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5.魔球はハの字

 男子対策に打ち込んだ一週間は、汗を掻いた量に比例して矢のように早く過ぎ去り、試合の前日、土曜日を迎えた。しっかりと練習をこなし、部活の終わりに智之は皆を集めて話をする。


「今日も練習ご苦労だった。俺の目から見てもみんなそれぞれがんばっている。明日はまた、先週の試合より成長した姿を見せてくれ。……さて、ようやく注文していた試合用のユニフォームが届いた。背番号と合わせて名前を呼ぶから、取りに来てくれ」


 背番号の話が出ると同時に、皆が緊張の面持ちを浮かべる。背番号発表は、レギュラー発表と同じだ。それぞれのポジション番号と同じ1~9までの番号をもらえた者がレギュラーで、10ならベンチである。うちには今10人の部員が在籍しているので、必然的に一人あぶれる。


 智之は背番号1から発表を開始する。


「背番号1、武星七菜」


 やはりエースナンバーを背負うのは七菜しかいない。七菜は「はい!」と大声で返事をして智之からユニフォームを受け取る。


 智之は続けて捕手、内野手の番号と名前を呼び、次々と足下のダンボール箱から部員にユニフォームを渡していく。


「背番号2、城和田つぐみ。背番号3、貴良芽衣子。背番号4、洗居場美冬。背番号5、村中カオル。背番号6、洗居場夏帆」


 内野のレギュラーは最初に組んだ陣形が基本になる。千景の内野も悪くはないが、本職には及ばない。


 最後に外野手だ。京香、百合、瑞季の三人がゴクリと生唾を飲み込む。


 あまり焦らすのも可哀想なので、智之は一気に発表した。


「背番号7、呂瑞季。背番号8、森谷百合。背番号9、牧原京香」


 三人とも外野の背番号だった。京香、百合、瑞季の三人は拍子抜けしたようで、口々に尋ねる。


「え……? 私たち三人より千景ちゃんの方がずっと上手いでしょう?」


「そうそう、うちらがこんな番号もらって千景が10番っていうのは……」


「悔しいけど、千景に番号を譲るべきヨー」


 智之は苦笑いを浮かべ、三人にユニフォームを渡す。


「千景は背番号0だ。ユーティリティプレイヤーっぽいだろ? おまえらは三人とも未経験なのによくがんばった。総合的に甲乙つけ難いんだ。夏の大会に向けてがんばって、その背番号を自分のものにしてくれ」


 智之の話を聞き、三人は声を揃えて「「「はい!」」」と嬉しそうに返事をした。


 本来なら背番号は大会の前に渡すものだが、今あえて渡したのは三人の競争心を煽るためだった。夏の大会までに切磋琢磨して、経験者組に少しでも追いついてほしい。


 最後に千景にユニフォームを渡し、その日は解散にする。


「背番号はユニフォームに付けて、明日持ってきてくれ。明日の試合でさっそく着るぞ。今日は居残り練習はやらない。明日に備えてゆっくり休んでくれ。では解散!」




 他の皆を帰らせ、智之は一人で後片付けをしてから家路についた。智之は帰り道でロード中だった孝太郎と遭遇する。孝太郎は智之の前で足を止め、言った。


「明日だな。引導を渡してやる。明日が七菜の最後の登板だ」


 負けたら七菜は投手を辞める約束だ。智之はそんな約束は糞喰らえだと思っているが、真面目な七菜は約束を守るだろう。


「……俺も精一杯抵抗させてもらうぜ」


 おそらく明日の試合が、智之の人生で本気で投げる最後の試合だろう。勝っても負けても明日を最後に、投手城和田智之は消える。調整はばっちりと行った。どれほどやれるか、後は当たって砕けるだけだ。


「フン、やれるものならやってみろ」


 孝太郎はそう吐き捨てる。不遜な態度だが、孝太郎はそんな態度をとっても誰もとがめないくらいに才能があり、激しい練習をこなしている。


「一つ訊いていいか? なんでそんなに七菜の邪魔をする?」


 智之に訊かれ、孝太郎は言った。


「それは俺があいつの兄貴だからだ。妹のためには、悪役にもなる」


 勝てるだろうか。智之の胸を不安がよぎる。いずれにせよ、全力でぶつかるのみだ。



 次の日、日曜日、試合は午前十時からだった。八時に集合して軽く練習し、試合前にはミーティングをする。ミーティングの場で智之はスタメンを発表した。



 1(二)洗居場美冬

 2(投)城和田智之

 3(中)武星七菜

 4(捕)城和田つぐみ

 5(一)貴良芽衣子

 6(三)村中カオル

 7(左)西野哲平

 8(右)香取千景

 9(遊)洗居場夏帆

(控え)呂瑞季、森谷百合、牧原京香



「わたくしが九番ですか……?」


 智之の決めたオーダーに疑問を呈したのは夏帆だった。智之は夏帆の打順を下げた意図を説明する。


「今日の試合は打撃よりも守備に気をつかってくれ。俺は打たせてとるタイプだから、ショートの守備でかなり失点が変わっちまう。哲平と千景もだ。今日は普段男子が使ってる新グラウンドでやるから、外野はかなり広い。おまえらの守備で勝負は決まる」


 夏帆は納得して「わかりましたわ」とうなずく。哲平も「任せてくれ!」と笑顔を見せ、千景は緊張した様子でうなずいた。本当なら投手を務める智之や七菜も打順を下げたいところだが、さすがに無理である。


 打力でいえばつぐみではなく七菜を四番にしてもいいが、負担が大きすぎる。むしろ七菜は打順を下げたいくらいなのだ。


 ならば芽衣子と七菜の打順を入れ替えようかとも思ったが、芽衣子がプレッシャーで打てなくなりそうなのでやめた。芽衣子は体は大きいのにノミの心臓で困る。阪神の主砲を見習って、護摩行でもやらせればいいのだろうか。


 本人には言わないが今日の試合、攻撃面での鍵は芽衣子である。芽衣子には気持ちよく打ってもらわなければならない。


「京香、百合、瑞季は控えだが、途中出場はあるから準備しておいてくれ。あと、ベンチでの声出しも頼むぜ」


 「は~い!」と京香、百合、瑞季の三人が元気よく返事をする。


 途中で智之はベンチに下がり、指揮に専念する予定だ。哲平にベンチにいてもらい、智之が投げている間は采配を代行してもらおうとも思ったが、その場合は智之と交代で哲平が途中出場することになる。哲平なら打撃も少しは期待できるので、どうせなら最初から出ていた方がいいだろう。


「他に質問はないか? ……よし、じゃあ向こうのグラウンドに移動だ」




「すごく広いね、兄さん……。これはホームラン打たれる心配はないかな?」


 男子野球部のグラウンドに入ると、つぐみが感嘆したといった様子で言った。


 男子野球部の新グラウンドは両翼が100メートル以上ある、かなり本格的な硬式野球用のグラウンドだった。こちらのグラウンドに立つといつも使っている古いグラウンドが狭く見える。


 こちらのグラウンドに慣れるため、シートノックをさせてもらってから練習試合に入る。試合前の挨拶の時には男子野球部の監督である苫小牧が、審判用のマスクをかぶって出てきていた。どうやら今日は苫小牧が審判をしてくれるらしい。


 仏頂面でこちらと目を合わせようともしない孝太郎の姿を目の端に捉えつつ、「お願いします」と一礼。


 男子野球部側が先攻なので、智之がまっさらなマウンドに登る。軽くボール回しと投球練習をして、いよいよ試合開始だ。


 男子野球部の試合で孝太郎が投げるということで、フェンスの向こうには三十人ほどの見物人が集まっていた。うちの高校は私立だがほぼ県内からしか人を集めずそこそこ強いため、高校野球ファンには人気があるのだ。中にはビデオカメラやスピードガンを構えている者もいる。どこかの高校の偵察要員かもしれない。


