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3.濃霧コールド負け

「それじゃあ女子硬式野球部の存続の件については了承済みなんですね」


 洞峰高校女子野球部が約束の一勝を挙げた次の日の朝、智之は生徒指導室で確認をとった。


 智之の前に座っている眼鏡でウインドブレーカーを羽織った中年の男はうなずいた。彼は男子野球部の監督、苫小牧である。20年前の洞峰高校甲子園優勝メンバーの一人で、智之の父とは親しいため、智之も面識はあった。現役時代は巧打の外野手として甲子園、大学野球で活躍したが、病気で引退して母校の監督を務めている。


「ああ、そこは誰も異論ない」


 こうして呼び出しを受けて話をしているということ自体、誰か何かに異論がある人間がいるという証左である。智之は苫小牧監督の隣に座る孝太郎に尋ねた。


「じゃあおまえは何の文句があるんだ」


「文句があるのは、七菜の件だ」


 むっつりとした顔で孝太郎は言う。


「お兄ちゃん、前にも説明したとおり、私は自分の意志で入部したんだよ? 無理矢理じゃないよ」


 智之の隣に座る七菜は言った。この場にいるのは智之、七菜、孝太郎、苫小牧監督の四人だけだ。中村先生は所用があって出席できなかった。


 孝太郎は厳かに言う。


「そんなことはわかってる。だが、俺は七菜を投げさせるのはどうしても反対だ」


「俺はこいつに無理させる気はない。球数制限もするし連投はさせない。それでもだめなのか?」


 この一ヶ月、七菜の練習を見てきてわかったことは、思った以上に七菜は体ができていないということだった。もっと体を大きくしないと、どこかでパンクするのは明白である。計画的に七菜の体を作っていこうと、智之はすでに決意していた。


「ああ、だめだ。投手なんてやらせても体を痛めるだけで先がない。どうしても入部するなら七菜は野手にして、大学からはソフトボールをやれ。プロなんかなれるわけがないんだから、夢を見させるな。現実を見ろ」


「お兄ちゃん、どうしてそんなこと言うの!? 監督は私のこと、ちゃんと教えてくれてるのに……!」


 七菜がそう訴えると、孝太郎は表情を歪める。


「野球から逃げた情けないやつに、何が教えられるっていうんだ! 七菜、おまえはこいつに騙されているだけだ!」


 孝太郎は机をドンと叩いて語気を荒げる。苫小牧監督は苦笑いして孝太郎をなだめ、智之に提案する。


「こいつがこんな調子で俺も困ってるんだ。それで智之、一つ勝負しないか? うちの野球部とおまえのところとで」


「どうしてそうなるんですか……?」


 智之は嘆息する。


「おまえのところが負けたら武星の妹は投手を諦める、勝ったら武星の兄はこれ以上干渉しない。おまけに最新の打撃マシーンを一台やろう。いい条件だろう?」


 ニンマリと笑って苫小牧監督は言った。智之は首を振る。


「どこがですか。男女の体力差を考えてくださいよ。勝負になりません」


「もちろんハンデはつけるさ。こっちは全員木製バットでやらせる予定だし、他の条件も検討しよう。武星の妹はプロ目指すんだろ? 男子とやるのはいい練習になるはずだ。それから智之、おまえが出てもいいぞ。おまえも女子野球部の一員だからな」


 監督は条件を提示するが、智之はそもそも勝負を受ける気がなかった。


「こっちには受ける理由がありません。だいたい練習試合してもそっちにメリットがないでしょう? この馬鹿のために野球部全体を動かすんですか?」


 智之はちらりと孝太郎の方を見て、孝太郎は「誰が馬鹿だ」と顔を真っ赤にする。


 苫小牧監督はとんでもないと首を振った。


「んなわけないだろ。まあこの馬鹿に落ち着きがなくて困っているのは事実だがな。孝太郎の件はあくまでついでだ。武星の妹のピッチングはシニアで俺も見たことがあるが、なかなかのものだった。あのレベルの左腕は珍しい。おまえのサイドスローも同じだ。手頃な練習相手がいないから、おまえらにお願いしてるわけだ」


 高校野球の監督は有望な選手をスカウトするために中学の試合を観戦する者もいる。グラウンドにいるより中学の試合を見に行っている方が長いのではないか、という監督もいるくらいだ。


 苫小牧監督はスカウトにはかなり力を入れている方だった。うちの高校は伝統的に県内の選手を多く取るので、苫小牧監督は県内のシニアは言うに及ばず中学軟式の大会まで足繁く観戦している。そのため苫小牧監督はシニアでの七菜の投球を見たことがあったのだ。智之についても同じである。


 毎年数人ながら、苫小牧監督が自らの目で厳選した県外からの野球留学生も採っていた。ヘリコプターをチャーターして四国の山奥まで選手を見に行ったという逸話から、業界内では『ヘリコプター苫小牧』と呼ばれている。洞峰高校打線の目玉は四番ピッチャー孝太郎だが、三番キャッチャー森橋は県外人なのだ。


 采配などおまけのようなもので、監督の仕事の八割は戦力を整えることだ。好素材を集めるのも一つの手であり、苫小牧監督の姿勢は間違っていない。


 孝太郎は仏頂面で七菜を挑発する。


「七菜、おまえもプロに行きたいなんて言うんだったら、俺くらい抑えられて当然だよな?プロには俺以上の打者なんていくらでもいるぞ。ま、俺にはおまえを打ち込んだ記憶しかないけどな!」


 七菜はムッと口を尖らせ、言ってしまった。


「勝負、受けます」


「七菜!」


 智之は七菜を咎めるが、七菜は撤回しない。


「男子とやれるのは、私にとっていい機会です。同じ高校生くらい、抑えられなきゃ私もプロに行きたいなんて言えません! 監督、やらせてください!」


「決まりだな」


 孝太郎がどこかの悪代官のように笑う。智之はため息をつきながら言った。


「条件を加えさせてください。イニング数は女子野球と同じ7回まで。女子野球部側には三点のハンデ。試合は二週間後の日曜日に、そちらの新しいグラウンドで」


「それくらいならお安いご用だ。ま、正々堂々やろうや」


 苫小牧監督はそう言って智之の肩を叩き、生徒指導室を出て行った。続いて孝太郎もすっくと立ち上がり、智之たちに言う。


「おまえら、ちょっと付き合え。格の違いを教えてやる」




 孝太郎が向かったのは、女子野球部のグラウンドだった。孝太郎は勝手知ったる様子で道具を用意し、打席に立って言い放った。


「七菜、一打席勝負だ。俺を抑えてみろ」


 男子野球部のグラウンドは朝練で使えないため、こちらに来たのだろう。智之は嘆息して言う。


「……試合は二週間後だろ? 気が早すぎないか?」


「試合はあくまで野球部のためにやることだ。その前におまえらに引導を渡してやる」


 孝太郎はやる気満々な様子でバットを数回振った。智之は冷静に対応する。


「……負けても七菜は投手をやめないぞ?」


 孝太郎はこともなげに言う。


「べつにいい。これもハンデみたいなもんだ」


 確かに、一度孝太郎相手に投げられるというのは大きい。七菜の球がどれくらい通用するか、目安になるだろう。


 七菜の方はというと、投げたそうにグラブをつけてマウンドに登り、地均ししていた。智之は七菜のところに行って、小声で指示する。


「本番は二週間後だ。ストレートとスライダーは投げてもいいが、今練習しているあの球は使うな」


 秘密兵器は秘密だからこそ意味がある。智之は七菜に新しい球種を教えていたが、使わないように指示した。


「大丈夫です。ストレートとスライダーだけで抑えられます」


 珍しく七菜にしては強気である。ここのところ、七菜の練習量は一人で鍛えていた頃よりずっと多くなっていた。練習が自信に繋がっているのかもしれない。


「よし。じゃあやってみろ。あくまで二週間後が本番だから、打たれても気にするなよ」


「わかってます」


 智之は改めて七菜に言い聞かせてから、自分もミットをはめてキャッチャーを務める。


「私だって成長してるんだから……!」


 七菜は打席の外で軽く素振りをしている孝太郎をチラチラと見ながら、肩慣らしに数球を投げる。まあ悪くない出来だ。120キロ台中盤は出ている。


 入部してから、七菜の球速はシニア時代より少々上がっていた。コンスタントに120キロ台を出せるようになっている。あまり球速にこだわっても意味はないため、智之がスピードガンで七菜の球速を測ることは少ないが、本人は手応えを感じているようだった。練習の成果が出ているというよりは、半年ほど肩を休ませたおかげだろう。どちらにせよいい傾向だ。


