4.僕が持っているものがわかりました! それは仲間です!
「あれはなかったかなあ……」
試合後のミーティングを終え、各々が個人練習に散ったところで智之は小さくぼやいた。試合中に泣いてベンチを飛び出した七菜は、結局試合が終わっても戻ってこなかった。夏帆と美冬に探しに行ってもらっているが、まだ見つかっていない。
耳聡く智之のぼやきを聞いていたつぐみが発言する。
「仕方なかったと思うよ。あんなピッチングしても意味ないし。兄さんが怒ってなかったら私が言ってた」
「ま、必要なのはフォローってことだねえ」
芽衣子がお気楽な調子で言うが、それが一番難しいのだ。智之は頭を抱え、そこに夏帆が戻ってくる。
「見つかったのか?」
「ええ、校舎裏にいました。でも、今日は戻りたくないと……」
そこまで夏帆から報告を受けたところで、美冬が姿を現す。美冬はグラウンドの入り口で立ち止まり、両手で大きく×印を作った。美冬のサインを見て、夏帆は息をつく。
「……だめだったようです」
「そうか……。まあ、見つけてくれただけで充分だ。帰ったなら万が一の心配もないだろ。おまえらも練習に戻れ」
フォローと言われてもどうすればいいのか。智之は頭を痛めた。
「……兄さん、ひょっとしたら私のせいかもしれない」
つぐみがぼそりと漏らす。
「どういうことだ?」
智之が事情を尋ねると、つぐみは珍しく暗い表情を浮かべ、話し始める。
「この間、みんながうちに泊まったことがあったでしょ。あのときに私、言っちゃったの。『私はプロ目指してない』って。私、七菜ちゃんを一人にしちゃったのかも……」
夏帆もつぐみの言葉を聞いてうつむき、
「わたくしもそう言ってしまいましたわ……」
智之は二人から話を聞き終え、思い出す。
「そういえば孝太郎は七菜に言ってたな……。『一人だけずれたことやってるんじゃないか』って。あいつ、ひょっとしたらそれを気にして……」
「やっぱり私が原因なのかなあ……。七菜ちゃん、部活辞めちゃうかも……」
うなだれるつぐみに、智之は諭すように言う。
「……そんなことで心が折れるようじゃ、最初からだめってことだ。おまえらは悪くない。おまえらは七菜が立ち直ったときに、普段通りに受け入れられるようにしてやれ。つぐみ、おまえがキャプテンなんだからな。しっかり頼むぞ」
つぐみは先日正式にキャプテンに就任したばかりだ。
「了解、兄さん! 行こう、夏帆ちゃん」
「ええ、行きましょう」
つぐみは幾分か明るさを取り戻し、夏帆とともに練習に戻った。
さて、七菜はどうなるだろう。一晩で頭を冷やしてくれればいいのだが……。
○
「あれはなかったかなあ……」
七菜は自宅に帰って枕に顔をうずめ、そうつぶやいた。
帰宅して冷静になってみれば、勝手なことをして炎上したのは七菜だった。智之が怒るのももっともである。
ただし、七菜の考えが間違っていたとは思えない。やはりストレートを通用させなければ、孝太郎はもちろん高校球児の誰も抑えられないだろう。
中学時代は七菜のストレートを男子も誰も打てず、白星を重ねることができた。いくらスライダーがよくても、相手が七菜のストレートに空振りしてくれなければ、あんなに勝つことはできなかったはずだ。
智之に教えてもらっている新しい変化球もあるが、変化球はストレートがあるからこそ生きるものだ。
(それに……あんな遅い球が使えるとはとても思えない)
今のままでは、仮に変化球がよくてもストレートを狙い打ちされて負ける。だからストレートを全て低めに集めようと思ったら、結果はあのザマだ。このままでは孝太郎に勝てず、投手を辞めなければならない。
(でも……プロに行けないんだったら……)
真剣に七菜はそう思う。
初めてプロに行きたいと思ったのは中学二年生の夏だった。
当時、中学三年生で高校進学を控えた孝太郎はその身体能力を生かした豪快なプレーで高校野球界から注目を集め、地元だけでなく東北や関西の強豪私立からもスカウトが来るほどだった。孝太郎はすでに地元に残ることに決めていたので、スカウトたちの勧誘には頑として首を縦に振らなかったが、七菜はうらやましく思ったのを覚えている。
スカウトたちは自分たちの高校に進学すれば甲子園に出られると力説し、惜しみなく特待生などの好条件を提示した。そして口々にこう言った。「うちで結果を残せば、プロに行ける」。
孝太郎もシニアで結果を残してようやくプロが現実的な目標に思えてきたのか、満更でもない様子で応対していた。そんな兄の様子を見て、七菜ももっと上でやりたいと思ったのだった。
そもそも七菜が小さい頃に野球を始めたのは、孝太郎がやっているのを見て自分もやりたくなったからだ。それから七菜は孝太郎に手取り足取り教えてもらいながら、野球の楽しさを理解した。リトルでは孝太郎と交代で先発投手を務め、七菜の球を年上の男子たちがどんどん空振るのは快感だったし、兄と一緒にチームを引っ張っていくのは楽しかった。
上に行ける実力を身につければ、これからも孝太郎と野球ができる。女子が高校野球でプレーできないのは知っていたが、シニアで活躍すれば必ずどこかから声が掛かるだろう。そう考えて孝太郎の引退後、がむしゃらに努力した。
七菜の考えは的中する。三年生の夏前には、日本各地の女子野球部のある高校から、何度も誘いが来るようになった。高校生以上の大人に混じって、女子野球世界大会の代表候補にもなった。
