復讐屋さんの奴隷くん③
復讐屋さん第三話投稿しました。過去に自分で書いたものでも、振り返って見るとそれなりの発見があったりします。
学校初日はお決まりのように快晴だった
現在、高校初のクラスの中で簡単なHRの最中だ。
始業式もつつがなく終了した。今の俺は猛烈な眠気に誘われている。黒板前では担任が今後の予定について張り切って説明しているみたいだが、知ったことじゃない。
「ふわぁ……ねむ」
というのも、今日は完全に寝不足だからだ。
完全に眠ったのも多分午午前四時を回ってからだったと思う。今日でようやく自分の新しい部屋を整理することが出来た。
もともと物置同然だったらしいその部屋を掃除することから始まり、新調した家具を全部一人で運び、家具を組み立てるのに春休みのほとんどを費やした。当然、とばり姉も手伝ってくれず、慣れない家事まで命じつけられていて、結果そのような変な時間まで割かなければいけなくなっていた。
春休みが明ける三日前に続々と届いてくる段ボールには、流石に泣きそうになった。
とにかく忙しない春休みだった。
とばり姉とは、『あの日』からほとんど会っていない。『仕事』が忙しいとかなんとかで、帰ってきてもすぐに自分の部屋に引っこんでいた。
一度だけ様子を見に行って部屋をノックした時、『何? 襲いにきたの?』と部屋から声がしたから間違いない。俺は慌てて否定してその場から逃げた。
というわけで、今日から学校だというのに、とばり姉は清々しいほど堂々とサボっている。休業中だと言っていたが、休業中には休業中なりの仕事があるようだ。もちろん、一体何をしているのかは知らない。
一応、今日は昼までには、つまり俺が下校した時には帰ってくると言っていた。話しておきたいことがある、と。
改まって話しておきたいこと……というと、
『あの話』の続きとしか思えない。思わず、重たいため息が口からこぼれた。
❖❖❖
『奴隷宣誓書』
『復讐代行部』代表:久代とばり
一、七原空希(以下、この者を『甲』とする)は、復讐代行部代表である久代とばり(以下、この者を『乙』とする)の奴隷として、半永久的に隷属するものとしてここに宣誓する。
一、甲は、自らの意志で人権等含む全所有権を放棄し、乙に譲渡する。
一、甲は、原則乙の命令に従事し、乙の生活に最大限の配慮及び奉仕を常時行う。
一、甲は、乙に対する異議申し立てを全般的に禁止する。
一、甲は、…………
一、甲は、…………
万が一、甲が、以上の事項に抵触、または著しく侵害した場合、乙の判断で相応の処遇を決する。勿論この処遇に、甲は異議申し立て出来ないものとする。
「な、何だよこれ……ど、奴隷? 人権の譲渡って……」
最初の一文から度胆を抜かれた俺は、そのぶっ飛んだ誓約書の内容をぶつぶつとぼやいていた。
傍から見たら、呆然自失、という言葉が何よりもピッタリな様子だっただろう。
そんな俺に追い打ちをかけるかのように、
とばり姉が声を上げた。
「見たらわかるでしょ? アキの奴隷宣誓書よ。印鑑はどうせ持ってないでしょうから、サインだけでいいわ。それで『復讐代行部』の所有物としての証にはなるから。いわば入部届ね」
「い、いや、いくらなんでも奴隷とか……そんな、冗談だろ……」
「生憎、冗談は大好きだけどユーモアのセンスは皆無なのよ。我ながら」
そう言って、とばり姉は自嘲するように鼻を鳴らした。
「規定事項は全部そこに書いてあるから、よく読んでからサインして頂戴。どっかのサルみたいに、後々痛い目みることになるわよ」
「いや、とばり姉……」
「質問なら今のうちに聞いておくわ。もう明日からしばらくあっちこっち行かないといけないから――」
「とばり姉ってば!!」
