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1.妹はカウントを整えない

この小説を書いたのは2012年のオフです。そのためすでにネタの風化等が見られます。

 次の日の朝、智之は去年と同じように一人で登校した。べつにつぐみと一緒に登校してもよかったが、つぐみは用があるとかで朝早くに家を出てしまった。


 智之が通う洞峰高校は、駅前にあるそこそこ大きい私立校だ。智之の家からは歩いて通える距離である。偏差値は普通程度で、特徴といえば創立して間もない20年前に一度甲子園を制覇したことくらいだろうか。


 校門の近くの道で智之は知り合いに出会う。


「おはよう、智之」


 挨拶してきたのは、身長180センチを超える馬鹿でかい女だった。智之は女を見上げて挨拶を返す。


「……おはよう、芽衣子」


 昔からの友人である貴良芽衣子だ。こんな名字だが貴族でも良家のお嬢様でもない。芽衣子は顔を綻ばせて言う。


「相変わらず智之は暗いねえ」


 ちゃかすように芽衣子が言って、智之の頭をうりうりと撫でる。親戚のおばちゃんのような反応だ。智之も負けずにやり返す。


「相変わらずおまえはでかいな」


「うっ……。身長のことは言わないでおくれよ……」


 芽衣子は目を閉じて胸に手を当て、本気で傷ついたそぶりを見せる。


「わ、悪い……」


 智之が慌てて謝ると、芽衣子はぺろりと舌を出した。


「ま、この身長で得することも多いんだけどね」


「わかったから、いい加減バスケ部かバレー部かどっちか入れよ……」


 芽衣子は入学してすぐにバスケ部とバレー部にこの身長の高さで目を着けられ、熱心に入部を勧められた。ところが芽衣子がどちらにも入らなかったので、今に至るまで争奪戦が続けられている。


 芽衣子もリトル、シニアと智之と同じチームで野球をしていた。さすがにレギュラーではなかったが、ちょくちょく試合に出ていて、ホームランを打ったこともある。シニアで女子選手などパンダ並みに珍しいのだが、奇跡的に智之のチームにはつぐみ、芽衣子と二人もいたのだった。


 智之の言葉を聞いて、芽衣子は断言する。


「私は野球しかやる気ないから」


 ロード中の野球部がうるさいくらいの掛け声を発しながら、智之と芽衣子を追い抜いていった。


 つぐみもそうだが、芽衣子もやはり野球を忘れられないのだろうか。智之と同じで、もう野球をする機会などないというのに。


「どうしたんだい? 急に黙っちゃって」


「……いや、別に。野球部は今日も元気だな、と思っただけだ」


 遠くなっていく野球部の一団を見送りながら、智之は怪訝な顔をする芽衣子にそんな感想を洩らした。野球部は校舎裏の専用グラウンドを根城にしているため、ロードで表まで出てくることは少ないのだが、今日はどうしたのだろう?


 芽衣子は智之の疑問をあっさり解消する。


「知らなかったのかい? 正門の向こうに新しいグラウンドができて、野球部はそっちに移ったんだよ。うちの高校は今年で創立三十周年だからね。学校の方も本気で甲子園を狙っているのさ。ものすごい寄付がされたそうだよ。あんたのお父さんも寄付したって聞いたよ。もの凄い数の練習道具送ってきたとか」


「へえ、そうなのか……。絶対無理だと思うけど。同じ県内に市高の天王寺とかいるし、うちは正捕手の森橋が故障中だろ?」


 そう言ったきり智之は黙り込む。智之を気遣ったのか芽衣子は言った。


「本来なら智之もあの中に混じって投げてたはずなのにねぇ。せっかくだから、ちょっと覗きに行くかい?」


「馬鹿言え、俺じゃ補欠がいいところだよ。孝太郎に勝てないからな」

 智之は肩をすくめた。




 智之は中学まで、地元のシニアのチームに所属して野球をしていた。シニアは中学生の硬式野球リーグで、著名な選手を数多く輩出しているため、プロへの登竜門とも言われる。シニアで活躍していれば、名門野球部から引く手数多だ。


 智之のポジションはピッチャーで、練習に練習を重ねてレギュラーを勝ち取り、中学最後の大会では関東大会決勝まで行った。近くの高校だけであるが、スポーツ推薦の特待生として入学の誘いもあったくらいだ。智之にとって、野球は人生そのものだった。


 投げられなくなったのは、関東大会決勝戦の試合中だった。投球中に突如右肘に激痛が走り、動かせなくなった。右肘の靱帯が断裂していたのである。毎日200球を超える投げ込みに、試合での連投。長年に渡る右肘の酷使が原因だった。


 手術を受け、日常生活に支障がない程度には肘も回復したが、球速は戻らなかった。そして智之は、野球をやめた。


 元気にプレイしている野球部を見るのが辛いなんてことはない。つぐみの応援にはよく行ったし、たまにはシニアのチームに顔を出して練習の手伝いもする。しかしそれでも、智之と野球との間には埋まらない距離があるというのも確かだった。




 智之と芽衣子は一緒に教室に入る。今年も芽衣子と智之は同じクラスだった。智之が自分の席に着こうとすると、思い出したように芽衣子は訊いてきた。


「そういやつぐみから聞いてるかい?」


「つぐみから……? 何のことだ?」


 智之は記憶を辿るが、何も出てこない。


「あれ? 聞いてないんだ? あの子訊いたって言ってたのに……」


 困ったような顔をして芽衣子は首を傾げる。


「だから何のことだよ……」


 あきれ声で智之はつぶやく。しかし芽衣子が答えを返す前に、智之は教室を出なければならなかった。


『……二年三組城和田智之君! 今すぐ生徒指導室に来てください! 兄さん、今すぐにだぁ~!』


 不快なハウリング音とともに脳天気なバカ声がスピーカーから響き、智之は頭を抱えた。


「この声って……」


 芽衣子が苦笑いを浮かべる。放送室は放送委員以外使えないはずなのに、いったい何をやらかしたのか。用があるなら普通に呼びに来ればいいのではないか。だいたい、生徒指導室に呼び出されるべきはつぐみの方である。


「俺の妹がこんなにアホなわけがない……」


 ぼやきながら智之は生徒指導室に向かった。




 生徒指導室は安物の机とパイプ椅子が置いてあるだけの、殺風景な空間だった。日当たりが悪いこともあって、まるで取調室のようである。若干気が滅入るのを感じながら、智之は入室する。