 120キロ台というと大したことがないようにも思えるが、七菜は打者にとって日頃から対戦機会の少ない左腕だ。打者からすれば七菜のストレートは5キロ増しくらいに見えるだろう。


 七菜のフォームも目くらましになる。七菜は肘が柔らかいおかげで肘から先が普通の投手と比べてかなり遅れて出てくる。打者にボールの出所がわかりづらいのだ。この点から七菜のストレートは打者視点からさらに5キロ増しである。おまけにストレートとスライダーのフォームがほとんど同じなので、打者には全く見分けがつかない。


 合わせれば、七菜の投球は10キロ増しで130キロ台の140キロ近い速球といえる。ウォーズマン理論くらいに胡散臭いが、男子でも七菜の速球に手こずることは間違いない。左投手であることと、フォームが特殊であることはそれくらいのアドバンテージを生むのだ。近年甲子園で活躍する軟投派はほとんど左投手である。


 ただしこれは打者が左腕との対戦経験が少なく、七菜のボールの出所がわからないからこそいえることだ。左腕との対戦経験が豊富で、七菜の球筋を知っている打者相手にはどうなるか。いうまでもなく孝太郎は中学時代に七菜に何度も打撃投手をやってもらったことがあり、完璧に球筋を覚えているはずだ。


 結果は火を見るより明らかだった。初球、外角に投げ込まれた七菜のストレートを、孝太郎は一発で捉えて軽々と打ち返す。レフト前に落ちるクリーンヒットだ。打球の行方を見て、七菜は呆然とする。


「そんな……。球速は上がったのに……」


 七菜の球は決して悪くなかった。七菜のつぶやきに、孝太郎は勝ち誇ったように言う。


「高校野球じゃ、おまえ程度の球を投げるやつはいくらでもいる。諦めた方がおまえのためだ」


 仕方なく智之は立ち上がって孝太郎に言う。


「二週間後に勝つのは俺たちだ。七菜、こんな勝負は気にするな」


「はい……」


 うなだれながらも七菜は返事をする。半ばあきれ気味に孝太郎は智之を見る。


「野球から逃げたくせに大した自信だな。だいたい監督のおまえがこいつのわがままを聞いていて、チームが纏まるのか」


「みんな監督のいうことをよく聞いて、ちゃんとやってるよ!」


 智之が何か言う前に、七菜が言い返した。孝太郎はそんな七菜を鼻で笑う。


「はっ、どうだかな。野球っていうのは団体競技だ。おまえが一人だけずれたことやって、チームの和を乱してるんじゃないのか?」


 今度は智之が即座に反論する。


「そんなことはない。この前の試合も七菜のおかげで勝てたようなもんだ。七菜はチームの中心としてよくやってくれてるよ」


「監督……」


 七菜はハッと顔を上げた。智之は続ける。


「とにかく、勝負は二週間後だ。こんなのは余興の内にも入らない。楽しみに待っとけ」




 放課後、グラウンドで智之は男子と勝負することになった旨を皆に伝える。


「どうしてそんな条件で受けるのですか……」


 夏帆があきれ顔で言った。全くもってその通りだった。


「身内の勝手に振り回されて大変だね……」


 カオルがぼんやりした顔で言った。カオルが言うと洒落になっていないのでやめてほしい。


「勝算はあるのかい?」


 芽衣子が尋ね、智之は答える。


「なけりゃ断ってるよ。相手は木製で三点のハンデだ。七菜が投げればなんとかなるだろ。ただ、投手は孝太郎なんだよなあ……。どうやって点をとるかだな」


 相手打線も四番孝太郎は七菜からきっちり打てるだろう。ハンデの三点だけでは心許ない。


 智之の話を受けて、つぐみが発言する。


「その条件だと、兄さんが打席に入ればいいんじゃない?」


「そうだな。調整しておくよ」


 一年半のブランクはあるが、智之はシニア時代に何度も孝太郎と対戦している。対戦経験を活かせば打てる可能性はあるのではないか。


「監督は投げるんですか……?」


 おそるおそるといった調子で七菜は尋ねた。智之は首肯する。


「おまえ一人に任せるのは荷が重いからな。俺も準備しておく」


「そうですか……」


 七菜は少しがっかりした様子だった。七菜が一試合任せてほしいというのもわかるが、相手は高校生男子だ。今日も孝太郎には完璧に打たれている。中学生や女子ならともかく、今の七菜が高校生の男子相手に一試合投げきるのはきついだろう。


「じゃあ今日からは打撃練習増やしていくぞ! まずいつも通りアップからな!」


 智之は号令を掛け、練習を始めさせた。




 部活終了時刻まで練習した後、いつも通り七菜、つぐみ、カオルがグラウンドに残る。智之は三人に声を掛けた。


「行くか」


 最初の頃はグラウンドに残って練習していたのだが、最近は智之の家に移動して練習する場合が多くなっていた。現役メジャーリーガーの父がいるため、智之の家の方が器具が揃っていて便利なのだ。この人数なら智之の家で全く問題ない。これ以上人数が増えるようなら、学校に頼んでグラウンドの照明を使わせてもらおう。


 三人を連れてグラウンドを出ると、グラウンドの出口で夏帆と美冬が待っていた。


「わたくしたちもお邪魔して構いませんか? 皆様がどんな練習をなさっているのか、興味があるので」


 夏帆に尋ねられ、智之は言う。


「構わないけど今日この後雨だし、遅くなると親御さんも心配するだろ。早めに帰れよ」


「──フハハ、我が父上は残業(スタティック・プレッシャー)で帰れないので問題ない」


 美冬の頭が一番の問題だ。


「……まぁいいや。じゃ、ついてこい」


 智之は五人を連れて帰宅した。




 智之の自宅は、学校から歩いて二十分ほどの、小綺麗な住宅街の奥にあった。白亜の屋敷の前面にちょっとした公園より広い庭が広がり、庭の脇にはネットで囲って作ったブルペンがある。ここからは見えないが、屋敷の裏にはプールもあった。二階建ての屋敷もそこそこ大きく、現役メジャーリーガーの財力を見せつけている。


 夏帆と美冬は智之の家を見て感嘆の声を漏らす。


「噂には聞いていましたが、すごいですわね……」


「──クッ、この屋敷は『秘宝館』と名付けさせてもらおう……!」


 それは18禁です。


 今日も母は帰っていないので自宅には誰もいない。智之はまずリビングに皆を案内し、バナナと牛乳を出す。


「これも毎日ですの?」


 夏帆が七菜に尋ねる。


「え……、そうだよ。お腹空いたまま練習してると、怪我しやすいって監督が言うから……」


「ここに来るといつも牛乳だね」


 ポツリと七菜の後にカオルが続け、美冬は七菜の胸を凝視する。


「──クッ、このような秘密特訓をしていようとは卑劣な……!」


 一体何の話をしているのだろう。


 智之は二人に笑顔で言う。


「これから練習するんだから、おまえらも遠慮せずに食っておけ」


「──我らも練習に参加するのか!?」


 美冬が驚いたような声を上げ、智之は首をひねる。


「え、そのつもりじゃなかったのか? まあ、二人くらいなら増えても問題ないから、安心して体動かしていけ」


「は、はあ……」


 夏帆は困ったような笑みを浮かべた。もちろん、わざととぼけたのだ。七菜、つぐみ、カオルの練習を見れば、この二人にも大いに刺激になるだろう。部活は初心者に合わせているため、練習量はそこまででもない。


 いずれ練習時間を増やしていく予定だが、今は選手の自主性に任せていた。自分に甘くなりがちなのが人間なので、少し危機感を持たせてやろうというわけだ。


 本当なら芽衣子や千景にも来てほしいところだ。何度かそれとなく誘ってみたが、芽衣子は「ウッ……! 急にお腹が痛くなった……!」「頭痛が痛い」などとほざいて絶対に誘いに乗らず、千景は練習が終わるといつの間にか撤収、隠密行動、雲隠れといった具合である。先は長そうだ。




 栄養補給が終われば、いよいよ練習の時間である。庭に出てまずは軽くキャッチボールしてから、智之はラグビーボールのような形をした変わったボールを五人に渡した。


「これは何ですの?」


 尋ねる夏帆に、つぐみは答える。


「フォーム矯正用のボールだよ。全身を使わないと投げられないから、正しいフォームが身につくの」


 つぐみの説明で間違っていない。マリナーズの岩隈が使っていたことでも有名なボールだ。しっかり腕を上げないと投げられないため、正しいフォームが身につく。


 いつもは正しいフォームで投げていても、球数を投げれば疲労で腕が下がってくる。腕が下がると球威は落ちるし力をうまく逃がせなくなり、故障につながる。このボールに慣れさせることで、七菜が試合中に疲労で腕が下がるのを防止するのが智之の狙いだった。野手陣にしても基本に立ち返るのは必要なことだ。野手だからと無茶な投げ方を続けていれば必ずフォームを崩し、故障する。


