復讐屋さんの奴隷くん⑤
復讐屋さん第五話、投稿です。そろそろ物語が動きます。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。今から昼休みの時間だ。
クラスの皆がお互いに喜色を溢し、同時に今日の通常時間割の長さを嘆いた。
あれから数日が経って、今日から時間割は午後まで伸びていた。授業はまだ概要の説明のようなものだったが、これから先を考えると気落ちしてしまう。
「今日はここまでですね。室長さん、号令を」
「はい! 起立!」
そんな彼らのざわつきを切り裂くように、長谷が声を上げた。
案の定、とでもいうのか、彼女以外のクラス代表である室長候補がいなかったのだ。むしろ副室長を決める方が時間が掛かったくらいだ。
立ち上がる彼女につられるように、全員席を立つ。
「それでは、今日の授業を終わります。えーっと、七原くん、次からはちゃんと教科書を持ってくるように。長谷さんに迷惑ですからね」
くすくす、と忍び笑いが響く。七原とは、もちろん俺のことだ。この授業中、ずっと長谷に教科書を見せてもらっていたのだ。照れるような仕草で、頭を掻いてしまう。
隣の長谷をちらりと見た。と、すぐに目が合う。彼女は、一瞬だけ小さく口元を緩めてみせた。
「礼!」
長谷の号令を皮切りに、一気にクラスが騒がしくなった。今期初の昼食だ。既に仲良くなった人もいるようで、机を合わせあったりしている。
「長谷、教科書見せてくれてありがとうな。おかげで助かった」
いそいそと教科書を片付ける長谷に、声をかけた。
「ううん。大丈夫、気にしないで。だけど……むしろそっちが大丈夫?」
「あ、ああ……なんとか」
前述の通り、今日から正規授業が行われており、午前中だけで四限の授業があったわけだが。
それら四コマの授業の用意を持ってきていない。午後の授業も同様だ。今日の俺のカバンはまさに羽のように軽い。
「私も出来る限り見せてあげるけど、これ以上はちょっと……」
「あ、ああ。すまん、後は何とかする」
一応、他のクラスで同じ授業がある人間に借りてきてもいたが、流石にどこも被っていない授業は見せてもらうしかなかった。
「そりゃ、そうだよな。二回も見せてもらって悪かったよ」
「……ねえ、どうかしたの? いくらなんでも全部の授業の用意忘れるなんて、普通じゃないよ? 不良ごっこってわけじゃないでしょ?」
「あ、ああー……いや別に、そんな高校デビューやらかそうとかは思ってないけどさ」
……やっぱり、この子は鋭い。何となく、俺の異変に気付いているのだろう。
「もしかして、家の事で何かあったの? お姉さんと何かあった?」
「……っていうか鋭すぎるくらいだよな」
「え?」
「いや、大丈夫。大丈夫だから、な?」
「…………」
何も答えず、長谷は疑わしげな視線を容赦なくぶつけてくる。正直、その目をまっすぐに見ていられた自信はない。
「さ、さあーって、飯でも買いに行こうかなっと。購買混んでないといいなあー」
「あ、七原くん。良かったら、一緒にお昼食べない?」
ド下手な誤魔化し方で、この場から離れようとすると、長谷から意外なお誘いの言葉を受けた。
「……へ?」
一緒にお昼? 俺と長谷が?