リビングに、俺の叫び声が響く。とばり姉の声が途切れた。意外にも激しい口調だったことに我ながら驚く。
しばらくの無言。叫んだ後に続く言葉がなく、じっと黙りこくっていると、耐え切れずというわけではないだろうが、とばり姉が口を開いた。
「親戚だから、昔一緒にいた仲だから、っていう、情がどうこうという話じゃないのよ、これは」
相変わらずの心を読んだかのような言いぐさが、今はとにかく腹立たしかった。
「部活みたいな名前だけれど、『復讐代行部』はビジネスなの。利益を求め、実害は切り捨てる。アキ、アナタだから贔屓にするとか、逆に苛烈に当たるというわけじゃないわ。ただ平等なのよ」
「そんな……じゃあ、もし……もし俺がこれを無視したら?」
「決まってるでしょ? 美島を呼んで、家から追い出すわよ。むしろまだ優しい方じゃない」
「……そりゃ、住まわせてもらうわけだし、家の手伝いくらいは、って思ってたけど……」
奴隷、というこの世から廃れつつある二文字が、判断を渋らせる。
家事お手伝い、とでは意味の重さが違う。再会して間もない上に、社会人でもない俺にビジネスとか言い出すほどには、とばり姉の言う奴隷というのは軽くはないはずだ。
かと言って、世話になる以上、俺にはサインするという選択肢しかないわけだが……。
「でもさ……」
「もう、じれったいわね」
踏み切れない俺にイラついてきたのか、舌打ちでもせんばかりにとばり姉が荒々しい口調で言った。
「選択肢は無いと言ってるでしょう? それとも何? 私と一緒に暮らすのは嫌だって言うの?」
「そ、そんなこと言ってないって!」
思いもよらない言葉に驚き、慌ててさっきまで思っていたことを、とばり姉にたどたどしくも話した。
自分の内心というのは、とにかく誰かに伝えにくい。とばり姉は俺の言葉を納得したのかどうなのか、大きいため息を一つ吐いて、ソファにもたれかかった。
「……それが甘えだとしか思えない私は、やっぱり摩れちゃったのかもね」
「とばり姉……」
「仕方ないわね、妥協してあげる。要は、整理する時間が欲しいってことよね?」
「ん、ああ……」
「今は塾でいないけど、アナタの前例が春休み明けに来るわ。つまり奴隷の仕事をしに、ってことだけど」
俺の前例……俺と同じように、何かしらの弱みをとばり姉に握られている人間がいたのか。
まだ見ぬその人物に、同情に似た親睦を感じる。
「ん? 塾ってことは、俺とほとんど同年代?」
「それどころか私たちと同じ学校で、今度三年になるわね」
「先輩かよ!?」
俺どころかとばり姉より年上じゃないか。そんな人間を奴隷とまで言ってのけるとばり姉の厚かましさにも驚いた。
「私が厚かましいというよりかは、年上だからって身構えるアナタの思考が極日本人的なのよ」
「何で俺の考えが分かった!?」
「それはともかく」
逸れ始めた話を戻して、とばり姉はこう告げた。
「その子が来るまで、それはアナタが持ってなさい。その後にどうするのかまた話しましょう」
「その人を参考にして考えろってことか……」
「もっとも、あの子がそんな役立つとはまったく思わないけれどね……。;ああ、サインしようがしまいが、その時まではちゃんと最低限の家事は全部してもらうから。そのつもりでね」
そう言って、とばり姉は小さく苦笑した。
その表情は、先程までと比べて、どこか緩んでいるように俺には見えたのだった。
「あ、あとそれ紛失したら即刻追放だから」
「不肖ながら、しっかり保管させて頂きます!」
最後にぐっさりと釘を刺されたが。
❖❖❖
クラスの話題はいつの間にか、一人ずつ自己紹介していこうという担任の提案に移っていた。面倒くさい、という意見を、若手の教師ならではの熱を帯びた説得が応えている。