しかし女子野球部からのスカウト活動は、すぐに七菜にとって苦痛なものに変わってしまう。孝太郎への誘いは「甲子園に出られる」、「プロに行ける」だった。対して七菜への勧誘は「うちなら野球を続けられる」。
野球を続けることなんて、七菜には誰かに言われるまでもなく当然であるつもりだった。でも世間は全くそんな風に思っていなくて、そのうち女子野球部よりソフトボール部、さらにはバレー部やバスケ部、陸上部など野球以外の部活からの誘いが多くなった。
仕方ないので七菜は、自分でスカウトにやってきた女子野球部の監督らに訊いてみることにした。「私はプロに行けますか」と。
七菜の質問を聞いた女子野球部スタッフは大抵目を白黒させて、「それは女子プロ野球のことか?」と訊き返した。続けて七菜が「違います。男子のプロ野球です」と答えれば、彼らは一様に言葉を詰まらせ、「100%不可能とは言えないけど……」とか「かなり難しいと思う」などとしどろもどろな返答をする。ああ、無理なんだな、と七菜は思った。
彼らがそう言うのももっともである。七菜は女であって、男子ほどの成長は見込めない。どんなに練習を重ねても150キロは投げられないだろう。140キロも怪しいくらいだ。七菜が望んだ道はどこにもなかった。
だから夏の大会が終わった後、七菜はすっぱりと引退することにした。怪我らしい怪我をしたことがなかった七菜が負傷して、孝太郎が大袈裟に騒いだというのもあるが、プロへの未練を断ち切るためだった。もう七菜が野球をすることはない。そのことを自分に刻みつけようとしたのである。
だが、そう簡単に野球への思いを捨てることはできなかった。辞めたはずなのに、気付けばグラブとボールを持ち出し、練習してしまう。孝太郎にとがめられることもあったが、幸い孝太郎は高校球児となり、練習に試合に毎日野球漬けで忙しかった。孝太郎の目を盗んで練習するのはたやすいことだった。
七菜はけじめをつけるため、最後の賭けに出る。兄と同じ高校という理由で進学先に選んだ洞峰高校には、女子野球部が新設されると聞いていた。洞峰高校からのスカウトは受けていない。もしもそこの監督が「七菜にプロに行ける見込みがある」と言ってくれたなら、野球を続けよう。
しかしそんなことを訊くために押しかけるわけにはいかない。あくまで自然に誘われて、自分の可能性について尋ねなければ。そう考えた七菜は、入学式当日に女子野球部のグラウンドに近い裏庭で投球練習をした。
やってきたのは、智之だった。七菜は智之が女子野球部の監督だなんて思っていなかったので、関係ない人に声を掛けられたと思い、応対に困ったのだが、孝太郎が来てくれたおかげでそのときは逃げることができた。
失敗した、と思ったが、見ている人は見ているものだ。翌日同じクラスの夏帆、美冬に誘われた。七菜は二人についていきたくなるのを堪えて、孝太郎の名前を出して断る。
その場はあっさり引いた夏帆、美冬だったが次の日も七菜が裏庭で投げていると、目論見通り女子野球部に連行してくれた。そこで七菜は、智之に出会った。智之は七菜に見込みがあると勧誘し、七菜は最後の賭けに勝ったのだった。
今まで「七菜に可能性がある」と言ってくれた指導者は智之だけである。七菜は内心で舞い上がり、智之の言う通り練習に励んだ。しかし、孝太郎には勝てなかった。
こんな短期間でいきなり実力がつくわけがないことくらい、七菜もわかっている。それでも七菜は自分の中に雨雲のように広がった不安を打ち消すことができなかった。いくら努力しても無駄なのではないか。七菜に、可能性など1%もないのではないか。
これまで会った智之以外の指導者は、全員七菜のプロ入りについて否定的だった。経験の浅い智之だけが、七菜の夢を肯定した。
智之が嘘をついたのだとは思っていない。嘘なら、あんなに真剣に、一生懸命に七菜の練習に毎日付き合ってくれるわけがないからだ。でも、判断を間違えたのではないかという疑念は、消えないシミのように七菜の心にこびりついていて、今日の練習試合で爆発した。
チームは皆が同じ方向に向かって努力しないと強くならないのに、七菜一人だけが違うところに向かっている。チームに迷惑を掛けているのは七菜だ。いくら監督の智之が許してくれていても、耐えられない。
もうどうしたらいいのかわからない。七菜は枕に顔を押し付けて一人で堂々巡りの思考をしているうちに、眠りに落ちてしまった。
いかに七菜が悩もうとも、地球の自転周期はちっとも変わらない。次の日になれば普通に朝が来て、学校に行かなければならなかった。
寝過ぎたせいか頭が痛い。普段は六時には起きて朝食を摂り、七時にはグラウンドで朝練を始めていた。ところが今はもう八時を過ぎている。
孝太郎がいないことだけが救いだった。七菜が智之に泣かされて帰ってきたと知っていれば、あの兄は何をしでかすかわからない。
七菜は重い体を引きずって登校した。
遅刻寸前で教室に駆け込む。同じクラスの夏帆と美冬は、朝練を終えてすでに教室に来ていた。二人は教室に入った七菜のところに駆け寄ろうとする。しかしすぐにチャイムが鳴って先生が現れ、二人は渋々席に戻った。
そのままホームルーム、一時間目の授業と進行し、休み時間を迎える。また夏帆と美冬が七菜の席に来ようとするが、七菜はチャイムが鳴ると同時に脱兎のごとく逃げ出した。
とにかく今は、誰とも話したくない。七菜は休み時間が来る度に同じ行動を繰り返した。
昼休み、七菜は弁当が入ったバッグを掴んで裏庭へと逃げ出す。普段は夏帆、美冬らと教室でお弁当を食べていたが、今日はそうしたくない。