 木製バットを持って、先頭打者がバッターボックスに入る。今日の男子野球部側の打線は、左打者を一~三番に並べ、孝太郎が四番に座るというものだった。男子側正捕手の森橋は今日も怪我で欠場している。正捕手がいないことで孝太郎の投球に影響が出ればいいのだが。


 孝太郎も含め、四番以降は全員右打者である。サイドスロー攻略用オーダーのテストなのだろう。右打者には頭の後ろから来るように見えるサイドスローの球筋も、左打者には丸見えだ。厳しい立ち上がりになりそうである。


 初球、智之が選択したのはストレートだった。打者の胸元に全力のストレートを投げ込み、思わず打者は球を避けようとのけぞる。普通にやれば智之の球威ではストレートを狙い打たれるだけだ。まずはきわどい球で揺さぶる。


 打者は一度バッターボックスをはずし、軽く素振りをしてからまた戻ってくる。その姿に動揺した様子はない。智之くらいの球速では恐怖を与えられないのだろうか。


 もう一度内角に投げ、試してみるしかない。平気で振ってくれば揺さぶりは効いていないし、少しでも避ける素振りを見せれば多少なりとも内角を意識したということだ。智之は二球目にボールからストライクになるように、内角にシュートを投げ込んだ。打者は反応してバットを振り切り、智之は身をこわばらせる。やや根元気味だが、これは抜ける。


 しかし打球はふらふらっと上がった内野フライに終わり、美冬が捕球してまずワンナウトとなった。


(金属ならやられてたな……)


 木製バットは金属バットよりミートポイントが格段に少ない。結果、フルスイングしても内野フライとなったらしい。


(芯をはずせばアウトはとれるな……)


 徹底的に相手の苦手コースに投げるしかないだろう。ストレートは見せ球にして、変化球を打たせる。身を削るような作業が始まった。


 二番打者は高めのストレートを投げ、高めを意識させてから低めのシンカーで打ち取る。シンカーはスライダーとは逆に曲がりながら落ちる球だ。右投手が左打者の外角に投げればストライクゾーンから逃げるように落ちるため、左打者相手には生命線となる球種である。


 三番打者は外角のボールとなるシュートに手を出し、ボテボテのサードゴロとなった。カオルは前に出て捕りに行くが、ランナーの足の方が速い。今度は木製バットが相手に有利に働いたようだ。ツーアウト一塁で、一回から孝太郎を迎えることになった。


 勝つことが最終目的なので、無理に勝負する必要はないが、ランナーを溜めるのも怖い。極端な話、この打席でホームランを打たれてもハンデの三点があるので2―3でリードを保てる。逆転されないことが肝心だ。


 シニア時代に何度も対戦しているので、智之の手の内は孝太郎に知られてしまっている。智之も孝太郎がどんなバッティングをするかくらいは知っているが、高校生としてはかなり穴が少ない打者である孝太郎を打ち取るのは、今の智之では難しい。


 圧倒的に智之が不利な勝負なので、クサいところを攻めてカウントが悪くなれば歩かせる。それでいいだろう。アウトにできれば最善だが、無理なら仕方ない。ここは割り切りが肝心だ。


 まずは中学時代、孝太郎が全く打てなかった外角へのクロスファイアを投げる。初球がこの球なのは、孝太郎も予測していただろう。かつては来るとわかっていても打てない球だったのだ。ベースの端を掠めるように飛来したストレートを、孝太郎は自分の成長を見せつけるように打ちに行く。


 結果はファールだった。孝太郎は後ろに勢いよく打球を飛ばし、小さく舌打ちした。前には飛ばせなかったものの、球は見えているようだ。中学時代にやっていた外角一辺倒の配球では通用しそうにない。


 今の孝太郎はどんな変則投手を相手にしても、それなりに対応できるのだ。孝太郎は苦手な外角でも来るとわかっていればカットしたり、ちょこんと合わせてシングルヒットを打つ技術を身につけている。


 さて、今の一球で孝太郎は何を考えただろうか。孝太郎は羽虫くらいなら殺せそうな眼力で、智之を睨んでいた。熱くなっているのは間違いない。だとしたら智之が裏を掻く可能性まで頭が回らず、外角中心の中学時代と同じ配球で来ると考えるのではないか。


 智之は二球目として、孝太郎が得意な内角にシュートを投げ込む。シュートは中学時代に孝太郎相手にはあまり使わなかったが、読まれていれば確実に長打を浴びる。智之は読まれていない可能性に賭けた。


 孝太郎は一瞬虚を突かれたような表情を見せたが、しっかりと打ちに行く姿勢を見せる。智之の球速なら、見てから対応するということができるようだった。孝太郎が、バットを振る。


 それでも手元で変化するシュートが芯をはずしてくれた。来ないと思われていた内角に、かつ変化球という二段重ねの罠が機能したのだ。孝太郎の当たりは、ショート正面を突くゴロとなる。ショートの夏帆は、即座に捕球態勢をとる。


「任せてくださいまし……あっ!」


 夏帆はゴロを弾き、その間に孝太郎は一塁へ到達した。普段捌いているゴロと、打球の速さが段違いだったのだ。


「申し訳ありませんわ……」


 夏帆はばつが悪そうに顔を赤らめて、智之にボールを渡しに来る。夏帆はここまで全試合に出場してエラーは一つだけだったが、その夏帆をもってしても捌けないゴロだった。


 智之は言った。


「俺も打球の速さを甘く見てたよ。少し後退して守って、打球を抜かさないのを優先しよう」


 相手のレベルが上がれば打球が速くなる。打球が速くなればエラーが増える。単純な、しかし如何ともしがたい理屈だった。こうして守備負担が増えるので、智之は夏帆の打順を下げたのだ。


「気合いを入れ直しますわ」


 そう言い残して夏帆は守備位置に戻り、智之はセットポジションにつく。


 智之は五番打者にボール球となるカーブを打たせて打ち取るが、今度はカオルがエラーして満塁。六番打者をシュートで芯をはずしてピッチャーライナーとし、ようやくスリーアウトをとった。


 前途多難なスタートである。孝太郎以外も、きちんとストレートに対応していた。智之の球速が遅すぎるため、慣れないサイドスローでも球筋を把握して打っていけるのである。球筋を見られるという意味では向こうにとって絶好の練習相手なのかもしれないが、勝たなければならない智之としてはたまったものではない。


 この分だと下位打線もストライクゾーンで勝負するのは無理そうだ。ボール球を振らせるしかないが、そんなピッチングをどれほど続けられるか。


 早めに七菜にリリーフしてもらった方がいいかもしれないと考えつつ、智之は攻撃のためベンチに戻った。




 攻撃は一番美冬からだ。美冬を一番にしたのは、外角を苦にしないからである。夏帆も千景も体格が小さく、コンパクトなスイングを心がけているせいか、なかなか外角には手が出ない。ところが美冬は持ち前のフィーリングでうまく合わせて、内角だろうが外角だろうがヒットにしてしまう。


 その代わりバットが届きそうならボールでも構わず振りにいくため、打率は伸びないのだが、孝太郎は今回ストライクゾーンで勝負してくれるだろう。格下相手にボール球を必死に振らせようとする必要はない。そんな苦労をするのは孝太郎ではなく智之である。


 美冬はいつものように意気揚々とバッターボックスに入り、構えをとる。孝太郎も投球に入った。


「──天が呼ぶ地が呼ぶ人が呼ぶ、悪を倒せと……」


 ズドン、とミットにストレートが飛び込む。美冬は呆然としていた。ど真ん中だったが、口上を上げている間、あまりに孝太郎の球が速すぎてバットを振れなかったのである。


「──馬鹿な、この私が……!」


 そう言っている間に剛速球はストライクゾーンを通過し、捕手のミットに収まる。捕手は控えで、捕球には不安がある。孝太郎はこれでも抑えて投げているはずだ。それでも、孝太郎の速さは次元が違う。