「なるほど……。最近初心者の皆さんに、ソフトボールでキャッチボールをやらせているのも同じ狙いですか?」


「察しがいいな。その通りだ」


 夏帆の指摘通りである。ソフトボールも腕の力だけでは投げられない。彼らの場合そもそも正しい投げ方がわからないため、体に覚えさせようというわけだ。


 続いて普通の硬球に戻し、みっちりとキャッチボールを行った後、智之は夏帆と美冬に言った。


「ひょっとしたらおまえらのプライドを傷つけるかと思って、今まで見せなかったんだがな……」


 芝生の庭にベースを置き、七菜は投手の、カオルはセカンドの位置に立つ。智之はファーストの位置でグラブを構え、つぐみがノッカーの位置についた。夏帆と美冬は智之の近くで見学してもらう。


「昨日と同じように行くぞ。まずは一、二塁間に……」


「前置きはいいから早くしてよ」


 カオルが急かし、「了解!」とつぐみはノックを始めた。一、二塁間に転がった球をカオルが深い位置で捕球し、持ち前の強肩で態勢を崩しながらもファーストベースカバーに入った七菜に送球する。七菜は無難に球を捕った。


「これは……!」


「──ぐぬぬ、まだこんな力を隠し持っていたとは……!」


 カオルのセカンドがそれなりの動きを見せたため、夏帆は驚きのあまり口をぽかんと開け、美冬は歯噛みする。


 カオルにセカンドをやらせているのは、本当のところをいえば七菜の守備練習のついでだ。七菜がプロを目指すに当たって、フィールディングや牽制などの地味な練習にも力を入れている。


 七菜がいくら女子としては速球派でも、男子に混ざれば球速はむしろ遅い部類に入る。七菜が総合力でアウトをとれるように守備練習をやらせ、その間カオルが暇なのでセカンドに入ってもらっているのだった。カオルも他の内野の動きを覚えれば、守備にも打撃にも応用できる。カオルのステップアップにも必要だろう。


 カオルには他にファーストもやらせている。ファースト、セカンドが打球を追い、投手がベースカバーに入るというケースならカオルにも出番があるため、守備機会優先でポジションを変更しているのだ。


 半分遊びとはいえカオルのセカンドがモノになれば起用の幅が広がるのは間違いない。カオルの方が夏帆や美冬より二遊間の守備がうまいなら、二人がポジションを奪われるという事態もありえる。カオルのフィジカルは夏帆、美冬よりワンランク上なので慣れれば二人よりうまくなる可能性は十二分にある。


 いてもたってもいられなくなったようで、夏帆と美冬はノックを志願した。


「わたくしにもノックしてください」


「──フハハ、身体能力が守備力の決定的な差ではないことを教えてやる……!」


「いいぞ。美冬はセカンドに、夏帆はショートに入ってくれ。カオルはファーストに移動だ。シチュエーションは……」


 智之は細かく指示を出し、四人にノックを受けさせた。




 存分にノックを受けた後は室内に移動する。ついつい夏帆や美冬も鍛えるのが楽しくなって時間を喰ってしまったが、メニューはまだある。筋トレの時間だ。智之はどこかのジムかと見間違えんばかりに器具が置かれたトレーニングルームに皆を案内する。この中にはウン千万の器具もあり、かなり本格的な設備が整っていた。


「じゃあまず腹筋からな。四十回を三セットだ。始め!」


 智之の号令と同時に五人は黙々と腹筋を始める。智之は五人をしっかりと監督していて、フォームが崩れ始めたら指摘して修正してやる。部活ではここまではしない(というより人数が多すぎてできない)ので、夏帆と美冬は普段以上に消耗しているようだった。次に背筋、腕立てと続いていくが気付けば夏帆と美冬はついていけなくなり、二人揃ってへばってしまう。


「自分のペースでいい。無理はしなくていいからな」


 智之はそう言ってストローが刺されたカップ入りのスポーツドリンクを二人に渡す。夏帆と美冬は先を争うようにして口をつけ、水分補給した。一個しか作っていなかったので、悪いことをしたかもしれない。


「……にしても監督、ここにはたくさんトレーニングマシンがあるのに、使わないのですね。最近は投手もウエイトトレーニングを行うのでしょう?」


 夏帆が質問し、智之は苦笑する。確かに巨人の澤村やレンジャースのダルビッシュはウエイトに打ち込んでいるが、ここにいる誰もがそのレベルに全く到達していない。


 二十年ものプロ生活を送っている智之の父でさえ、ここに置いてあるトレーニングマシンを全て使うわけではない。使うのはほんの一部で、新しいもの好きなのですぐに新開発のトレーニングマシンを買い、古いものを放置してあるだけである。トレーニングは要するに体に刺激を与えることなので、常に新しい刺激を求めることは理にかなってはいるのだが。


「ウエイトトレーニングはおまえらには早いだろ?」


 ダンベル程度なら使うが、七菜たちの年齢だとまだ自分の体重を使ってトレーニングするので充分だ。ウエイトトレーニングは髭、脇毛が生えてからとよく言われるが、七菜の場合筋力をつけるためにまず体を作るというのが必要な段階である。まあ、七菜は女の子なので髭も脇毛も生えないと思うけど。……生えないよね?


「今日の七菜たちの練習見て悔しかったかもしれないが、いきなり練習量増やすようなことはするなよ? 何事も、適量ってもんがあるからな」


 いきなり筋肉をつけて体重を急に増やしたらバランスを崩してどこかおかしくなるのは当然だし、変なところに筋肉をつけるとむしろ動作の邪魔になる。晩年の清原のような故障体質の見かけ倒しができあがるだけだ。


 七菜たちの筋トレも回数は制限していて、昨日は上半身、今日は下半身というようにローテーションで違う部位を鍛えて筋肉に回復の時間を充分に与えている。また鍛える部位も野球に使う筋肉だけに限定していて、ボディービルダーのような肥大化した筋肉は最初から目指していない。


 投げ込みすぎれば肩が壊れ、走り込みすぎれば膝が壊れるのと同様に筋トレ、ウエイトトレーニングも正しく行わないと故障の原因となるだけなのだ。


 メニューは父に電話で相談した上で、知り合いのトレーナーと話し合って決めていた。七菜、つぐみ、カオルでそれぞれメニューも異なっている。


 夏帆と美冬は顔を見合わせ、物欲しげに智之を見上げる。智之は言った。


「やりたいなら相談には乗る。おまえたちの体と相談しながら、計画的に進めていこう」


「了解しましたわ」


「──御意……」


 二人の返事に、智之は安心して七菜とつぐみの指導に戻った。




 筋トレの後は入念にストレッチをして終わりだった。筋トレだけだと筋肉が硬くなってしまうので、ストレッチは必須なのである。


 ストレッチが終わった後、智之は牛乳とプロテインを持ってくる。プロテインは運動が終わってすぐが効果的なので、このタイミングだ。智之は言った。


「夏帆と美冬は無理してプロテイン食わなくていいから」


「噂には聞いているのですが、そんなにまずいなのですの?」


 夏帆の疑問に、つぐみが顔をしかめる。


「吐き気が込み上げる感じのまずさだよ。今はもう慣れちゃったけど、最初は毎回吐きそうになった」


 静かにカオルもうなずいて同意する。


「この世のモノとは思えない味だね……。使い古した小手みたいな味がする……」


 剣道は臭いがきついらしいが、その例えはどうなのだろう。夏帆と美冬は顔を見合わせた。


「これは覚悟が必要ですわね……」


 夏帆は美冬とアイコンタクトして何やらうなずき、「せーの」と一緒にスプーンで袋からとった粉状のプロテインを口に入れる。


「それ、牛乳に混ぜて飲むものなんだが……」


 智之は言うが、後の祭りというやつである、。


「──フハハ、我にはこの程度……ウッ……」


 美冬が口を押さえて顔を青くする。夏帆も少し苦しげだった。つぐみは急いで牛乳をコップに注ぎ、二人に渡す。


「これで流し込んで!」


 二人は牛乳に飛びつく。特に美冬は、一気にコップを傾けてプロテインを飲み込もうとした。


「あっ、バカ、そんなに慌てたら……!」


 智之は声を上げるがもう遅い。美冬も必死に我慢しようとするが、限界が訪れるのは早かった。しかし限界を超えて美冬は耐えようとする。


 美冬の頭上で植物の種のようなものが弾けて瞳は鈍い輝きを放ち、


「──僕にも、守りたい世界がコポォ」

 変な呻き声とともに、美冬がリバースした。美冬は半泣きになって口から鼻から牛乳を溢れさせ、ゴホゴホと咳き込む。


 その様子を見て夏帆も吐いた。もらいゲロである。二人の美少女は口元を白く染めながら羞恥に顔を赤くした。


「おまえらほんとに仲いいな……」


 智之は嘆息しながら雑巾をとってきて、後始末をする。服を汚していたため、つぐみ、七菜、カオルに頼み、夏帆と美冬には着替えさせる。この二人はつぐみのお古でも着せればサイズは合うだろう。