裏庭には先客がいた。七菜は驚いて壁の影に隠れる。
(どうしてカオルちゃんが……)
混乱する頭を落ち着かせながら、七菜はそっと壁の影からカオルの様子をうかがう。カオルは竹刀を持って素振りをしていた。
静と動がはっきりした滑らかな動きで、足運びも交えてカオルは竹刀を振る。その姿はさながら黒揚羽が空を舞っているような艶やかさで、ど素人の七菜でもカオルが相当の使い手なのだとわかった。思わず七菜はカオルの動きに見とれてしまう。
時間にして十数分、カオルは竹刀を振り続けた。最後に竹刀を腰にやって一礼し、カオルは七菜が隠れている方に目を向ける。
「いつまで隠れてるの。いい加減出てきなよ」
最初からカオルは気付いていたらしい。七菜は恥ずかしさで小さくなりたくなった。穴があったら入りたいとはこのことだ。
今さら逃げても他に行く当てもないので、仕方なく七菜はカオルの前に出て行った。カオルは竹刀を片付けて持参のバッグから弁当箱を取り出し、校舎を背に腰を下ろす。カオルは地べたに座っているのに正座だった。
「剣の技が錆び付かないように、ちょっと練習してたんだ。こっちへ来なよ」
カオルは七菜に隣に座るよううながし、七菜はおずおずと従う。七菜もカオルと同じようにお弁当を取り出すと、カオルは「いただきます」と手を合わせて弁当を食べ始めた。その様子を見て、七菜も弁当を食べることにする。七菜とカオルは会話するでもなく、黙々と弁当を食べた。
弁当を半分ほど食べ終えたところで、カオルはぽつりと七菜に尋ねた。
「野球部、辞めるの?」
あまりに直球な質問に、七菜はどもりつつも答えた。
「えっ!? あ、あ、あの、その……わかりま、せん」
カオルは表情を全く変えずさらに訊く。
「なんでわからないの? 自分のことだろう?」
カオルの言葉に七菜はしゅんとうつむく。
「きっと私は……もっともっと野球を続けたいんだと思います。でも……それは誰のためにもならないから」
七菜が野球を続けても、プロは無理だ。チームの和を乱し、智之をがっかりさせ、孝太郎を心配させるだけである。それなら、すっぱりと野球を辞めるべきなのではないか。七菜はそうカオルに訴えた。
カオルは七菜の訴えを全て聞いた上で、言った。
「馬鹿じゃないの?」
「そ、そういう言い方はないんじゃないかと思います……」
か細い七菜の抗議に、カオルは平常運行で言う。
「だって今、君は野球を続けたいって言ったじゃないか。誰のためにもならないって、君は誰かに言われて野球してたの? そうじゃないだろう? だったら答えは決まってるじゃないか」
「でも私が一人だけ違うことやってたら邪魔ですし、結局プロになれなかったら監督に合わせる顔がないです……。お兄ちゃんだって、私のことを思って反対してくれてるんです……」
七菜の言葉にカオルはやれやれと首を振った。
「あのさぁ、僕らのうち誰か一人でも君が邪魔なんて言った? 監督だってそうだよ。君が勝手に怖がってるだけじゃないか。誰も君の邪魔なんかしてないんだ。君のお兄さんを除いてね。君がやるべきことは、お兄さんに勝って認めさせることだよ」
そこまで言って、カオルは顔を上げ、空を見上げる。霞のように淡い雲の向こうで、太陽がぼんやりと光っていた。
「……僕が剣道辞めた理由、知ってる?」
一呼吸置いて、七菜は応える。
「……ええ、つぐみちゃんから聞きました」
剣道選手として有名だったカオルの父は、こともあろうに剣道の技を悪用して、連続婦女暴行事件を起こした。そのためカオルも道場にいられなくなり、剣道を辞めざるをえなくなった。
「僕はもう剣道はできない。僕の名前が出ると、皆にお父さんの事件のことを思い出させてしまうからね」
カオルは寂しげに笑う。悪い意味で剣道界に村中の名は広まってしまった。事件が風化する頃には、カオルは競技者として肉体の全盛期を過ぎてしまっているだろう。カオルは女子野球部の中でも七菜、つぐみに匹敵する身体能力の持ち主なだけに、非常にもったいないことだ。
「自分で言うのもなんだけど、ずっとやってたことができなくなるっていうのは、すごく辛いことだよ。ま、野球も楽しいんだけどね」
そう言ってカオルは笑顔を見せ、続ける。
「監督だって、同じなんじゃないかな? 詳しくは知らないけど、故障で引退したんでしょう? それなのに君は、あんなこと言っちゃってさ」
カオルは苦笑する。「監督も諦めたじゃないですか」。七菜は、そう智之をなじってしまった。
「君の夢がとてつもなく難しいだなんてことは、みんなわかってるよ。だからそれを理由に辞めるだなんて言うのはやめなよ。それこそ、みんなに失礼だから」
「私……謝らないと……」
七菜は立ち上がる。その様子を見てカオルはホッと息を吐いた。
「もう大丈夫みたいだね。じゃあ、行ってきなよ」
「はい! カオルちゃん、ありがとうございました!」
七菜はカオルにお礼を言ってから、駆け出す。まずは夏帆と美冬に会って話をしよう。あの二人も、七菜のことを心配していてくれたから。
しかし七菜が夏帆と美冬を見つける前に、昼休みは終わってしまった。五、六限目は七菜と夏帆、美冬がそれぞれ別の授業をとっている理社の選択授業が続くため、話をする時間がとれない。
放課後になってようやく、七菜は二人と話をすることができた。部活に行く前の教室で、七菜は二人を捕まえたのだ。
「夏帆さん、美冬さん、今日は逃げ回ってすみませんでした!」
開口一番、七菜は二人に謝り頭を下げる。二人は顔を見合わせ、言う。