「…………」
俺が今手にして見ているのは、あの『奴隷宣誓書』だ。今更確認するようなことはもう無い。だらだらと読み流しているだけだ。こんなことをしていても意味が無いのはわかっているのに。
今日中に結論を出さないといけない。といっても、もともと俺に拒否権は無い。もう部屋も出来上がったばかりだし、サインするのは間違いないのだが。後は俺がどうこのことを呑み込むか、だ。
とばり姉は、結論を引っ張ることは甘えだと言った。今こうして考えてみると、それは正しかったのかもしれない。もちろん、内容自体に納得したのではなく。
ずるずる答えを引き延ばしても、結局何も変わらなかった。むしろ悩む時間が増えて、ただ憂鬱な時間を過ごしただけだ。
「優柔不断だな……本当に」
「え? そうなの?」
「ああ、姉さんも俺のそういうとこ見抜いてたんだなあって――うん?」
今、知らない声が俺の独り言に応えた。女の子の声だった。
さっと『奴隷宣誓書』を引き出しに隠し、声が聞こえた方を見る。
俺の隣の席に、その声の主がこっちを見ていた。
真っ先に黒縁のメガネに目が行った。そして、しっかり梳いてある黒髪。洒落っ気はあまりないようで、ほとんど化粧はしてないみたいだが、よく見たら綺麗なカチューシャが髪をぴっちりと抑えている。とばり姉のリボンほどではないが、これもそうとうな大きさだ。
今時見かけるのかと疑うほどの、典型的なメガネ少女だった。
「へえ、お姉さんがいるんだ」
何故かいきなり会話が始まってしまい、少し狼狽えながらも頷いてみせる。
「ああ、まあ従姉なんだけどな。つい最近会った」
「ふうん……」
「……えーと。こう言うのもあれだけど、それがどうしたんだ?」
「ああ、ごめんね。自己紹介始まるみたいだし、ボーっとしてるように見えたから、いきなり当てられたりしたら困るかな、って思って声をかけたんだけど……」
「え?」
気付けば、左隅の席に位置する男子が、上がって自身の趣味を語っているところだった。多分、この子に声を掛けられなかったら、全く気付かずに慌てていただろう。危ないところだった。
「あー、ありがとう。マジで助かった。えっと……」
「あ、私の名前? 自己紹介する時に分かるんじゃないかな。うねうね順だから、君の次ね」
「ん、まあ……分かった」
一瞬うねうね順の意味に悩みながら、自己紹介の順番を追ってみると、すぐに分かった。
要は波のように、一番前か後ろまで来たらその隣の列にずれていって、隅から隅へ渡っていくということか。そして俺たちは一番後ろ。俺の自己紹介が終われば次はこの委員長系少女というわけだ。
「あー、じゃあ次は、七原」
「あ、はい。」
とうとう俺が呼ばれて、立ち上がり、簡単に自己紹介を始めた。
結果的には、俺の自己紹介は何のツッコみどころも無く終わった。
ただ一つ、とばり姉のことはあえて何も言わないでおいた。これもとばり姉が言ってきたことだ。というか、忠告といったところか。
曰く、『私は学校じゃ鼻つまみ者だからね。もしアキが苛められたくて仕方がないマゾなら止めはしないけれど、普通に生きたければ私の名前は出さない方が賢明よ?』だそうで。
当然、俺はその言葉に従ったというわけだ。まあ、いくらとばり姉でも、流石に学校中に名を轟かせているわけではないはずだが……。
「次、長谷ー」
「はい!」
そこで、凛と響く声が教室中に広がる。思わず背筋を伸ばしてしまう。
「長谷沙雪です。出身校は舞津岡私立中学でした」
クラスの中が少しだけざわつく。舞津岡私立といえば、この辺りで一番偏差値の高い中学校だと聞いている。もっとも、この地域に来たばかりの俺にはピンと来ないが、確かとばり姉の出身校でもあったはずだ。ひょっとしたら、とばり姉のことも知っているのかもしれない。