「兄さん遅いよ~!」


 生徒指導室に入るなり、中にいたつぐみに文句を言われた。智之はため息をつく。


「さっきの放送は何だ? ふざけてるのか?」


「兄さん、私は大真面目だよ。緊急の用件なんだから」


 顔を膨らませるつぐみを見て、再度智之はため息をついた。


「ごめんね、智之君。私がつぐみちゃんに頼んだの」


「中村先生……?」


 つぐみの隣に座っていたのは中村先生だった。セミロングの髪が美しい人気の保険医である。智之も一年の頃は手術明けで体の状態が思わしくないことも多く、よくお世話になった。


「それで、何の用ですか?」


 気を取り直して、智之は尋ねる。なぜか困惑した様子で中村先生はつぐみに訊いた。


「……えっと、つぐみちゃん。智之君が、引き受けてくれそうな人知ってるの?」


「うん? そういうことじゃないよ」


 笑顔で言ったつぐみに智之は強い調子で言う。


「何の話だよ?」


 つぐみは答えた。


「兄さんにやってもらおうと思って。うちの女子硬式野球部の監督」




「……は?」


 つぐみの言葉に固まること数秒、ようやく智之は訊き返す。


 女子硬式野球部……?


 監督……? 


 さっぱり事情が飲み込めない。


「兄さん、私そんな難しいこと言ってないよ?」


 朗らかな声でつぐみは言う。智之は必死に頭を整理しながら訊く。


「ちょっと待て。女子硬式野球部って何だ? うちにそんな部活ないだろ」


「作ったの。今年から活動開始」


 何でもないようなことのようにつぐみは答えた。ますます混乱しながら智之は質問する。


「おまえ、部活がそう簡単にできるわけねーだろ。いったい何をしたんだ?」


「昨日今日でいきなりできたわけじゃないよ? 芽衣子さんに去年から準備してもらってたの。顧問は中村先生」


 智之は中村先生に目をやる。中村先生は言った。


「顧問を引き受けたのはいいけど、私野球全然わからないから。指導してくれる人を探してたんだけどなかなか見つからなくて……」


「それならいっそ、兄さんに頼んじゃおうかな~って! 私がプレーイングマネージャーっていうのも難でしょ?」


 つぐみが中村先生の後を受けて続けた。「智之君に監督を頼むっていうのは初耳だけどね……」と中村先生が苦笑する。つぐみは「プレーイングマネージャーは古田でも失敗したしね~」と少し残念そうな顔をした。智之は口をあんぐりと開けて絶句する。


「……野球はおまえ一人じゃできないんだぞ? わかってんのか?」


「芽衣子さんも入るから二人は確実にいるよ? うちはソフト部ないから意外と集まるんじゃない? もう何人かには、入れるかって訊かれたよ」


 つぐみは楽観的な様子だ。智之は続けて尋ねる。


「練習場所や道具はどうするんだ?」


 場所の確保は当然として、野球をするならかなりの道具を揃えなければならない。グローブやバットはもちろん、練習用にボールが大量に必要だし、防球ネットなどもなくては危ない。まともに練習するなら、ピッチングマシンなど高額な機材も必要だ。部費で買える範囲を確実に超えている。


「場所は野球部が新しいグラウンドに移ったから、裏のグラウンド使えるよ。道具はお父さんって、うちの高校のOBじゃん? お父さんに頼んで男子野球部に道具を寄付してもらって、古いのをもらえるように頼んだ。いきなり女子野球部に道具寄付してもらうのは問題だけど、このやり方なら問題ないでしょ? いや~、やっぱり甲子園優勝投手は顔が利くよね!」


 つぐみはぺろりと舌を出した。あのクソ親父、なんでつぐみにだけは甘いんだよ!


「俺に指導なんかできるわけないだろ!」


 智之は叫ぶが、つぐみはどこ吹く風だ。


「大丈夫だよ~。兄さんシニアの関東大会準優勝投手じゃん。基本は教えられるでしょ?去年たまにうちのチームに来て後輩に教えてたし」


「あのなぁ、指導っていうのは責任が伴うんだよ。簡単に言うんじゃない」


 智之は眉間に皺を寄せるが、つぐみは全く気にしていないようだった。


「外部の指導者にお願いするのはよくあることでしょ。それも全員が全員ちゃんと野球勉強した人ってわけでもないし。女子のレベルは男子の中学生くらいらしいから、兄さんで充分務まるよ!」


 つぐみの言葉通り、高校野球でも責任教師とは別に監督がいるというのは普通だ。高校によると監督が近所のおっさんだったりすることもある。しかしさすがに監督が生徒というのは前代未聞だ。


「しかし突然言われてもなぁ……」


 なおも智之は渋る。智之にも心の準備というのが必要だ。草野球の誘いではないのだから時間がほしい。しかしつぐみは智之に即断させるべく泣き落としにかかる。


「兄さん、女の子だって野球がしたいんだよ。芽衣子さんだってまだ野球したがってるし、私だって……」


 つぐみの表情は今まで半分ふざけていたのが嘘のように真剣だった。確かに女子が野球をする環境が整っていないというのは事実だ。県内には女子の高校硬式野球部はないし、全国的にも女子硬式野球部がある高校は10校程度しかない。


「兄さんもリハビリで野球ができなかったときは辛かったでしょう……? 私たちは元気なのにできなくなっちゃうんだよ……?」


 智之は黙って考える。確かにリハビリは辛かった。リハビリそのものも過酷だったが、投げられないというストレスが想像以上に大きかったのだ。今まで当たり前にやれていたことができなくなるのは、とても悲しいことだ。


「やりたくてもやれない人がたくさんいるのに、兄さんが引き受けてくれることで何人もの女の子が救われるんだよ? それでもダメ……?」


 つぐみがチワワのように上目遣いで目をうるうるさせながら、智之の顔を覗き込んでくる。泣く子と妹にはかなわない。嘆息しながら智之は言った。


「しゃーねーなぁ……」



「よし、行くか」


 放課後、誰もいない教室でジャージに着替えた智之は一人つぶやいた。


 つぐみとの話合いでは乗り気でない様子を見せていた智之だったが、実のところ少しワクワクしていた。頭にあったのは昨日、裏庭で投げていた女の子のことだ。ひょっとして、部に来ているのではないか。女子の硬式チームなど県内には他にないため、この学校に来たのだとしても不思議はない。


 智之は裏庭を通ってグラウンドへ向かう。裏庭には誰もいなかった。


 心臓のドキドキを抑えながら、智之はグラウンドに入る。去年まで野球部が使っていただけあって、立派な黒土のグラウンドだ。


 やや手狭だが一塁側、三塁側には球場と同じようなベンチが据え付けられ、照明設備もある。設備はかなりボロいが使えないということはなく、恵まれた環境だと言えよう。このグラウンドを独占できるというだけでも、ちょっとした男子の野球部よりずっといい環境だ。