「頭を上げてくださいまし。わたくしたちも少し強引でしたわ」
「──姉君の言う通りである……。闇の帝王である我が命じる、頭を上げよ……。我も少し反省していたところだ……」
不適に笑い腕組みする美冬は、申し訳ないけど反省しているようには見えなかった。べつに二人に謝ってほしかったわけではないので、七菜は気にしていないが。まあ、これが彼女なりのやり方なのだろう。七菜はゆっくりと頭を上げる。
「それで結局……どうしますの? 部活は……?」
不安げに訊いてくる夏帆に、七菜は宣言する。
「辞めません。プロも目指し続けます」
「──よかろう、貴様は天の道を往くがよい」
七菜の回答に美冬は百点満面の笑みで言った。夏帆は安堵したようで、ニッコリ笑って言う。
「でしたら、監督に謝らなければなりませんわね」
夏帆の言葉を聞いて、美冬もニヤリと笑う。
「──フッ……我らが取りなそうではないか……。我が絶対遵守の力を使うときが来たようだな……!」
美冬は何やら目の辺りに手をやりポーズを決める。七菜はよくわからないので美冬をスルーして思い返す。
「私、酷いこと言っちゃいましたもんね……」
「監督も諦めたじゃないですか」。智之が故障で引退したのを知っていながら、七菜はつい口にしてしまった。
夏帆は深刻な顔をしてうなずいた。
「そうですわね……。監督の怪我のことは、わたくしも詳しく聞きました。肘は一応治っているそうですけど、次は肩がだめになりかけているそうです。もし壊れたら、また手術をするしかないと……」
「監督はそんな状態で、今度の試合に出る気だったんですか……」
七菜は智之の故障がそこまで重いとは知らず、驚いた。
美冬は小さく笑い、茶化すように言う。
「──フハハ、それも全てお主のため……! 監督は必ずお主を許すであろう。城和田智之こそが武星七菜の運命を導くモノなり……!」
「……そうですね、監督は全部、私のためにやってくれてるんだと思います。ですから、私も応えたいです。ちゃんと、監督とお話します」
七菜は首肯し、美冬は何が期待はずれだったのか少し拍子抜け、といった表情を見せていた。
○
朝練にも七菜は来なかった。ひょっとして七菜は、このまま野球を辞めてしまう気なのだろうか。だとしたら、全ての責任は智之にある。
七菜のことがいくら気になっても、智之も自分の仕事をしなければならないのが辛いところだ。
放課後、智之はつぐみとコーチの哲平を呼んで、今日の練習の打ち合わせをする。
「今日も打撃練習中心だから哲平、頼むぞ。初心者組を気に掛けてやってくれ」
「了解。百合ちゃん、瑞季ちゃん、京香ちゃんは今日も120キロのマシンでやらせるけど、いいよね?」
「ああ。でもいけそうだと思ったら140キロの方もやらせてみてくれ」
哲平の問いに智之はOKを出す。ここのところ孝太郎対策で打撃マシンを140キロにセットして打ち込んでいたが、初心者組にはまだ厳しいのだった。
智之はさらに付け加える。
「あと今日から哲平もマシンを打ってくれ」
「俺が? 俺が打ってどうすんの?」
哲平は疑問を浮かべながらも、ちょっと嬉しそうに半笑いを浮かべる。哲平もコーチとして皆がプレーしているのを見ていて、大分自分でやりたくなっていたらしい。
面白がってつぐみが言った。
「きっと哲平さんの打撃がお手本になるんだよ!」
「そうか! じゃあがんばっちゃおうかな! さっそく準備してくるぜ!」
話を最後まで聞き終わる前に、哲平はグラウンドに出て行ってしまった。まあ、やるべきことは伝えたので問題ないだろう。
智之は残るつぐみと練習の段取りについて細かく打ち合わせる。話が全て終わってから、智之はつぐみに尋ねた。
「なぁ……つぐみ。とりあえず俺は約束の一勝をあげられた。もう女子野球部が廃部になることはないんだから、もっとちゃんとした指導者に頼めるんじゃないか?」
「何それ。兄さん、監督を辞めたいってこと?」
つぐみはムッとした様子で訊き返してくる。ためらいながらも、智之はうなずいた。
「ああ……。やっぱり俺より、しっかりと勉強した指導者の方がいいに決まってるからな」
智之が言ったことは正論のはずだ。せいぜい中学野球までしか知らない智之より高校、大学と経験を積んだ指導者の方がいいに決まってる。
しかしつぐみは智之に同意せずに、別のことを訊く。
「七菜ちゃんのこと、気にしてるの?」
嘘を言っても仕方ないので、智之は正直に心情を吐露した。
「そうだな……。このままあいつが野球を辞めたら、俺の責任だな」
智之は七菜の不安を理解しようともせずに、叱りつけてしまった。七菜は基本的に「いい子」だ。先生の言うことはもちろん、智之の言うこともちゃんと聞いてくれるし、規則は絶対に破らない。
その七菜が智之の言うことに強い拒絶を示し、智之の前から消えてしまった。智之が思った以上に七菜が焦っていたというのもある。智之が同年代の女子が何を考えているか完璧に把握しろという方が無理であり、これはある意味仕方ないともいえる。しかし一番大きかったのは、コーチ智之と投手七菜の間にあった齟齬だった。
「ストレートが通用しなければ抑えられない」。七菜の言ったことは正しい。七菜の特異性を加味しても、140キロに届くか届かないかくらいまでしか伸びないであろう七菜の球速では、プロ入りを視野に入れたとき心許ないのは事実だ。
しかし智之としては今練習させている新しい変化球で、その問題を何とかするつもりだった。そのことがちゃんと七菜に伝わっていなかったのは、智之の指導者としての資質の問題である。