まあ少なくとも皆、俺の自己紹介よりは長谷の方に関心が高そうだった。
「――あと、今小学五年生になる弟がいます。みんなと早く仲良くなりたいと思っています。ちょっと短いですが、以上です。よろしくお願いします」
はきはきとした口調というのは、誰かの目からも好印象に見えるものだ。もはや目に見えるんじゃないかと思うほど出来る女オーラが凄い。長谷の自己紹介は心持ち大きい拍手で迎えられた。
いつの間にかそんな長谷をじっと見ていた自分に気付いたのは、彼女が椅子に腰かけた後、俺の方に振り向いた時だった。
「七原くん、ね。隣同士、よろしくね」
「ああ。よろしく、長谷」
「私、最初に席が隣になった人にまず話し掛けようと思ってたの。七原くんが隣でよかった。なんだか話しかけやすそうだったから」
「ボーっとしてたから、ってこと?」
「あはは、そうだね。ちょっと縁を感じちゃったな」
「縁?」
「え? ああ、なんかこう、シンパシー、みたいな?」
「そ、そうか……?」
俺に訊かれても困るんだが。
「まあとにかく、これから色々とよろしく」
そう言って、俺に笑いかける長谷。俺もつられて笑い返す。
……こういう普通の会話を、俺はここ最近していなかったかもしれない。誰のせいとは言わないが。
「はは、俺の方がよろしくされる側だとおもうけどな。長谷はしっかりしてそうだから」
「そんなことはないけど」
そう言う長谷の顔は、どことなく困惑気味だ。褒められ慣れてないのかもしれない。
「いや、俺なんか、もう今日出すプリント忘れてきたし……」
もう既に、ついさっき全員がプリント回収されている中で一人だけ、見事に出しそびれていたりする。前もって送付されている、現住所に関する保護者宛ての書類だった。もちろんそれは俺が書いていた。
言い訳のつもりじゃないが、自分の部屋整理にかまけて、学校で必要なものがどこかに行ってしまったらしい。
「え? あれ今日中じゃないの?」
「そうらしいなー……」
とばり姉のことは伏せて、俺がここに越してきたこと。そのせいで、とは言わないがプリントの方まで気が回らなかったということを簡単に長谷に話した。
「帰ったら部屋の中探してみるけど、今日はもうどうしようもないか……」
怒られそうだけど、と続けようとしたが、それを遮るかのように長谷が口を開いた。
「それなら大丈夫だよ」
何故か自信たっぷりに、そう言ってのける。
あまりの断言っぷりに、思わず何のことなのか分からなかった。
「え? ……何が?」
「何が、って……そりゃプリントのことに決まってるじゃない。七原君なりのどうしようもない事情があったんだったら、それを言いに行こうよ、先生に」
「え、でも……」
正直、プリントを忘れたのは自業自得だ。言ったところで何になるとも思えないが……。
「まあなんとかなるって。大丈夫、お姉ちゃんを信じなさい」
誇らしげに胸を張る長谷を見て、思わず小さな笑みが浮かんだ。まったく、どこかの姉も見習って欲しいもんだ。
「あ、なんなら私も付いて行こっか?」
「いや、それは助かるんだけど、長谷に迷惑掛かってもあれだしな……」
それに正直、女の子を連れて釈明しようとするのも男としてどうかという気持ちがあった。つまらない意地だが、こんなしょうもないことに長谷に付き合わせても仕方ないだろう。
だが、俺が控えめに遠慮しようとしても、長谷は意に介さないように首を振った。肩まで伸びている髪が揺れる。
「迷惑なんかじゃないよ。もうそろそろ学校も終わりだし、先生のところに行こう? 私も行っていい?」