 そうこうしているうちにすっかり時間が経ってしまった。時刻は九時を回っていて、完全に予定をオーバーしていた。筋トレの後に七菜は投球練習、カオルとつぐみは打撃練習するのが日課だったが時間的に無理だ。天気予報では九時頃から雨らしいので、その前に全てのメニューをこなしてから帰したかったのに、大失敗である。すでに風が吹き始めていて、嵐を予感させていた。


 智之とつぐみは玄関先まで七菜、夏帆、カオル、美冬を見送る。


「急いで帰れよ。今夜は大雨らしいからな」


「傘貸しておくよ~」


 つぐみは四人に傘を配る。


「私たちのせいでこんな遅くまで、申し訳ありませんわ」


 夏帆が謝ると、美冬がちょっとうなだれる。


「──我が一生の不覚……」


「ほら、いつまでも落ち込んでないで、行くよ。監督、今日もありがとうございました」


 カオルは苦笑して二人の背中を押し、向き直って一礼する。カオルは剣道をやっていたせいか礼儀正しい。


「私も遅くまでお邪魔してすみませんでした。監督、お休みなさい」


 七菜もぺこりと頭を下げる。四人は庭先まで進んだ。


 しかし無情にもぽつり、ぽつりと雨が降り始める。風が強くなり、七菜が開こうとした傘が飛ばされる。この中を帰らせるのは酷だろう。智之は四人を呼び止めた。


「危ないから戻ってこい。今夜は止まっていけ」


 こうして唐突に、四人のお泊まり会が開催されることになった。




 智之の家では、スペースや布団には不都合はなかった。メジャーリーガーの父はよく後輩を家に泊めていたからだ。父は友達七人を泊めたこともある。それに比べれば女の子四人を泊めることは造作もなかった。


 四人には家に電話させる。夏帆、美冬、カオルはすぐに許可が取れたが、七菜は少し難航しているようだった。


「……そう、監督の家だよ。え、何かされる? なんでそんなこと言うの、お兄ちゃん。もう知らない!」


 交渉は決裂したようで、七菜は顔を膨らませながら携帯電話を切る。さりとて外はすでに大嵐になっている。七菜を一人帰すわけにはいかない。


 智之は尋ねた。


「……いいのか?」


「いいんです! お母さんに許可はもらいました! お兄ちゃんなんか知りません!」


 どうやら電話の向こうで孝太郎がシスコンぶりを発揮していたらしい。親の許可があるならまあいいだろう。七菜は智之に申し出る。


「それより監督、帰らないんだったら新しい球について見てほしいんですけど……」


「もう雨でブルペンもぐちゃぐちゃになってるだろ……。それに肩を休ませるのも練習の一環だ。最近根を詰めすぎていたからちょうどいいだろ。明日見るから、今日は休め」


 男子との試合が決まって気合いが入っているのか、最近の七菜はブルペンに入り浸りだった。ここらへんで休みを入れるのは悪くない。


 智之の言葉を聞いて、今度はカオルが言う。


「じゃあ僕のスイングを見てよ。いつも室内でしょ」


「そうだな……。カオルのバッティングを見よう。七菜、たまにはおまえも振るか?」


「いえ……。私はつぐみちゃんたちのお風呂掃除を手伝ってきます」


 七菜は少ししゅんとして、智之は明るい声で言う。


「そうか。カオルの練習が終わったら風呂にして、その後晩飯にしよう。晩飯は俺が作るから」


「はい……」


 七菜はうつむき加減のまま風呂場に向かう。七菜はどうも投げ足りないらしい。投手なら一日中でも投げ続けたいものだが、肩は消耗品だ。こればかりは我慢してもらうしかない。


 智之はカオルを連れて再びトレーニングルームに移動した。




 智之の自宅での自主練習は、部活ではなかなかやれない筋トレや七菜のピッチング練習が中心だ。しかし決してつぐみやカオルを放置しているわけではない。今日は夏帆、見冬の面倒を見てもらうためつぐみが不参加だが、必ず二人のために野手用のメニューもやる。ゴールデンウィークの前まではまだ守備に不慣れなカオルのために特守だったが、今日からは打撃に力を入れていくことにしていた。


 智之は全身が映る縦長の大きな鏡をカオルの前に出し、カオルにマスコットバットを渡す。マスコットバットは練習用の普通より重いバットだ。事前に説明を受けていたカオルは、マスコットバットを受け取るとすぐに鏡の前で素振りを始める。


「内角を意識して、ヘトヘトになるまで振るぞ。絶対に教えたとおりのフォームを崩さないように」


 智之の注意を聞きながら、カオルは黙々とバットを振る。智之はカオルのフォームが少しでも崩れれば指摘して直し百回、二百回とバットを振らせ続けた。アッパースイングの矯正も兼ねているので智之の指摘は厳しく、カオルは額に汗を浮かべながら歯を食いしばって必死に素振りする。


 何もフォームを変えなくても、好きにやらせればいいではないかとつぐみあたりは言っていたが、上を目指すために智之はカオルのフォーム改造を決意していた。


 少年野球などでは矯正されがちなアッパースイングだが、長打を打ちやすいという利点もある。下から上に振っているので、打球がホームランバッターの弾道になるのだ。日本のプロ野球、あるいはメジャーリーグではアッパースイングでボールをピンポン球のようにスタンドまで飛ばす外国人打者を見ることができるだろう。


 ではアッパースイングの何がいけないかというと、下から上に振るのが大変であるというに尽きる。何せ重力に逆らって振るのだ。アッパースイングはただでさえバットが大回りになって振り遅れがちになるのに、相応のパワーがないとバットスピードが出ずボールを捉えられない。メジャーリーガー級の筋力があるなら別だが、ステロイドを使っても女子がそこまで鍛えるのは無理だ。


 それでも打撃のスタイルは人それぞれなので、何もダウンスイングに変えてしまおうというわけではない。ダウンスイングはダウンスイングで欠点がある。少しスイングを水平に近づけ、コンパクトにバットを振るようにしようということだ。


 カオルの肉体的限界を鑑みて、アッパースイングを使いこなせる筋力を身につけられるかといえば否である。それなら欠点を小さくしてミート重視で行くべきだろう。試合を経験してわかったが、女子の外野守備なら外野まで飛ばせば足で稼いで長打にしやすい。


 やがてカオルは息切れし、目に見えてバットスピードが鈍る。智之は檄を飛ばしてギアを入れ直す。


「ここからが本番だ! 絶対手抜きするな! 今からどれだけ一生懸命振るかで、どれだけスイングが速くなるかが変わる!」


 カオルは言葉の代わりにブンとバットを振って智之に応える。普通より重いマスコットバットで、もう限界が近いはずなのに、凄まじい精神力だ。


 ただ数をこなすだけでは、バットスピードを上げることはできない。よく知られているとおり、筋肉には速筋と遅筋がある。速筋を鍛えれば瞬発力が上がり、遅筋を鍛えれば持久力が上がる。長い時間負荷を掛け続けても鍛えられるのは遅筋だ。遅筋を鍛えても、バットスピードは上がらない。


 ではなぜ智之がカオルに息が上がるまでバットを振らせ続けたかというと、遅筋をパンクさせるためである。これ以上遅筋が動かないというところまで疲労して初めて、速筋に負荷を掛けることができる。カオルに言ったとおり、遅筋が疲れ切ってからが本番なのだ。


