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番外編 西なんとか監督代行、間違いだらけのセイバーメトリクス

 快晴の空から照りつける陽射しは強く、蜃気楼でグラウンドが歪んで見えた。ベンチは蒸し風呂のようにゆだっていて、日陰で直射日光を避けていても滝のように汗が流れる。今日は風が弱いため、全く空気が入れ替わってくれないのだ。


 ベンチ内でさえこれなのだから、グラウンド上の選手たちにはさらに過酷である。試合は最終回である七回まで進んでいたが、ここでいよいよ体力が尽きた。エラーと四球が続き、一死満塁だ。スコアは2─3で勝っているが、ヒットでも打たれてランナーが二人帰れば逆転である。


 監督の智之はベンチ内で腕組みして立ち、守備シフトを指示する。ここまで来たら選手を信じて任せるしかない。智之は固唾を飲んで戦況を見守る。


 投手の七菜は暑さで顔を真っ赤にしながらも、投球動作に入る。七菜の細長い体躯が躍動し、招き猫のような球の出所が見辛いフォームから綺麗なバックスピンの直球が放たれた。かなり球威が衰えているが、それでも女子基準ならかなりの速球だ。


 七菜のストレートは外角低めの際どいコースに決まり、打者は見送る。さて、これはストライクをとるだろうか。智之が、七菜が、相手の打者が、審判を注視する。


「……」

「……」

「……」


 審判はなかなか判定を出さない。腕組みしたまま固まること数秒。一瞬が数分にも感じられる緊張で、智之は生唾を飲み込む。


「ストライク! バッターアウト!」


 コールとともに審判は腰を捻りながら勢いよく右手を突き上げ、打者にアウトを宣告する。正面から見れば見事な卍になっているだろう。


 七菜はホッと息を吐き出し、バッターはベンチに帰る。智之も安心すると同時に、首を傾げる。


(どうしたんだ、哲平……?)


 この試合の主審を務めているのはコーチで来てもらっている哲平だ。女子野球の場合、公式戦でも専任の審判がおらず選手が審判を務めることが多い。選手向けの審判講習会もやるくらいだ。しかし十人しかいないうちの選手から審判を出すと、試合に差し支える。


 そこで練習試合では、哲平に主審を頼むことが多かった。塁審は相手から出してもらったり、男子野球部に助っ人を頼んだりで揃える。たまに智之と七菜が男子相手に打撃投手をしているお礼として、男子の監督である苫小牧は気前よく人を貸してくれていた。


 彼らのおかげで智之たちは試合ができる。主審は大変なポジションだが、今まで哲平は無難にこなしてきた。相手から不満が出たこともない。


 ところが、今日は哲平の様子が変である。試合の進行に支障をきたすほどではないが、ところどころで長考したり、突然オーバーアクションを見せたりと心臓に悪い。グラウンドの灼熱地獄に参っているのだろうか。


「七菜さん、あと一人ですわ! がんばって!」


 暑さに負けずベンチから夏帆が声を上げた。今日は夏帆が控えでショートに美冬、セカンドに千景が入っている。


 七菜は汗でボールが滑るのか、ロージンバックを入念に握った。それからつぐみのサインにうなずき、スライダーを投げる。


 相手の左打者はスライダーを引っかけてボテボテのサードゴロになった。サードを守るカオルが前に出て捕球し、持ち前の強肩でファーストに送球。相手も暑さでばてていたのか、走塁に勢いがない。あっさりとアウトになり、試合終了だ。苦しいゲームだったが、なんとか勝てた。




 男子との練習試合から一ヶ月以上が経ち、すでに七月に入っていた。智之たちは月末に開催される全国大会に向けてチーム作りを進めている最中である。


 智之たちが参加していない関東の女子チームによるリーグ戦も、六月でほぼ日程を消化し終わった。智之はようやくスケジュールが空いた近隣のチームに片っ端から練習試合を申し込み、土日を使って精力的に試合をこなしている。


 洞峰高校女子硬式野球部は結成してまだ三ヶ月ちょっとのチームなのだ。レギュラーもまだ未決定である。練習試合を繰り返し、問題点を洗い出すと同時に経験を積ませたい。


 今のところ勝率は芳しくないが、試合を重ねていけば改善の見込みはある。まずは七月中に大会のレギュラーを確定するのが智之の予定だった。




 試合後、クールダウンとミーティングをして一旦ベンチで休憩に入る。今日は洞峰高校第二グラウンドで、相手チームにご足労頂いての練習試合だった。相手チームは練習試合が終わって早々に帰っている。智之の率いる洞峰高校女子硬式野球部は三十分ほど休憩して、そのまま練習に戻る予定だ。


 智之は職員室の冷蔵庫を借りて冷やしておいたアイスをクーラーボックスに入れてグラウンドまで輸送し、皆に配る。いつもは元気いっぱいの部員たちも炎天下の試合で参っているようで、おしゃべりすることも忘れてアイスをむさぼっている。


 今日の試合を完投した七菜は完全にグロッキー状態で、左肩にサポーターをつけてアイシングをしながら、右手でぺろぺろとアイスバーを舐めている。体力では七菜に次ぐカオルもかなり疲れたらしく、背中を壁に預けて身じろぎもしない。


 芽衣子はあぐらを掻いてだらしなく地べたに座り込み、スコアブックで扇いで胸元から服の中に風を送り込んでいた。つぐみに至っては背中をはだけて地肌を冷たい壁に密着させ、「あ~、気持ちいい~!」などと涼んでいる。はしたないことこの上ない。


「もう少しシャキッとしろよ……」


 智之は苦言を呈するが、芽衣子もつぐみも全く意に介そうとしない。


「無理無理、絶対無理だね。この後の練習も中止にしないかい? こんな暑いんじゃ、練習になんないよ」


「私も芽衣子さんに賛成~! いくら何でも、この後練習っていうのは無茶でしょ」


 芽衣子は練習の中止を提案し、つぐみも乗る。確かにこの気温でまた練習というのは少し酷だろう。今日は土曜日で、明日も練習試合を組んでいる。へろへろの状態で明日の試合に臨むのも相手に失礼だし、大会を前に怪我人が出てもまずい。


 なので智之は言った。


「よし、他のみんなは上がっていいぞ。つぐみと芽衣子はグラウンド十周な」


 休憩していたみんなは喜び、つぐみと芽衣子は顔をしかめる。


「兄さん酷いよ! なんで私たちだけ!」

「そうだよ智之、PTAに訴えたら勝つのは私らだよ? 智之には勝てる要素ないもん」


 つぐみと芽衣子は文句を言うが、智之は相手にしない。妹と幼馴染みだからといってあまり甘やかすと、他の部員に示しがつかない。むしろ厳しく接するくらいでないと問題だろう。


「黙れ。おまえらの根性を叩き直すためだ」


 「え~っ!」と二人はブーたれるが、夏帆が苦笑いでうながす。


「まあまあ。わたくしもおつきあいしますから。行きましょう」


 本日ベンチだった夏帆は動き足りないのだろう。夏帆はつぐみと芽衣子の背中を押して、グラウンドに出す。


 智之はグラウンドに出た三人に言う。


「夏帆に免じて、五周で許してやる」


 五周くらいなら明日の試合への影響もないだろう。


「本当に兄さんって、Sなんだから」


 文句を言いながらも三人はグラウンドを走り始めた。そこに七菜も出てくる。


「監督、私は予定通り練習したいです!」


 七菜はアイシングを終えてサポーターをはずしており、グラブを右手にはめて投げたそうにしていた。さすがに七回を完投した後で投球練習はさせたくない。今からであれば体をいじめるというよりは楽しんでやれるメニューがいいだろう。


 智之は少し考えてから、七菜に提案した。


「じゃあまたテニスでもするか。この暑さなら、コートも空いてるとこあるだろ」


 息抜きはテニスかプールが常だ。気温が上がってきたことで基礎練習にひたすら打ち込むことが難しくなり、半分遊びで出掛ける回数も増えていた。


 市内にはいくつかテニスコートを備え付けている公園がある。予約が必要であるが、これだけ暑いならキャンセルが出ているかもしれない。空いているコートがなければ智之の家でもスペースは確保できる。遊び程度でプレーするなら問題ないだろう。


「わかりました! 準備します!」


 七菜はベンチに戻り、荷物を片付け始める。智之も急いだ方がよさそうだ。


 自分も帰る準備を始めようとしたところで、智之はクーラーボックスの中にアイスが余っていることに気付く。ぴったり人数分持ってきたはずだが、誰かに配り忘れたのだろうか。帰り支度をしている部員たちを見回して、智之は誰にアイスを渡していないか理解した。哲平だ。哲平がいない。