 グラウンドではすでに十人ほどの女子が集まって、わいわいと騒いでいた。智之がグラウンドに足を踏み入れた瞬間、ざわつきは収まって静かになり、女子たちが智之の前に集まってくる。


 集団の中からつぐみが前に抜け出してきて、大声を上げた。

「はいは~い、注目! この人がうちの監督です! では兄さん、どうぞ!」


「え~、今日から皆さんの指導をすることになった城和田智之です。よろしくお願いします」


 智之は帽子をとって頭を下げる。メンバーを見てみると知っている顔はつぐみと芽衣子くらいで、他は知らない女子ばかりだ。どうも一年生が中心にやってきたらしい。昨日校舎裏で投げていた女の子は見当たらない。智之は少しがっかりした。


「おいおい、それだけかい?」


 苦笑いを浮かべて芽衣子が言った。智之は慌てて続ける。


「まぁ、何というか、俺じゃ力不足だとは思うんだが、楽しくやりましょう」


 まばらに拍手が起こるが、すぐに収まる。隅っこに立っている短髪のボーイッシュな少女が手を挙げた。細身だが智之と同じくらいの背の高さで、智之は少しびくつく。


「一つ聞きたいんだけど」


「な、何だ?」


「見たところ、あなたはうちの生徒のようだけど、男子の野球部の人? 監督なんてできるの?」


「俺は帰宅部だから問題ない」


 智之がそう答えるとボーイッシュな少女は眼を細め、ぼそりと言った。


「そういうことじゃなくて、あなたが本当に指導ができるのかってこと。どんなスポーツでもそうだけど、指導者がしっかりしてないと危険だし楽しくないよ。やっぱり入部やめようかな……」


 皆が不安に思ったのは智之がちゃんとした他の監督並みに指導できるか、ということなのだった。リトルリーグなどでは父兄が交代で監督をやっているチームもあるが、高校の部活ではそんな身内人事は普通ありえない。集まった部員が不安に思うのも当然だ。


「兄さんは怪我で引退しただけで、シニア関東大会準優勝投手だよ? え~っとそれに、あのメジャーリーガーの城和田の息子だよ?」


 城和田の名前が挙がると同時に、小さなどよめきが起きる。智之の父、城和田智紀は今も現役で活躍しているプロの投手だ。20年前にうちの高校を全国優勝させたことでも有名で、地元であるこの町では知らない者はいない。


 しかし少女は反論する。

「でも二世選手って大抵大成しないよね」


 智之は苦笑いする。影でそんなことを言われていたのは知っていたが、面と向かって言われるのは初めてだ。


「そんな寂しいこと言わずに一緒にやろうよ、えっと……」


 つぐみも少女の名前を知らないのか、言葉に詰まる。端正な容貌を少しも崩さず、少女はぼそりと名乗った。


「……村中カオル」


「カオルちゃんも一緒にやろうよ~! 一人でもいなくなると、試合ができなくなっちゃうよ~! 女子の大会だってあるんだよ?」


 数えてみると、集まってる女子はちょうど9人だった。カオルは面倒そうにまとわりついてくるつぐみから顔を背けながらわずかに眼を細め、やれやれといった調子で「わかったよ……」と息をついた。どうやら残ってくれるらしい。


「さすがカオルちゃん! 信じてたよ!」


 つぐみは嬉しそうにカオルの背中を叩き、カオルは困ったように笑顔を浮かべた。なんやかんやで仲はいいらしい。


 智之は腕組みして言う。


「当面の目標は夏の大会だな……」


 女子野球では夏に男子でいう甲子園にあたる高校の大会と、高校のチームを含む女子アマの全チームが参加して日本一を決める大会の両方が開かれる。他には3月に春の選抜大会があり、関東では春と秋にアマチームでリーグ戦が行われるが、春のリーグ戦はチーム作りが間に合わないので参加しないことが決まっていた。夏の大会には参加できそうなので、夏に向けてチーム作りを進めることになりそうだ。


「じゃあ一人ずつ自己紹介してもらって……」


「兄さん、一辺に自己紹介されて覚えられるの?」


 つぐみに指摘され、智之は苦々しい表情を見せる。智之は人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだ。どうにも昔から物覚えはよろしくないのである。


「……いや、無理だな」


「兄さん、まずは守備を見ようよ。内野がちゃんとしてないと、試合しても面白くないよ」


「じゃあまず経験者と未経験者に別れてくれ。未経験者は……そうだな、外野でキャッチボールだ。つぐみ、見ててくれ」


 つぐみの言う通り、とにかくまずは守備だ。守備が崩壊していると、まず試合が成立しない。外野守備には目を瞑るとして、経験者で内野を固めるしかあるまい。


「兄さん、了解~!」


 つぐみはぞろぞろと未経験者を引き連れて外野へと移動した。




 智之の側に残ったのは芽衣子を合わせてたったの三人だった。女子野球の競技人口はわずか600人だ。素人の方が多くなるのも仕方ない。人数が揃っただけでも僥倖である。


 三人のうち芽衣子は左利きなので内野はファーストしかできない。残る二人が右利きであるよう祈りつつ、智之は尋ねる。


「芽衣子は知っているからいいとして……。そこの二人、名前とポジション教えてくれ。なんかすごく顔が似てるような……。いや、でもまさかな……」


 顔はそっくりだが雰囲気が全く違う二人は顔を見合わせて笑い、自己紹介する。


「わたくしは洗居場夏帆。ポジションはショートですわ!」


 金色の長い髪をサイドで纏めた方が元気よく言った。身長は150センチ台で、とにかく肌が白い。顔立ちも整っていて、どことなく西洋人っぽい。


「わたくしたちはハーフですのよ」


 智之の疑問を察したのか、夏帆は補足した。


「私は──洗居場美冬──ポジションはセカンド」


 次は真っ黒な髪を後ろで団子に纏めている方だ。目の下に真っ黒なフェイスペイントを施していて、少し不気味である。目の下に黒を塗ると日差しが目に入るのを防げるため、日の光が強いときは有効なのだが、今は春だ。正直必要ないと思う。


「お二人は姉妹なのかい?」


 芽衣子が膝を折って二人の顔を覗き込むようにして、尋ねる。二人とも小柄で、芽衣子は20センチ以上背が高いため、こうしないと目線が同じくらいにならないのだ。


「わたくしと美冬は双子の姉妹ですわ」


「──不本意ながら私が妹で、夏帆が姉。フハハ……!」


 顔はそっくりでも、髪の色が違うせいか雰囲気は全く似ていない。夏帆の方はどことなく動きがピシッとしていて、隙がない印象だ。対する美冬は、どことなくダークなオーラを纏っている。喋り方が独特で、不気味に笑っているからだ。ツッコミ待ちなのだろうか。