「な、何か用でもあるのか?」
俺の警戒はすぐに伝わったのか、長谷は首を横に振る。
「あ、別にもう何も聞かないよ! ただ私が七原くんとお話がしたいだけだから。ね? どう?」
「あ、ああ。そういうことか……」
……お人好しというか、物好きというか。自慢じゃないが、俺という個人は全く面白味のない、普通の人間だと自負しているつもりだ。彼女自身、もう既に他のクラスメイト達との交流まで広くあるようだったし、ますます俺を気に掛ける理由が分からない。
長谷は一体俺に何を見出したのやら。まさか本気で俺に好意を抱いているわけでもあるまいに。
「……駄目?」
しかし、その上目遣いは反則だと思う。
大半の男なら期待しても仕方ない申し出だと分かっているのだろうか。
「や、駄目ってこたないけど……」
当然、俺もその中に含まれてたりする。
一体どうしたものか、としどろもどろしていた矢先だった。
「――――えっとお、すいませーん! 七原空希くんって男の子、ここのクラスにいますかー?」
今日はいやに俺の名前が呼ばれる日だ――――
――――なんて冷静に振る舞えるわけもなく、俺は素直に驚いた。
教室のすぐ外に、見知った人物がいたのだから。
「ひ、日鞠さん⁉」
「あ! アキくん、来たよー」
俺の姿を認めた日鞠が、そのままトコトコと駆け寄って来た。基本メイド姿だったからか、彼女の制服姿は新鮮だ。
クラス中の視線を一身に浴びる。当然だ。始まって日の浅いこのクラスに来たのは、先輩に当たる人間なのだから。
しかも目鼻立ちが極めて端整なのも、注目を集める大きな一因だろう。黙っていれば、彼女は本当に美人だ。
そんな彼女が、何の変哲もない俺に近づいて来る。悪目立ちするのが当たり前だ。
「あらー? もしかして、アキくんのお友達?」
呆然とする俺たち二人を気にも留めず、日鞠は長谷を見てそう言う。
「え、七原くんとは、友達……ではないかもしれませんけど。長谷、と言います。ええと……」
「? どうかしたのー?」
「……いえ、その」
ちらり、と長谷がもの言いたげに俺の方を見た。
どうやら、日鞠との会話に助け舟を出すべきらしい。ため息を一つ吐いた。
「ええと、日比木日鞠さん。今年で高三。……まあ、姉さんの知り合いなんだけど」
「はーい! 年上だからって謙遜なく日鞠って呼んでねー」
「? ??」
「日鞠さん、謙遜じゃなくて遠慮ですよ。まだ直ってなかったんですかそれ」
流石の長谷も、この人の独特のテンポには困惑しているらしかった。まるで彼女と初めて会った時の俺みたいだ。
それはさておき、いい加減話も進まないので、本題に入ることにした。
「それで日鞠さん、どうしてここに?」
そう、一体なぜこの人がここにいるのか。俺に会いに来たというのなら、おそらく復讐代行部に関連することであるはずだが。
かといって、とばり姉の差し金というのも考えにくかったりする。今更彼女が、俺のことを気に掛けるとは思えない。
奴隷宣誓書の件がある以上は。
「あのねー、今日はアキくんとご飯食べようと思って。ほら、アキくんの分のお弁当も持ってきたんだよー」
そう言って、日鞠は手に持った弁当箱を見せた。案の定、といえばいいのか、とばり姉は関係ない用件のようだ。
とはいえ、まさか日鞠が俺の弁当まで持ってきてくれていたとは思わなかった。今となってはとにかく有難い。突き刺すような視線が、さらに濃いものになった気がするが。
「それじゃ、行こっかー。ご飯食べるのに良いところ知ってるんだー」
「あ、でも……」
日鞠の厚意は嬉しかったが、ちょうど長谷とも昼食を共にする約束をしかけていた時だった。
長谷の方を見る。彼女も俺の方を見ていた。
すぐに逸らされてしまう。
まさか俺に、こんなあちらを立てればなんとやら、という贅沢な状況が訪れるとは思わなかった。
「長谷も来るか?」
気付けば、俺は彼女にそう言っていた。本当に、無意識だった。
おそらく日鞠のことだから、長谷が来ようが嫌な顔はしないだろう。むしろ嬉々として歓迎するかもしれない。