 智之はグラウンドの方に出て、哲平の姿を捜す。すぐに哲平は見つかった。ベンチ脇で素振りしていたのだ。


 思わず智之は声を掛けるのをためらう。哲平の顔が真剣だったからだ。哲平は黙々とバットを振っていて、ときどき自分のフォームを確かめるためかゆっくりスイングしてみたりする。このクソ暑い中で一試合主審を務めて疲れているだろうに、見上げた根性だ。練習を中止して帰ろうとしている自分たちが恥ずかしくなる。


 哲平の姿を見て、智之は思った。もしかして哲平は、自分でプレーしたくなっているのではないだろうか。ここまで哲平はコーチとしてみんなの練習に付き合い、男子との練習試合では選手として出場もした。やる気を触発されていても不思議ではない。


 今日審判をやっているときに挙動不審だったのも、これが原因ではないか。きっと哲平は、自分も選手としてグラウンドに立ちたくてうずうずしていたのだ。


 だとしたら智之は、快く哲平を送り出すべきである。哲平は智之のように怪我で選手生命が終わっているわけではない。対男子の練習試合ではノーヒットだったもののなかなかの打球を放っていたし、外野の守りも無難だった。今から男子の野球部に入っても、充分ついていけると思う。


 それに、哲平は智之が任せているコーチ業にも不満があるのかもしれない。あくまで監督は智之なので仕方ないが、哲平には未経験者組と雑用全般を押し付ける形になっている。なかなか結果が出ない上に目立たないという辛い仕事のはずだ。どうせコーチをするなら才能溢れる選手を指導したいのではないか。


 哲平は十数回素振りしてから智之の存在に気がつき、バットを降ろす。


「お疲れ。もう練習は終わり?」

「ああ……。今日は暑かったから、もうあがらせることにした」

「そっかー。そりゃ残念だな。瑞季ちゃんのバッティングを修正しようと思ったんだけど……。彼女、焦ってるのか始動が早すぎると思うんだよね。もっとこう一旦足を上げるとか、タメを作って……。いや、でも今から型にはめるのもよくないかな。だったら体重移動でこうやってかっとばす感じで……」


 哲平は笑顔を見せつつバットを構え、実演する。哲平がそこまでやる気になっているなら、練習を続けてくれても構わない。智之は尋ねた。


「今日中がいいなら残らせるが、どうする?」

「もうちょっと煮詰めたいから、明日でいいよ。疲れてちゃ効率も悪いだろうし。俺はもうちょっと体動かしてから帰ろうかな」


 そう言って哲平は屈伸運動をする。ここは哲平の意思を確かめなければならないだろう。智之は若干緊張しつつも訊いた。


「選手に戻りたいのか?」

「え? なんで?」


 哲平は心底不思議そうに訊き返す。隠し事をしている感じでもなく、哲平はいつものように何も考えてなさそうな顔である。智之は自分が盛大に勘違いしていたことを悟り、ため息をついた。


「試合中からおまえの様子が変だったからな……。現役に未練があるのかと思ったんだ」

「いやいや。もっかい現役に戻ってきつい練習するなんて、俺には無理だよ」

「じゃあどうして今、自分の練習やってたんだ?」

「コーチが下手だと説得力がないじゃん。一刻も早くバッティングの極意をみんなに授けたくてさぁ~!」


 哲平は嬉しそうにバットを振って見せる。どうやら取り越し苦労だったようだ。智之はもう一つ、心配していたことについて慎重に切り出す。


「今の仕事はどうだ? 辛い仕事ばかり任せて悪いと思ってるんだが……」

「辛い仕事? いやいや、こんなやりがいのある仕事はなかなかないぜ。皆どんどん上手になるから、教えてるこっちも嬉しいよ。やっぱ帰宅部だともの足りないしなぁ。自分は汗を流さず部活的青春に相乗りできるんだから、最高だな!」


 哲平はあっけらかんとしたものだ。こちらも智之の杞憂だったらしい。


「じゃあ特に現状への不満はないんだな?」


 智之が確認をとると、哲平は考え込む仕草を見せ、少しためらう。


「う~ん、不満っていうのじゃないけどさ」

「何でもいい、言ってくれ」


 智之は続きを促し、哲平は応えた。


「ず~っと審判で試合見てるとさ、この場面はもっとこうすればとか、この場面にこれはないだろとか思うことがあるんだよね」


「なるほどな。ミーティングで言ってくれてるのには助かってるぜ」


 智之もまだまだ新米監督である。判断に迷うこともあれば采配を間違えることもある。選手は智之の采配に思うところがあっても言いにくいが、哲平は別だ。最近は哲平がミーティングで積極的に発言し、采配についても議論できるのでありがたいと思っていた。王様のようなポジションだからこそ、智之は他人の意見をきちんと聞かなければならない。哲平が智之にダメ出ししてくれれば、他の皆も意見を言いやすくなる。


「智之はだいたいの場合、基本に忠実な采配をするだろ? もっと冒険してみてもいいんじゃないかな、ってたまに感じるんだよね。みんなが作ってくれてるデータもあんまり使ってないみたいだしさ……。いや、別に智之の感覚を疑ってるわけじゃないけど……」


 ひとしきり喋ってから、哲平はようやく本題に入る。


「でも、外からなら何でも好きなこと言えるじゃん。だから一回やってみたいっていうか……。うん、やっぱり実戦をしらないといけないと思うんだよな。俺に足りないのはそこだ! 俺は実戦経験が足りない!」


 哲平はやたらと遠回りしてから提案した。


「だから、その……。一回、俺に監督やらせてみてくれないか?」





「それで監督はオッケーしたんですか?」


 七菜に訊かれ、智之は首を振った。


「いや、『考えておく』って答えて保留にした」


 テニスコート近くの木陰で、智之と七菜は休憩していた。目の前のコートでは、テニスをやると聞いてついてきたカオルと美冬、つぐみと夏帆がプレー中である。借りることができたコートは二面だったので、交代でプレーしているのだ。ダブルスという手もあるが、今日の気温だと適度に休憩をとって熱中症を防止した方がよさそうである。


 右のコートでは美冬がすばしっこさを活かして、意外にもカオルを圧倒していた。


「フハハハ! 受けてみるがよい! 弐拾壱式波動球!」


 美冬はラケットが風を切る音が聞こえるほどに大振りするが、ボールはきっちりネット際に狙って落とす。バットでもラケットでも、美冬のボールを捉える能力は一級品のようだった。


「……調子が狂うなぁ」


 コートを走り回りながら、カオルはぼやく。野球とテニスでは打ち方は全然違うが、体全体を使って打たなければならないという点は同じだ。気分転換程度のつもりでテニスに連れてきたが、いつもと違う動きの中で何か掴んでほしいところである。


 左のコートでは試合をせず、つぐみがサーブの打ち方について夏帆に講釈していた。


「……こんな感じですの?」


 夏帆はラケットを振って見せ、つぐみがフォームを直していく。

 夏帆と美冬は双子であるが、同じ事をやらせてもアプローチの仕方が全く違う。美冬はとにかく試合をこなして上達していくが、夏帆はまず基礎を固めることから入るのだ。そうして反復練習をこなし、いつの間にか夏帆は美冬を越えてしまう。


「そうそう、肘から入って手首を使うの。最後は手首を外側に向けて振り抜いて」


 つぐみの指導の通り夏帆はボールを打ってみて納得したようで、夏帆は次々と強い球を打っていく。


「夏帆ちゃん、いい感じだよ! 今みたいにあまり力みすぎずに打つと、ちゃんとコート内に決まるから!」


 野球をやっているとテニスでもついつい強く打ってしまいがちだが、テニスでは闇雲に振り回すとアウトになるだけである。つぐみのコーチングで夏帆はどんどん上達していた。


 七菜は哲平が監督をやってみたいと言ったことに対して、おずおずと自分の意見を述べる。


「私は監督が監督するのが一番だと思います……。みんな、監督の采配に慣れてきてますし……」


「慣れてきている、か……」


 ここまで延べ十数試合をこなしてきて、智之の好みが部員に伝わってきているような感触はある。皆、智之のサインに戸惑わなくなってきたのだ。おかげで智之は思い通りにタクトを振れている。


 しかし一方で、智之の采配が今のメンバーにとってベストなのかと問われれば、微妙なところだ。采配に正解はないが、結果は数字に表れる。未熟なチームとはいえ、好素材が揃っているのだ。勝率四割程度では智之も胸を張れないだろう。


 一度、哲平に采配を任せてみるという案は悪くない気がする。野手出身の哲平は投手出身の智之とは違う視点を持っているはずだ。案外智之よりうまく今のメンバーを使いこなすかもしれない。


 月末には大会が控えている。実験のようなことができるのも明日が最後だ。夏休みに入れば練習試合も本番を想定した布陣で臨むことになる。智之の中では、レギュラー構想もほぼ固まっていた。


