ」

「それがどうした。俺は長谷を助けるって決めたんだ。あいつにだって拒否権はないさ。俺が勝手にそうしたいって思っちまったんだから」

「…………」

「…………」

 上からと下からとで、お互いを睨み合う。正確にいうと、俺が一方的にメンチを切って、とばり姉が冷たく見下ろす構図だったが。

「あわ……わわわわ」

 その横を、日鞠がわちゃわちゃとせわしなくあっちこっちしている。

 それ以外は、完全に静寂が降りていた。

 沈黙に身体をからめ捕られ、とばり姉から目をそらせない。彼女の瞳に映る俺の姿まで見えてきそうだ。

「……して」

 やがて、端を発して、俺たちの均衡を崩したのは、とばり姉の声だった。

 椅子の背もたれに身体を預けさせ、ため息交じりに呟いた。

「……どうしてアナタは、そこまでして彼女を助けようとするの?」

「え?」

 呟いた、というにはどこか嘆くような、確かな悲痛さえ感じる語調だった。

もちろん、それはほんの些細な変化かもしれなかったが、さっきまでの怖いくらいのとばり姉の冷静沈着さに比べれば、俺にとっては雲泥の差だった。

「こんなことしても、アナタの何の得にもならないじゃない。いえむしろ、長谷紗雪には余計なことだって思われるかもしれないのに、それでも助けようとするのは、どうしてなの……?」

 あのとばり姉が、俺に何かを尋ねている。

 分からないということを、俺に晒している。

 その様がなんとも新鮮で、とばり姉も年相応なのだと思えた気がした。

 思わず、苦笑する。どうやら俺は怒り切るのが苦手らしい。

「……ここで下心だって言い切れたら、いっそ簡単なんだけどなあ」

 だけど生憎、とばり姉に分からないことが、俺に分かるわけがない。

だから、その問いに首を横に振った。

 そして、とばり姉に笑いかける。

「俺もまだ、形に出来る答えを持ってないんだ。でもその想いだけは確かにあってさ。今、長谷を助ける方法と一緒にその答えを探してる最中だ」

「……そう。やっぱり、分からないわ」

 やはり渋面を浮かべるとばり姉。

 手の内が明かされた以上、いつまでも土下座のままになってても仕方がない。

 すっくと立ち上がって、告げた。

「だから見てろ、とばり姉。俺は絶対に長谷を――――」

 その時、突然無機質な電子音が鳴り響いた。

 どこからともなくとばり姉がスマホを取り出して、言う。

「あら、電話ね」

「え、ええー……」

 せっかく、格好良く決めようとしていたのに。計ったかのようなタイミング。

「もしもし、私よ」

 そんな俺の気も知らないで、とばり姉は名乗りもせず電話に出た。

「ええ、ええ……へえ、そうなの」

 ……マズい。

 ほんのかすかに、ポーカーフェイスながらも口角だけ吊り上がったあの表情。あの顔を浮かべる時は、掛け値なしにマズい。

 あれは――他人の不幸を喜ぶ時の顔だ。この顔を見た時に、良いことが起きた試しがない。

 しばらくの応答のあと、とばり姉が電話を切った。

「…………」

 その沈黙が、やけに怖い。

 またしても、嫌な予感が胸の内をよぎっていた

「な、なんだったんだ? 今の電話……?」

「……アキには、言っておく必要があるわね」

 そして、俺の顔のすぐ目の前に、一本指を突き立てた。

「〝良いニュースがあるのだけれど……どうする? 聞きたい〟?」

 この言葉をそのままの意味で受け止める人間は、今目の端でわくわくしている日鞠だけだと思う。

「……どっちでも。とばり姉の趣味に任せるよ」

「うふふ、私が悪趣味って? 中々分かって来たじゃない。……そう、ちょうどその彼女の件よ」

 そう言って、いつぞやの、無垢とも言える子供っぽい笑顔を浮かべた。



「〝長谷沙雪が、クラスメイトに殴り掛かってイジメているところを教師に目撃されて、謹慎処分を受けたらしいわ。場合によっては、停学も辞さないという話よ〟」





 

毎日午後十八時更新です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