「…………」
しかし、長谷はしばらく何か考え込んだ後、
呟くように答えた。
「……ううん、やめとく。他の子と食べるよ」
「そうか。なんかごめんな。せっかく誘ってくれたのに」
「いいってば。でも、そうね……」
そして、もう一度間を置く長谷。
先程から長谷にしては珍しく、曖昧に言葉を選んでいるようだ。まるで、何かのタイミングを見計らっているように。
「じゃあまた今度、お話ししよう? ね?」
念押しするように、長谷がグイと顔を近づけさせる。その長いまつ毛が触れそうな距離だ。
後に引けないと言わんばかりの語気の強さに、思わず頷いてしまう。
その笑みは、どこかうっすらとした翳りが浮かんでいるように見えた。
❖❖❖
「なんか、お邪魔してゴメンねー」
「いや、日鞠さんのせいじゃないって」
「あの子、ずいぶん熱心だったね。アキくんはモテモテさんねー」
「多分、そんなもんじゃないですって。勘弁してくださいよ」
「あらー、照れなくっていいのにー」
俺たちは、誰もいない屋上で弁当を広げていた。
というか誰も入れないように鍵がかけられていたのだが、日鞠が持っていたマスターキーで難なく侵入できた。
曰く、とばり姉から借りてきた物らしい。もはや驚きもしなかった。
「それより、ありがとうございます。弁当。凄い美味いです」
何を勘違いしたのか、おせちに入れるような大きな重箱だが。二人でつまんでも食べきれる気がしない。
俺の言葉に日鞠が箸を止め、微笑む。
「あらー、いいのよ。男の子だもん、いっぱい食べなきゃねー。お口に乗ったのなら良かった」
「口に乗る、じゃなくて口に合う、ですよ。俺が騙されてどうするんですか」
「そうだっけー? うん?」
「……まあいいですけど」
この人はたまに本当に日本語が不自由なのだろうかと心配になってしまう。
というより、普段使わないかしこまった言葉を無理に使っているせいな気もする。教わったことを実際に使ってみないと覚えられないのかもしれない。それがうろ覚えではまるで意味が無いのだが。
「でも、そっちが大丈夫ですか? もしとばり姉に知られたらマズイんじゃ……」
ふと気になって、日鞠に尋ねてみた。
言うなれば、俺は既にとばり姉に逆らった人間だ。下手したらこういう手助けも背信行為に繋がるかもしれないのだが……。
「……あらー」
「気づいてなかったんですね」
困った表情で笑いながら手を頬に添えているあたり、まったく考えてなかったのだろう。
案の定、と言ってしまうと失礼だが、正直予想はしていた。
「あ、えっとー……アキくん、このことは……」
「あ、もちろんとばり姉には黙ってますよ」
そう言うと、希望に目が輝く日鞠。
「あ、ありがとうー! アキくんは心の恩人だよー」
「いえ、日鞠さんこそ俺の恩人ですよ。今は食費が一つ浮くだけでも助かりますから……」
そう、俺はこの数日間、とばり姉の家に帰れていない。
あの日、奴隷宣誓書を俺は出すことが出来ず、あえなく家を追い出されてしまったのだ。教科書も含め、ほとんどの私物はそのままだ。
結果、ずっと近くのホテルから学校に通うという状況に陥っている。
「あらー……ゴメンね。あれから、あたしもずっと説得してるんだけど。とばりちゃんも意地っ張りだから」
「意地ってレベル超えてますよ、流石に」
なにせ、あの美島という男まで呼ぶと脅してきたほどだ。あの男を知っている俺に、反抗しようという気概はなかった。
彼女曰く、『ここを妥協してしまえば、沽券に係わる』らしい。当人であることを差し置いても、追放というのはかなりの横暴なのだろうが、それが彼女ならまかり通ってしまう。
『無いのなら見つけなさい。見つからないようならどこへと消えて、行き倒れなさい』
それがとばり姉の最後の言葉だ。実質の勘当宣言。最終通告だった。
「今日もね、『もし今日で何も進展が無いなら首ちょんぱの刑ね』って聞かなくってー……」