 だからこそ、先入観を持っていない哲平に一試合監督代行を任せるのは価値があるのではないか。これはチャンスだ。哲平の采配から、本番の起用を見直せるかもしれない。


 智之は帰宅後、哲平に連絡して明日の試合を任せる旨を伝えた。





「よ~し、じゃあ、スタメンを発表するぜ! 俺はガチメンバーしか選ばない! 俺が最強だと思うメンバーを選ばせてもらった! スタメンから漏れた人はごめんな!」


 試合前のミーティングで、やたらとハイテンションに哲平がまくしたてる。学校行事で無駄にはりきる普段は根暗な教師のような舞い上がりぶりだ。


 あきれ顔でつぐみが小声で言う。


「……兄さん、どうしてこの人を監督代行にしたの?」

「……俺もわからなくなってきた」


 智之は頭を抱える。智之としては哲平が破天荒な采配をしてくれた方がありがたいはずだが、だんだん不安になってきた。


 ガチメンバーなどとほざいていたが、まさか昨日完投した七菜を連投させる気だろうか。いや、事前に今日は芽衣子と夏帆が投手だと智之は伝えたはずだ。いくら哲平がノリノリでも智之の言いつけを破ることはない……と思う。もし哲平が七菜を使う気なら智之が止めなければ。昨日七菜は百球以上投げているのだ。


 哲平は智之が気をもんでいることも目に入っていない様子で、おかしなテンションのまま今日のスタメンを発表する。


「一回しか言わないから、よ~く聞いとけよ!」


 1(捕)城和田つぐみ

 2(中)武星七菜

 3(一)貴良芽衣子

 4(投)洗居場夏帆

 5(三)村中カオル

 6(遊)洗居場美冬

 7(二)香取千景

 8(左)呂瑞季(ルーレイジー)

 9(右)森谷百合

(控え)牧原京香


「以上! 斬新なオーダーだろ!」


 哲平はドヤ顔を決めるが、部員からは非難囂々だ。


「哲平さん、滅茶苦茶じゃない! 兄さんならもっとまともなオーダーを組むよ!」


 つぐみが声を上げ、他の部員たちも概ね同意する。部員たちの反応に満足しているのか、ニヤニヤしながら哲平は言った。


「わかってないな~。セイバーメトリクスによると、この打順が最適なんだよ! 昨日、『マネーボール』を読み直したから間違いない! 今日は攻撃的な野球で行くぜ!」


 哲平は一夜漬けの成果を発表したかったらしい。面白い試みではあるが、あんまり笑いをとろうとすると選手に不信感を持たれるぞ。


「セイバーメトリクスって、二番がバントしないとかっていうやつですか?」


 七菜は戸惑っている様子で首を傾げる。七菜も今まで三番固定だったところを、いきなり二番だ。どうすればいいのかわからないのだろう。


「統計的に野球を分析する手法さ! メジャーリーグなんかでバリバリ使われてる! 曖昧なイメージじゃなくて、きちんとした根拠に基づいてるんだぜ!」


 哲平の言う通り、セイバーメトリクスとは野球を統計学的に客観的なデータから分析する試みだ。この手法によりバントや盗塁の効果が否定されるなど、従来の常識を覆す結果も出ている。


 『マネーボール』で有名なメジャーリーグのオークランド・アスレチックスは、2000年代にこのセイバーメトリクスを活用して低年俸なチームで二年連続勝率一位を記録している。日本でもセイバーメトリクスで選手を評価して分別するベースボール・オペレーション・システム(通称BOS)をいち早く導入した日本ハムが、2000年代後半に万年Bクラスから常勝軍団へと躍進した。


「じゃあなんで私が一番なの!?」


 つぐみが頬を膨らませて抗議する。つぐみはここまで全試合四番で、チームトップの打点を稼いでいる。得点圏打率もチーム一という勝負強さだ。いきなり一番打者に「降格」されては腹を立てるのも当然だろう。


「そりゃあつぐみちゃんがチームで三番目の打者だからさ! 今回は二番最強説で打順を組んでるんだ。チーム最強の七菜ちゃんを二番にして、次点の芽衣子は三番、三位のつぐみちゃんが一番打者ってわけ。打って打って点を入れる野球だ! ちゃんと四番以降も打力順にしてあるよ!」


 二番打者最強説というのも、よく聞く話ではある。二番には小技がうまくて足が速い打者を入れるのが日本では一般的だが、実はこれが大間違いだというのだ。統計的には、二番に最強の打者を座らせると最も効率がいいらしい。


 つぐみは納得がいかないらしく、哲平に食って掛かる。


「私が三番目ってどういう基準なの!? 二番最強説なら私を二番にしてよ!」


 哲平の答えはそっけないものだ。


「だってつぐみちゃん、OPSで三番目だし」


 OPSとはセイバーで重視される出塁率と長打率を足した指標である。計算が容易であるわりには得点への相関が高いとされ、最近では常識ともいえるほど重宝されている。


 部員の打撃成績は智之も把握しているが、確かにOPSでいえばつぐみは七菜、芽衣子に次いで三位だ。つぐみは自分で勝負を決めようと積極的に振っていく傾向が強いため、四球が少なく出塁率が低い。また体格的な限界もあって長打の数では七菜、芽衣子に及ばない。


 つぐみも自分の成績くらいは知っている。つぐみは反論した。


「でも私、チーム打点王だし得点圏打率も一位だよ!」


 哲平はばっさりと切る。


「セイバー的に、そこらへんはどうでもいいんだよ」


 いくら打点が多くても、得点圏打率が高くても、「ただの偶然」と捉えるのがセイバーだ。ある打者がヒットを打ったとき、塁上に走者がいれば打点をあげられるし得点圏打率も上がる。しかし走者がいるかどうかは、その打者の能力に関係ない。セイバーでは打点も得点圏打率も評価対象外なのである。


 つぐみはまだ不満げだったが、哲平は「夏帆ちゃん、何かある?」と次の質問を受け付ける。夏帆は尋ねた。


「わたくしが先発なのは何故ですか?」


 緊張しているのか、夏帆の声は若干震えていた。無理もない。今日は夏帆が投手で四番というオーダーなのだ。知らない人が打順と守備位置だけを見れば夏帆がチームNo.1の選手だと勘違いするだろう。


 今まで、智之は一貫して夏帆をリリーフで起用している。体力があり、打たせてとる投球ができる芽衣子にいけるところまでいってもらい、残りを夏帆の速球で抑えてもらうという役割分担だ。哲平が今回あえて夏帆を先発にした理由は気になるところである。


 哲平は得意げに答えた。


「FIPで夏帆ちゃんの方が芽衣子よりずっと上だったからね。いい投手を先発にするのは普通だろ?」


 打者の評価でそうであったように、セイバーメトリクスでは投手の評価でも運の要素を排除する。真に投手だけに責任がある要素だけで投手を評価するのだ。そうしなければ投手の本当の実力は計れない。


 では投手だけに責任を求められる要素、言い換えれば投手が100%コントロールできる要素とは何だろう。まず勝ち星やセーブは違う。打線の援護や他の投手の出来によって全然変わってしまうからだ。投球テンポが悪いと援護をもらえないなどという与太話もあるが、論ずるに値しないオカルトである。


 防御率はどうだろうか。これも野手陣の守備や運に左右される。どんな好投手でも守備がザルなら失点は免れないし、ヒットとエラーのさじ加減は記録員の主観で決まるのだ。投手自身でコントロールできない要素がどうしても混じってしまう。


 被打率も防御率と同じだ。フィールド内に球が飛べば、味方の守備で変わってしまう。


 そもそもヒットというのがランダムなものなのである。常に投手が打者に全く同じ打球を打たせたとして、守っている野手は常にアウトにできるだろうか。逆に、常にヒットを許すだろうか。ヒットになるかアウトになるかは、常に守備陣のプレー次第であり、ここに運の要素も絡んでくる。


 センター前へのクリーンヒットでも、ボテボテの内野安打でも、ヒットはヒットなのだ。他方、完璧に打ちとった当たりを打たせても、野手のファインプレーに助けられても、アウトはアウトである。フェアゾーンに打たせる限り、ヒットにはどうしても投手の実力以外の要素が関係してくる。


 逆にいえば、フェアゾーン以外では野手が絡むことはないということだ。即ち、投手の実力のみで結果が出る。ここで哲平の言ったFIPが登場する。


 FIPは四球、被本塁打率、奪三振数から投手を評価する指標だ。投手が100%コントロール可能な数字だけを抽出し、フェアゾーンへのヒットは全て運次第と割り切る。どの要素にも野手が介在しないので、純粋に投手の力がわかる。リーグごとの補正値も計算に入っているため、防御率に近い数値を出すことができ、非常に便利な指標だ。