彼女は詰まるところお人好しというやつなのだろう。何故そこまでしてくれるのか分からないが、意地でも引かないように俺には見えた。
「……じゃあ、分かったよ。頼む、付いてきてくれ」
「うん」
結局、諦めたように俺は肩を竦めた。
ちょうど、クラス全員の自己紹介が終わった頃だった。
❖❖❖
その後はあっという間だった。間もなく午前中だけの就業時間も終わった。簡単な事務連絡の後、担任の号令で解散の運びとなった。
「え? プリントが無い?」
そして今、俺たちは職員室にいた。
HRが終わった瞬間さっと手を掴まれて、若干強引に長谷に連れてかれたのだ。もっとも、そうでもされないと職員室の場所が分からなかったとは思うが。
椅子に腰かけながら、見上げる形で担任が俺たちを見やる。特に俺を見る目は、どこか困惑気味だ。
「まあ絶対一人はやるだろうと思ってたんだがなあ……」
苦笑いを浮かべて、続ける。
「えーっと、お前確か名前は……」
「あ、七原です。七原空希」
「そうだ、七原。お前、高校は三年あるんだぞ? 分かるだろ。入学初日がこれでどうする? この先思いやられるぞ」
「はあ……」
分かってはいたが、案の定怒られた。
そこで、つんとわき腹が突かれる。見ると、長谷もこちらをもの言いたげに見ていた。きちんと話せ、ということらしい。
「あ、でもっすね、一応俺にも事情が……」
「お前、いつまで中学生気分のつもりだ? 今日出す物は今日出す。当たり前のことだろ。お前の事情なんかこっちは知らないんだからさ、そういうものは守れ。いいな」
にべもなく撥ね付けられた。もちろん、何も言い返せなくなる。
一体長谷が何を思って事情を説明するように提言したのか分からないが、流石にこれに反論するようなぶっとい神経は持ち合わせてない。
しかも、俺の言葉が気に障ったのかなんなのか、担任の声の調子が強くなった。というか、なにやら誤解を招いたらしい。
「ったく……大体、事情なんて言ってどうせ長い休みで遊んでた言い訳だろ? そんな見え透いた嘘、ちゃんと分かってるんだよ。しかも、わざわざ女子まで付き合わせて……こんな幼稚なことしてないで、いい加減大人になれよ」
「…………」
誤解だといえども、流石に少しイラッとする。
少なくともここに越してから、遊ぶ時間なんて無かった。全くと言っていいほど。その正当な理由を全部無視されて、だらしなさそうに言われる筋合いはない、と思う。
だが、もちろんそこは事なかれ主義万歳を地で行く俺のこと、反論に出ずにすたこら退散しようと思っていた。
が、そこで今まで黙っていた長谷が、口を開いた。
「先生、違うんです。私たち、そのプリントをもらってなくて」
「はあ?」
担任が声を上げる。
俺も一瞬聞き間違いかと思った。慌てて、長谷を見た。
「それは……本当か?」
彼女はそんな俺を尻目に、淀みなくすらすらと話し始めた。
「はい……私もプリント回収の時は何のことか分からなかったんですけど、隣の七原君も困ってたみたいで。聞いたら七原くんもプリントのことを知らなかったみたいで」
「……そうなのか、七原?」
「あ、はい……そうっす」
急に振られて内心焦っていたが、長谷の言うことに乗っかっておいた方がいいと思い、こくこくと頷いた。
「それで、一緒に先生の所に言いに行こうって話してたんです。言葉足らずですみません」
「そ、そうだったのか。いや、うーん、だがそんなことあるもんかな……見落としたんじゃないのか? もう一回探すとか……」
「いえ、本当になかったんです。それに、逆にこんなことがなかったら、二人揃って出せないなんてことはないと思いませんか? 明日にでも提出できると思うんで、予備の用紙をください。それだけあればすぐに帰りますから……」
「分かった、分かった。予備の紙な」