 それからしばらくカオルは素振りを続け、ついには体力が切れてへたり込んだ。智之はカオルにタオルとスポーツドリンクを渡してねぎらう。


「お疲れ。しかしおまえもよくがんばるな……。剣道やってたときも、これくらい練習してたのか?」


「そうでもないよ。練習量は、今の半分くらいかな……」

 タオルで汗を拭きながら、カオルは答えた。智之はさらに訊く。


「じゃあ今はなんでそんなにがんばってるんだ?」


「決まってるだろう? 僕より凄い人がいるからさ」


 剣道部だったときのカオルは、先輩も含めて部内では敵なしだったらしい。大会に出れば負けることもあったが、部内ではカオルが一番練習していて、一番強かった。


「やっぱり一番上手い人があれだけやってるのを見ると、僕もがんばらなくちゃ、って思うんだよね……」


「そうだな……。おまえが上手くなれば、七菜の刺激にもなるよ」


 やはりライバルがいれば練習にも身が入るというものだ。いい傾向である。


「そうやって監督が、七菜ばかり見ているからっていうのもあるんだけどね」


 カオルは少し不機嫌そうに智之を見上げる。智之は苦笑した。


「そうか? そんなつもりはないんだが……」


 カオルだって七菜に匹敵するくらいの才能を持っている。今は追いつけなくても、一年も鍛えれば打撃で七菜を超えても全然おかしくない。


 ちょうどよく「お風呂できたよ~」とつぐみの声が聞こえた。


「カオル、おまえは風呂に入ってこい。俺は晩飯作る」


 カオルはつぐみの方へ行き、智之はキッチンで『アスリートのためのレシピ』なる本を開く。幸い材料はあったので、それなりの夕食が作れそうだ。


 智之は皆が風呂から出てくるまでに料理を終わらせようと、作業を開始した。



 城和田家のお風呂はお父さんのこだわりで、数人が一気に入っても大丈夫なくらいに広い。イメージとしては、旅館の家族風呂だ。小さい子なら泳げそうなくらいの湯量である。その分掃除が大変なのだけれども、最近は七菜とカオルが手伝ってくれるおかげで大分楽になったとつぐみは言っていた。


 七菜、つぐみ、カオル、夏帆、美冬は一緒にお風呂にはいることにする。充分に広いので、その方が効率的なのだ。脱衣所もしっかりとスペースをとっていて、五人くらいなら不自由なくお風呂の準備ができる。五人は思い思いの場所で服を脱いで、浴場へと入っていく。




「ふぃー、やっぱりお風呂に入ると生き返るね……」


 湯船に身を浸したつぐみが息をつく。隣で湯船に浸かる夏帆が同意した。


「そうですわね……。今日の疲れが抜けていくようですわ……。でも明日は絶対に筋肉痛です……」


 夏帆は深くため息をつき、つぐみが困ったように笑う。


「兄さんって、絶対サドだよね。七菜ちゃんは練習きつくない?」


 七菜は浴槽に足を入れたところでつぐみに尋ねられ、七菜は困ったような笑みを浮かべる。


「確かに監督は妥協してくれませんけど、練習自体はそこまで……。私はもっとやらなきゃ、って思うんですけど、監督は絶対にやらせてくれなくて……」


 そう言いながら七菜は全身を湯船に浸ける。お湯の温かさが体の芯に染み渡るようで、とても心地よかった。


 本当のところを言えば、智之が作ったメニューはものすごくしんどい。練習時間自体はシニア時代よりやや多いくらいだが、智之は妥協を許さず、惰性で練習をこなすことをよしとしない。必ず正しいやり方で、高い意識を持って練習させようとする。それでいて今まで七菜がおざなりにしがちだったフィールディング、牽制、クイックといった地味な技術にもしっかり時間を割く。


 そのため練習時間が濃密で、その分疲労も大きいのだった。量的にも七菜は皆に比べて体力がある分、多く設定されている。


 しかし七菜としては目標が目標だけに、現状で満足することに危機感を覚えているのだった。三年間でプロでも通用する投手になると考えると、全く練習時間は足りていないのではないか。智之は七菜の肩を大事にしてくれているので投球練習も少な目であり、その点でももの足りなく感じる。ピッチャーならやはり投げたいのだ。


 つぐみはあきれたように言った。


「夏帆ちゃん、この娘絶対マゾだよ~」


「まあ、七菜さんは私たちよりずっと体力があるのでしょう。体力測定のシャトルラン、断トツで一位だったのでしょう?」


 つぐみの言葉を受けて、夏帆は訊く。七菜より先につぐみが答える。


「シャトルランだけじゃないよ~。ほとんど全部一番だったよ」


「つぐみちゃんだって、ほとんど全部上位だったじゃないですか。それに私、上体起こしはカオルちゃんに負けましたし……」


 七菜は謙遜のつもりでそう言って、浴槽の外で体を洗っているカオルに目を向ける。白い肌に石鹸の泡が光っていて、女の子の目から見ても綺麗だった。


 カオルの裸体の美しさはともかくとして、カオルは上体にもしっかり筋肉がついている。カオルを見れば、智之が七菜の上体が貧弱だと指摘したのが間違いでないとよくわかる。こと上体の強さだけは、七菜はカオルに勝てない。


「正直私、ショックだったな~。50メートル走で女の子に負けた事なんて一度もなかったのに、すごい離されちゃってさぁ」


「タイムはどれくらいでしたの?」


 夏帆が訊き、つぐみは七菜に尋ねる。


「6秒3だよね?」


「ええ、はい……」


 七菜がうなずいたのを見て、夏帆は目を丸くする。


「6秒台前半ですの!? 男子でもなかなかいないでしょう!?」


「高校女子の日本記録更新だ、って先生がはしゃいでたよ」


「誤計測ですよ……」


 つぐみの言葉に七菜は冷静に言った。プロ野球選手が陸上世界記録並みのタイムを自己申告しているのと同じだ。七菜のタイムは陸上の公式な競技会のように機械で計ったわけではなく、手押しでの計測である。高めに出てしまうのも充分起こり得ることだった。真剣に陸上をやっている人に申し訳ない気になる。末次選手が怒っても仕方ない。


「それでも6秒台はすごいですわ。監督が夢中になるのも納得です。あなたなら本当にプロになれるかもしれませんわね……」


 夏帆は七菜に羨望のまなざしを向け、七菜は目をぱちくりとさせる。


「いえ、私なんかまだまだです……」


 謙遜する七菜を見て、つぐみは苦笑する。


「七菜ちゃんでまだまだだったら、私たちはスタートラインにも立てないよ」


 珍しく歯切れが悪いつぐみの様子を見て、七菜は尋ねた。


「皆さんはプロ野球選手になりたい、って思ったことはないんですか?」


 まず夏帆が答える。


「小さい頃には思いましたけど、さすがに今そんな風には思えませんわ。今は野球かソフトで世界大会のメンバーに選ばれるくらいの選手になるのが目標ですわね」


 つぐみも苦笑いを浮かべながら答えた。


「私は小さい頃からプロっていうのがどれくらいすごいのか、知っちゃってるからね。最初から、自分があの人たちみたいになれるとは思えなかったな~。今は続けられるだけ野球を続けるのが目標かな。女子プロもできたし、将来のスター目指してがんばるよ!」


 つぐみは努めて明るく言った。


「そう、ですか……」


 七菜としては、少し衝撃だった。投手の自分は別として、チームで一番野球がうまいのはつぐみだ。そのつぐみも自分の実力を鑑みて、最初からプロを諦めている。「七菜が一人ずれたことをやって、チームの和を乱している」。七菜は朝、孝太郎に言われた言葉を思い出して顔を曇らせた。


 自分は果たして、本当にプロを目指せるに足る人間なのか。ひょっとして今のまま努力しても、智之をがっかりさせるだけではないのか。


 七菜の中で生まれた不安は、すぐにかき消された。七菜の前に、顔の半分を湯船に潜らせた美冬が現れていたのだ。美冬は七菜の胸を見て目を剥く。

「──む、胸が浮力で浮いとる……! 卑怯すぎるやろ! 女子力高過ぎや!」


「み、見ないでください!」


 慌てて七菜は胸を隠す。しかし美冬はお風呂で気が大きくなっているのか、全く遠慮してくれなかった。


「──その胸の半分、いや、三分の一でもよこせや!」


 そう言って美冬は七菜の胸を揉みしだく。弾力のある胸がスライムのように形を変えた。七菜は悲鳴を上げて美冬にお湯を掛け、それをきっかけにお湯掛け合戦が始まる。


「やれやれ……。君たちはお風呂の時間も静かにできないのかい?」

 体を洗い終えて湯船に入ってきたカオルは小さく息をつくが、つぐみにお湯を掛けられてやり返し、カオルも騒ぎに参加する。


 しばらく浴場での乱闘は続き、七菜は胸の中に生じた不安を忘れることができた。



「あいつら何やってるんだ……」


 風呂場から聞こえてくる嬌声に智之は独り言をこぼし、時計を見る。すでに料理は終わっていた。後は七菜たちが風呂から出るのを待って配膳するだけだが、彼女たちは一向に出てくる気配がない。智之は本でも読んで待っていようかとキッチンを出るが、廊下の向こうにある電話が鳴り響く。