元々智之が監督になったのはイレギュラーだ。やはり七菜ほどの逸材は、きちんとした指導者に指導してもらった方がいいのではないか。どうしても智之はそう思わざるをえなかった。
「……辞めないよ。絶対に七菜ちゃんは野球を辞めない」
断言するつぐみに、智之は尋ねる。
「どうしてそんなことが言えるんだよ?」
「ぶっちゃけ、兄さんが組むメニューってすごく厳しいよね?」
そんなことを言うつぐみに、智之は首をかしげる。
「そうかぁ? 父さんはもっと練習してたぞ?」
「それは父さんがすごいんだよ。他のみんなも練習きついって言ってるよ?」
「そうか。ま、きついくらいがちょうどいいんだ。で、七菜と何の関係がある?」
つぐみは苦笑いし、智之は続きを促す。まあ、現役メジャーリーガーと女子高生の練習量を比べても意味がないのも事実だ。
「七菜ちゃんは、兄さんがやらせてるメニューがきついなんて、一回も言ったことないの」
「……単におまえらより七菜の方が体力があるってだけじゃないのか?」
智之はそう言ってみるが、つぐみは首を振る。
「そんなわけないよ。だって七菜ちゃんの練習量は、私たちの1.5倍くらいでしょ? いくら七菜ちゃんでも、きついはずだよ。でも七菜ちゃんは、弱音を吐くどころか、もっと練習したいって言ってる」
「……」
「それくらい真面目に野球をやってる子が、辞めるわけないじゃん。……ほら!」
つぐみはグラウンドの入り口を指す。七菜が夏帆と美冬に伴われて、姿を現していた。
七菜は智之の姿を見つけるなり一目散に駆け寄ってきて、言った。
「監督、この前はすみませんでした」
「いや、俺もあのときは怒鳴ったりして悪かった。……場所を変えよう」
あまり皆の練習の声が響いている場所で話す雰囲気でない。智之はつぐみと哲平に目配せする。二人に練習を任せて、智之と七菜はベンチ裏に移動した。
二人きりになると、七菜は少し泣きそうな顔になって、智之に謝った。
「酷いことを言ってしまって、申し訳ありませんでした……」
「酷いこと……? ああ、気にするな。事実だしな」
智之は七菜に「監督も諦めたじゃないですか」と言われたことを少し考えてから思い出す。智之は大して気に留めていなかったが、七菜にとっては重大事だろう。七菜は諦めていないのだから。
「でも、私……!」
さらに謝ろうとする七菜を、智之は制止する。
「いいんだ。俺が諦めたのは事実だよ。故障もそうだけど、この体格じゃな。残念だが、俺には才能がないんだ。だから、現役をきっぱりと諦められた」
右利きで七菜より背が小さい智之は、投手としては非常に厳しい。いくらフォームが変則でも、その分球威がないし他に特別優れた資質があるわけでもない。バッティングも智之は並みだったし、この体格では野手も厳しい。智之にプロを目指せる実力はない。
「でも、おまえには才能がある。べつに諦めるなとは言わない。女のおまえがプロになるのは難しいってことは、俺だってわかってる。それでも、俺の目から見て可能性があるのは事実だ。俺を信じられないかもしれないが、俺は真剣なんだ」
「はい……。あんなに一生懸命練習に付き合ってくれるのに、監督が嘘をついていたなんて、私は思いません。ただ……」
そこまで言って七菜は少し目を伏せる。
「私は、怖かったんです。ここまでしてもらってるのに、もしもプロになれなかったらと思って……」
七菜の心配を、智之は笑い飛ばす。
「ハハハ、そんなことは構わないんだよ。夢が叶わなかったら、また新しい夢を捜せばいい。それだけだ」
「監督は、見つけたんですか……? 新しい夢……?」
七菜は顔を上げ、智之の瞳をまっすぐに覗き込む。智之は微笑みを浮かべ、言った。
「俺の新しい夢は、もうかなってる。おまえらが、かなえてくれた」
「それって……!」
七菜は目を見開き、智之はニッコリと笑う。
「現役を諦めてから、俺は指導者になりたいと思った。もう、かなってるんだ。おまえらが、俺を監督にしてくれたから」
引退後、智之は野球の指導者になりたいと思った。父のような野球選手になるという自分の夢はかなわなかったが、他人の夢を応援することはできる。自分の力で誰かをわずかでも夢に近づけられるなら、それはとても喜ばしいことだった。
最初に智之が目指そうと思っていたのは、トレーナーだった。中学までしか野球ができなかった智之がコーチをしても説得力がない。トレーナーなら専門知識があれば務まるため、トレーナーを目指そうと思った。だから慣れない料理をしたり、つぐみの練習メニューを考えたりと、できることから始めていたのである。
しかし、つぐみが智之を監督に推してくれたことで、七菜たちの力で勝ってくれたことで、智之は監督という望外の立場を得られた。七菜をはじめとする女子野球部の面々には、感謝してもし足りない。
「いつまでやれるかわからないが、少なくともおまえらが卒業するまでは、監督を続けたいと思ってる。ついてきて……くれるか?」
智之が訊くと、七菜は力強くうなずいた。
「はい! 私には、もう恐れるものはありません! 監督の夢は、私が引き継ぎます!」
「ならまず、孝太郎に勝つぞ!」
「はい!」
七菜の返事を聞いて智之は手応えを感じ、嬉しくて口元が弛むのを抑えられなかった。
○
智之は七菜を連れてグラウンドに戻り、皆を集める。智之と七菜の様子を見て、集まった部員の面々は安堵の息をつく。皆にもかなり心配を掛けていたらしい。いい形で七菜が戻ってきてくれてよかった。智之はさっそく打撃練習前のミーティングを開始する。