まくしたてる勢いの長谷を担任が制する。
狐につままれた、という表現がピッタリ当てはまる表情のまま、彼は自身の机から二枚の紙を取り出した。
「ほら、これな。ちゃんと書き漏れのないように」
「分かりました、ありがとうございます」
「今日は学校初日だ。早く帰って、明日に備えるようにな……」
「はい、それじゃ失礼します。七原くん、行こう」
「あ、ああ」
そのまま、長谷に付き従うように職員室を後にした。
❖❖❖
「いやー、一時はどうなるかと思ったよ」
そのまま、俺たちは帰途についていた。
聞くと、長谷はごく普通のマンションで暮らしているらしい。とばり姉の家が長谷のいる住宅街からかなり離れているため、駅付近で別れることになる。学校から徒歩十分というあたり、羨ましい限りだ。
並んで歩く彼女に、続けて話を続ける。
「あんなしれっと嘘ついてさ。あれじゃほとんどの人が騙されちまうよ」
「い、いやいや……一応、悪い気はしてるんだけど、ね。嘘も方便ってことで」
そう言う長谷は、どこか照れくさそうに笑った。
事もなげに言っているが、さっきの長谷はまるで本当のことのように堂々としていた。
俺も多分、事情を知らなければ騙されていたと思う。あの雰囲気に、担任も呑まれたんだろう。
「いやいや、本当かっこよかったじゃん」
「かっこ……よかったかなあ? まあ男勝りだって言われたことはよくあったけど……」
「本当に? 長谷が?」
「まあね、昔は姉御って呼ばれてブイブイ言わせてたもんだよ、これでも」
「へ、へえー……」
それはまたなんというか、意外としか言い様がない。多分、彼女なりの冗談だろう。少なくとも、今の長谷にそんな雰囲気は一切感じられなかった。
「いや、でもおかげで助かったよ。けどさ、長谷もプリント忘れたことにしちゃって大丈夫か? 何だか悪い気がするな……」
「それは平気。きっと先生も私の名前なんて覚えてないから。出したプリントの中に私の名前があっても絶対に分からないよ。ちょっと強めに押し通したから変に思ってすらないと思う」
「ああ、なるほど……」
思えば、あの会話の中で長谷は一度も自分の名前を名乗っていなかった。あの一瞬で、そんなことにまで気を配っていたのか。
「賢いんだなー、長谷は」
まさに、世渡り上手という言葉にそのまま足が生えたかのようだ。
「あはは、ありがとう。私なんて、全然なんだけどね……」
「へえー、じゃあ長谷よりもっと賢い人がいるんだ?」
「えっ……?」
そこで、何故か驚いた顔で俺を見る長谷。
「あ、えっと……どうして?」
「いや、どうしてもなにも……長谷が言ったんだろ。自分なんて全然、って」
「あ、そっか。うん、そうだったね……」
「まあ長谷の言うことも分かる気がするな。俺にも絶対この人にはかなわん、っていうのはあるし」
もちろん、とばり姉のことなんだが。
長谷でも、俺みたいにそういう人間がいるというのが少し意外だった。
「……うん、そうだね。私にも、そういう人はいるよ。私にも。七原君は……さっき言ってたお姉さん?」
「うん。俺なんかじゃ全く太刀打ちできなくてさ。弄ばれてばっかだよ、まったく」
「ふふふ、そっか……あ」
不意に長谷が声を上げる。気が付けば、駅がすぐそこに見えた。何時かの時のような夕暮れの混雑が見える。
「それじゃ、私この辺りだから」
「送らなくて大丈夫か?」
「むむ。少年、下心が透けて見えるよ?」
「へ……? ばっ、そんなんじゃないって!」
「あはは、冗談冗談」
長谷が俺の前を数歩駆け出す。そして、振り返った。
「それじゃ、七原君。これから色々よろしくね」
「ああ、今日は助かった。じゃあな」
片手を上げて、長谷に応える。