「──おかしい、こんなことは許されない……!」


 美冬はムキになって次の球もフルスイングしたが、掠りもせずに三球三振だ。


 いくらマシンで目を慣らしても、実物はまた全然違う。マシンはボールの発射位置が一定で丸見えだが、人間の投手はあの手この手で発射点を隠し、タイミングをはずそうとする。美冬が対応できないのも、仕方のないことだった。


 二番打者は智之である。シニア時代は五番、あるいは三番といった上位打線を担っていたが、相手が悪すぎる上にブランクも長い。ここは自分が決めた方針通り、高めだけに絞って振り抜こう。


 まず孝太郎が投じたのはインローへのマッスラだった。きっと智之が往年の力を残していると思っているのだろう。智之に手を出せるはずもなく、見送る。智之には、全く孝太郎の球が見えていなかった。バントくらいはできるだろうと思っていたが、自分を二番に置いたのは失敗だったかもしれない。


 次に来たのはインハイへのストレート。本来なら振らなければならない球だが、思わず避けようとしてしまい、手を出せない。こんなノビのある球は智之にとって初体験である。これで追い込まれた。


 最後はど真ん中へのストレートだった。投げた、と思ったらもう捕手が捕球しているという球速で、智之はピクリとも動けなかった。孝太郎はもう一段速い球を温存していたのだ。ボールになるスライダーを投げてくると見て動かなかった智之の負けだった。


 智之はついぞバットを振ることなく、見逃し三振に終わった。智之もそれなりに打撃練習はやったつもりだが、衰えは隠しきれない。一方の孝太郎は中学時代より一回りも二回りも成長していた。


 普段使う130キロ台のストレートに、おそらく球速140キロ台中盤の全力ストレート。これにマッスラ、落ちるスライダーを混ぜるのだから打者はお手上げだ。速い球への対応力がないと話にならない。スピードの上限なんて知れているという言葉は、速球を打てる打者だけがいえるものだ。


 三番は七菜である。技術という面でも身体能力という面でも、七菜がチーム最強バッターだ。一、二番が二者連続三振を喰らっている今、悪い流れを七菜に止めてもらいたい。


 七菜は美冬とも智之ともレベルが違った。智之が振ることもできなかった初球の外角高めへのストレートを、ファールでカットする。


 二球目も同じ所にストレート。七菜はまたもファールにする。


 三球目は外角高めにストレートを一球はずしてボール。次で勝負してくるだろう。


 最後は内角低めへの落ちるスライダーだった。外角に目つけされていた七菜はスライダーを捉えることができず、三振する。単純だが、効果的な配球だ。前の二人が三球三振だったので七菜はマシに見えるが、速球への対応に精一杯で変化球まで手が回らず、負けるべくして負けている。


 智之はベンチで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、つぐみも顔を引きつらせて言う。


「これは投げた瞬間に振るくらいじゃないと間に合わないかもね……」


 外角高めの速球に合わせる練習はしてきたが、マシンとは球のノビが段違いだ。バットに当たったとしても前に飛ばせない。


「とりあえず、ちゃんと守れば負けない。守りに集中だ!」


 智之はそう皆を激励し、守りにつくべく、いの一番にベンチを飛び出した。




 二回表は七番打者からである。下位打線はサクサク終わらせたいところだったが、そうは問屋が卸さなかった。


 七番にはついに外へのクロスファイアを捉えられ、センター前ヒットを打たれる。八番は堅実に送りバントでアウトを一つとり、一死二塁で九番打者が来る。


 先週の練習試合を観戦した限りでは、八番より九番の方が手強い打者だった。一番へのつながりを考慮し、九番の方にいい打者を置いているのだろう。


 智之は変化球を混ぜて翻弄しつつ、ストレートを外角に入れようとする。九番もクロスファイアには反応してきて、ファールを重ねる。外に逃げるカーブで釣ろうとしたが引っかかってはくれず、とうとう智之はツーストライクスリーボールのフルカウントにしてしまう。ストレートも全球ストライクを入れられるわけではない。十球投げれば二、三球はストライクを狙ってもはずれてしまう。仕方のないことだった。


 九番に見せていない球はもうシュートだけである。読まれているだろうが四球よりはマシと考えて、智之はシュートをストライクゾーンに投げる。九番は綺麗に打ち返して二遊間を抜くヒットで、一死一、三塁だ。


 打順は一回りして一番の左打者の打席となる。一番にはまだシンカーを見せていない。外のストレートとシュートで追い込んで、シンカーで仕留めるというプランで行く。


 智之はファールで粘られフルカウントに持ち込まれるが、ストライクゾーンに投じたシンカーを一番は打ち損ねてセカンドゴロに終わり、三塁ランナーは生還するが自分はアウトになる。緩いゴロだったのでゲッツーはとれなかった。1─3で二死二塁と状況は変わり、次は二番打者だ。


 二番は、待球作戦をとってきた。外のボール球に手を出してくれず、少しでもストライクゾーンに入ってくればカットする。智之の球速なら、どんな球でもカットするだけなら容易なのだ。二塁にランナーがいて二点ビハインドという状況なので、打ってくると思っていた智之は読みを誤り、気付けばまたフルカウントである。


 さすがの智之も迷い、つぐみのサインをじっと見てみる。サインは全力のストレートだった。普段は自分の意図するサインが出るまで智之は首を振る。つぐみの方も智之の配球はわかっているので一、二回首を振ればだいたい智之の意図を察してくれる。そのため智之が組立を行う形でやっていけている。ただ、今は智之が何も思いつかない。


 開き直って智之はつぐみのサイン通りど真ん中にストレートを投げ込んだ。全力でも110キロそこそこというへろ球はショートの頭を越えてレフト前に落ち、また一、三塁の形を作られる。外野には深めに守らせていたので、レフトを抜かれなかったことだけが幸いだ。


 三番も同じように粘り、ファールを打ち続ける。だからといってゾーンに入れれば打たれるため、ストライクは投げられない。とうとう智之は四球を出し、満塁で四番孝太郎だ。


 結局、コントロールがよくても、変化球が多くても、球速がなければ攻略される。七菜が自分がこうなってしまうのではないか、と恐れていた状態に、智之が陥っていた。


 球種を全部使い切っても粘られてストライクゾーンに投げられなくなり、カウントを悪くして自滅する。いくらコントロールがよくても、いくら球種が豊富でもストライクゾーンに投げられないのでは意味がない。軟投派攻略のマニュアル通りに事態は進行していた。


 たまらず内野陣が智之を中心に集まる。グラブで口元を隠しつつ、夏帆が尋ねた。


「どうしますか? 予定より早いですけれども、七菜さんと交代しますか?」


 智之は首を振る。


「いや、今交代しても後半に捕まる。俺もまだ体力は余裕がある。ここは任せてくれ」


「でもどうやって四番を抑えるの?」


 平坦な声でカオルが訊く。このピンチでも全く動揺していないのは頼もしい。


「一点は仕方ない。徹底的に外角を攻めて、だめなら押し出しでいい。五番を確実に抑える」


 五番にはまだシュートもシンカーも見せていないので、何とかできるだろう。これくらいは自分で処理できないと、七菜に示しがつかない。


「五番は多分シンカーを打たせることになる。内野ゴロになるだろうから、しっかり頼むぞ」


 智之はそう言って内野陣はそれぞれのポジションに戻り、試合は再開される。




 チーム全体で待ちの作戦をとっているのか、孝太郎もさほど積極的に振ってくることはなかった。智之は全力のストレートを外角に連投し、押し出し四球となる。2─3で、依然として満塁だ。リードはわずかに一点しかない。次の五番を抑えられなければ、敗北は決まったようなものである。