「今日から予告通り、孝太郎の狙い球を意識して打撃練習に入る。ビデオは一回見たよな? どうだ? おまえらの目から見て、狙えそうな球種はあるか?」
智之の問い掛けに、まずつぐみが発言する。
「やっぱりカウント稼ぎのスライダーでしょ。あれは結構甘いところに来るよ」
孝太郎は二種類のスライダーを投げる。決め球にしている大きく落ちるスライダーはよく低めに決まっているので手を出したら負けだ。けれどもつぐみの言う通り、カウント稼ぎ用のマッスラとでもいうべき手元で小さく曲がるスライダーの制球は、結構アバウトである。140キロ超のストレートとのコンビネーションで来るので打者は打ち損じるが、最初からこちらに狙い球を絞れば打てなくはないだろう。
「でも、あのマッスラは結構速いぜ。みんな打てるの?」
打撃コーチを担当している哲平が首をひねった。哲平の言葉に、一同はうなだれる。
「私は打つよ! 打ってみせる!」
慌ててつぐみが宣言して、場を盛り上げようとする。しかしこのメンバーの中で、孝太郎のマッスラを打てそうな打者が限られているのも事実だ。
「じゃあ、打てないとしたらどんな作戦をとる?」
智之はさらに皆に尋ねた。さて、智之の腹積もりを当てられる者はいるだろうか。
芽衣子が何も考えていないような顔で言った。
「ハンデが三点あるんだろう? 打てなくて点とれなくても、この三点を守りきればいいんじゃないかい?」
智之は苦笑する。そんな消極的な提案があるとは思わなかった。
「その三点は当てにするな。その三点は、俺がそれくらい打たれるだろうなと思ってつけたハンデだ」
当日の先発は智之自身が務める予定だ。智之ができたら四回くらいまで投げて、それくらいで収まればいいというつもりで設定したハンデだった。智之の失点がこの程度で済む保証は全くない。これ以上に点をとり、七菜が零封しないと勝てないだろう。
芽衣子の意見を聞いて、夏帆が挙手した。
「芽衣子さんの言う通り、わたくしたちが七菜さんのお兄様を打つのは少々難しいように思えます。あまり手を出さず、四球を待つというのも一案ではないでしょうか。ほら、わたくしたちは殿方に比べて身長が小さいので、きっとストライクを入れるのに苦労しますわ」
なるほど、普段から四球待ちの打撃ができる夏帆らしい慎重な意見だ。しかし智之は首を振る。
「考え方は合ってる。だが、ストライクをとるだけならあっちも簡単だと思うぞ。ど真ん中にストレートを投げればいいだけだからな。それでもおまえらは打てないだろう? どうやって四球を出させる?」
孝太郎は球速を抑えて投げても七菜の全力投球より速い。いい加減七菜の球筋に慣れてきているだろうに、一部を除いて全く七菜の速球に手が出ない部員たちに打てというのは酷だ。
困った顔をして夏帆は哲平に話を振る。
「ではどうすればいいのですか……。西村コーチ、何か案はありますか?」
夏帆に素で名字を間違えられ、苦笑いを浮かべながら哲平は言う。
「西野、ね。そりゃ全然手を出してこないんだったら、簡単にストライク入れられるよ。ただ、相手も人間だからさ」
哲平の言いたいことがわかったのか、京香が声を上げる。
「なるほど! あえて振りにいってプレッシャーをかけるんですね、西山コーチ!」
「……西野ね。その通りだよ、京香ちゃん」
また名字を間違えられ、ずっこけそうになりながら哲平は京香の回答に丸をつける。
「でもやたらめったら振っても三振の山だよ? そこんところはどうなんだい、西島コーチ?」
お茶目ないたずらをおもいついた妙齢のおばさんのように、ニヤニヤしながら芽衣子が哲平に話を振る。突っ込む気力も萎えたようで、哲平は答えようとする。
「それは……打てそうな球だけ振るとか……」
百合が口元に指を当てて、首をかしげる。
「打てそうな球、あるの? 西日暮里コーチ?」
百合も悪ノリするが、質問は真面目だった。哲平は小さくなる。
「それは、その~」
「コースを絞って、待てばいいんじゃないでしょうか」
七菜が手を挙げて言った。
「お兄ちゃんが甘い球を投げそうなところだけ思い切り振っていって、他は手を出さない。これでどうでしょう、えーっと、西何とかコーチ」
「七菜ちゃんまで、酷すぎるよぉ~!」
どうやら七菜は皆が悪ノリして哲平の名字を間違えるので、本当に哲平の名字がわからなくなったらしい。頭を抱えている哲平は放置して、智之は七菜の意見に賛同した。
「そうだな。打ちにいくところを決めて、それ以外は手を出さないようにしよう」
「じゃあどこを狙うの、兄さん?」
つぐみが尋ね、智之は説明を開始する。
「いいか? 孝太郎は、おまえらなんか適当に投げても抑えられると思ってるはずだ。多分孝太郎は外角にしか投げない。もし内角に投げてきたら、そのときは泣きそうな顔でもしてやれ。孝太郎もためらうだろ」
全体的に女子野球部のメンバーは身長が低く、ストライクゾーンが狭い。内角を攻めれば死球を出す危険性が高く、孝太郎はやりたがらないはずだ。外角にそこそこのストレートを投げ込めば充分だと考えるだろう。
「では外角を狙うのですか? それでは全部振ることになるのでは……?」
夏帆の疑問はもっともだ。外角にしか投げてこないのに、外角に張っていては全て振ることになる。どんどん振ってくれればストライクを稼げるので、孝太郎も投げやすいだろう。
ここで智之は作戦を披露した。