それを見た長谷は、にっこりと笑って去って行った。
一切の翳りもない、満面の笑顔で。
❖❖❖
そして長谷と別れてかれこれ三十分後。
「ドア開かねえ……」
久代家のドアに苦戦する俺の姿がそこにあった。かなり厳重な作りの錠前が、俺を拒絶する。
実は、俺はとばり姉からこの家の鍵をもらっていない。
理由はお察しかもしれないが、あの奴隷宣誓書である。曰く、あれにサインしていない以上、合い鍵も渡せないのだとか。いちいち律儀なことである。
チャイムを数回鳴らし、手が痛むまでドアをノックしても何の反応もなかった。
「とばり姉もまだ帰ってないのか……」
それと、とばり姉の言う『奴隷の人』も。結局、まだ話で聞いただけでそれ以上のことを何も知らない。
とばり姉の奴隷になることを了解した人物。彼または彼女に、そこまでさせるものとは何なのか。
怖いもの見たさのような期待感があったが、少し肩透かしを受けた気分だった。
「帰ってくるまで待つしかないかあ……」
何にせよ、どちらか片方が帰ってくるのを待つしかなさそうだ。多分、もうすぐ帰ってくるだろう。
何もすることが無く、手持無沙汰になった。
門前の低い階段にしゃがみこんだ。
その瞬間、まるで見計らったかのようなタイミングだった。
「はーい! 今ご開帳しますのでーっ!!」
鼻水吹き出すかと思った。
思わず、無人のはずの家に視線を移す。
よく耳を澄ませると、確かにばたばたと忙しない足音が聞こえた。
詰まる所、今まで居留守をしていたということか。どうして俺に居留守を使っていたのかは分からないが。
あのとばり姉がこんなに元気な、それでいて馬鹿っぽい声を上げるとは思えない。とするとやはり、この声の主が話にあった奴隷一号さんなのだろう。
「はーい、どうぞいらっしゃいましたー!」
大きく開かれたドアから、快活な声が響く。
とばり姉には絶対に出せない声だろうな、とぼんやり思った。
そして俺の目に移ったものを見て、思わず、この世のものなのかと目を疑った。
遠目からでも分かる、白いエプロン。彼女の茶色の髪におぶさった、フリル付きの白い髪飾り。そして無地の紺色ワンピース。
メイドさんだ。つまりメイドさんがこちらに駆け寄ってきている。
マジで一体どういうことだ。
「あらあらー、どうもー。君がとばりちゃんが言ってたアキくんかなー?」
そう女の人が尋ねてきた。年上なのだろうが、首をこてんと横に倒している仕草はまるで幼児のようだ。
それに、〝あの〟とばり姉を『とばりちゃん』と呼ぶあたり、ある意味でただものじゃない気もする。
「ん? どうしたの? あたしまた何か変なこと言っちゃったー?」
「あ、いや……何でもないっす。ええと、俺、七原空希っていいます。初めまして」
「じゃあ、やっぱりアキくんだねー。『どれー』同士、頑張ろうねアキくん!」
そこで形の良い眉をきりり、と持ち上げ、両手で握りこぶしを作った。
「は、はあ。よろしく……」
変な人だ。かなり変な人だ。
妙にふわふわしているというか、天然気質というか。はっとするような美人なのに、のんびりした雰囲気が合ってないというか。こんな残念美人を初めて見た。
もっとも、とばり姉よりは悪い人でもなさそうだが。むしろこんな人がとばり姉と一緒にいる絵が想像つかない。奴隷一号とは言うものの、奴隷を家政婦か何かと勘違いしてるんじゃないかと不安すら覚える。
「あ、お荷物預かるよー」
「えっ、いや、いいですよ! 俺の荷物だし……」
「いいのいいのー、あたしからしたら君は立派なお客様なんだから。メイドに遠慮はいらないよー?」
固辞する俺を半ば無視するように、メイドさんは俺のカバンを手に取った。
「は、はあ……どうも」