 智之はストライクゾーンギリギリにシュートを連投して相手打者に手を出させ、ツーストライクまで追い込む。最後は予告通りにシンカーで内野ゴロを打たせた。結構強い球だったのでヒヤヒヤしたが夏帆が今度はしっかりと捕球し、二塁に投げてフォースアウトをとる。


 どうにかこのイニングを二点で済ませることができた。次の四番つぐみからの攻撃で、一点でも二点でも返したい。智之はベンチに戻ってから、打席が回ってくるつぐみと芽衣子を呼ぶ。


「つぐみ、無理せず練習通り高めだけ狙え。あれはおまえでも厳しいと思う」


「兄さん、了解!」


「それから、塁に出ても勝手に走ろうとするなよ? まだ慌てるような回じゃない」


「わかってるよ。男子の肩に勝てるかっていうと、微妙だしね。残念だけど、兄さんが指示したときだけにする」


 つぐみに納得してもらい、次は芽衣子に言った。


「芽衣子、おまえは三振してこい」


「私にはそんな指示かい……」


 真剣な表情で智之の話を聞こうとしていた芽衣子は、思わず前のめりにコケそうになる。智之は表情を変えず、何が言いたかったのか伝える。


「要は三振してもいいから、しっかり振ってこいってことだよ。べつにおまえに孝太郎が打てると思ってないから」


「了解、了解。期待されてないって、悲しいねぇ……」


 芽衣子はちょっと傷ついたような素振りを見せながら、つぐみとともにベンチを出た。この二人に打ってもらわなければ勝てないからこその指示である。




 二回裏、つぐみは気負うことなく自然体で打席に入り、孝太郎と相対する。孝太郎は初っ端から全力ストレートを見舞い、つぐみは空振る。つぐみは孝太郎のスピードを警戒して始動を早くしていたが、それでも振り遅れた。


 二球目は外へのマッスラだった。微妙に高めに浮いていて、若干甘い。この球は練習しておいた球だ。つぐみはフルスイングでなんとか弾き返し、打球はライト前にぽとりと落ちる。チーム初ヒットだ。


 広いこちらのグラウンドを試合場所にしておいてよかった。いつもの第二グラウンドなら非常に狭いので、外野が思い切って前進守備を敷いていただろう。そうすればつぐみのこの打球などは、難なく捕球されていたはずだ。


 全体的にパワーのない女子チームに、守備シフトは死活問題である。外野が大きく前進すれば外野の前に落ちるようなヒットを打てなくなる。広いこちらの新グラウンドなら、抜かしたときのリスクを考慮して、外野がそこまで極端な前進守備はできないのだった。狭い球場の方がホームランが出やすく点は入りやすいイメージだが、非力な打者には逆に広い球場の方が有利なこともあるのだ。


 次は芽衣子の打順である。バントやエンドランなど小細工をやらせようとすると芽衣子はテンパるので、サインは「打て」だけ。芽衣子が緊張して打てなくなっているのではないかと智之は気が気でなかったが、芽衣子はごく自然な様子で打席に立っていた。打席に向かう前に智之が「三振してこい」と言ったのが効いているらしい。芽衣子は非常にリラックスしていた。


 こういうときの芽衣子は強い。盗塁を警戒してはずしてきた初球を悠然と見送り、内角に入れてきた二球目のマッスラも見送る。そして三球目の外角へのストレートを見事に捉えた。孝太郎は内角のマッスラで目を惑わせたつもりだったのだろうが、芽衣子は苦手な内角球をいつも最初から諦めてちゃんと見ない。


 芽衣子の打球はレフトの頭を越え、外野を転々と転がる。外野が定位置ならアウトだったが、女子なのでどうせパワーはないだろうと、やや前で守っていたためヒットになった。その間につぐみは三塁に到達、芽衣子は二塁まで行く。おそらくこの試合、得点のチャンスはあったとしても一回か二回だろう。貴重なチャンスがこの回に来た。


 六番のカオルはまだ初心者だというのに、智之のサインを見て混乱しないのが嬉しい。まず智之は偽装スクイズのサインを出す。芽衣子に長打を浴びたとはいえ向こうは七菜、つぐみ以外の女子が打てないと思っているだろう。打てないのに点を入れようと思えばスクイズだ。


 カオルは智之の指揮通りにスクイズの構えを見せてからバットを引いた。カオルがスクイズをやってくるだろうと考えていた孝太郎は外にボールをはずす。二球目も同じようにカオルはスクイズの素振りだけ見せて孝太郎はボール球を投げ、ノーストライクツーボールだ。次は入れてくるだろう。


 ここで智之は「打て」のサインを送る。球種はストレートで、おそらく外角だ。低めなら見逃しても構わないが、低めを狙ってノースリーにするのはおいしくないので、きっとそこまで厳しいコースには来ない。


 智之の洞察は的中した。外角高めに来たストレートを、カオルは見敵必殺といわんばかりの鋭いスイングで一閃する。


 剣道のスピードは速い。ちょっとした手元の操作だけで大きく変化する切っ先の動きを見極め、自分の剣を合わせなければならない。そのため、カオルは入部当初からボールの軌道は見えていた。


 なかなか打てなかったのは、打ち方がわからなかったからだ。球は見えていても、どうすればバットでボールを捉えられるかがわからない。遠回りなアッパースイングでは、どんなに目が良くてもバットにボールが当たらなかった。しかし入部当初から熱心に練習していたおかげでカオルは智之の助けを借りてようやく自分のバッティングフォームを見つけ、速球だけならかなり打てるようになっていた。


 カン、と小気味よい金属音が響き、ボールはセンター前に落ちる。つぐみは生還し、一点入って2─4となった。この一点は大きい。リードが一点ならソロホームランでも追いつかれるが、二点ならその心配はないのだ。


 次の哲平は変化球のすっぽ抜けを捉えるが飛びすぎ、浅いライトフライでランナーは動けない。


 哲平はベンチに戻ってきて頭を掻いた。


「いや~、硬式だと飛ばせないと思って中学まででやめちゃったけど、早まったかなあ」


「ちゃんと打てば硬球の方が飛ぶからな」


 軟球はあまり思い切り打つとボールが変形するため、逆に飛びにくかったりもする。冗談めかして智之はさらに言った。


「今日活躍したら苫小牧監督にスカウトされるかもしれないぜ。左打者少ないみたいだしな。森橋に代わって三番打てるかもよ」


 哲平は左投げ左打ちである。哲平はやおら興奮する。


「マジで? よし、春日中の秘密兵器と呼ばれた俺の実力を見せてやんよ!」


 それはベンチ要員のことではないだろうか……。何にせよやる気を出すのはいいことだ。


 続く千景は速球に振り遅れてファーストゴロに倒れ、夏帆はインハイの速球を打つがピッチャーライナーに終わる。追加点は入れられずに二回裏は終了した。




 三回表、男子チーム六番打者からの攻撃だった。智之はこの回を抑えて七菜にバトンタッチしたかったところだが、往々にしてそういう目算はうまくいかない。


 智之はいきなり六番打者にツーベースを浴びる。七番打者は四球で歩かせ、八番はバントだったが智之がバント処理をミスしてノーアウト満塁。足が動かなくなってきている。


(クソッ……! 肘が壊れる前ならこれくらい、何ともなかったのに!)