「内と外じゃなくて、高低で狙う。高めに来た球は全部フルスイングしろ」
高めに抜けた球なら、うちの下位打線でも打ち返せる可能性はある。これでプレッシャーを掛ければ、孝太郎がコントロールを乱してくれるかもしれない。
「つまり、お兄ちゃんを昨日の私みたいな状況に追い込むわけですね?」
七菜の言葉に、智之は大きくかぶりを振る。昨日の練習試合で外角低めだけに球を集めようとして打たれまくった七菜のように、孝太郎が低めを意識して自滅してくれればこちらの作戦は成功である。
「その通りだ。みんな、今日からこれを意識して練習してくれ」
はい、と全員が大きな声で返事をした。さらに智之は指示を出す。
「それからつぐみ、七菜、芽衣子。おまえら三人はマッスラを打つ練習をするぞ。おまえらは多分、普通に内角を攻められるだろうからな」
つぐみはシニア時代にレギュラーで活躍していて、孝太郎とも対戦したことがあるので、警戒するだろう。七菜の打撃センスも孝太郎は知っているだろうし、そもそも今回の試合は孝太郎にとって、七菜に投手を諦めさせるためのものだ。手加減してくれるとは思わない方がいい。
「ちょっと待った。私もかい?」
ストップを掛けたのは芽衣子だった。芽衣子としてはこの二人と一緒に名前を挙げられたのが、不思議だったのだろう。
智之は理由を教える。
「ああ。おまえはでかいからな」
「いや、確かに私は大きいけどさ。それが何だっていうんだい?」
頭上にクエッションマークを浮かべる芽衣子に智之は嘆息する。
「切羽詰まったらおまえも内角攻めされるぞ。でかくてあんまりデッドボールの心配しなくていいからな」
芽衣子は身長が大きい分ストライクゾーンが広く、わりとベースから離れて打席に立つ。いざとなれば孝太郎はためらわないだろう。
「……私、内角すごい苦手なんだけどねぇ」
この女は内角が苦手なのでベースから離れて立つのだ。それでも全然内角を打てないが。
「いいからやっとけ。何もしないよりはマシだ」
頭を掻く芽衣子に、智之はそう言って練習に移らせた。
智之は打撃マシンの操作を適当に代わってもらいながら、皆の周りを巡回してアドバイスする。練習試合では智之も打席に立つので、自分も打ち込んでおかなければならない。適当なところで智之は自分もマシンの順番待ちに並んだ。
「ねぇ、僕も身長高いけど、変化球打つ練習しなくていいの?」
打席に入っているカオルが、智之に尋ねてきた。
「ああ、おまえはいい。まだ変化球狙うのはまだ厳しいだろ。もし内角に投げてきたらストレートだけ狙え」
「そうだね、了解」
カオルはマシンの方に向き直り、外角高めに来たストレートを打ち返す。マシンの設定は140キロだ。アッパースイングを修正してコンパクトなスイングにしたことで、カオルは球速を苦にしないようになっていた。人間が投げる140キロは、体感的にはマシンの140キロよりずっと速く感じるが、これなら手も足も出ないということはなさそうだ。
一週間後の試合が終われば、カオルには本格的に変化球打ちの練習をさせようと智之は思った。
智之はカオルの後に自分もマシンを打ってから、初心者組の方へ向かう。百合、瑞季、京香の三人も、120キロなら何とか当てるくらいはできるようになっていた。
まず智之は、初心者組のマシンを操作していた哲平に声を掛ける。
「俺が代わる。おまえはちょっと打ってこい。次の試合はスタメンの予定だからな」
「は? 俺が?」
呆けたような声を上げる哲平に、智之はあきれたように言う。
「……何のつもりで、俺がおまえに打っておけと言ったと思ったんだよ」
「う~ん、確かに次の試合に出る以外ないな。よし、活躍を期待してくれ!」
哲平はあっさりと納得し、スキップで打撃ゲージへと向かった。やはり実は嬉しかったらしい。
マシンの前に腰掛け、智之は百合、瑞季、京香の三人に呼びかける。
「そろそろ140キロいってみるか?」
「えぇっ!? 私、絶対打てませんよ!?」
京香が悲鳴のような声をあげれば百合も、
「うちも自信ないかな……」
と渋い顔をし、瑞季も
「右に同じネー」
と両手を挙げて首を振る。智之は困ったように笑ってから言った。
「べつに打てなくていい。スピードに慣れてくれればいいんだ。おまえらも次の試合で、出番あるかもしれないからな」
智之の発言を受けて、京香は訊く。
「え? でも、次の試合は監督とコーチが出るんじゃ……」
確かに智之と哲平が出場すれば、実力が一段劣るこの三人のスタメンはない。しかしどうせ出番はないからと安穏とされても、成長がない。
「わかんねーぞ? 俺も哲平もブランクがあるからな。哲平はだめならスタメンからはずすし、俺も打撃の調子が上がらなかったら指名打者使う。おまえらもいつでも出られるように準備してもらわないとな」
智之の言葉に三人は目の色を変える。
「私たち、出られるんですか!?」
京香は嬉しそうに訊き返す。
「だとしたらうちは、二人に負けるわけにはいかないかな……!」
百合は両の拳を握りメラメラと闘志を燃やす。
「打撃なら私が一番ヨー!」
瑞季はバットを振る素振りをしてアピールする。
三人の反応に満足した智之は、マシンの設定を140キロに上げる。三人は順番に、140キロに挑戦した。
残念だが当然というべきか、三人は全く打てなかった。まあ、速さに恐怖を抱かずバットを振れるようになっている時点で智之的には合格なのだが、あれだけ意気込んでいただけあって、三人はしょんぼりと落ち込む。