 智之は電話を取った。


「もしもし、城和田ですが……」


「おい、智之! どういうことだ! おまえのところに七菜が泊まるって! おまえ七菜に何かする気か!?」


 電話の主は孝太郎だった。孝太郎は興奮した様子でがなりたてる。孝太郎がシスコン病を発症したらしい。智之はため息をつきたいのを堪えて、諭すように言う。


「……落ち着け。うちにはつぐみがいるし、他の女子野球部のメンバーも三人一緒に泊まる。俺が変な気を起こしても何もできない。この雨で帰すわけにはいかないだろ」


 外の雨はいっそう強くなり、ほとんど台風の日のようだった。これは明日はグラウンドがだめになって、整備が必要かもしれない。


「おまえ、うちの七菜に何かしたらただじゃおかないからな!」


「何もしないよ。だから安心して寝ろ。じゃあな」


 相手をするのが面倒くさくなった智之は、一方的に電話を切った。しかしすぐに再び電話が鳴り始める。仕方なく智之は電話をとる。


「……もしもし」


 電話の先で、孝太郎が少し怒ったような声を上げる。


「話はまだ終わってないぞ! 夕食は食べたか?」


「まだだ」


 智之がそう答えると、孝太郎は早口でしゃべり始める。


「七菜は毎日ご飯を三杯はおかわりするから、米は多めに炊け。味噌汁の味は薄口だ。濃い口だとむせてしまうから、薄く調整しろ。七菜はグリーンピース嫌いだから絶対に入れるな。酢豚にはパイナップルを入れるな……」


「一切問題ない」


 智之はガチャリと電話を切る。この年齢になって好き嫌いをいうのは少し幼稚ではないだろうか。しかし3秒後には即電話が鳴り始める。うんざりしながら智之は電話をとる。


「まだ注意事項はたくさんある! 七菜は大抵の女物の服が合わないから、服はおまえのを貸してやれ。あいつは青系が好きだから青系だ。キャラクターがプリントされたのは子どもっぽいと嫌がるから着せるんじゃない。しかしおまえより七菜の方が背が高いからおまえのでもサイズは合わないかもしれないな……。何なら俺が今から届けに……」


「結構だ」


 智之は電話を切り、コードを抜いた。つき合ってられない。


 智之がキッチンに戻ると、ちょうどカオルがお風呂から出てきていた。カオルは智之に報告する。


「みんな湯あたりしちゃったから、一列に並べて扇風機で冷やしてるよ。そのうち復活すると思う」


「わかった……。みんなの面倒見てくれたのか。おまえって、意外と面倒見いいよな」


 感心した智之はカオルを褒める。カオルは部活の時間でも煮詰まっている外野三人組の話を聞いたり、キャプテンとして動かなくてはならないため自分の練習時間をなかなかとれないつぐみの仕事を代わったりと、顔は冷たくてもよく働いてくれる。カオルがいなければ練習効率が半分に落ちるのではないかと思えるほどだ。


 カオルは照れているのか少し顔を赤らめ、プイと横を向いた。

「みんな全裸だから監督にはやらせられないよ」




 しばらくして七菜、つぐみ、夏帆、美冬は風呂場から出てきた。


 智之は夕食を皆にふるまい、早めに寝かせる。夜中に、まるで人がドアを叩くかのようにドンドンと何度も音がしたが、きっと気のせいだろう。風が強いので、ドアにゴミでも当たったのだろう。ああ、きっと明日は掃除が大変だなあ。



 皆を寝かしつけてから、智之は一人リビングでノートを開く。学校の勉強ではない。野球部の日誌をつけているのだ。日誌には全員の成長を細かく書き込んでいて、次にどこを伸ばすか、分析できるようにしてある。投手の七菜に限っては体重も毎日申告させていて、減らないように、増えすぎないように調整していた。


 雨音をBGMに、智之は日誌をめくっていく。


「監督、まだ起きてらっしゃるのですか?」


 しばらく日誌に書き込んだり読み返したりしていると、目をこすりながらぶかぶかのパジャマ姿の夏帆が、後ろから声を掛けてきた。どうやらトイレにでも起きてきたらしい。


「もう少ししたら寝る。うちは明日早いからおまえもしっかり寝ておけ」


「了解ですわ……。毎日こんなに書いてらっしゃるの?」


 夏帆は智之の日誌を見て尋ねる。


「まあ、俺にも責任があるからな」


 選手が大成するかしないかは、やはり指導者の責任が大きい。こんな大任を任されているだけでも自分は幸せなのだ。半端な仕事はしたくなかった。


 夏帆は首をかしげる。


「こんなにも一生懸命やるなら、いっそ監督が現役復帰してはどうですか? 七菜さんのお兄様には勝てなくても、二番手投手なら出番もあるでしょう。大学でがんばれば、七菜さんに夢を託さずともプロへの道も開けるのではなくて?」


 智之は言った。


「俺には無理だよ。……背が伸びない上に、肩がだめになりかかってる」


 智之の身長は170センチ。野球選手としては小さい部類で、すでに成長期が終わっている。これ以上大きくなる見込みはない。


 肩の酷使も深刻で、右肩には重度の炎症が見られ、けん盤は断裂しかかっている。医者には手術した肘が治っても、競技復帰したら肩の無事は保証できないと言われていた。


「そんな状態で先日は投げたのですか!?」


 驚く夏帆に、智之は笑って言う。


「一年半投げてなかったから、これでもかなりよくなってるんだよ。痛みはないから問題はない。仮に肩がいかれたらまた手術だな」


「そんな肩で、再来週も投げる気なのですか?」


 再来週は男子との練習試合だ。七菜だけに任せるのは厳しい。智之の答えは決まっていた。


「もちろんだ。まあ、再来週の試合が終わったら俺が試合で投げる機会はもうないだろうから、大丈夫だろう」


「どうしてそんなことに……。あなたのチームの指導者が悪かったのですか?」


 夏帆の言葉を智之は否定する。


「いや……俺が勝手に投げ込みすぎて、勝手にぶっ壊れた。それだけのことさ」


 智之はもっともっと練習しなければ上には上がれないと考え、監督や医者に言われた球数制限を守らなかった。一人で勝手に暴走し、一人で勝手に事故死した。


「だから自分のような選手が出ないように、よい指導者になろうと?」


「俺ほどのバカはそうそういないだろ? でも、選手の望みはできるだけかなえてやりたいと思ってる」


「そうだったのですか……」


 少し悲しそうな顔をする夏帆に、智之は言う。


「しっかり朝練もやるから、今日はもう寝ろ。俺のことは気にするな。引退して体力も時間も有り余ってるんだよ」


「くれぐれもご自愛を……。おやすみなさい」


 夏帆が寝室に戻る。智之はもう一がんばりしようと大きく背を伸ばした。



 火、水、木、金と練習をこなし、土曜日となった。智之は七菜に声を掛け、練習をつぐみに任せて男子野球部の新グラウンドに赴く。


「あの、私たちも打撃投手しなくていいんですか?」


 道すがらに尋ねる七菜に、智之は苦笑する。


「今日はノースロー調整って言ったろ。大会だと日程がきつい場合もあるから、ノースロー調整にも慣れておけ。お、もう始まってるか」


 智之は新グラウンドから上がる打球音を聞いて言った。智之と七菜は急いでグラウンドまで行き、フェンスを覗き込む。


 今日は男子野球部が練習試合をする日だった。孝太郎が投げるため、偵察に来たのである。打撃のチェックもできて一石二鳥だ。


 智之はシニア時代に孝太郎とは何度も対戦経験があり、ライバルといって差し支えない間柄だった。外角へのクロスファイアで追い込む智之と、それを打とうとする孝太郎の勝負は毎回白熱したもので、智之が一球を投じる度に両軍ベンチから歓声が上がったものだ。しかしそれももう一年半も前のことである。孝太郎がどれくらい進化したのか確かめる必要がある。


 七菜は孝太郎と兄妹だが、最後に投手孝太郎と勝負したのは一年以上前で、常に七菜が負けてきたと言っていた。故に七菜も孝太郎の攻略方法はわからない。孝太郎の情報を仕入れるのは、勝つために必須事項だった。