 こんな状況で七菜に継投するのは酷だ。九番には内野ゴロを打たせて、ゲッツーをとろう。


 そう思って智之は低めにシンカー、カーブを多投するが相手は食いついてくれない。ストライクが入りそうならカットされ、結局四球を与えてしまう。押し出しで一点入り、3─4である。


(ここまで……だな)


 智之のピッチングが全く通用しない。智之は打者二巡で球種から配球まで全て丸裸にされた。智之は牙を抜かれ、爪を丸められた獣のように完全に攻略されていた。一番から続く左打者三人からアウトをとるのは、智之には無理である。投手城和田智之は、死んだ。


 無死満塁でマウンドを譲るのは不本意だが、未練がましくマウンドにしがみついても公開処刑が待っているだけだ。監督として、ここは冷静に判断しなければならない。


 智之は手招きして外野から七菜を呼び寄せる。内野陣もマウンドに集まり、七菜を迎え入れる。


「済まない……。俺じゃこれが限界みたいだ。あと5回、頼む」


 智之は七菜にボールを渡す。七菜は心の奥で燃えさかる炎を隠すように表情を引き締め、智之からボールを受け取る。


「大丈夫です。ここからは一点もやりません」


 七菜の言葉に、内野の面々もうなずく。


「そうですわ。七菜さんは、バックを信じてなげてくださいまし。もうエラーしたりしませんから」


 夏帆に続けて美冬も不敵に笑う。


「──姉君の言う通り。打撃でもあの魔王をいずれ攻略して見せよう」

 芽衣子も柔和な笑みを浮かべて言う。


「もし負けそうなら敗戦処理は引き受けるからさ、あんたは思いっきり、好きなように投げなよ」


「芽衣子さんの言う通り。そうすれば、絶対勝てるから」


 つぐみが言い、カオルは黙って七菜の肩をポンと叩く。


「みんな……! 私、絶対に抑えます!」


 七菜はグラブの中でボールを強く握り、大きく息を吐く。


「つぐみ、リードは俺がやる。僅差だから足を使ってくるかもしれない。おまえはそっちを注意しておいてくれ」


 悔いを残したくないので、智之は自分がリードすることにした。後から結果論で捕手のリードを批判するくらいなら、自分で責任をとりたい。


 智之はつぐみにテキパキと指示を下し、主審をやっている苫小牧監督に選手交代を伝える。それからベンチに戻り、百合に言った。


「百合、俺と交代でレフトに入ってくれ!」


「はい!」


 百合は元気よく腹の底から声を出して返事をし、レフトへと駆けていった。センターは七菜に代わって哲平がレフトから移動する。千景は外野だと守備範囲がそこまででないので、ライト固定だ。


 ここからは監督城和田智之の腕の見せ所である。未熟な智之に全てを預けてくれる七菜を、皆を勝たせたい。


 七菜の投球練習に、男子野球部側ベンチから驚きの声が上がる。最高球速125キロを叩き出す七菜のストレートは、智之より10~20キロほど速い。


 投球練習が終わり、智之はつぐみに配球のサインを送る。智之のサインをつぐみが七菜に伝え、七菜が投げる。ちなみにベンチからは正確なコースはわからないため、智之はコースをつぐみにサインで教えてもらっている。


 七菜の招き猫のような見えづらいフォームから放たれる全く見分けのつかないストレートとスライダーを、一~三番の左打者三人は為す術もなく次々と空振り、男子打線は三者連続三振を喫した。




 三回裏、女子野球部の攻撃は三人で終わり、七菜が四回表のマウンドに登る。相手の打順は四番、孝太郎からだ。孝太郎は右打者で、七菜の球筋を知っている。今までの七菜なら、まず抑えることができない相手だっただろう。しかし、女子野球部に入部してからの一ヶ月で、七菜は新しい武器を手に入れていた。


 智之は初球に新しい決め球を投げるようサインを送る。


「新しいおまえを見せてやれ。……チェンジアップだ!」



 数日前、皆に七菜の新しい決め球を予想させたとき。芽衣子が近い答えを言ったので、智之は正解を披露した。


「でも芽衣子が半分正解ってところだ。答えは、チェンジアップだ」


「チェンジアップですか……?」


 あまりピンとこないようで、夏帆が首をかしげた。


「どうした? 魔球だと思ってたから拍子抜けか?」


 智之はからかうように言って、夏帆は答える。


「いえ……。そんな球で大丈夫なのかと思っただけですわ。チェンジアップって、ただの遅い球でしょう?」


 美冬も夏帆に同意した。


「──左様……。チェンジアップなど、我には止まって見える」


 智之は苦笑し、解説する。


「そっか、おまえらはソフトボールやってたんだもんな。凄い投手が投げるチェンジアップは、本当に凄いんだよ」


 チェンジアップは、ストレートと同じフォームで放たれる、緩く落ちる球だ。OKサインのように親指と人差し指で輪を作った握りで抜くようにリリースすれば簡単に投げられ、「OKボール」とも呼ばれる。肩や肘に負担が少ないとされており、最近は少年野球などでも教えられることが多くなっている球種ではないだろうか。少年野球でのチェンジアップは夏帆のいうとおりただの遅い球にしか見えないだろう。


 チェンジアップは、基本的には緩急で打者のタイミングをはずす球種である。ストレートに比べて回転が緩いため落下する軌道を描く。そして、握り方のせいでシュート回転が掛かりやすい。


「要はシュートしながら落ちる球なんだ。だから、シンカーと同じように使える」


 今までの七菜には、右打者の外に逃げる球がなかった。そのため上のレベルで右打者を抑えることを考えると心許なく、右打者対策が急務だった。


 そこで智之は七菜にチェンジアップを仕込んだ。シュート回転を強く意識させて握り方を試行錯誤し、ほとんどシンカーのように斜めに落ちるチェンジアップを七菜に習得させたのである。プロでも手こずるのが落ちる球種だ。チェンジアップを磨けば、七菜もプロで通用する。


 プロでも近年では左投手の決め球として、チェンジアップは多用されるようになっている。杉内、内海、武田勝といった日本を代表する左投手たちは皆チェンジアップを決め球として使い、成果を上げていた。


 彼らは150キロ超のストレートを投げられるわけではない。武田勝などは最高球速は130キロ台である。右腕ならば絶対数が多いのである程度の球速がなければ埋もれるが、左腕なら球速がなくても生き残る手はある。必殺の変化球があれば、総合力が高ければ、プロで通用する。プロに行きたいという七菜の希望のため、智之が出した答えがチェンジアップだったのだ。



 七菜は振りかぶり、サイン通りにチェンジアップを投げた。七菜のチェンジアップは腕の振りが速いせいかシュート回転が強く、鋭く外に逃げながら落ちる。孝太郎が待っていたのは、おそらくストレートだったはずだ。外角低めを掠めて逃げる球を追いきれず、孝太郎のバットは空を切る。その表情は驚愕に満たされていた。


「いつの間にこんな球を……。いや、いい。次は打つ……!」


 孝太郎は剣呑な目を七菜に向け、バットを構え直す。智之はサインを出し、七菜は二球目を投じる。


 二球目は内角高めへのストレートだった。120キロ台が出ているとはいえ、普段の孝太郎には何てことのない球だったかもしれない。しかし今の孝太郎は前の打席に智之の外角球を散々見せられ、七菜にも初球で外角低めへのチェンジアップを見せられている。その残像が目に残っていたのだろう、孝太郎は派手に空振りして追い込まれる。


 三球目は外角高めにストレートを一球はずし、孝太郎の目に残像を刻む。ここで孝太郎は新しい決め球のチェンジアップを投げてくると考えるだろう。しかし、わかっていても打てないのが決め球だ。


 外角低めのゾーン内に、チェンジアップが決まる。腕が長い孝太郎なら充分追える範囲ではあるが、まだチェンジアップの変化を計りきれていない。孝太郎は三振した。


 五番、六番はチェンジアップを使うまでもなくスライダーで片付け、スリーアウトで攻守交代だ。四回裏も孝太郎は女子野球部打線を三人で切ってとり、兄の貫禄を見せる。しかし七菜の快投で打線も落ち着きを取り戻したのか、試合前の作戦を思い出し、高めの球だけをフルスイングするようになる。これで少しでも孝太郎が投げにくくなってくれればいいのだが。


 試合は膠着状態に陥る。五回表、七菜は甘く浮いた変化球を打ち返されて一人ランナーを出すものの、後続を打ち取って得点を許さない。五回裏の女子野球部の攻撃も千景がフォアボールで出塁したものの夏帆がバント失敗ゲッツーに倒れ、得点はならなかった。