「なんで双子なのに髪の色が違うんだ?」


「この子、染めてますのよ」


 夏帆に言われて智之は美冬の頭を見る。確かに日本人にしてもここまで濃い黒髪はなかなかいない。


「──闇の帝王には暗黒がよく似合う故」


 思わせぶりに笑って言った美冬に、芽衣子が首をかしげて言う。


「あれかい? ハリーポッターの……ヴォルデモート卿?」


「なんでや! うちあんなハゲちゃうわ!」


 美冬は唐突に関西弁になる。夏帆が「わたくしたちは小学校のとき、大阪にいましたので」と説明してくれた。頭が沸騰すると関西弁が出てしまうらしい。


「……まぁいいや。二人ともどこで野球やってたんだ?」


「中学ではソフトボール部に所属しておりました」


「──小学校のときはリトルでは野球だったけど、中学校にはなかった」


 夏帆と美冬が続けて答える。


「ソフトか……。まあでも、小学校のときに経験あるなら大丈夫かな」


 ひとまず智之は安心した。内野が揃っていれば試合はとりあえず成立する。


「わたくしの方が肩が強くて、美冬の方が捕球はうまいんですの」


 夏帆は自分たちの特徴について説明する。智之は満足してうなずいた。


「じゃあ三人でアップしててくれ。俺はサード探してくる」


 智之はそう言い残して素人たちの集団に向かった。




 サードといえばプロでは打撃だけの下手くそが守っている印象が強いが、レベルが低くなればなるほど重要度が高くなる。理由は左打者が多く、右打者も流し打ちできるプロと違って、引っ張りしかできない右打者だらけだからだ。


 要するに打球のほとんどがショート、サードの方向に行くという話である。おまけにサードは打者に最も近いところに立つため、強烈な打球が来る。さらに言えば一塁からは最も遠いため、送球距離も長い。サードを務めるには、ボールを怖がらないガッツと、肩の強さが必要だ。


 逆に精神力と身体能力さえあれば、覚えることは少なく、比較的簡単にやれるポジションとも言い換えられる。しかしプロならともかく、アマレベルではなかなか難しい条件だ。果たして両方を持っている素人の女子が存在するだろうか。


 女子野球のレベルは智之にはわからないが、最低限は守れてもらわないと困る。もし未経験者の中に適確な選手がいなければ、二遊間の夏帆か美冬のどちらかを配置転換する他あるまい。セカンドなら動きは複雑だが、勢いのある打球はあまり来ないし、送球距離も短いため素人でもまだなんとかなる。


 外野ではつぐみがボールの投げ方から捕り方まで、一から教えていた。素人の、しかも女の子だとキャッチボールからして指導が必要なのだ。目立つ存在がいるかと智之はキャッチボールを見学する。


 人数が五人なので、二人組と三人組に別れてキャッチボールを行っていた。つぐみは外から五人を眺め、適宜やり方を指導していく。


 見た感じ、皆硬球の扱いに慣れていない。ポロリと落とすのは当たり前で、ボールを怖がって弾いてしまう子もいる。硬球などほとんど石ころみたいなものなので、初心者がうまく扱えないのも当然だ。投げ方もてんでバラバラで、フォームが一定していない。まず軟球から慣れさせた方がいいかもしれない。


 そんな中で、頭一つ抜けていると智之が感じたのは最初の顔合わせで「やめようかな……」などとこぼしていたカオルだった。


 カオルは170センチ台と女子にしては背が高いため、そういう意味でも頭一つ抜けているのだが、プレーも悪くない。ボールを怖がらずに前に出て捕球し、つぐみの指導通りのフォームで力むことなく投げる。


「誰か内野に移すんでしょ? カオルちゃんがいいと思うよ!」


 つぐみはカオルを見て言った。確かにこれまで見てきて、唯一まともにサードをやれそうなのはカオルだ。未経験者組の中では一番体格が大きく、ボールを怖がらない。


「よし、じゃあ村……なんだっけ、ちょっと来てくれるか?」


「村中カオル」


 カオルは平坦な声で言った。智之はつぐみにも声を掛けて、三人で内野に移動する。芽衣子たちもキャッチボールを始めていたので邪魔したくなかったのだ。




 智之はカオルをサードの位置に立たせて、横につく。


「ゴロの捕り方、わかるか?」


「わかんないよ。小学生の頃に遊びでやってただけだし」


 カオルの言葉を聞いて、まず智之は説明する。


「姿勢はこんな感じで足開いて……そうそう、姿勢はそんな感じだ。あ、グラブは寝かせるな。斜めに出すんだ」


 智之はカオルからグラブを借りてホームベース近くにいるつぐみにノックを打ってもらい、何球か実演して見せた。最初から上手くはできないだろうが、捕球から送球まで全体の流れを把握してほしい。


「よし、やってみてくれ」


 いきなりノックしても絶対に捕れないのでつぐみには手でゴロっぽい球を投げてもらう。カオルは少し前進して捕球し、一塁に送球した。


「前進して捕るときはグラブを立てるんだ……。そうそう、体全体使ってステップして投げて」


 まだコントロールは怪しいがしっかり一塁にノーバウンドで届いている。これは掘り出し物かもしれない。


 何度か手で投げた球を受けてから、いよいよバットで打った球を受けてもらう。


「いくよ~、カオルちゃん!」


「……」


 つぐみの掛け声に、カオルは無言で構えをとる。つぐみは鋭いスイングで三塁線に強烈なゴロを見舞った。カオルはボールを恐れることなく前に出て捕球し、ステップして一塁の芽衣子に送球する。つぐみは感嘆の声を漏らす。


「すごーい!」


「やりますわね! その調子です!」


 キャッチボールを軽めで切り上げてカオルの動きを見ていた夏帆も声を上げ、美冬も「──小娘、やりよる……」とつぶやいていた。美冬よりカオルの方が体は大きいのだが。


 カオルに興味が湧いた智之は尋ねる。


「何かスポーツやってたのか?」


「……剣道」


 こちらを見もせずにカオルは答えた。


「剣道? 確かうちにも剣道部はあるが……。掛け持ちするつもりか?」

 智之の質問にカオルは否定の意を示す。


「しない。剣道はもう続けられないからね」


「どこか故障でもしたのか?」


 智之は尋ねる。故障が剣道引退の原因なら、野球でも支障がある可能性がある。カオルは首をふるふると振った。


「違うよ。去年、この市で婦女連続暴行事件があったの覚えてる?」


「ああ、北条の方だったっけ? 覚えてるぞ」


 一時期それでつぐみの中学校が集団登下校になっていたため、智之にも記憶が残っていた。犯人は暗がりで女性を襲い木刀で滅多打ちにしてから暴行するという派手な犯行を繰り返し、大きなニュースになっていたのである。確か一ヶ月ほどで犯人は捕まり、有名な剣道選手で警察官だったと話題になっていたはずだ。