 ついでにたったの一試合であるが男子チーム全体のデータも手に入る。これで偵察に来なければ、監督の職務怠慢だ。


 試合はすでに始まっていた。


 智之と七菜はグラウンド脇のベンチに腰を下ろし、ビデオカメラを設置してから観戦し始める。男子野球部では近所の方々や高校野球マニアがよく見物に訪れるため、見学者用のベンチを設置しているのだった。女子野球部でもこの前は結構観戦者がいたため、同じものを用意してもいいかもしれない。


 マウンドに上がっているのは孝太郎だ。兄妹なので知っているような気もするが、智之は七菜に尋ねる。


「おまえ、孝太郎がどんな投手か知ってるか?」


「はい。お兄ちゃんは、スライダーピッチャーです。ストレートで追い込んで、スライダーで打ち取るタイプです」


 七菜の答えに智之は点数をつける。


「90点だな。あいつは追い込むときにもスライダーを使う。見ろ、今投げた」


 相手バッターは手元で小さく動くスライダーを打ち損ね、内野ゴロに倒れる。孝太郎は小さく曲がるスライダーと大きく曲がるスライダーの二種類に、140キロを超えるストレートを合わせてバッターを料理するタイプだった。すでに来年のドラフト候補として名前が挙がっている、プロ注目の選手だ。


「カウントを稼ぐスライダー──マッスラが狙い目だな……」


 孝太郎の投球を見て智之は言った。


 140キロ超のストレートも、ストンと落ちる決め球のスライダーも容易には打てない。しかしわりと無造作にストライクゾーンに投げ込んでくるマッスラなら、打てる可能性はあるだろう。


 洞峰高校は正捕手の森橋が怪我でいないため、控えの一年生が捕手を務めている。孝太郎は多少投げにくそうにしていたが、それでも孝太郎は力で圧倒する。孝太郎の球速ならスピードを抑えて投げても、どんどん空振りがとれるのだ。あっという間に孝太郎は相手バッターを片付け、洞峰高校の攻撃である。智之は孝太郎の快投を意外に思った。


「相手は選抜優勝したかえで市立高校だろ? あっさりしてるな。ベンチメンバー中心か?」


「あそこは公立校だから……。でも、出てきますよ」


 七菜の言葉通り、マウンドに上がったのはかえで市高の大エース、天王寺啓輔だった。


 天王寺は投球練習を始める。天王寺は180センチ越えの堂々とした体躯をしなやかに使い、腕を下げ気味のスリークォーターから孝太郎よりさらに早いストレートを投げ込む。智之は投球練習だけでうなってしまった。


「見ろ、あれが選抜優勝投手で来年のドラフト1位確実の、天王寺のピッチングだ。あのレベルまで行けばプロに確実に入れる」


 そう言って智之は乾いた笑いを漏らした。本当に同じ高校生なのか、と言いたくなるくらいに投球練習だけでピッチングの次元が違う。


 いよいよ洞峰高校の攻撃が始まる。先頭バッターは天王寺の速い球を打ち上げて簡単にアウトになった。七菜は首をかしげる。


「今、捉えてた感じだったのに……」


「ツーシームだよ」


 ストレートと同じ速さで来て、バッターの手元でわずかに沈む球である。この球を甲子園で最高球速153キロを記録している天王寺がストレートに混ぜてくるのだからたまらない。一般にツーシームはストレートよりわずかに遅いのだが、天王寺はツーシームに合わせてストレートを抑えて投げているため、全く見分けがつかないのだ。プロでもおそらく対応できないだろう。


 次のバッターは速球の後に来たカーブに体が泳ぎ、力ないファーストゴロに倒れる。その次のバッター鋭く横滑りするスライダーで三振した。


 複数球団競合確実という評判と違わない、すばらしいピッチングだった。


 次の回はお互い四番が先頭だ。両校ともエースが四番を兼任しているので、孝太郎と天王寺の直接対決である。


 まずは投手孝太郎vs打者天王寺だ。天王寺が屈伸しながら右打席に入る。孝太郎は緊張の面持ちでそれを見つめる。天王寺は打者としても優秀で、大きな体を器用に使ってどんなコースでもヒットにする。体格が大きいだけあってホームランバッターでもあり、孝太郎が甘いところに投げれば一撃で仕留められるだろう。


 孝太郎は外角高めにストレートをはずし、ボールから入る。さすがに天王寺相手には孝太郎も慎重になるようだ。次に孝太郎は、内角に変化の小さいマッスラを投げ込む。外のストレートを見せてから内の変化球という、打ちづらい組み立てだ。


 これを天王寺は読んでいた。天王寺はうまく腕を畳んで、わずかに外に滑るボールをバットの芯で捉える。白球はいい角度で上がり、レフト前に落ちてヒットとなった。完全に高校生のレベルを超えていて、智之も笑うしかない。


「……俺たちもあんなバッテイングができれば、孝太郎を打てるんだろうけどな」


 孝太郎は後続打者を打ち取り、この回をゼロに抑えた。次は投手天王寺vs打者孝太郎だ。孝太郎はこちらまで風圧が届きそうなほど鋭い素振りを二、三回繰り返し、打席に入る。


 孝太郎はプロには投手というより野手として注目されている。その理由は一にも二にも長打力だ。恵まれた体格から放たれる打球はホームランバッター特有の弾道を描き、ここまで高校通算本塁打は20本。まだ二年生の春なので、来年の夏には50本まで伸びてもおかしくない。


 孝太郎は特に内角打ちが得意で、ツボにはまれば楽々ボールをスタンドインさせてしまう。右の長距離砲となれる逸材だ。


 もちろん投手としても魅力的だが、今日日140キロを投げる投手はざらにいる。まとまりのいい好投手という評価だが、球界全体が大砲不足な中、野手としての魅力には負ける。投げても140キロを出せる強肩も併せて、孝太郎は野手としては関東でも五本の指に入るのではないかという評判だった。


「さぁ、よく見ておけよ。天王寺の攻め方を参考にするんだ」


 七菜は智之の言葉に従い、目を皿のようにして孝太郎の打席を見つめる。


 天王寺はまず外角への速球を投げる。孝太郎は振っていって、ファールにする。比較的外角は苦手な孝太郎だが、それでもカットしたり流してシングルヒットを打ったりすることはできる。ここまでのピッチングを見る限り、天王寺は外角への投球が非常に多いのだが、このまま外角を攻めるつもりだろうか。


 智之の予想に反して、天王寺は内角にシュートを投げてくる。それもストライクゾーンだ。遊び球を使う気が一切ない。140キロ台のシュートはさすがの孝太郎も打ちあぐね、後ろに飛ばしてファールにする。これでツーストライク。孝太郎は追い込まれてしまった。


 天王寺のラストボールは、外角へのスライダーだった。鋭く横滑りしてストライクからボールになるその球を、孝太郎は空振る。圧巻の横綱野球だった。


「参ったな……。レベルが高すぎて参考にならない」


 智之は思わずそうこぼした。孝太郎相手に三球勝負を挑んで勝てる天王寺がすごいのはもちろんだが一球目、二球目をファールで逃げた孝太郎の技術も相当なものだ。二球目のシュートなどは並みの打者ならフェアゾーンに転がしてアウトになるコースに制球されていた。プロが確実視されている人間はレベルが全然違う。


 天王寺のプレーを参考にするのは無理だ。こちらは打者の特徴を一通り掴んで、独自に対策を立てるしかない。


「……お兄ちゃんって、プロで活躍できるんですか?」


 孝太郎の打席を見て不安になったのか、七菜は智之に尋ねる。智之は答えた。


「野手はプロに入ってからの成長次第だからな……。正直わからない。ただ、一年目から一軍で活躍するのは難しいだろうな……」


 野手は打てるようになるまで、どうしても時間がかかる。金属バットから木製バットへと道具が変わるのに加え、プロのスピードに慣れるのは大変だ。新人の高卒野手なら、二軍で二割打てれば合格と言われるくらいである。一年目から一軍で打ちまくった高卒野手など、清原まで遡らなければならない。


 さらに守備も、アマで名手と呼ばれた選手が、プロに入れば下手くそというのはよくあることだ。投手から転向する孝太郎の場合、まずどこを守るか決めるところから始めなければならないので、こちらも負担が大きい。


 内野をやれる守備のセンスがある見込まれたなら、最初はショートをやらされるだろう。あるいは打撃を活かすためサードだ。しかしプロの内野守備を身につけるには年単位で時間が掛かる。内野手として入団した選手が内野失格の烙印を押されて、外野に回されるというのは珍しい話ではないのだ。