 六回表、男子野球部チームは二番からの攻撃だ。試合は七回までなので、順調なら四番の孝太郎に打席が回るのはこの回が最後だろう。ここまで3─4で一点差だ。七菜は一巡目は完璧に抑えたが、勝負は二巡目である。手札を全て見せて、なお抑えられるだろうか。


 二番、三番の左打者は七菜の球が見えていないようだった。左対左なのでボールが頭の後ろから来る上、ここまで肘が出てくるのが遅いピッチャーは珍しいため、全く歯が立たないのだ。二、三番はやはり外のスライダーを追い切れず、腰の砕けたバッテイングでアウトカウントを積み上げる。


 四番孝太郎が、このままいけばおそらく最後となる打席を迎えた。孝太郎は神妙な面持ちでバッターボックスに入り、バットを振り上げて構えをとる。


 初球は内角へのボールになるスライダーだ。孝太郎はバットをすんでのところで止め、見送る。


 二球目は外角低めのストライクとなるストレート。初球のスライダーの軌道が頭に残っているせいか、孝太郎はうまく打てない。一塁線を転がるファールボールとなる。


 三球目、やはり外角へのストレートだがここで七菜はようやく肩が温まってきたのか、ギアを一段上げてこの試合一番のストレートを投げた。腰の高さの少し甘いコースに入ったが、またもファールでふらふらっと上がって一塁側フェンスを越える。投手有利のツーストライクワンボールというカウントになった。


 四球目はチェンジアップを予想しているであろう孝太郎の裏をかき、外角にボールとなるストレートを放る。きわどいところでちょっと高めの比較的打ちやすそうな球だったので孝太郎は反応して腕を伸ばし、芯で捉える。しかし打球は一塁側への大ファールとなり、外野のファールゾーンに落ちた。打ったコースが悪かったためヒットにならなかったのだ。


 七菜は一瞬顔を青くするが、すぐに平静に戻る。ストレートの使い方については、試合前に言っておいた。「いいか? ストレートは高めにいってもいい。とにかく腕を振れ。その代わり、変化球は確実に低めに決めるんだ」。


 前に七菜がやった低めだけに集中して投げるというやり方ははまれば大きいが、現実的には難しい。低めだけに来るとわかっていれば、相手は手を出さずに失投を待つようになる。こちらは失投を恐れて腕を振れなくなり、球威がなくなって狙い撃たれるという寸法だった。


 しかしストライクゾーンに思い切り投げ込むという意識で投げれば、球は高めにもばらける代わりにちゃんと球速を出せる。ストライクゾーンを広く使い、相手に的を絞らせないことが重要なのだ。ストレートに手を出してもらえるからこそ、変化球が生きる。


 要はストレートを撒き餌として使うということだ。高めの甘いストレートを意識することで相手打者は低めの見極めが甘くなり、低めの変化球が効果的となる。七菜は智之の指示に忠実なピッチングをしていた。


 五球目は散々高めを見せられた後のチェンジアップだ。高低で揺さぶられる上、あえてスライダーを使う可能性も孝太郎は考えていなければならない。


 並みの打者なら三振で終わったのだろうが、ドラフト候補生は違う。孝太郎は低めに決まったチェンジアップを強引に引っ張り、白球は高々と空へ舞い上がる。前の一打席で孝太郎はチェンジアップの変化量をきっちり測っていたのだ。角度的にはホームラン。ボールの行方に、両軍ベンチがどよめく。


 しかし、打球がスタンドへ飛び込むことはなかった。打球はフェンス手前で失速し、フェンス際で守っていたレフト百合のグラブに収まる。孝太郎は悔しそうに顔を歪めた。


 孝太郎が金属バットを使っていれば、ホームランだっただろう。あるいは、狭い第二グラウンドならホームランだった。


 試合前に決めた条件が、孝太郎の打球を殺した形だが、七菜のチェンジアップがもう少し高めでもスタンドインされていた。最後の決め手になったのは七菜の制球だった。




 チェンジアップの制球については精力的に練習していて、ストライクが入らなくても低めにいくようにはなっている。元々七菜はチェンジアップの投げ方自体は知っていたが、フォームに癖が出て制球が定まらないので投げないだけだった。


 チェンジアップは抜いて投げる球なので力加減が難しく、コントロールしづらい。そこで智之は七菜にボールの縫い目にしっかりと指を掛けるように指導し、コントロールしやすいチェンジアップに修正したのである。縫い目に指を掛けることによってシュート回転も強くなり、ほとんどシンカーの軌道を描く七菜のチェンジアップは完成した。


 ただ腕を振ってストレートを投げ込むだけなら、うちの男子打線相手には七菜でも火達磨になるだろう。しかし精度の高いチェンジアップと組み合わせることで、七菜のストレートも充分実戦に耐えるようになる。


 これが智之が七菜に教えた「ストレートを通用させる方法」だった。チェンジアップを待てばストレートに振り遅れ、ストレートを待てばチェンジアップに対応できない。ストレートとの球速差が20キロ近くあるチェンジアップのせいで、相手には七菜のストレートが140キロ級に見えているだろう。




 投手がプロで活躍するための一つのポイントは、「変化球でストライクがとれる」ことだ。ここでいう「ストライクがとれる」とは、ストライクゾーンに制球できるということに加えて、ストライクゾーンに投げても打てない、ということでもある。


 無論プロレベルの話であり、今の七菜がプロでも通用するという話ではない。プロレベルで通用するためには、チェンジアップで正確にストライクとボールを投げ分けられるくらいにならなければならない。球速130キロ台で日本ハムのエースを務める武田勝などは、チェンジアップをほぼ確実にストライクゾーンに入れられる。プロレベルにはまだまだでも七菜のチェンジアップは、高校野球レベルならわかっていても簡単には打てないという域に達していた。


 それでも孝太郎なら七菜にストレートとチェンジアップしかないのなら、打てていただろう。しかし七菜にはスライダーもあった。スライダーなら七菜はストライク、ボールを投げ分けられる。孝太郎は選択肢がストレート、スライダー、チェンジアップの三択となり、絞りきれなかったのだ。


 変化球はストレートがあってこそ、という考え方は正しい。しかしまた逆も然りで、変化球あってこそのストレートでもある。ストレートでの空振り率は一割を超えれば凄いといわれる。全盛期の藤川球児でもストレートの空振り率は三割に届かないのだ。変化球を使えなければ、それこそ全盛期の藤川並みのストレートがなければ通用しない。


 多彩で、かつ精度の高い変化球。それがストレートを武器にできない七菜に智之が用意したアンサーだった。




 六回裏の攻撃に備えて、選手が続々とベンチに戻ってくる。つぐみは智之のところに駆け寄って、言った。


「さっきの七菜ちゃんのストレート、132キロだったって」


「すごい数字だな。誰が言ったんだ?」


 これまでの最速から7キロも伸びている。智之は軽く驚きつつも、つぐみに訊き返す。つぐみは三塁側のフェンスから観戦している集団を指した。


「兄さん、小森さんって覚えてる? 小森さんがスピードガンで計ったって」


「ああ、たまに父さんに誘われてうちに来てたな……」


 父の日本プロ野球時代のチームメイトにしてうちの高校の卒業生で、確か一昨年あたりに引退したと聞いていた。


「あの女の子、何者? って訊かれたよ」


 つぐみの報告に智之は首をかしげた。


「ふうん。しかしあの人は何しに来てるんだ?」


「さぁ? 母校を見に来たんじゃない? 引退して暇なんでしょ」


 七菜の好投で奮起したのか、打線も機能し始める。六回裏の先頭打者、美冬はいつもと違って無言で構えた。つまらないボール球もブンブン振ってしまう分、美冬の打撃センスは卓越したものがある。美冬は外角へのストレートを鋭いスイングでライト前に運んだ。