「……本当にあの人ジョーク好きなんですかかね。まったく笑えないんですけど」
大方、首とクビでも掛けた気なのだろう。クソ面白くも無いが、言ってやったと言わんばかりのドヤ顔が目に浮かぶ。
「本当にゴメンねー。何とかしてあげたいんだけど……」
「仕方ないですよ。とばり姉ですし」
本来なら仕方ないで済まされる問題でもないが、それでも受け入れるしかない。とばり 姉には、俺だけじゃなく誰も逆らえない。
だからこそ、奴隷宣誓書が無くなった以上、どんな事情でも即刻追放という命令は絶対なのだ。
「……まさかあの一言が本当になるとは」
ふと、いつの日か、とばり姉にもしっかりそのことで釘を刺されていたことを思い出した。
「え? 何か言った?」
「いや、何でも」
「うーん、本当に外でなくなっちゃったの? とばりちゃん家にひょっとしたらあるかも……」
「……〟奴隷宣誓書が入ったファイルごと無くなってたんです〝。ファイルはあの日までカバンの中にあった。でも、気付いた時には無くて……」
「……盗まれた、ってことー?」
俺は日鞠に頷いて見せた。
「かもしれない、ってとこですけどね。さっきそう思いつきまして」
「でも、どうして? そんなことする人、いるのかなー……?」
「まあ、そうなんですけど」
流石の日鞠も半信半疑といった様子だ。無理もない。むしろあんなものを盗んで、一体誰が得をするというのか。
「もちろん、奴隷宣誓書が目当てとは限りませんけどね。他のプリントもあったし……」
というか、もし俺が何も知らずに他人の奴隷宣誓書を見たとしたら、気持ち悪くてすぐに捨てるかもしれない。
……そうだとすると、もう奴隷宣誓書は二度と俺の手に渡らないも同義なんじゃないだろうか。
「いやいやいやいやいや‼」
ビクッと日鞠が肩を震わせた。慌てて、その非を詫びた。
あって欲しくない話だ。もし仮に、俺が奴隷宣誓書を手にすることが完全に不可能になれば、彼女は俺を一生追放するだろう。やると言ったらやるし、それだけのことが出来る人間だ。
「……今日中に何とかしないと」
この際何でも構わない、家にいられる方法を見つけなければいけない。
とばり姉の奴隷になるということに対する嫌悪感が、この時には既に薄れていっていることに気付いていた。
失意、屈服、諦観……家を追放されてからの数日間は、鬱々とした気分が続いていた。
自由だが、家がない。奴隷だが、家がある。その天秤が、揺れ動いている。
いつまでこんな生活が続くのか、と悩みながらの落ち着かないホテル暮らしは、当然精神衛生上よくないに決まっている。
「……きっと、大丈夫だよー」
「え?」
ふと、日鞠が声を上げた。俺の様子に、何かを感じたのかもしれない。
「アキくんは、なんとかなる気がするんだー、あたし」
「俺が……?」
「うん、そうだよー。とばりちゃんは、アキくんをすごく気にしてるから。多分、あたしよりもねー」
「そ、そんなことは……」
あのとばり姉が、とても俺を心配していたりしているとは思えないけど。
むしろこんな状況に陥った俺を見てせせら笑っていると言われた方が信じられる。あの人はそういう人だ。
「あー、アキくん、笑ってる」
「へ?」
日鞠の言葉に、素っ頓狂な声を出してしまった。当の日鞠は、どこか嬉しそうに笑っている。
「とばりちゃんのこと、考えてたー? アキくん、口が少し笑ってたよー」
「え!? マジっすか?」
思わず、手が顔に伸びた。
「うん。とばりちゃんもねー、アキくんの話になると少し笑うの」
とばりちゃんにそう言ったら怒られちゃったけど、とぺろりと舌を出す日鞠。
「あの子はねー、いろんな人に残酷とか、人じゃなし? なんて言われててね」
「人でなし、でしょ」
「あ、それ。人でなし。それで、まあそういうところ、私も何度も見てるの。とばりちゃんが、凄く怖くなるところ」
「…………」
「でもねー、アキくんにはやっぱり違うの。厳しいこと言うのは変わらないけどー、とばりちゃんがアキくんを見捨てることが想像できないよー。というか、他の人だったらとっくに見捨てられてるよー」