「あれの犯人、僕のお父さんなんだ」


「えっ」


 カオルがあまりにあっさりと言ったため、智之はキョトンとする。


「お父さんが剣道の技をあんな風に使っちゃうと僕もね……。べつに僕はいいんだけど道場に迷惑掛かっちゃうから。それで高校からは違うことをしようと思ったわけさ。あ、僕は全然お父さんのことは気にしてないから、監督も気にしなくていいよ」


「お、おう……」


 カオルはずっと平静だったが智之の方が慌てていた。


 気を取り直して智之はカオルの隣についたまま指示を出す。芽衣子、夏帆、美冬にも守備位置に入ってもらおう。


「よし、じゃあランナー有りの想定でノックやるぞ! つぐみはノッカーを頼む! 芽衣子たちも守備位置についてくれ! まずランナー一塁、セカンドゴロ! 村中、おまえの動きは……」


 智之はシチュエーションを指定して内野シートノックを始めることにする。他の経験者はわかっているとして、智之はカオルに状況別の動き方を教える。サードの動きはそこまで複雑ではないので、習えばすぐ覚えられるだろう。


「いくよ~!」


 つぐみが掛け声とともにノックを打つ。ボールはセカンドに転がり美冬が捕球する。美冬はテンポよくアンダーハンドで放り、ボールは二塁ベースについた夏帆に渡る。


「──姉君!」


「はい、芽衣子さん!」


 ショートの夏帆はすぐさま一塁に送球。夏帆は肩の強さを見せて、ボールはノーバウンドでファーストに渡る。


「あいよ!」


 最後にしっかりファーストの芽衣子がボールをキャッチ。これで併殺の完成である。一、二、遊の動きは問題ない。むしろ想定よりずっとよかった。サードのカオルも鍛えれば伸びるだろう。身長170センチ以上が芽衣子、カオルとチームに二人もいるのは大きい。体格は才能だ。


 外野は素人ばかりになるが、この内野陣なら外野のフォローも可能だろう。打力のあるつぐみや芽衣子を中心に打線を組めばどんな投手からでも一点くらいはとれるだろうし、投手を中心とした守りの野球で……


「……って投手がいないじゃねーか!」


 智之は絶叫した。




 今まで気付かなかった自分は、なんと間抜けなのだろう。野球は投手の出来で八割が決まるスポーツだ。投手がいなければ試合などできるわけがない。


「練習中止ィ~! 練習中止ィ~! 集合ッ、集合~!」


 智之は大声を張り上げ、怪訝な顔をして外野の皆さんもぞろぞろと集まってくる。


「兄さん、いきなりどうしたの?」


 つぐみの言葉に智之は早口でまくしたてる。


「どうもこうもねーよ! 投手がいねーじゃねーか!」


「なんだ、智之が落ち着いてるから、私はてっきり何か考えがあるのかと思ったよ」


 芽衣子がそう言うと、夏帆は「わたくしもそう思ってました」と同意し、美冬は腕を組んで「──浅はかなり……」とつぶやいてにやついていた。智之は頭を抱える。一番ごまかしが利かないポジションが投手だ。真面目に絶望である。


「に、兄さんが女装して投げるっていうのはどうかな?」


 つぐみが顔を引きつらせながら言った。論外である。


 そこに中村先生が白衣のままで駆けてくる。


「みんな~! 遅くなってごめんなさい!」


 中村先生は息を整えながら部員たちの前に出る。


「顧問の中村です。指導は智之君に任せるけど、それ以外のことは私に相談してください!」


 にっこり笑って言う中村先生に、「はい拍手~!」とつぐみが音頭をとって部員たちは先生に拍手する。おい、俺のときとは偉く扱いが違うな!


「そうだ! 今日はみんなに嬉しいお知らせがあるの!」


 中村先生は思い出したように言って、全員が先生に注目する。先生は続けた。


「ゴールデンウィークに新潟の揚北高校さんと合同練習して、練習試合をすることになりました! みんな、がんばって勝ちましょうね!」


 智之は思わず倒れそうになった。




 辺りを見回すと、経験者組は「試合だ~!」と盛り上がり、未経験者組はいきなりの試合を不安がりつつも、楽しみにしているようだった。雰囲気に水を差すのは申し訳ないが、ここは智之が冷静な判断をしなければなるまい。