「──秘技、無音の拍子……!」


 美冬は一塁でドヤァ……とにやける。黙って振れば打てるのであれば、最初からそうしてほしい。


 ボール球で勝負すれば美冬はどんなクソボールでも手を出し、普通に抑えられたのだろうが、孝太郎はそうしなかった。女子にボール球で勝負するのは、プライドが許さなかったようだ。


 次は智之に代わって二番に入った百合の初打席である。智之のサインはバントだ。百合は少し上がっているようで、顔を上気させながらヘルメットに手をやり了解した。


 百合がバッターボックスに入ると、ベンチの声援が一際大きくなる。京香と瑞季がより一生懸命になったのだ。


「百合~! 百合ならできるよ、がんばって!」


「そうヨ~! 百合、練習を思い出すネ~!」


 彼らにとって、百合は代表なのである。京香、瑞季との競争に勝って百合は選ばれたからだ。


 百合はベンチをちらりと見て幾分か緊張をやわらげたようで、大きく息を吐いてバントの構えをする。


 三人の中から百合を選んだのは、三人で唯一マシンの速球をバントできるようになったからである。もちろんマシンと孝太郎では後者の方がずっと難易度が高い。百合は二球続けてバント失敗して、追い込まれた。


 百合は智之のサインを確認する。スリーバントを失敗したら、アウトだ。しかし智之はサインを変えず、バント続行を指示した。


(大丈夫だ。やってやれないことはない)


 振らせて変なところに打ち、ダブルプレーになるよりはマシという計算もあったが、智之が百合を信用しているのも本当だ。三人ともよく練習し、特に百合はバントがうまくなった。


 百合はバントの構えをして、孝太郎は速球をストライクゾーンに入れてくる。ボールはバットに当たり、三塁線に転がった。やや強い当たりだったが、野球の神様が見ていたのだろう。ボールはおかしな回転が掛かっていたのか、バウンドの方向が途中で変わる。投手の孝太郎は捕球が一瞬遅れ二塁に投げることができない。孝太郎は舌打ちして一塁に送球した。美冬は二塁に進み、百合は大歓声を受けてベンチに戻る。


 一死二塁でクリーンナップの打順だった。三番七菜はストレートを打ち損ねて一塁線に転がし、二死三塁。四番つぐみはストレートだけに絞ってスイングし、孝太郎が制球を乱してわずかに浮いてしまったストレートをミートし、センター前のタイムリーを放つ。孝太郎は七菜との対戦で集中力を使い果たしていて、ようやく高めだけフルスイング作戦が功を奏したのだ。


 しかし孝太郎もなかなかのもので、ここで一気に崩れたりはしない。ネジを締め直して全力投球で内角を攻めて芽衣子を打ち取り、この回を一点に抑える。スコアは3─5。女子野球部二点リードでついに最終回だ。


 ベンチに戻ってきたつぐみに、智之は声を掛ける。


「ナイスバッティング! 試合前はおまえを四番から動かそうか迷ったけど、そのままでよかったよ」


 つぐみは顔を綻ばせて胸を張る。


「当然だよ。私がキャプテンなんだから!」


 打撃技術は正直七菜の方が上だが、勝負強さならつぐみも負けない。つぐみのレガースをつけるのを手伝いながら、智之は囁く。


「次で最後だ。……七菜を頼むぞ」


「任せなさい!」


 つぐみはドンと胸を叩いた。ようやく勝ちが見えてきた。あと一回、下位打線を抑えれば終わりだ。




 七回表、このまま何事もなく終わってほしいという智之の願いは、もろくも崩れ去る。先頭の五番打者が七菜のストレートを痛打し、ライト前に落ちるシングルヒットを放ったのだ。


 七菜はマウンド上で深呼吸して汗を拭う。五番打者はチェンジアップを警戒して始動がやや遅かった。そのため少しタイミングが遅れて長打にならなかったのだが、危ない球だった。


 高校球児相手に全力投球で5イニング目は握力が低下し、七菜にとってきついところだろう。ブランクが大きく、先週の練習試合もほとんど投げずに降板してしまったため、スタミナも切れかかっている。そろそろ細かい制球は難しくなってきたし、球速も落ち始めてきた。


 出塁した五番打者は大きくリードをとり、走らせないように七菜は牽制する。向こうもこのまま何も起きなければ負け試合になってしまうため、死に物狂いだ。牽制は毎日必ず時間をとって練習している。七菜は左ということもあってランナーは走りにくそうだった。さすがに刺すことはできないが七菜はしつこく牽制球を放り、走者を動けなくする。


 六番打者にはストレートとスライダーでカウントを整え、最後にチェンジアップで見逃し三振。相手はどうも狙い球をストレートに絞っていたようだが、ならばこちらにも手はある。ボールのストレートに手を出させ、スライダーを混ぜることで相手打者はファールを連発して追い込まれたのだった。


 七番打者のところでこのままでは負けると考えたのか、カウントがボール先行になったところで走者が走ってくる。エンドランだ。打者は七菜の低めのストレートを転がし、ほとんどピッチャー強襲のようなゴロが七菜を襲う。


「七菜ちゃん、一塁! 二塁は間に合わない」


 七菜は慌てることなくゴロを捕球し、つぐみの指示に従い一塁に送球する。強い打球だったので心配したが、七菜は落ち着いたものである。フィールディングも四月初めに比べれば随分上達した。これで二死二塁。あと一人である。


 八番打者もストレート待ちだろう。智之は七菜にボールのストレートやスライダーを投げさせて、八番の打ち損じを誘うが、うまくファールで逃げてフォアボールとなった。二死一、二塁の大ピンチだ。さすがにこちらの配球もばれてきたらしい。ここでフォアボールを連発して自滅するようなことになれば、完全に智之の二の舞である。


 九番のところに代打森橋が告げられる。森橋はうちの高校では珍しい県外組だ。ここのところ故障でスタメンからはずれているものの、去年は上級生に混じってレギュラーだった選手である。剛の武星、柔の森橋と並び称され、ドラフトマニアの間で評判の捕手だ。


 森橋はパワーでは孝太郎に劣るが当てるのが上手く、左打者なのに左投手を苦にしない。ある意味孝太郎より手強い相手かもしれない。この男がスタメンで出ていれば、試合の展開は全く違っていただろう。


 この打席で間違ってホームランを打たれれば逆転。ヒットで繋がれても、非常に苦しい。一~三番の左打者は今のところ七菜に手も足も出ていないが、次の打席は三巡目になる。いくらなんでも対応してくるだろうし、何より七菜の球威がかなり衰えている。森橋に打たれれば、一気に男子側がイケイケの雰囲気になることは避けられない。




 ここが正念場だ。マウンドに内野手が集まり、一旦間を取る。


「まだいけるよ!」


「もう少しですわ」


 つぐみと夏帆が七菜を励ます。疲労で内野手たちも頭が動かなくなってきているのか、非常に簡潔だ。運動量でいえば投手とは比べるべくもない野手陣だが、緊張状態でグラウンドに立ち続けているため消耗は激しい。


 ほとんどスタミナを使い切った七菜は口元をグラブで隠したまま肩で息をするばかりだ。七菜の顔は熱で真っ赤になり、汗が浮かんでいる。限界が近い。


 智之は京子を伝令として送った。京子は七菜に伝える。


「とにかく思い切り腕を振って打ち取れ、だそうです。最悪フォアボールで満塁にしてもいい。逃げのピッチングだけはするな。おまえを信じている、と監督は言ってました」


 七菜は顔を上げてうなずいた。月並みな言葉だが、これで充分だ。そもそも、今さら小難しい作戦を授けても頭に入らない。故障明けでしばらく打席に立っていない森橋なら、勢いで押せばなんとかなるという計算だった。