「あ、はは。そっすねー……」
恐ろしすぎて、頷くことくらいしかできない。
「二人はやっぱり、仲良しさんなんだねー。よかったよかった」
何かに合点がいったらしく、日鞠は満足そうに何度も首を縦に揺らした。
まるで自分の事のように、嬉しそうに。
「よ、よかった、のかな? あはは……」
その彼女の様子がどこかむずがゆくて、俺は残った弁当をかき込んだ。
今日一日。この一日で、奴隷宣誓書を見つけ出すことを決意しながら。
❖❖❖
「はあ? 奴隷宣誓書だ? お前、ふざけてるのか? それとも最近のゲームの話か」
現実はそう都合よく出来てはいないらしい。俺の決意とは裏腹に、結局、奴隷宣誓書は見つからなかった。
さっき、単刀直入に担任に『奴隷宣誓書の紙を知りませんか』と聞いて、十分程怒られてきたところだ。流石に馬鹿正直すぎたかもしれない。
一応遊びで作ったものと前置きしたのだが、俺への信用度は一層低くなったことだろう。
ただいたずらに、時間は流れ続ける。
時刻は五時を過ぎようとしている。が、結局奴隷宣誓書の行方は分からないままだ。
これまでも登下校の道を調べ、交番も数か所巡った。今日も学校の至る所を調べて回った。
しかし、似たようなファイルはたまにあっても、全部俺のものではなかった。
俺の行動範囲に宣誓書はない。完全に行き詰ってしまった。もう他にアテはない。
そんな矢先だった。
「あ、七原くん!」
すっかり暗くなった教室に一人、長谷が何をするでもなくそこにいた。自分の机に、ちょこんと座っている。
俺の姿を認めると、机から降りて歩み寄って来た。
「長谷……」
長谷は一人でいる方がしっくりくる。何故か今、そう感じた。
彼女は既に、多くの同級生に囲まれ、頼られている。まだ新学期も始まったばかりにも関わらず、クラスの室長に推されるほどに。
それでも、言ってしまえば、一人に慣れているように感じた。
「何、してるんだ? 長谷も今から帰りか?」
「待ってたんだよ、七原くんを」
そう言う長谷の手には、二つのカバンを一緒に持っていた。そのうちの俺のカバンを差し出す。
「少し話があるんだけど……一緒に帰らない?」
「……?」
口元に笑みは浮かんでいる。眼鏡の奥の目はニッコリと緩んでいた。
だが、違和感だけがそこにある。何がどうとは言えないが、まるで違う人間の笑顔を見ているかのようだ。
「ほら、行こう?」
差し出されたカバンを取るやいなや、手を取られ、引っ張られた。
「お、おい。別に引っ張らなくても……」
「いいから」
長谷に引きずられる形で、教室を後にした。
二人の足音が廊下によく響く。流石にもう学校に残っている生徒もいないのだろう。
「どうしたんだよ長谷っ? 用なら別に今でも……」
「…………」
強く引っ張られて、服がだらしなく伸びる。
それでもつかつかと長谷は歩み続け、ある場所で立ち止まった。
階段のすぐ手前だった。
そこで長谷は、掴んでいた手をぱっと放す。
「? どうしたんだ? ここに、何かあるのか……?」
「七原くん……」
くるり、と長谷がこちらを振り返った。
その顔は、廊下の薄暗さでよく見えなかったが――。
――――それでも、俺には笑っていたように見えた。
「――――」
『落ちて?』
声は聞こえなかった。一瞬見えた口元が、そう言っているように見えただけだ。
景色が暗転した。視界がぐるんと回る。
直後、鈍い音が木霊した。衝撃が全身を揺さぶる。息が出来ない。熱っぽい痛みが、勢いよく叩き付けられた背中を焼いた。
気付けば階段の踊り場の床が目に映り、身体が横になっていることだけが分かる。他は何一つ分からない。考えることが出来なかった。
つう、と頭に温かい『何か』が伝った。
うめき声がこぼれながら、ほとんど無意識に手が頭に触れる。ねとっとした液体が手を濡らした。
血だ。軽く頭を切ったらしい。
それを認めた途端、血特有の鉄くささが一気に鼻を突いた。