 防御率では夏帆が芽衣子よりやや優秀といった程度だが、FIPを使えば芽衣子より夏帆の方が遙かに優れた投手ということになるだろう。パワーのない女子が相手なので被本塁打は二人ともゼロだ。しかし二人は投球スタイルが180度違う。


 芽衣子は速いストレートも空振りをとれる変化球も投げられないので奪三振は少ない。コントロールもアバウトなので、やたら四球で歩かせる。しかし芽衣子は左腕で高身長という女子ではほとんど見ることのできないタイプだ。相手が独特の球筋に対応できず、勝手に打ち損じてくれるので意外とアウトを稼げる。


 逆に夏帆はオーソドックスな右腕だ。身長が低く角度はないが、女子としては結構な球速を出せる。日常的にショートからファーストへの送球をこなしているので、ストレートなら安定してストライクが入る。おかげで相手は直球と同じに感じるスライダーに幻惑されてどんどん空振ってくれるため、四球は少なく奪三振は多い。


「あまり長い回を投げる自信がないのですが……」


 夏帆が投げるのは終盤の多くて三イニングだ。スタミナの不安から説明を受けても夏帆は及び腰だが、哲平は気楽な調子で言った。


「大丈夫。芽衣子と違って球数が少ないから何とかなるでしょ」


「悪かったね、球数多くて」


 芽衣子がいじけるが、哲平はスルーして手を挙げた瑞季を当てる。


「はい次! 瑞季ちゃん、どうぞ!」


「私より京香の方が守備、うまいネー! 私より京香がスタメンがいいヨ」


 七月に入ってから、瑞季はベンチを温めることが多くなってきた。打撃だけなら京香はもちろん百合より上だが、一向に守備が上手くならないのである。他方京香は守備は上達していても一向に打撃が上向かないが、一試合に外野でエラーを何度もされるより打てない方がマシだ。


 瑞季の主張を聞いて、哲平は「なんだそんなことか」とにやける。


「守備なんか勝敗にあんまり関係ないからいいんだよ。それより打撃の方が大事さ。今日、教えたとおりに打ってみなよ。絶対ヒットを打てるから」


 哲平の言葉を聞いて瑞季は勇気が出たのか「頑張ってみるヨー!」と拳を握りしめた。京香も「応援します! 絶対打てますよ!」と瑞希に声を掛け、「任せてネー!」と瑞希はますますやる気をみなぎらせる。二人とも、弱点の克服にも力を入れてほしいのだが……。


「よし、もう時間だな! 出陣だ!」


 哲平は叫び、部員たちはぞろぞろとグラウンドを目指す。さぁ、果たしてこの前例のないオーダーで結果を出せるだろうか。


 七菜は哲平の目を気にしつつ、こっそり智之の所にやってくる。七菜は思い詰めた様子で智之に尋ねた。


「監督、二番ってどうやって打てばいいんですか」


 智之は一瞬言葉に詰まるが、答えた。


「……いや、普通に打てばいいだろ」


 哲平は四番のつもりで二番を打てと言っているのだが、七菜にはあまり伝わっていないようだ。哲平は一人で盛り上がっていて説明不足が多すぎる。


 これはもうだめかもわからんね。





 相手は埼玉の指扇佐藤高校だった。これまで何度もリーグ戦や全国大会で優勝している名門高校であり、今年三月に行われた女子の選抜大会でも優勝している。今日は午前中に市内の社会人チームと練習試合をこなしており、うちとの試合がダブルヘッダーの二戦目ということだ。


 主審の智之の智之の号令で試合は始まる。厳正なるじゃんけんの結果、洞峰高校女子野球部が先攻と決まっていた。今日は一番打者のつぐみが打席に入る。


「私が一番なんてほんとにムカムカするなぁ。打ちまくって走りまくって、大暴れしてやるんだから!」


 エースは前の試合で投げたらしく、相手の投手は背番号10だった。資料がないのでどんな投手かはわからない。


 相手投手はストレートから入る。つぐみは四番からはずされた鬱憤をはらすかのように初球からフルスイングして、レフト前にボールを運んだ。浅いところに落ちたので二塁は狙えず、つぐみは一塁で止まる。


 いきなりノーアウト一塁で二番の七菜を迎える。ここで七菜が打って得点するというのが哲平の構想のはずだ。七菜はベンチのサインを確認し、困惑した表情を見せる。


 相手の投手は初球と同じように、ストライクゾーンにストレートを投げ込んできた。特別速い球ではないが、七菜は見逃す。二球目は大きく曲がるスローカーブで、これも見送ってストライク。いきなり追い込まれてしまった。


 明らかに七菜の様子がおかしい。ベンチと塁上のつぐみを気にしすぎるあまり、全く打席に集中できていないのだ。甘い球を狙ってバットを振るという当たり前のことを忘れてしまったかのようである。


(打順を意識しすぎだな……)


 智之は審判用マスクの下で小さくため息をついた。哲平はただ「打て」とサインを送っているはずだ。一方で一塁走者のつぐみは走りたがっている。


 セイバーメトリクスの観点からいえば、盗塁はハイリスクローリターンの意味がない行為だ。盗塁は成功しても一つ先の塁に進めるというだけで、得点できるわけではない。しかし失敗すればアウトを一つ相手に献上してしまう。


 野球は二十七個のアウトをとられれば終わってしまう競技だ。ましてや女子は七回制なのでアウトは二十一個しか許されないのである。貴重なアウト一個を危険にさらして一つ進塁では、全く釣り合っていない。状況を見ても二番、三番と長打力のある打者が続くので、打者の長打を待つのが賢い選択だ。


 なので哲平はつぐみに「走るな」とサインを出しているだろう。ところが哲平は「基本的に盗塁はしない」という戦略について、つぐみに全く説明していない。


 つぐみは出塁したら盗塁するという従来の一番打者をイメージしているので、走る気満々でリードをとる。ここまで四番に固定されていたつぐみだが、決して足は遅くない。この投手なら変化球を投げたときに走れば盗塁成功を見込めるだろう。盗塁数は美冬に次いでチーム二位だ。つぐみは足も評価されて一番に置かれたと思い込んでいるに違いない。


 ところがサインは「走るな」である。リードをとりつつ、ベンチをチラ見するがサインは変わらない。つぐみのイライラは募るばかりだ。


 打順の固定観念から抜けきれていないのは七菜も同じである。いつもの三番を打っている七菜なら、走者など気にせず打っているはずなのだ。しかしこの打席では二番なので走者を進めなければならない、と余計なことを考えている。


 今の七菜はつぐみが盗塁したがっているので、ベンチから盗塁のサインが出るのを今か今かと待っている。ひょっとしたらベンチからバントや右打ちのサインが出る可能性も考えているのかもしれない。これでは打撃に影響が出て当然だ。




 二番最強説は広く知られているにもかかわらず、採用されることが少ない。現実的には二番に入ると大抵の選手は成績を落としてしまうからだ。


 二番は制約が多い打順である。バントや右打ちで確実に走者を進めることが求められる。併殺打も避けなければならない。盗塁を待ちカウントが悪くなってから打つということもしばしばだ。


 仮に監督がつなぎのバッティングを求めなくても、選手の意識は簡単には変わらない。2006年から四年間広島カープの指揮をとったマーティー・ブラウンは、当初出塁率を重視して前年には五番を打っていた強打者・前田智徳に二番を任せた。普通なら二番に入る小兵たちは六番以降に回し、一~五番に長打力のある打者をずらりと並べるというセイバー的には最も効率のいい打順だ。


 ところがこのオーダーは全く機能しなかった。二番の前田が二番の役割にこだわり、調子を崩してしまったのである。


 ブラウンとしては前田にクリーンナップのつもりで二番を打ってもらえば、それでよかったはずだ。しかし職人気質の前田は当時中日の井端に「二番の打ち方」を訊きに行くなど悩みに悩み、打率一割台に沈んでしまう。


 チームは日本記録の九試合連続二得点以下という惨状で、結局ブラウンは打順を元に戻した。結果前田もチームも復活し、メジャー流の打順構想は流れてしまった。打者はゲームの駒などではなく、つまらない思い込みに左右されてしまう人間なのだ。


 そもそも、統計的に見ても打順による得点への影響など大したことがない。強打者を極端に下位に置いたりしなければ得点効率はいうほど変わらないのである。ならばチーム最強打者には下手に二番を任せて不調に入られるより三、四番で気持ちよく打ってもらう方がいいに決まっている。どんなチーム打順をいじっているうちに日本流のベーシックな打順に落ち着いてしまうのが実情だった。




 結局七菜は迷いに迷った挙げ句、三球目のボールになるスライダーに手を出し、ファーストゴロに倒れる。痺れを切らしたつぐみが単独スチールを試みていたためランナーは二塁へと進んだが、七菜はアウトである。七菜は一仕事終えたような顔をしてベンチへと帰っていったが、哲平の意図とは違う結果になった。