「……先生、その練習試合は中止にできないでしょうか?」


「え、どうして?」


 中村先生は首を傾げる。智之は一言で答えた。


「投手がいないんです」


「え? でも相手も新設校よ? わざわざ新潟から来てくれるっていうし……。それに部の存続の条件満たせなくなっちゃうわ?」


「条件?」


「一学期中に練習試合で一勝でもしないと解散ってことになっているの」


「はあっ!?」


 思わず大声を上げ、智之はつぐみに尋ねる。


「おい! どういうことだ、つぐみ!」


「いやー野球部からグラウンド譲り受けるんだから、活動実績作ってもらわないと、って言われて。この条件がなかったら監督も他に引き受けてくれる人がいたんだけどね」


 にゃはは、とつぐみは舌を出す。


「みんなは知ってんのか!?」


「部員募集のチラシに書いてありましたわ」


 夏帆が発言し、美冬も続ける。


「──フハハ……! 我らには造作もないことよ」


 一応部員はこの条件を承知で来ているらしい。


「そういうことなの。試合を断れないことはないと思うけど、一試合減ってしまうのは……」


 中村先生の言葉に、智之は渋面を隠せない。


「しかし一ヶ月で投手を急造するのは……」


 そこで夏帆と美冬が声を上げる。


「仕方がありませんわね。ここは私たちが一肌脱ぎましょう」


「──我らに秘策有り」


 智之は藁にも縋る気持ちで食いつく。


「当てがあるのか?」


「しばしお待ちを。すぐに連れてきます」


「──フハハ……! 最後の扉は今開く……!」


 夏帆と美冬は連れだってグラウンドから飛び出していった。




 数分後、夏帆と美冬は一人の少女を連れてグラウンドに戻ってきた……はずが様子がおかしい。三人はグラウンドに入らず入り口の影に隠れて、こそこそと何やら話をしていた。


「ちょ、言ったじゃないですか、私は入れないって……」


 姿を見せない謎の人物が言うと、夏帆が強い調子で尋ねる。


「でもあなたはやりたいのでしょう?」


「それはそうだけど、ばれると困るっていうか……」


「──フハハ……! 我に任せよ……!」


 渋っている謎の少女に対して、自信満々に美冬が言った。どうも嫌な予感がする。




 しばらくして、夏帆と美冬は一人の少女を連れてグラウンドに入ってきた。少女は前に出て自己紹介するが、智之たちはあ然として言葉を失う。

「ろ、六代目タイガーマスクです!」


 少女は確かに虎柄の覆面を被っていたが、全く意味不明である。制服とタイガーマスクの組み合わせは非常に妙ちくりんだった。


「ま、間違えました! ミスタールーキーです!」


「──フハハ、この女こそ甲子園の主や!」


 少女は言い直し、美冬だけが得意げにはしゃぐ。


「阪神ファンなの……?」


 とつぐみは首を傾げ、智之は額に手をやる。


「いや、映画の『ミスタールーキー』だろ……」


 長嶋一茂演じるタイガーマスクが、阪神でピッチャーやっているというシュールな映画である。なんでそんな古い映画を知ってるんだ……。


 智之は少女の元に歩み寄り、覆面をはずしてやる。そこにいたのは、昨日校舎裏で投げていた少女だった。


 緩くウェーブのかかった栗色の髪の少女は、今にも泣き出しそうな顔で夏帆と美冬の影に隠れる。こうして見ると、彼女は背が高かった。智之より一回り以上大きい。さすがに芽衣子には及ばないものの、170センチ台後半はありそうだ。


 夏帆がコホンと咳をして、少女を紹介する。


「紹介しますわ。同じクラスの武星七菜ちゃんです。さっそく投げてもらいましょう」


 夏帆はそう提案しマウンドを指す。


「でも私、もう野球は……」


 七菜は困惑気味だったが、美冬も夏帆も容赦ない。


「──ちょうど投手が足りない……。あなたが最後に残った道しるべ」


「いいから、とにかく投げてみなさいな!」


 夏帆はうろたえる彼女の背中を押し、智之の前に出した。智之の顔を見て、彼女は驚きの表情を見せる。智之が昨日自分のピッチングを見ていた人物だと気付いたらしい。


 智之は七菜と呼ばれた少女にボールを渡す。


「……投げてみろ」


「で、でも、私……」


 七菜はうつむいて視線をさまよわせる。智之は笑って言った。


「野球は一人でやるものじゃない。一人で投げるより、楽しいと思うぜ」


 智之の言葉を聞き、七菜は顔を上げる。どんな事情があるのか知らないが、一人でも投げていたような女の子なのだ。本当は投げたくて投げたくてうずうずしているに違いない。智之はそう確信していた。


 七菜はしばらく迷っていたようだったが、やがて決断を下す。


「が、がっかりさせてしまうと思いますけど……」


 七菜は左手でボールを受け取り、マウンドへ上がった。


「兄さん、ひょっとして昨日言ってた……」


「受けてみればわかる」


 訊いてくるつぐみに、智之は言った。昨日の目が覚めるような、あの速球。あの球があれば、一学期中に一勝するという馬鹿げたノルマも達成できるかもしれない。


 つぐみがホームベースの後ろで腰を落とし、真ん中に構える。七菜は流れるような綺麗なフォームで振りかぶって、投げた。しなるように腕が振り下ろされ、昨日見たのと同じ凄まじい速球がズバンと小気味よい音を立てて、つぐみのミットに飛び込む。女性特有の肘の柔らかさを活かした、なかなか肘が出てこないすばらしいフォームだ。ふわりと肘が遅れて落ちる様は、招き猫のようでもある。女性は男性より肘の骨が太く、土台がしっかりしている分肘も柔らかいのだ。


 七菜の投球を見ていた全員が、どよめいた。


「……昔の兄さんよりずっと速いんだけど?」


 つぐみが立ち上がって報告する。


「智之、あんた昔、最高球速いくらくらいだっけ?」


「……約120キロだな」


 顔を引きつらせた芽衣子の質問に、智之は答える。すかざずつぐみが捕手の位置に座ったまま訂正する。


「117キロでしょ、兄さん。しかも一回しか出たことないし。普段は110キロ超えるか超えないかだったじゃん」


 一回限りの最高球速を四捨五入すれば120キロなんだよ! 智之の球速から鑑みるに、七菜は時速120キロ近い球速を出しているということだ。


「──フ、フハハ、我には打ちごろの球よ」


「本当にそうなら、わたくしたちも助かるのですけど」


 美冬も顔をひきつらせ、夏帆は苦笑する。智之は芽衣子に尋ねた。


「女子の最速っていくらくらいかな?」


「確か130キロちょっとくらいだったかな? とんでもない娘だよ……。本当に女の子かい?」


 芽衣子は珍しい動物でも見るような目で七菜の方に向く。智之は言った。


「どこからどう見ても女だろ。女で120は信じられないな……」


 胸はしっかり膨らんでいるし、垂れ目のかわいらしい顔をしている。女子で、しかも左腕でこれほどの球速を出す選手は、そうそういない。女子プロ野球の投手でだいたい球速は110キロ程度である。


「前に計ったときの最高は、125キロでした……」


 智之たちの会話が聞こえたのか、七菜は遠慮がちに教えてくれる。125キロでも男子でいえば球速150キロ級の投手だ。女子では伝説になってもおかしくない。


 今の投球を見ている限りだと、速球派左腕にありがちな致命的なノーコンというわけでもなく、コントロールも上々だ。彼女が投げてくれれば、勝てる。


 しかしマウンドを降りた七菜は、智之にはっきりと言った。


「申し訳ないんですけど私、野球を続ける気はないんです……」


 智之は静かに尋ねる。


「どうしてだ?」


 七菜は目を伏せながら答えた。


「プロには、なれないから……」


 ここでいうプロは、最近できた女子プロではなく男子のプロ、NPBのことだろう。確かにNPBで過去プレーした女子選手がいないのは事実だ。


 智之は尋ねた。


「変化球は投げられるか?」


「え……、はい。スライダーだけですけど」


「見せてくれ」


 七菜は再びマウンドに戻り、スライダーを投げる。鋭く右打者の内側に食い込むスライダーだった。充分にコントロールされていて、しっかりストライクがとれる。


 なるほど、希少な左投手で先程のストレートとこのレベルのスライダーがあれば、中学レベルなら男子だろうと抑えられるだろう。中学野球などほとんどの投手はストライクを入れるだけでアップアップというレベルなのだ。もう少し上積みがあれば、高校レベルで通用してもおかしくはない。高校野球でも強豪校がポッと出の左腕にコロリと負けるのは、よくあるケースである。