 いずれにせよ、あとは七菜次第だ。ここに来て智之が小細工を仕掛けても、激戦で疲弊した選手たちがついていけない。智之にできるのは、選手たちを信じることだけだ。




 野手陣が定位置に散り、森橋は左打席に入る。ゲーム再開だ。


 七菜は森橋に初球外角高めのストレートを投じる。森橋はピクリと反応するが手を出さず、まずはワンストライクだ。七菜は球威がなくなってきているため、大方森橋は低めの球を予想していたのだろう。手を出されると危なかったが、見逃してくれた。


 二球目は内角低めのチェンジアップでボール。三球目は外角低めのボールになるストレートで、森橋は打ちに行ってファールにする。本調子の森橋なら見送っていた球だ。これではっきりした。森橋は実戦勘が戻っていない。そして、低めの球を狙っている。


 初球でそうしたように、森橋の狙いとは逆の高めで勝負するという手はある。高めの変化球など緩い抜け球にしかならないので、高めに賭けるならストレートだ。しかし高めのストレートはすでに初球で見せているし、今の七菜では直球勝負をするには球速が足りない。ストレートがストライクゾーンに入れば、次こそやられる。


 だからといって遊び球を使う余裕はない。あまり長引かせると森橋の勘が戻る可能性もある。やはりここは低めの変化球で決める他ない。


 森橋の内に曲がるチェンジアップか、外に曲がるスライダーか。森橋も両方に対処するのは困難なので、狙い球をどちらかに絞るはずだ。疲労に伴う握力の低下で、この二球種も必殺とは言えなくなってきている。森橋の読みをはずせば抑えられるし、森橋の読みが当たれば打たれるだろう。


 七菜がこの試合で組み立ての軸にしているのはチェンジアップだ。一方で左打者には決め球としてスライダーばかり投げている。果たして森橋はどちらに絞るのか。確率は1/2だ。


(森橋の反応がコンマ一秒狂うのに賭ける……!)


 智之はつぐみを中継して七菜にサインを送った。七菜はうなずき、投球体勢に入る。七菜の左腕からボールが放たれ、森橋の外角低めへと直進する。森橋はバットを振るが、ボールは逃げるように外に曲がり、森橋のバットは空を切った。


 智之が選んだのは、スライダーだった。理由は、ストレートと誤認させるため。森橋はストレートとほとんど見分けがつかないストレートを見て動揺し、反応が遅れて空振ってしまったのだ。


 正直なところ、智之にも森橋の狙いがどちらなのかはわからなかった。しかし、二球目にチェンジアップは見せたが、スライダーはまだ森橋には見せていなかった。だから森橋は、七菜のスライダーがどれほどストレートと見分けづらいか知らない。初動でスライダーをストレートと誤認させれば、もうそこで七菜の勝ちは決まりだ。変化球待ちだった森橋のスイングは崩れ、中途半端な打撃に終わってしまう。


 智之は森橋に第三の選択肢を提示することで、この難局を乗り切ったのである。七菜もよくストライクゾーン低めにスライダーを決められた。土壇場で力を出した七菜に、勝負勘が戻っていない森橋は対応できなかったともいえる。


 森橋の空振り三振でゲームセット。3─5で女子野球部の勝利である。




 勝利の瞬間、七菜はマウンドで投げるときの凛々しい表情のまま、固まっていた。つぐみが立ち上がって「やったね!」と七菜のところに駆け、内野陣が七菜のところに集まって、遅れて外野手たちがマウンドまで走り、ようやく七菜は笑顔を見せる。


 智之もベンチから飛び出し、七菜を祝福する。七菜はこちらにやってきた智之の姿を見て、言った。


「……監督、やりました」


「ああ、いいピッチングだった」


 五回を投げて無失点。男子チームは木製バットだったとはいえ、すばらしいピッチングだった。七菜は高校レベルの男子でも抑えられることを証明した。


「監督のおかげです」


「いや、おまえががんばったんだ」


 七菜の言葉に智之がそう返すと、七菜は太陽のような笑顔を浮かべる。智之は七菜の頭にポンと手を置いて撫でた。それからグラウンドのあちこちで喜びを分かち合っている皆に号令を掛ける。


「よし、喜ぶのは後だ! まず整列するぞ!」


 整列の後挨拶し、女子野球部が第二グラウンドに帰る運びとなる。その前に智之は、孝太郎と言葉を交わす。


「まさか負けるとは思わなかった。七菜は約束通り好きにしろ。だが、七菜の力で勝っただけだ。俺はお前を認めたわけじゃないからな! おまえ真面目にリハビリしてなかっただろ! 球速がだいぶ落ちてるじゃねぇか!」


 険しい顔を崩さないまま孝太郎はまくしたて、七菜が抗議の声を上げる。


「お兄ちゃんは監督に教えてもらった私のチェンジアップが打てなかったくせに、何言ってるの! 今日私たちが勝てたのは、監督のおかげだよ! お兄ちゃんなんか大っ嫌い!」


 七菜に「大っ嫌い!」と言われて孝太郎の顔がみるみる歪む。妹ににらまれては孝太郎もヘビの前のトノサマガエルだ。


 智之は苦笑しながら孝太郎に尋ねる。


「孝太郎、おまえは何のためにこの試合で投げたんだ?」


 孝太郎はムッと顔をしかめ、不躾に答えた。


「言ったはずだ。俺は七菜のためには悪役にもなってみせる、ってな」


「なんでおまえが悪役になる必要があるんだよ。それを説明しろ」


 智之は嘆息して訊き、孝太郎はすねた子どものように顔を背けて答える。


「……七菜の夢がかなわなくて、七菜が落ち込むことがないように、だ」

 孝太郎の発言を聞いて、七菜が怒ったように声を上げる。


「何それ!? なんで今から、うまくいかなかったときのことを考えてるの!? 馬鹿じゃないの!?」


 孝太郎はぼそぼそと言い訳する。


「だって、おまえが去年の夏に落ち込んでたときは、見ていられなかったから……。だったら野球じゃなくて他の道に行けば、おまえはいくらでも頂点を目指せるんだし……。俺が理由になれば、おまえもすんなり野球を諦められるんじゃないかって……」


「去年の夏って……。お兄ちゃんがどうして私が落ち込んでたこと知ってるの!?」


「見てればわかるよ……。俺はおまえの兄貴なんだぞ」


 七菜は心当たりがあったらしい。七菜は絶句し、孝太郎は困ったようにポリポリと頭を掻く。


 孝太郎は悪役ではあったが、悪人ではなかった。智之は最初から知っていたし、七菜も無意識ではわかっていただろう。ここらへんで智之は助け船を出す。


「七菜、わかったろ? こいつも一応おまえのことを考えて動いてたんだよ。あんまり怒ってやるな」


「……わかりました、監督。でもお兄ちゃん、監督を馬鹿にするのだけは許さないんだからね!」


「ム……七菜がそう言うなら仕方ないな。……智之、こんな妹だがよろしく頼む」


 孝太郎は急に殊勝になり、頭を下げる。今度は智之が不躾に言う。


「んなことしなくても、俺は七菜をちゃんと見るよ。心配すんな」


 孝太郎はスッと頭を上げ、


「そうか。だったらもう帰れ。練習の邪魔だ」


「お兄ちゃん!」


「俺たちは智之は打ったからな」


 孝太郎は腕組みして顔を背ける。智之は苦笑した。


「七菜、いいから戻るぞ」


 また七菜がほっぺたを膨らませるが、智之は七菜をなだめて第二グラウンドへ帰ることにする。さぁ、まだまだ練習時間はある。まずはこの試合の反省会をしなければ。勝っても課題はいくつもあった。


「……智之、最後におまえと対戦できてよかったよ」


 智之の背後でポツリと孝太郎が言った。智之は聞こえなかったふりをして歩を速め、自分の隣を歩く七菜を見た。すでにバトンは渡している。


 俺も、最後に孝太郎と対戦できてよかった。

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