 こうなると、一~三番に打力のあるバッターを固めたのが裏目に出る。芽衣子は敬遠され、一死一、二塁となった。


 チャンスに弱い(セイバー的には偶然なのだろうが)とはいえ、長打力のある芽衣子が敬遠されたのは痛い。四番の夏帆は長打がほとんどないため、芽衣子に比べると一段落ちる打者だ。二塁ランナーは俊足のつぐみであるが、果たして得点できるだろうか。


 夏帆は顔を真っ青にしながらバッターボックスに向かう。哲平は四番目の打者を四番に置いただけだ。しかし初回から先制のチャンスが回ってきたとなれば、夏帆はどうしても四番の重みを感じてしまう。日頃智之が「四番として打っても打たなくてもチームを引っ張れ」とつぐみにプレッシャーを掛けていたことも、夏帆の緊張に拍車を掛ける。


 また、五番のカオルにあまり期待できないという事情もあった。OPSではチーム五位となっているが、これはカオルの長打率が高いからだ。カオルは七菜に次いで体格がよく、しっかりと筋肉もついている。そのため長打が皆無の美冬、千景を打率の低いカオルがOPSではわずかに上回ってしまったのだ。


 夏帆は変化球にファールを繰り返した挙げ句、何でもないストレートをショート正面に打ってダブルプレーを喰らった。一瞬にしてチャンスは終了である。一回表の攻撃では全く打線が機能しなかった。


 夏帆は意気消沈してベンチに戻るが、先発なのでこの後投げなければならない。夏帆はマウンドに上がり、前の打席を振り払うかのように速い球を投げ込んで打者を圧倒する。夏帆は肩ができるのが早いのか、登板してすぐにMAX近い球速を出せる。相手打者は手も足も出ず次々と凡退していった。


(やるな。今日のピッチングなら文句なしだ)


 智之は夏帆のピッチングに感心する。投手を始めて間もない夏帆は一球投げるごとにフォームが変わるのが平常運行なのだが、今日はいい感じにフォームが固まっている。


 きっと、ここのところ続けているテニスの成果だ。テニスのサーブは野球の投球に通じるところがある。夏帆はピッチングで今一つ力のさじ加減がわからず、ピッチングで力みがとれなかった。当然投球モーションも力を入れるところ、抜くところがでたらめで一定しない。直球と変化球でも腕の振りが変わってしまう。


 しかしテニスのサーブでは力まなくても強い球を打てると夏帆は学習した。同じ感覚で投球をすることで、投手夏帆は一皮剥けたようである。フォームから危うさが消えたおかげで怪我のリスクが減り、捕手のつぐみは「全力でストレート」のサインを出しやすくなった。ここぞの場面で決まる速球に相手は対応できず、ストライクを奪われていく。


 ツーアウトからスライダーで三番打者を三振に打ちとり、意気揚々と夏帆はマウンドから引き上げた。これなら打撃にもいい影響が出そうだ。先程の打席では打てなかったし、チームを引っ張ってもらう期待を背負わせた四番ではないが、夏帆の四番は当たるかもしれない。


 二回表は五番カオルからの攻撃だ。カオルはストレート待ちで振り回すが、相手も狙いを読んで対応してくる。カオルはスローカーブに全くタイミングが合わず、空振り三振を喫した。


 今日の相手は、複数の変化球を使いこなして的を絞らせない、技巧派投手のようだ。特にストレートとの球速差があるスローカーブが厄介で、遅すぎる上に大きく曲がるため打者のバッティングが崩れてしまう。


(カオルには荷が重い相手だな……)


 カオルは智之によるフォーム改造でストレートこそ打ち返せるようになっていたが、変化球への対応はまだまだだった。変化球を打ち返せるタイミングを覚えるには、もう少し経験が必要だろう。今日の相手には相性が悪い。

 次打者の美冬はブツブツと文句を言いながら打席に入った。


「……解せぬ。なぜ私が小娘より下なのだ。解せぬ」


 普通なら多少飛ばせてもストレートしか打てないカオルより、打率の高い美冬を上に置くだろう。ところが今回、哲平は数字にこだわった結果あえてカオルを上にした。


 美冬を差し置いてカオルが五番を勝ち取ったのは、カオルが複数本二塁打や三塁打を打っていたからだ。加えて全く四球を選ばない美冬と違い、カオルは四球もいくつかあった。打率は美冬の方がカオルよりずっと高い。しかし長打率と出塁率を足した指標であるOPSでは、カオルが美冬を上回ったのである。


 理屈はわかっても納得できるかは別問題だ。美冬は首をひねりながらデタラメなスイングを繰り返し、あっという間に三振した。


 続く千景もセカンドゴロに倒れ、三者凡退。二回表は全くいいところなく終わってしまった。


 二回裏も投手夏帆の好調は続く。美冬のエラーでランナーを出しながらも、夏帆が速球とスライダーで相手打線をピシャリと抑えた。三回表は瑞季、百合、つぐみと続く攻撃だったが、全員初球から振り回してテンポよく凡退してゆく。


 哲平の指示は「打て」のみだ。選手たちは素直に哲平の指示通り積極打法に徹しているが、哲平の作戦とズレが生じている。


 哲平のいう「打て」は、一個進塁とワンナウトでは釣り合わないので、バントや進塁打狙いの右打ちをするなという意味だ。セイバーメトリクスではヒットだろうが四球だろうが出塁すれば同じと考える。決してアウトになってもいいのでとにかく振れという意味ではない。簡単にアウトを進呈していてはむしろセイバーの主旨に反する。


 ここら辺もセイバーの難しいところだ。日本の打者は「日本流の緻密な野球」と言われればしぶといつなぎの打撃を見せるが、「メジャー流の攻撃的な野球」と言われると途端に打撃が荒っぽくなり、何もかもがうまくいかなくなる。意識の隅々にまで「日本流」が浸透しているのだ。


 日本に来た外国人監督は大抵選手の日本流にこだわる傾向に苦しめられる。2003~2007年に日本ハムの監督を務めたトレイ・ヒルマンもその一人だ。バントをせずに長打で大量得点を狙う野球をすれば選手は「バントをさせてくれ」と懇願する。メジャー流の練習時間が短いキャンプをやれば、「練習が少なすぎる。もっと守備練習をやらせてくれ」と選手から不満が出る。


 2005年には長打に重きを置く方針が裏目に出てしまう。日本ハムはチームで1151三振というNPBワースト記録を作って五位に終わり、ヒルマンは方針転換を余儀なくされた。


 ヒルマンは最終的にバントや盗塁を多用して確実に一点をとり、投手力と守備力で守りきる日本流の野球を採用する。ヒルマンの日本流野球はチームにはまり、日本ハムは2006、2007年とパリーグ連覇を果たした。


 後年ヒルマンは日本人打者のバントに依存する姿勢を批判しているが、日本流野球が日本ハムを連覇に導いたのは事実である。選手が嫌がるメジャー流を押し付けるより、素直に日本流を実践した方が結果が出るということだ。


 さて、試合は三回裏に動いた。夏帆は相変わらずいいピッチングを続けていたが、守備が乱れる。まず打ちとった当たりをカオルがエラーし、先頭打者に出塁を許した。ノーアウトランナー一塁で九番の打順だ。


 守備陣の動きから洞峰高校側は左方向の守備に不安があると相手は看破したようで、左狙いの打撃を始める。九番打者は左方向へのファールを打たせて凌いだが、次は上位陣に回る。早急に対策が必要だ。


 智之であれば守備位置を指示している場面であるが、哲平の動きは鈍かった。守備シフトを変えずに静観する。


(何やってるんだ哲平……。ここは動くところだろう)


 審判をしながら智之は歯噛みするが口出しはできない。哲平は守備が勝敗に与える影響は少ないと考えて、守備を軽視している。レフトの瑞季はまだ守備に不安があるし、セカンドが本職である美冬のショートも怖い。サードのカオルもしばしば強い打球を弾いてしまう。この布陣でどうやってアウトをとるのか、監督が指示しなければならない。


 一死一塁という局面なので、様々なケースが考えられる。併殺を狙うならゲッツーシフトだが、千景と美冬の二遊間では厳しい。バントをしてくる気配はないのでバントシフトはない。相手は振り回してきているので、ここは長打を警戒して後退守備を敷くべきだ。加えて相手の左方向狙いが明確なので、センターにはレフト寄りの守備位置をとらせたい。


 しかし哲平は動かない。セイバーメトリクスを守備についても適用すればいいのに、そういう考えはないようだ。




 セイバーは守備の分野にも入り込んできている。メジャーでは打者による打球方向を分析し、例えば左方向への打球が多い打者には一、二塁間をガラ空きにして三人で二、三塁間を守るなど、極端な守備シフトを敷くケースが近年多い。カウントが変わるたびに守備シフトを変更するチームもある。実際に守備シフトによりBABIP(インプレー打率)が下がるというデータも出ていた。