 ただ、プロという場所はアマの一線級左腕が「ただ左手で投げているだけの投手」になってしまう場所である。ここからさらに成長する見込みがないと、プロなど到底不可能だ。


 智之の前に戻ってきた七菜に、智之は尋ねる。


「背中、触ってもいいか?」


「えっ……!?」


 七菜は目をぱちくりとさせる。芽衣子がやれやれといった調子で言う。


「智之、セクハラはよくないねぇ」


「バカ、肩の柔らかさを見るんだよ! いいか、武星?」


「は、はい……。お手柔らかに、お願いします……」


 照れている様子の七菜はゆっくりと智之に背中を向ける。智之は七菜の左肩胛骨のあたりを触った。


「んっ……!」


 くすぐったかったのか、七菜はビクッとしたような声を上げる。140キロを越える速い球を投げられる者は、肩関節の可動域が広い。そして肩関節の可動域が広い者は肩が柔らかい。智之は七菜の肩の柔らかさをしっかりと確かめた。


 智之が手を離すと七菜は正面に向き直る。智之は言った。


「おまえには、可能性がある」


「何の……ですか?」


 不安げに七菜は訊く。智之は答えた。


「プロに行ける可能性だよ」


「私……女ですよ?」


 そう言う七菜に、智之は笑って言う。


「俺の親父はメジャーリーガーでな、日本でやってた頃には家にプロ野球選手の後輩をよく連れてきてたんだよ。んで、さっきと同じように何人もに肩を触らせてもらった。おまえの肩は、俺が会ったことがあるプロ野球選手の誰よりも柔らかいよ」


 もちろんいくら肩の可動域が広くても、男子と女子では身体能力に天と地ほどの差がある。たとえドーピングしても、女子は男子のレベルにまず追いつけないのだ。普通なら七菜がプロに行くのは100%無理だと断じられる。


 しかしまだまだ体が細い今でも120キロ台の球を投げられるなら将来的に球速140キロに到達するかもしれないし、何より七菜は希少な左腕だ。少々球速が遅くても生き残っていける可能性はある。


 元阪神の下柳は晩年球速130キロ台でも、丁寧に四隅を突くピッチングで活躍した。元阪急の星野伸之などは130キロそこそこの最高球速でもスローカーブの緩急、フォークのキレ、ストレートの球質のよさで11年連続二桁勝利を挙げている。


「気休めじゃないですよね……? 本当なんですよね……?」


 声を震わせて七菜は尋ねる。智之は意識的に自信たっぷりに言った。


「ああ、関東大会準優勝投手でメジャーリーガーの息子の俺を信じろ!」


 これが現参議院議員の前巨人軍監督が内海に言った「200勝投手の俺を信じろ」ならかっこいいのだが、嘘は言えない。所詮智之は高校野球でさえも頂点には近づけない男なのである。


「……入ります。よろしくお願いします……」


 七菜はぺこりと頭を下げた。つぐみが「よろしくね、七菜ちゃん!」と声を上げ、拍手が起きる。


「じゃ、私は書類を用意しに行くから、あとは智之君よろしくね」


 そう言い残し、中村先生は帰っていった。




 俄然やる気が出た智之はさっそく練習を再開しようと考えるが、そこに侵入者が現れる。


 その男は、肩をいからせてずんずんと七菜の方に歩いてきて、七菜の腕をむんずと掴んだ。


「七菜! こんなところで何やってるんだ! 帰るぞ!」


「お、お兄ちゃん!?」


 七菜は坊主頭のその男を見上げて、ペットショップで宇宙人にでも会ったかのような顔をする。智之は男の腕を七菜から剥がして言った。


「何やってんだはこっちの台詞だよ、孝太郎。野球部の練習はどうした?」


 ユニホーム姿で坊主頭の男、孝太郎は憤怒の形相を浮かべて怒鳴った。


「うるさい! 野球から逃げたチキン野郎は黙ってろ!」


 まるでとりつく島のないもの言いにうんざりしながら、智之は理性的に対話を試みる。


「おまえの妹はうちの部員になった。うちの監督は俺だ。俺が意見する権利もあるだろ?」


「何が監督だ! 入部は取り消しだ! おまえはうちの七菜を壊す気か! 七菜が投げるのは禁止だ!」


 ものすごい剣幕の孝太郎に、智之は怪訝な顔をする。何か深刻な理由があるのだろうか。


「どういうことだ?」


「こいつ、肩を故障してるんだ!」


 孝太郎は今夜が峠です、というくらいに深刻そうな顔をする。先程見た限りでは七菜の挙動におかしなところはなかったのだが……。智之は本人に訊いてみる。


「そうなのか?」


 七菜は即答した。


「いえ、もう治ってます」


 七菜は兄の孝太郎と同じシニアのチームの投手で、孝太郎が高校に進学してからエースになった。最後の夏の大会、七菜は順当に勝ち進んで関東ベスト8まで進んだ。そこで事件は起きた。準々決勝の試合で、七菜は負傷したのだ。


 とはいえ智之のように肘に激痛が走って投げられなくなったとかではない。ピッチャー返しを思わず素手で捕球して、手を骨折したというものである。ついでに肩を検査すると、軽度の炎症が見られた。


 そのため大会以来七菜は投球を控えてきた。全く投げなかったわけではないが投げ込みはしなかったし、頼まれても試合にも出なかった。すでに今年に入ってから医者も完治を宣言している。全く問題はないはずである。


 しかし、七菜の話を聞いても孝太郎は首を縦に振らなかった。


「大会でちょっと投げただけで炎症起こすんだから、故障と同じ事だ! 連投できないんじゃ、使いものにならない! 第一、一学期中に一勝なんか無理だ! どうせ解散なんだからこんなチームのために投げることはない! 七菜に投げさせるな!」


 孝太郎の威圧的なもの言いに智之は嘆息する。


「んな滅茶苦茶な……。ちゃんと休ませれば回復するのは、おまえだってわかってるだろ。だいたい、俺はこいつ一人に無理をさせるつもりはない」


 プロは一度先発すれば5~6日くらい間隔を空けるが、それは長いシーズンを戦うからだ。アマは連投があっても大会期間は短い。オフの間にゆっくり休める。それでも勝てば勝つほど強敵が出てくるトーナメントでの連投が過酷なのは間違いないし、リーグ戦だと日程が詰まっている場合もあり負担が大きい。