見かねた智之は言った。
「今度はバントしてみろ」
顔をボールに近づけなければならないので、速い球をバントするのは結構怖いのだが、多少なりともボールを当てることができれば自信になるだろう。
三人は順番にマシン相手にバントする。おっかなびっくりといった感じで三人はバントの構えをとるが、うまく転がすことができる者はいなかった。ただし、全員一度はバットにボールが当たったので、ここぞとばかりに智之は褒める。
「なんだ、やればできるじゃないか。一週間あれば、転がせるようになる」
三人を見ているうちに、打撃練習は終わった。
さて、次は野手陣の守備練習と投手陣の投球練習だ。外野の初心者三人は哲平に任せて、内野手と投手を智之が担当する。
普段であれば芽衣子と夏帆もブルペン入りして投球練習だが、智之が自分の練習をするためにこの一週間は譲ってもらっている。智之はつぐみ相手に投げ込み、全盛期からはほど遠いものの、調子は上々だった。
「これなら三回くらいまでは行けそうだね、兄さん」
カーブもシュートもシンカーも、錆び付いてはいたが朽ちてはいない。多彩な変化球でどうにか逃げて、それくらい投げられれば上出来だ。
「そうだな……。俺の方は何とかなりそうだ」
智之は汗を拭いながら、隣で千景に投げる七菜をちらりと見る。七菜の調子もまずまずだ。果たして高校球児に通用するだろうか。
智之の言葉に、投球を見ていた夏帆が言った。
「問題は七菜さんが残る四回を抑えられるか、ということですか?」
「──フハハ、我が打てぬ球が打たれるはずがない」
美冬はそう言ったが、うちの男子野球部は日常的に孝太郎で速球に慣れている。速いだけでは打たれる。
「どうだろうねえ。正直、ストレートとスライダーだけじゃ厳しいんじゃないかい? 慣れられて打たれちゃうだろう?」
そう口にしたのは芽衣子だった。顔は深刻そうだが、目は笑っている。智之が何か策を用意していることを期待しているのだ。
そういえば彼女たちは、七菜が新しい変化球を練習していることを知らない。七菜の新変化球は、主に部活が終わってから智之の家で練習しているからである。夏帆と美冬はときどき部活後の自主トレに参加するが、ブルペンまでは見ていない。
いい機会だから教えてやろう。智之は言った。
「ああ、今新しい変化球を練習している。せっかくだから何を練習してるか当ててみろ。夏帆、美冬、芽衣子」
「智之がそう言うからには、もの凄い魔球を練習しているんだろうねぇ」
芽衣子が意地の悪そうな笑みを浮かべる。そんな顔ばっかりしてたら皺が増えるぞ。
魔球という言葉が琴線に触れたのか、先陣を切ったのは美冬だった。
「──クク、闇の帝王たる我には簡単すぎる質問だったようだな……! 答えはWボール……! このジグザグ変化はは誰にも打てへんでぇ!」
それはきっと22世紀の猫型ロボットにしか投げられない。コロコロコミックは小学生で卒業しよう。
「──ならばカミソリカーブ……! 僕のカミソリは二回曲がるのだ……!」
ほっぺ先輩は滅多打ちにされただろいい加減にしろ!
「──ほう、それでは受けてみよ、奥義ブラックカーブ!」
黒くなるから何なんだよ!
美冬の出した答案を見て、芽衣子がおかしそうに言った。
「う~ん、だとしたらアレだね、大リーグボール3号!」
おまえはセンスが古いんだよ! インドあたりでしかうけねぇよ!
美冬と芽衣子に嘆息し、夏帆が言った。
「お二人とも、ふざけすぎですわ。魔球といえば、現実的にはナックルくらいしかないでしょう?」
疲れたので夏帆に「正解」とでも言ってやりたいところだが、智之は否定する。
「違う……。もっと普通の球で考えてくれ」
「でしたらツーシームとかカットボールとか、ムーヴィングファストボール系統の球種でしょうか? 今度の試合は相手チームだけ木製バットなのでしょう? 小さく動く球は有効ではなくって?」
ようやく夏帆がまともな回答を出すが、残念ながら違っていた。
「違うな。そういう球種もそのうち教える気だったが、まず決め球から取り組んでる」
「決め球ですか……。フォークとか?」
腕組みして考えながら夏帆が言った。そろそろヒントくらいは出してもいいだろう。
「違う。ヒントその一、七菜は左腕」
さらにつぐみがヒントを加える。
「ヒントその二、兄さんの決め球!」
ヒントに反応し、芽衣子があごに手をやって考える。
「智之の決め球かい? そりゃシンカー……。そっか、シンカー……! いや、スクリューだね!」
パワプロ知識で分類するのはやめよう。左投手のシンカー=スクリューではない。右でもスクリューを投げる投手はいる。まあ、この誤用もかなり定着しているので定義の一つともいえるのだが。
シンカー、スクリューの定義は様々だが、カーブやスライダーと逆方向に、直球の軌道から落ちるのがシンカーで、カーブのように浮き上がってから落ちるのがスクリューといわれる。
芽衣子の答えを聞いて、智之は正解を言う気になった。
「オーバースローからシンカー系の球を投げるのは難しいぞ。俺はサイドスローだから投げられるんだ。七菜には無理だな」
サイドスローやアンダースローなら手を出す角度の問題で比較的簡単にシンカーの回転を掛けられるが、オーバースローでシンカーを投げるのは大変だ。手首を外側にひねって回転を掛けなければならない。そんな投げ方を習得するのは困難だし、投げられるようになっても肘への負担が大きく、あまりお勧めできない。
「でも芽衣子が半分正解ってところだ。答えは……」