その臭いにつられるように、一気に頭が回り出す。意識が急速に覚醒し出しているのが分かった。
そして、理解する。
俺は、階段から落ちたのだ。
いや、違う。
〝突き落とされたのだ〟。
「……あーあ、つっまんない。やっぱ他のヤツに当たっても意味ない、か」
倒れ伏す俺に、近づく声。わざと踏み鳴らしているかのように、その足音がよく響いた。
「ねえ、いつまで寝てんの? さっさと立ってくんない?」
「は、長谷、か……?」
長谷の声色だけは、普段と何も変わらなかった。それこそ、教室で話をしている時のように。
〝この状況だからこそ、そのことが空恐ろしい〟。
「あーめんどくさかった。メス猫になりきるのも楽じゃないわ」
冷ややかながらも、怒りを滲ませた刺々しい口調。
それが、今まで長谷が隠してきた本性だったのだ。そのことが、いやに冷静に理解できてしまう。
「立てっつってんでしょ! のろのろすんなよ」
わき腹を軽く蹴られた。鞭ではたいた競走馬のように、そこで初めて身体を起こそうと手をついた。体のあちこちが悲鳴を上げるように痛んだ。
が、頭が床から離れてすぐ、襟に手が伸びた。そして勢いよく、まるで吊し上げるように俺の身体を持ち上げた。首が絞めつけられる。
そして顔と顔が近づいた。お互いに見つめ合う。こんな状況でもなかったら、キスが出来そうな距離だ。
「良い間抜け面ね、七原。何が何だか分からないって顔」
冷たい視線が、俺を射抜く。路上のゴミでも見るかのように。
「まあ聞きたいことがあるのはお互い様だけどね。でも七原が久代とばりの奴隷である以上、私のことを話しても得にはならないし。色々ゲロってもらうのはアンタだけ。ここまではオーケー?」
「何で……とばり姉のことを? 奴隷の事まで……」
「アンタ、まだ分かんないの? 馬鹿なんじゃない?」
心底呆れたとでも言うように俺を罵倒して、長谷は続ける。
「奴隷宣誓書。アンタ、間抜け面であの紙きれ見てたからさあ、ちょっと借りたわ。アレのおかげで全部分かったし、最初から全部知ってた」
無くなっていた奴隷宣誓書は、やはり盗まれたからだったのか。
それに、長谷なら確かに盗む時間があった。
ちょうど、無くした時期とも一致する。
つまり、長谷と会話した時だ。あの時には既に奴隷宣誓書の存在を知っていたのだろう。
初めからずっと、長谷は俺を騙していたのだ。
「ちっ、もう夜じゃん。ったく、いちいち手間のかかる奴隷ね」
苛立ちを隠そうともせず、長谷が俺を荒々しく離した。思わずむせ返る。
「ほら、さっさとカバン持って、血も拭いて。誰かに見つかったら、誤魔化すのも結構面倒くさいんだから」
「げほっ……お前が、やったんだろ」
「そうよ。で?」
思わず感心してしまいそうなほど、まったく悪びれる様子がなかった。
「その気になればどうとでも言えるんだけどね。なんならアンタに襲われそうになった、ってことにしてもいいし? そ・れ・に。アンタの奴隷宣誓書、今も私が持ってんだけど……さーて、これどうしよっかなー……?」
「うっ……」
紙を破るような手振りに、言葉が詰まった。
彼女の口元は、俺を嘲るように吊り上がっている。
が、その目は親の仇と言わんばかりに、俺を睨んでいた。その視線を、まるで受け止めることが出来ない。
「あの女に身を売ったクズ。痰カス。ド底辺のゴミ。アンタは誰にでもひたすらへこへこしてりゃいいのよ。アンタは所詮、そんな人間なんだから」
容赦なく、俺をなじり続ける長谷。その語調には、憎しみすら感じられる。
だがしかし、〝長谷の感情の矛先は、俺そのものじゃなく、あの女――――とばり姉とその周りの物すべてに向けられている気がした〟。
「……さて、それじゃあ今すぐあの女の所に連れてってくれる? 逆らったりしたら酷いんだからね、『七原くん』?」
その作られた笑顔と口調が、今の俺には他のどの罵倒よりも一番堪えた。
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