 相手のデータなどないため、この試合で極端なシフトを敷くのは難しいが、それでも哲平にシフトを活用するという発想が出てもいいはずだ。それができないのは、多分哲平が外野手出身だからだろう。


 外野手出身の名監督はいないとよくいわれる。それは外野手が内野、ベンチから遠い位置でプレーするからだ。外野では内野で日常風景のように行われるサインの交換はないし、ベンチの動向や相手の空気を感じ取ることもできない。捕手や内野手に比べて戦術への理解や勝負勘が育ちにくい環境に外野手は置かれているのだ。


 投手出身者もお山の大将であるため監督に向かないと言われるので、智之もあまりポジションによる決めつけはしたくないが、哲平の監督としての資質には疑問を抱かざるをえない。これはこの回に一波乱ありそうだ。




 智之の悪い予感は当たってしまう。一番打者の放った打球はレフトまで飛び、瑞季は落下点に入れずバンザイで抜かした。瑞季が慌ててボールを追いかけている間に一塁ランナーはホームに生還し、打者も三塁に到達する。敵に一点を先取されてしまった。


(これは一点二点じゃ済まないな……)


 智之は審判マスクの下でこっそり嘆息する。相変わらず哲平が動く様子はない。夏帆は失点で一気に疲労を感じたのか、表情を強ばらせる。


「ドンマイ! 夏帆ちゃん、球は走ってるから大丈夫だよ! きっちり次を抑えよう!」


「もちろんですわ。まだまだ行けます」


 つぐみが夏帆に声を掛け、夏帆はやる気を見せる。勝負はこれからだという顔だが、夏帆は三イニング目になるといつも球威が鈍ってしまう。これは厳しい。


 二番打者は遊撃手の頭を越すヒットで二点目が入った。打球を処理した瑞季は、よせばいいのに無理してバックホームする。山なりの送球は大きく逸れてしまい、つぐみが慌てて右のファウルグラウンドを転々とするボールを追いかけるが後の祭りだ。打者も二塁まで走ってしまう。


 走者を得点圏に置いてクリーンナップを迎える。哲平はベンチで腕組みして地蔵になっており、グラウンドの選手に任せる構えだ。


 三番打者もレフト狙いの打撃をする。夏帆の直球は気持ちよくレフトの頭上まで飛ばされ、例によって瑞季が捕球できない。


 今回は左打ちを警戒していたセンターの七菜がレフト寄りに守っていた。ベンチの指示はなかったようだが、七菜もまずいと思っていたのだろう。


 七菜は瑞季が抜かした打球を全速力で追いかけて捕球し、持ち前の強肩で内野に返す。二塁ランナーはホームベースを踏んで三点目が入ったが、三塁を狙っていた打者走者は二塁で止まった。


 レフトで瑞季は青い顔をして立ち尽くす。この回、瑞季のミスだけで三点入ったようなものだ。並みのレフトなら処理できている打球を尽く致命傷にしている。RFやUZRなどの守備指標を算出すれば悲惨な数字が出るだろう。


 いくら守備より打撃の方が重要といっても限度がある。失点につながるミスを繰り返せば、打撃の貢献など簡単に相殺されてしまう。この回の三失点を取り返すために、瑞季はどれほど打てばいいのか。単純に考えればソロホームラン三本でようやく帳消しだ。


(瑞季はコンバートするか……)


 智之は密かに心に決める。これでは多少打てたところで使い物にならない。しかし外野より簡単なポジションなどないし、他の誰かも移動させることになるため悩ましいところだ。


 相手打線の勢いは止まらず、洞峰高校はこの回六点を失った。守備も酷いのだが、原因は投手にもある。夏帆は球質が軽いため、簡単に打球を外野まで運ばれてしまうのだ。


 球質が重い、軽いなどというと語弊があるが、要は夏帆の球は飛ばしやすいのである。野手投げ脱却のためにバックスピンを意識してストレートを投げているので当たると飛ぶ。身長が低いので球に角度がなく、芯で捉えやすい。


 短いイニングなら初速の速さでごまかせるが、さすがに打者二巡目は無理だ。夏帆のストレートは終速──打者の手元に来たときの速さは大したことがないのである。ノビがない球だと見破られれば、打者も対応できてしまう。


 夏帆は連続で長打を浴び、長打を警戒して四球を出し、相手のビッグイニングを許していた。こちらがやりたかった野球を相手にやられている。気合いでこの回は投げきったが、さすがに次の回は交代だろう。


 気を取り直して四回表の攻撃だ。現在、0─6で負けている。特にコールドの取り決めはしていないが、これ以上点差が広がるようなら向こうの監督と話し合うべきかもしれない。


 この回の先頭打者である七菜は低めの変化球をうまく拾い、レフト前へのシングルヒットを放つ。ランナーがいない状況なら二番でも余計なことを考えずに済む。本来の七菜なら、このレベルの投手には対応可能だ。


 三番芽衣子は相手のスローカーブを打ち損ねるが、フラフラっと上がった打球はショート、セカンド、センターのちょうど中間に落ち、譲り合いになって誰も捕れない。ラッキーなヒットとなった。


 無死一、二塁で四番の夏帆だ。


「……ここで打てなきゃ、ベンチに帰れませんわ」


 味方のまずい守備があったとはいえ、打ち込まれた悔しさがあるのだろう。四番のプレッシャーなど頭から吹き飛んでいるようで、いつものように鋭いスイングを見せる。夏帆の打球は三塁線を破り、ファウルゾーンを勢いよく転がっていく。


 レフトは追いかけて捕球するが、俊足の七菜は三塁を回っていた。レフトはバックホームし、本塁上でのクロスプレーになる。七菜はスライディングでホームに滑り込む。


 際どいタイミングだったが、智之はきちんと見ている。七菜は上体を反らして捕手のタッチをかいくぐり、左手でホームベースに触れていた。


「セーフ!」


 主審の智之の一声で洞峰高校のベンチは湧き、七菜は小さくガッツポーズをする。まずは一点だ。


 しかし相手も春の優勝チームだけあって隙がない。相手捕手は点を取られても動揺することなく鋭い送球を披露し、どさくさに紛れて三塁を狙った芽衣子を刺した。芽衣子の判断も悪くはなかったが、相手が一枚上手だった。夏帆は芽衣子が刺されている間に二塁まで進む。


 一死二塁で五番のカオルだ。カオルに長打が飛び出し、さらに点を入れるというのが哲平のプランだろうが、果たしてそううまくいくのか。


 哲平の目論見は一球で終わった。ストレート狙いがバレバレのカオルは、初球のストライクからボールになるスライダーに手を出し、ショートライナーに倒れる。ランナーの夏帆も点を取りたいという意識が強すぎたらしく、リードを大きく取りすぎていた。とっさに帰塁できず、セカンドにボールが渡りフォースアウトだ。この回は一点を返すに留まった。


 四回裏、哲平は芽衣子へのピッチャー交代をコールすると同時に守備位置を動かす。夏帆が投手をやった後に運動量の多いショートは厳しい。どうするのかと思っていたら、哲平は他の面子の守備位置を動かさず、そのまま夏帆を芽衣子と交代でファーストに入れた。


 ベンチで夏帆は哲平に言う。


「わたくし、ファーストは練習でもやったことがないのですが……」


「大丈夫、誰でもできるから」


 無茶苦茶である。正一塁手である芽衣子は哲平の一言にイラッときたようで、爪先で小さく地面を蹴る。まあ、夏帆には良い経験にはなる……かな?