 外野なら孝太郎にも経験があるので比較的早く馴染めるだろう。しかし外野でもそれなりに守れるようにならないと、チャンスは来ない。


 現実的に考えて、プロの一軍で打てるようになるためには、ある程度打てなくても我慢して起用される期間が必要である。そうなると一軍に対応する打撃センスだけでなく、結局守備力も必要なのだ。最低限は守れなければ、我慢などできない。一軍に上がったとしても、数試合打席に立って打てなければ二軍にポイという厳しい立場に置かれる。


 当然ながら、一軍でどこのポジションが空いているかという運の要素も強い。しかしセンターラインを任される守備力がなければ、打撃のみを期待して獲得された外国人や守れなくなったベテランとの競争になってしまうので、確実にチャンスは少なくなる。


 智之の見たところ、孝太郎のフィールディングは高校生としては普通といったところだ。投手をやっているだけに肩は強いが、プロレベルの守備力を身につけるまでには時間が掛かりそうである。たとえ打撃が二軍である程度通用しても、守る場所がなくポジションをたらい回しにされている間に埋もれてしまうという危険性はあった。


「投手としてはどうですか?」


 七菜はさらに訊き、智之は考え込む。


「う~ん、現状でもプロ入りくらいはできると思うけど、いきなり活躍はやっぱり難しいだろうな。見てると、まだマッスラの精度が低いんだよ。天王寺にもそこを打たれてるわけだから」


 天王寺が打った曲がりの小さいスライダーは、やや真ん中寄りの甘いところに入っていた。天王寺レベルのバッターだと、それを見逃さずに打てるのだ。そしてもちろんプロには、天王寺以上の打者がゴロゴロいる。変化球の精度を上げてかつ、ストレートをもっと伸ばさないとプロでは通用しないだろう。


「そう、ですか……。私なんかバッティングもピッチングも、お兄ちゃんには全然敵わないのに……!」


 七菜が膝の上でぎゅっと拳を握る。ショックを受けているらしかった。


「まあそう気を落とすな……。高校三年間で一番伸びるのは、高校二年から三年に上がるときだ。しっかり成長して、上でやれる選手になればいい」


 七菜は智之の慰めも頭に入らない様子で、その後ずっと上の空のままだった。試合は途中で球速に慣れたかえで市高が孝太郎から3点をとり、天王寺が完封して終わった。



 次の日は日曜日で、東京の高校をこちらのグラウンドに呼んで練習試合だった。先発は七菜である。もちろん来週の対男子戦を見越してのテストマッチだ。


 内野は全員正規のポジションだが、千景をセンターに置き、百合にライトをやらせて外野陣は今までなかった布陣を敷いている。千景は試合途中で両翼も試し、対男子戦でどこで使うか決定する予定だ。打線も少しいじり、夏帆と美冬の一、二番を逆にしていた。今日は一番美冬、二番夏帆である。


 ちなみにようやく練習用の白いユニフォームが届いたので、今日はそれを着て試合に臨んでいる。試合用の綺麗なものは、来週の男子との試合には間に合いそうだ。本当は大会でしか着ないが、一回くらいは試合用でプレーするのもいいだろう。


 試合前に智之は七菜に尋ねる。


「何イニングくらい投げられる?」


「完投できます」


 七菜は直立不動で答えた。その答えに智之は疑問符をつける。


「……練習中の新球も試しながら、変化球主体でだぞ? 本当に大丈夫か?」


 七菜は言い切った。


「大丈夫です」


 今日の七菜はいつになく強気だ。若干の違和感を感じながらも智之は考える。昨日はノースロー調整した。べつに途中で交代してもいいので、本人の意向が完投であればやらせてみてもいいのではないだろうか。七菜はさらに言う。


「変化球も使いますけど、試してみたいことがあるんです……。やらせてください!」


 昨日孝太郎の試合を見て、七菜も何か考えてきたらしい。智之は決断する。


「よし、じゃあそのつもりで行くぞ。ただし、無理っぽかったら交代だから、そのときはマウンドを降りろよ」


「そんなことには絶対なりません」


 七菜はいつになく強気だ。昨日は元気がなかったのに、いったいどうしたのだろう。智之は首をかしげるが、七菜は険しい顔でマウンドに向かい、練習試合が始まる。


 相手は創部して10年ほどの女子野球部で、一年生中心のメンバーだった。前回の新潟揚北高校よりレベルは上だろう。しばらくは練習試合も一年生中心の二軍相手が続くが、勝利し続けていれば必ず一軍が出てくることになる。早く一軍相手にこのチームがどれだけ通用するか試したいため、できるだけ練習試合も勝ちたい。七菜の活躍が勝利の鍵だ。


 しかし七菜の調子は、お世辞にもいいとはいえなかった。


 一回表、先頭打者への初球、七菜はストレートを投げ込む。ストレートは外角低めに決まり、先頭打者は見送った。二球目も外角低めへのストレートだ。今度は球がわずかに浮き上がり、痛打される。打球は左中間を抜け、二塁打となった。


 次の打者へも七菜は外角低めに愚直に投げ続ける。七菜といえど同じコースに正確に投げることはできない。追い込めば変化球で三振をとれるかもしれないが、またも甘いところにストレートが浮いてヒットを打たれる。ランナーが生還して一点をとられた。


 明らかに七菜の様子がおかしい。点を取られたにもかかわらず七菜は投球スタイルを変えず、ストレートを投げては甘いコースに入って打たれる。つぐみも困惑した様子で何度も変化球のサインを出すが、七菜は外角低めへのストレート以外首を振った。


 球速は出ていたが、それだけで打ち損じてくれるほど相手のレベルは低くないらしい。いくら七菜が女子としては最速クラスの投手でも、球速は130キロに届かない程度だ。招き猫のような特殊フォームも、変化球を混ぜてタイミングをはずすからこそ意味がある。同じリズムでストレートばかりが来るのなら、発射点がわかりにくくても意味がない。


 だとしても相手の対応がよすぎると思えるが、ソフトボールなら体感速度はかなり速い。そのためソフトボール出身の打者なら七菜の球速を苦にしないのだ。相手にはソフトボール出身者が多いようだった。


 一回表が終わるまでに、七菜は全てストレートで三点をとられた。たまらず智之はベンチで七菜を呼ぶ。


「なんだこのピッチングは? 何か試してるのか?」


「はい。私のストレートは、男子相手じゃ外角低めに決められないと抑えられませんから」


 外角低めは、打者から一番遠いコースだ。よって打者には最も打ちづらいコースとなる。速球をきっちり外角低めに決めることができるなら、確かに孝太郎でも手こずるだろう。


 しかし言うは易く行うは難しという言葉の通り、狙っただけで全球外角低めに投げ続けられるなら誰も苦労しない。高校球児でも内と外の投げ分けができれば合格という世界なのだ。


 七菜のコントロールは決して悪くないが、それでもテレビゲームのピッチャーのように同じところに投げ続けるのは、いくらなんでも無理がある。今回のように甘く浮き上がった球を打たれるのがオチだ。


「練習でできないことを、試合でできるわけがないだろ。次の回からちゃんと変化球を使え」


 七菜はまだ智之に反抗する。


「ストレートが通用しないのに、男子を抑えられるわけがないじゃないですか……!」


「だからって、できもしないことをやろうとしても意味ないだろ。プロを目指すんじゃなかったのか? 一つずつでも成長して、総合的にレベルアップしないとプロは無理だ。なんでおまえは突然無茶苦茶な手段で100点満点を目指すんだ?」


「だったら私はプロになんかなれません……」


「急にどうした? 昨日の試合見てふて腐れてるのか? これから成長してあのレベルに追いつくんだろ?」


「私は……女だから……追いつけません!」


 七菜は泣いていた。智之は混乱する頭を必死に整理しつつ、七菜を立ち直らせようと強い調子で言葉を掛ける。


「そんなのやってみなくちゃわかんないだろ。俺は最初に訊いたよな? 『覚悟があるか』って。おまえの覚悟はそんなもんだったのか? やる気がないなら怪我するだけだ、やめちまえ!」


 智之の剣幕にベンチの面々がビクリと肩を震わせこちらを見る。部員たちは智之を遠巻きにして不安そうに事態の推移を見守る。


「……って、諦めたじゃないですか」


 七菜はうつむいて涙を流しながら言う。智之は聞き取れなかったのでもう一度言うように促す。


「大きな声ではっきり言え!」


「監督だって、諦めたじゃないですか!」


 七菜はそう叫んで、ベンチから飛び出していった。七菜は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、グラウンドから遠ざかってゆく。智之はその姿を呆然と見送るしかなかった。

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