一応年上の女性に、荷物を持たせるということに抵抗がある俺に対し、この人は全く気にしてすらいないらしい。お客様、と言うあたり、彼女はいつもこうしているのかもしれない。とばり姉に言いつけられているのだろうか。
というか、どうもここ最近、色んな意味で押しの強い女子ばかり知り合っている気もする。
「それじゃ、付いてきてー」
腰まである茶髪が揺れ、先導するかのように歩き出した。一応道案内がなくても大丈夫なのだが、素直にその後を付いて行くことにした。
「あの、その服は……?」
思い切って聞いてみることにした。
彼女はいちいちくるり、と俺の方を見てから答える。
「ああ、これ? メイド服っていうんだよー。どれーのユニフォームなんだって、とばりちゃんが言ってた!」
「そ、そっすか」
言えない。騙されてるなんて俺にはどうしても言えない。
話題転換。あいにく、ツッコみどころは山ほどある。
「……あ、そういや何で居留守使ってたんですか? チャイムが聞こえなかったわけじゃないでしょ?」
ふと気になって、前を行く彼女に聞いてみた。そう聞いてみたものの、正直この人ならチャイムの音を聞きそびれていてもおかしくないが。
そんな失礼なことをこっそり思っていると、メイドさんが思いがけないことを口に出し始めた。
「えーっと、それはとばりちゃんの指示でね。実はずっとテレビ? って言うのかなー。それでアキくんのことを見てたんだけど」
「え、それってカメラってこと?」
ドアホンに内蔵されたカメラの事だろうか。そんなものこの家にあったか?
「あ、そうそう。監視カメラ。とばりちゃんのお部屋からね、物騒だからって家の中と外の様子が見れるようになってるのー」
「は? マジですか⁉」
「マジなのです。あ、そこにカメラも見えるよー。おーい」
無邪気にメイドさんが手を振る先には、確かに細長いカメラレンズがこちらを向いていた。
あのカメラの映像がとばり姉の部屋に繋がっているのか。
本当にあると分かってないとまず見えないような設置の仕方が気になる。まるで意図して隠してあるかのような。あれでは防犯ではなく、盗撮でもするかのようだ。
「それでね、『チャイムかノックをしばらく続けて、犬みたいにしょぼくれながら門前に腰かけたら間違いなくアキだから、それまで待って開けなさい』って」
「…………」
その通りに動いていたことを見通されて、素直に戦慄するべきなのか、それとも俺があたふたする様をからかって楽しんでいるということに、怒りを覚えるべきなのか。
とにかく、言うことは一つ。
もっと他に良い方法あっただろ。
「え、えっと……と、とばりちゃんが言ったんだよ? 本当だよ?」
「……分かってます。そんな捻くれたこと言うのはとばり姉くらいのもんですし」
「一応、可哀相だってあたしは言ったんだけど、とばりちゃんがいいからほっときなさいって聞かなくて……本当にごめんねー」
「いや、大した事じゃないんで……」
俺には、この人のことを責められそうにはない。とばり姉の言うことに逆らったらどうなるか、火を見るよりも明らかだからだ。
「うん、そっかー……もしこれから辛くなっても、頑張るんだよ」
どこか遠い目をして、そんな言葉を漏らすメイドさん。達観したような、諦めの境地に入った玄人の顔つきだった。
やはり、この人もとばり姉の奴隷なんだろう。どんなささいな戯言でも、とばり姉の言葉は彼女にとっては絶対だ。
そして……不本意ながら、俺にとっても。
「前途多難だな……」
「うん? えっと……そうだね! 禅と棚だねー!」
「…………」
また一つ、重いため息が思わずこぼれ出たのだった。
毎日午後十八時更新です。誤字脱字報告、または感想・批評等あればぜひお願いします。