 内野陣までザルとなると投手の芽衣子はたまらない。先頭打者の打ちとった当たりをショート美冬が悪送球。本職でない夏帆は前に出て捕球するが、ベースから足が離れてセーフだ。


「──フ、フハハ……! 我が右手がまた暴走してしまったようだな……!」

「……」


 美冬は冷や汗を垂らしながら決まりが悪そうに胸を張って笑う。ミスに責任を感じているのか夏帆は黙ってうつむいた。内野の雰囲気は最悪である。この後カオルまでエラーし、四球も絡んで芽衣子は一失点する。表の攻撃でとった一点を早くも返されてしまった。


 四苦八苦しながらも芽衣子はどうにかアウトを三つとり、五回表の攻撃だ。まずは六番美冬の出番だが、エラーしたばかりなので元気がない。うつむき気味で打席に向かう美冬に、カオルが言った。


「このままじゃ終われない、そうだろう? 君のバッティング次第でこの回の流れは変わるからさ……! ほら、昨日のテニスみたいなバッティングできないの?」


 カオルも前の回にエラーをした上に、打撃でもいいところがなかった。いてもたってもいられず、美冬に声を掛けたのだろう。美冬は顔を上げる。


「──よかろう。本物のバッティングを見せてやる……!」


 カオルの一言で美冬のやる気に火がついた。自信満々に打席に入った美冬は、初球からフルスイングする。


「──……弐拾五式波動球!」


 いつもより台詞が短いからだろうか、珍しく美冬はボールを前で捉えた。結果、美冬の打球は痛烈な引っ張りとなり、三塁手の頭の上を越える。レフトがワンバウンドで捕球し、セカンドに送球するが美冬は強引なスライディングで二塁を陥落させる。


「──フハハ、私の波動球は百八式まであるぞ……!」


 美冬はユニフォームについた土を払いながら立ち上がり、ドヤ顔を決める。言葉の意味はよくわからないが、よくやった。無死二塁で千景だ。


 千景はサインを確認して絶望的な表情を浮かべる。また「打て」のサインが出たのだろう。無駄とも思えるほどに小技を使いたがる、典型的な自己犠牲病の千景にはストレスが大きい。


 智之も千景の姿勢が望ましいとは思わないが、時には選手に気持ちよくプレーさせるのも監督の仕事ではないだろうか。智之ならこの場面、右打ちのサインを出しただろう。相手の投手は変化球の使い過ぎで握力が低下し、変化球が曲がらなくなってきている。千景に右方向に強い打球を打てる力はないが、失投を芯で捉えられればヒットになる可能性は高い。


(……こりゃ、勝手に仕掛けそうだな)


 大人しい選手がサイン無視をしないと思ったら大間違いだ。工夫をしたり、自己犠牲心を見せたりすれば監督も怒りにくいため、打ちたがりの選手とは違う方向で暴走する。


 千景は甘く入った初球をバントし、三塁線に転がす。慌てて三塁手が前に出るが、もう遅い。ここまで強攻策ばかりだったので、相手は不意を突かれた格好だ。美冬は三塁に進み、千景もセーフとなった。


 結果は悪くないが、哲平は不満げだ。セーフティーバントで点を入れるのは無理なので、哲平としては打ってほしかったのだろう。八、九番の瑞季、百合で点をとるしかない。


(俺ならスクイズも考えるんだがな……)


 哲平はここでも自分の作戦にこだわり、瑞季に強振させた。瑞季は今日、哲平から教えられた新フォームでぎこちなくバットを振り回し、初球ど真ん中のストレートを空振る。


 瑞季は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして一度打席をはずした。瑞季は二、三回素振りし、自分のスイングを確認する。


「大丈夫ネー……! コーチの言った通りにすれば、打てるヨー……!」


 瑞季は上半身の力を抜いてバットを緩く構え、大きく足を上げてステップするというフォームでまた空振りする。お世辞にも洗練されているとは言い難いフォームに、智之は顔をしかめた。


(う~ん、こんなフォームでいいのか……?)


 下半身の力を腰の回転で上体に伝えるのでなく、大きなステップによる体重移動で強引にボールにぶつけるという打法だ。お手軽さと引き替えに対応力や確実性を犠牲にしている。相手投手が本調子なら全く通用しないだろう。実際、瑞季は一打席目にいい所がなく凡退している。


 しかしながら、相手は疲労で制球が怪しくなっていた。ど真ん中高めに入ったスライダーを、瑞季は見事に打ち返す。瑞季の打球は意外と伸びて、レフトへの犠牲フライとなった。三塁走者の美冬がホームインし、一点入る。一塁ランナー千景は動けなかったので、一死一塁で百合の打席だ。


 打撃は期待できない百合だが、後ろに控えているのは普段四番を打っているつぐみである。点差が離れているとはいえ、この回を含めてまだ三回攻撃できる。智之ならここは確実にバントを指示するだろう。


 しかしながら哲平のサインは変わらない。あくまで強攻策で挑む。


(哲平、それは違うだろ……)


 バントより普通に打った方が得点できる確率が高いという分析は、調べればいくらでも出てくるだろう。しかしその見解の元となっているデータは何か。大抵の場合それはメジャーだったりセリーグ、パリーグだったりという、あるリーグの一シーズンを対象として計算したものだ。計算には本塁打王、首位打者といったタイトルホルダーから、プロではほとんど打撃を期待されない投手まで、全ての打者が含まれる。


 何が言いたいかというと、バントとヒッティングのどちらが得点の確率が高いかは、打者の実力によって変わるということだ。極端な話、打率10割の打者にバントさせれば得点は遠のくに決まっている。逆に打率0割の打者なら打たせても絶対点は入らない。


 翻って一死一塁のこの場面、百合に打たせるべきなのか。つぐみや七菜にバントを命じれば得点期待値は確実に下がるだろう。しかし打席に立っているのは、今日のスタメンで最も打率が低い百合である。


 智之は百合に打たせるべきとは思わない。瑞季より打撃が粗い上にパワーのない百合では、変化球を多投するこの投手を打つのは厳しい。打ち損ねを内野に転がすのが精一杯というのが智之の読みだ。もちろんバントでも失敗の可能性はあるが、下手に打たせてダブルプレーになるよりはマシである。


 智之の懸念は的中し、百合はセカンドに力のないゴロを打つ。余裕を持ってセカンドが捌き、ダブルプレーが成立。一気にスリーアウトとなり、この回も一点止まりだ。上位陣に回れば大量得点も狙えたのに、完全に打線が分断されていた。


 五回裏も味方はお粗末な守備を連発する。ショートが送球しようとしたらファーストがいない。外野がバンザイで球を抜かす。この回も三点を入れられ、スコアは2─10。ますます点差を突き放されてしまった。


 六回表は一番つぐみからの好打順なのでどうにか得点したいところだが、すかさず相手は投手を交代する。二番手で出てきた左投手を攻めきれず、一点返すのが精一杯だ。


 六回裏も二点とられ、最終七回表は下位打線が沈黙して無得点に終わった。3─12の大敗である。





 試合後、ベンチ横の日陰に集まって反省会をする。


「完敗だったな。原因は何だろうな」


 智之の問い掛けに、まずつぐみが発言する。


「本当は言っちゃいけないんだと思うけど、今日は言わせて! 敗因はズバリ、哲平さんの采配が最悪だったからだよ! もっと小技を使ってれば、打線もつながったかもしれないのに!」


 つぐみの意見に芽衣子も賛同する。


「そうだねぇ。守備もガタガタだったし。やっぱり私が先発で夏帆が抑えの方がいいんじゃないかい?」


「そうですわね……。いきなりファーストと言われても……」


 夏帆もうなだれる。いくらファーストが比較的楽なポジションでも、ぶっつけ本番は無理がある。動き方がさっぱりわからず滅茶苦茶なため、一塁に送球がある度にベンチでお祈りが必要なレベルだった。


 哲平は顔を引きつらせる。


「いや、だからバントや盗塁するより打った方が効率的なんだって……」


 哲平がしどろもどろな答弁を始めたので、智之はダメ出しをすることにした。


「今日に限っては、もっと走らせた方がよかっただろうな。相手が変化球投手だったから」


 哲平は盗塁を自滅行為だと考えて全く指示しなかったが、盗塁から投手を崩すという発想は必要だった。変化球だと盗塁が成功しやすいので、積極的に走れば相手は意識したはずだ。特にスローカーブは投げにくくなっていただろう。そうすれば必然的に増えるストレートを狙い打ちして、先発投手をもっと早く攻略できた。


 バントにしても同じだ。今日の試合でバントが企図されたのは千景のセーフティーバント一回のみである。そのためこの試合、相手はほとんどバントを警戒していなかった。結果、相手は余裕を持って後ろの方で守り、味方は併殺打を量産した。ヒッティングが最も効率のいい攻撃だとしても、それだけしかやらないのなら対応策をとられてしまう。


「打順もなぁ……。二番打者最強説はいいにしても、数字にこだわりすぎなんだよなぁ……」


 例えば高校野球を見てみれば、独自の戦略を持つチームなどいくらでもある。『弱くても勝てます』で有名な開成高校などは二番打者最強説を採用しており、十点とられたら長打を重ねて十五点返すという戦略だ。この戦略で開成高校は、部活に力を入れない進学校の割には健闘している。


 選手が戸惑って力を発揮できなかったのは問題であるが、戦略自体はアリなのだ。ただ、選手の評価基準がおかしい。五番カオルのせいで打線が分断されている。


 どうしてこんな評価になってしまったのか。一番の原因はサンプルが少なかったからだ。十数試合、わずか四十打席程度で出た数字で評価するというのにそもそも無理があった。


 どんな打者でも好調不調はあるのに、試行回数が少なければ大きなブレが出て当然である。プロ野球でオープン戦の首位打者がシーズンのタイトルを獲得するだろうか。シーズンの三冠王がプレーオフで全く打てず、敗退決定で呆然とする姿をカメラに収められるのが秋の風物詩となってしまうのは実力がないからだろうか。充分な試行回数を積み重ねなければ、「偶然」は排除できない。


 OPSという指標が完全ではないというのもある。出塁率と長打率を足したOPSでは走力が無視されているため、俊足巧打の打者が過小評価される傾向にあるのだ。


 例えば元阪神の赤星は長打がほとんどなかったため、OPSを計算すればだいたいの年で0.7程度であり、並みの打者ということになる。しかし赤星は2001~2005年まで五年連続で盗塁王のタイトルに輝いており、通算盗塁成功率が8割を超える。


 これほどの盗塁成功率があれば、盗塁失敗を勘案しても盗塁は有効な戦術だ。赤星ほどではなくても単年限りの成績でいいなら、プロで盗塁成功率7割を超える選手は結構出る。盗塁成功率が7割を超えれば得点確率は上がるので、これを攻撃力に含めないのはおかしいという話になる。


 またOPSでは簡単に計算するため出塁率と長打率を同価値としているが、実際は出塁率の方が得点への影響が大きいとされる。OPSは長打率を過大評価しているのだ。今日の試合で哲平はカオルを美冬、千景より上の打順に置いたが、これは大きな間違いということである。


 ならば出塁率の価値を3倍にして算出するNOIを使えばいいのかというと、NOIは出塁率を過大評価しているといわれる。では1.8倍のGPAか。


 比率の問題になると、元のデータに大きく左右される。同じリーグで算出しても、年によって最適比率は変わってしまうのだ。答えが出るわけがない。


 投手の判断に用いたFIPも同じように不完全だ。FIPではどれだけヒットを打たれようが、ヒットで失点しようが、全く評価に関係ない。それらは全て投手の実力に関係ない偶然だからだ。


 ただ、それなら「打たせてとる投手」は何なのだ。実のところ、セイバーメトリクスはインプレー被打率に投手の実力が全く関わらないとはいっていない。運の要素も大きいが、3割弱くらいはインプレー被打率に投手の実力が出る。その程度なら運や野手の守備の方がさらに関わりが大きいので、思い切って無視しようというのがFIPなのだ。FIPは投手の実力を100%表しているわけではない。計算できない不確定要素を排除しただけだ。


 結局のところ、一つの指標だけで選手を判断しようというのが無茶なのだろう。そもそも全ての能力が数字として出るわけではない。選手のコンディションも日々変化している。また、選手の成長もあれば劣化もある。セイバーメトリクスは使いこなせば有用だが、決して万能ではない。


 いくつかの指標を見比べて、かつ数字には出ない情報も計算に入れて、どれを重視するかというのが采配だ。当然最適解は環境によって変動するため、そのさじ加減は監督が決めるしかない。充分なデータがあれば統計で出せるのだろうが、日本のちょっとした部活レベルでは無理だ。


「最後は監督が自分の目を信じるしかないってことだな」


 智之はそう言って結んだ。これが過ぎると独善になってしまうのだが、指導者がブレブレでは話にならない。勝敗の責任をとる立場として、自分を信じるしかないだろう。間違っても今日のように簡単にタクトを他人に譲ってはいけないのだ。


 また智之はここまで哲平を批判してきたが、智之も常に百点満点の采配をしているとは言い難い。今日の試合を見てわかるように、選手たちはいつもと違う指示が出るとすぐにテンパり、実力を発揮できなかった。どうしてこんなことになったのかといえば、智之はいつも同じ選手に同じ指示しか出さないからだ。


 役割分担ができているといえば聞こえはいいが、智之は選手が言うことを聞かない可能性を恐れていたのである。そのため選手のご機嫌取りのような指示が多く、結果として動きたがる選手に合わせてバントや盗塁を多用する采配になっていた。


 もちろん場面によっては有効だが、たとえ点差がついていても智之は采配を変えなかったため、哲平は采配に問題アリと見たのだろう。その指摘は間違っていない。智之も方針変更を考えなければならない。


 智之に散々な評価を受けた哲平はガックリと肩を落とす。つぐみは我が意を得たりと胸を張った。


「兄さんの言う通りだよ。采配がだめだと試合に勝てなくなっちゃう。やっぱり兄さんが監督で、私が四番じゃないと」


 つぐみにそう言ってもらえるのは嬉しいが、指摘すべきところはしなければならない。智之は苦笑しながら口を開いた。


「俺が指揮したら今日の試合、勝てたか?」

「えっ、それは……」


 つぐみは智之の問い掛けに黙り込んでしまう。つまりは、そういうことだ。


「今日の試合、はっきり言って相手との実力に隔たりがあった。プレーするのはあくまでおまえらだからな。実力でこれだけ負けてりゃ誰が指揮しても一緒だ」


 相手が捕手を中心に堅実な守備を見せたのに対し、こちらは守備位置をいじっていたとはいえ、飛んできたボールを全てこぼす勢いでありえないミスを連発していた。打撃でも相手は適確にこちらの弱点を突いているが、うちの打線は狙って打つ技術がないので好き勝手振り回すだけだ。粘りの投球を見せた相手の投手と、つるべ打ちにあったこちらの投手の差も大きい。


 いつも通りの守備位置で失点を減らし、いつも通りの打順でバントや盗塁を多用して得点を多少増やしたとしても9点差を覆すには至らないだろう。打撃を変えるなり継投を早めるなりで、必ず相手も対応してくる。


 もちろんこちらも七菜が投げればわからない。しかし相手も今日はエースを温存しているのだ。地力で全く負けている現状では、負ける可能性の方が高い。


「う~ん、確かに兄さんの言う通りだね。あっちはさすが春の優勝チームって感じ。ちょっと付け入る隙はなかったかな」


 采配で負けることはあっても勝てることはない。最後にモノを言うのは実力だ。つぐみは難しい顔をして、芽衣子もうなずく。


「今の私たちじゃ、勝てそうにない相手だったねぇ」


 落ち込む部員たちを見て智之は苦笑いを浮かべ、言った。


「じゃあ逆に絶対勝てない相手か?」


 すぐに夏帆から元気のいい返事が返ってくる。


「そんなことはないと思いますわ。一巡目だけならわたくしも抑えられましたし」


 つぐみも夏帆に続いて主張する。


「私だってヒット打ったよ。なんやかんやで三点はとれてるもんね。守備がちゃんとすれば勝てない相手じゃないと思う」


 ちゃんと勝利をイメージできてるなら大丈夫だ。智之は大きくうなずく。


「だったら、今日の相手に勝つつもりで練習するぞ。今日の相手は春の優勝校だ。ここに勝てるなら、優勝できるってことだからな」


 もう夏の大会はすぐ近くだ。夏大会優勝という目標を示されて、皆はやる気を出す。


「よし、じゃあ今日の試合の反省を活かしてがんばろう! まず守備から見直しだね!」


 つぐみの言葉に部員たちは「オーッ!」と気勢を上げる。


「試合の感覚が残っているうちに練習しておくか。実戦形式で行くぞ!」


 智之の指示に従い、選手はグラウンドに駆け足で散っていく。一瞬で元気になった部員たちの様子を見て、哲平は頭を掻いた。


「やっぱり智之には敵わないや。器の差かなぁ」

「なんだよ、器って……」


 智之は突然ベタ褒めされて困惑する。哲平は何も考えていないような顔をして言う。


「だって、みんな『実力不足』なんて言われて普通に受け入れているんだぜ? 普通そんなこと言われたら怒り出すだろ? そんだけ智之はみんなに信頼されてるってことだよ」

「つぐみがうまいこと誘導してくれたんだよ」


 むず痒さを感じて智之は口を尖らせた。チーム有数の実力者でキャプテンのつぐみが素直に智之の言い分を認めたため、誰も反論できなかったのだ。智之の器が大きいなどと言われても困る。


「そんな謙遜するなよ~。俺だって智之のことは信じてるんだぜ! でも俺は、外野守備のスペシャリストだからね! 外野の指導は任せろ!」


 そこまで言われれば智之も苦笑するしかない。無条件の信頼が嬉しくもあり、重圧にも感じた。


(こいつのためにも勝たなくちゃな)


 哲平も選手たちに続いて外野へドタドタと走って行く。最後に勝敗の責任をとるのも監督だ。智之は選手たちだけでなく、コーチである哲平の信頼も背負っている。グラウンドで躍動する選手たちと、間抜けなところはあるものの頼りになる級友の背中を見て、智之は決意をいっそう強くした。

 ちょっと解説が多くなりすぎたかな? 短編でやるには題材が重すぎたかもしれません(汗)


 今のところ予定はありませんが、続きを書くとしたらカオルあたりにスポットライトを当てて夏の大会編ですかね。女子は高校から社会人まで全アマが参加する大会と、高校のみの大会が続けて行われるので、構成が難しそうです。

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