 そのため壊れてしまう投手が多いのも事実だ。ある程度のリスクは飲み込むしかないし、やっている本人たちも必死なのでなかなか止められない。一発勝負の大会でエースを出し惜しみするというのは、指揮官の勇気と優秀な二番手投手が必要である。両方を備えたチームはなかなかない。


 智之はどんなに七菜が優秀な投手でも酷使する気はないが、ギリギリの状況に追い込まれれば心が揺らぐかもしず、孝太郎が心配するのも的はずれとはいえない。


「七菜は女の子なんだぞ! 男と一緒に考えるな! ほら七菜、帰るぞ!」


 孝太郎は再び七菜の腕を掴む。しかし七菜は動かず、「いやです!」と拒絶する。


「本人の意志を尊重するのも兄の役目だと思うが?」


 智之がそう言うと、つぐみがうんうん、とうなずいた。しかし孝太郎は智之の言葉を聞く気がない。


「妹を止めるのも兄の役目だ! どうせおまえがそそのかしたんだろう! プロになれるとか何とか言って!」


「俺の目から見て、見込みがあるのは事実だよ」


 智之が言うと、孝太郎はますます激昂する。


「やっぱりおまえか! 野球やめたおまえが関わるんじゃない!」


「やめてよ、お兄ちゃん……!」


 智之に掴みかかろうとする孝太郎を、七菜は必死に止める。そうこうしているうちに、孝太郎を捜して男子の野球部員がやってくる。男子野球部員はグラウンドの入り口から声を張り上げ、孝太郎を呼んだ。


「孝太郎さ~ん! まずいっすよ! 監督怒ってます! 早く帰ってきてください!」


「む? 仕方あるまい……」


 孝太郎は後輩野球部員の言葉を聞いて少し冷静さを取り戻す。孝太郎は仕方なく戻ることにしたようだが、最後に言い残す。


「言っておくが、七菜が試合で投げるのは絶対認めない。もし七菜を試合で投げさせたら、無理矢理この部を創部したことを正式に学校に抗議する。いいか? おまえらだけの問題じゃないからな? 中村先生にも迷惑が掛かるぞ? 絶対に守れよ!」


 去ってゆく孝太郎の背中を眺めながら、智之は頭を抱えた。また厄介な制約が加わった。孝太郎は、やると言えば本当にやるタイプの男である。中村先生に迷惑を掛けないためには、七菜を試合に出すことはできない。


 つぐみが智之の肩を叩く。


「兄さん、七菜ちゃんなしで勝てばいいだけだよ! 七菜ちゃんのピッチングは確かにすごいけど、私たちがそれに甘えてちゃいけないと思うんだ! 私たちの力で勝って、七菜ちゃんを本当の意味で仲間にしよう!」


 オーッと夏帆、美冬が腕を突き上げ、皆も続いて一同は盛り上がる。今回はつぐみに助けられた。指揮官が落ち込んでいては戦は始まらない。智之は笑顔を作り、七菜に言う。


「じゃあ武星さんはまず着替えてきてくれ。その格好じゃちょっとまずい」


「はい!」


 七菜は制服のままだった。七菜はグラウンドの外へ駆けてゆき、智之は集まっている部員の方に視線を戻す。


「よし、話を戻すぞ。ピッチャーがいないなら、誰かをコンバートするしかないんだが……。この中に少しでもピッチャーの経験あるやついるか?」


 どうせ投手も数は必要である。これを機会に控え投手を作ろう。


 投手経験者がいれば決まりだ。余裕も無い中、ゼロから育てなくて済む。しかし智之の淡い望みに反して、手は上がらなかった。


「……じゃあ未経験者組に入ってた人で、少しでも野球の経験ある人いるか? 小学校だけとか、軟式だったとか、ソフトボールだったとかでも全然いいから、いたら手を挙げてくれ」


 智之がそう尋ねてみると、後ろの方で一人が小さく手を挙げた。智之は即座に反応する。


「まず名前教えてくれ。あと、どのくらいやってた!?」

 身を乗り出して訊いてくる智之に、手を挙げた女の子はビクッと身を震わせながら答えてくれた。


「か、香取千景です……。中学校まで、ソフトボールやってました……」

 目を隠すように前髪を伸ばした、大人しそうな子だった。体格は少し小さい。夏帆、美冬と同じくらいだろうか。続けて智之は質問する。


「ポジションはどこだ!?」


「きゃ、キャッチャーです。でも、レギュラーじゃなかったですよ……?」


「ああ、控えだったとしても気にするな。うちじゃレギュラーだからな」


「は、はぁ……」


 しかしソフトボールで捕手とは判断が難しい。未経験者組のキャッチボールを見た限りでは、千景は特に目立ってはいなかった。野球だとソフトボールより塁間が長くなるので捕手としてランナーを刺す二塁送球は難しいかもしれないし、何より野球とソフトでは投手の投げ方が全く違う。捕球に苦労するかもしれない。


 しかしそれでも、投手に並ぶ専門職である捕手の経験があるのは大きい。最悪送球が二塁に届かなくても、投手の球を捕れさえすればなんとか使えるはずだ。とにかく、智之は訊いてみることにした。


「つぐみ、おまえ投手やってみないか?」


「え、私?」


 話を振られたつぐみが意外そうに声を上げる。


「そうだ、おまえだ。おまえなら投手もできるだろ?」


 智之としてはチームに投手がいないと気付いたとき、一番に頭に浮かんだプランだった。


 つぐみは捕手をやっているだけあって肩がよく、中学校の体力測定ではほとんど全部門で女子の校内一位だった。フィジカル面は申し分ない。中学まで男子に混じって練習していただけあって体力もあるし、体格も女子としては大きい方である。つぐみのセンスなら投手もこなせるだろう。


 そんな智之の期待に反して、つぐみの反応は鈍かった。


「私? あんまり興味ないな~。私ってほら、捕手一筋だし」


「そんなこと言ってられるチーム状況じゃねぇだろ」


「兄さんの言うこともわかるけどさ~、捕手だって私一人じゃ不便だよ? 投手だって一人じゃどっちみち厳しいから、他に探さなきゃいけないし」


 一理ある。捕手は怪我しやすいポジションな上に、投手と同じ数用意しなければ練習にも差し支える。つぐみに投手と捕手を両方やってもらうのはさすがに負担が大きすぎるし、つぐみが投手の練習をしているときはもう一人の投手が練習できず、つぐみが捕手をしているときはもう一人の捕手が練習できないという間抜けな事態になる。


「でもおまえよりうまく投手がやれそうなやつはいないしなぁ……」


「その分私が打って守って補うから大丈夫! 兄さんは自分が投手だから、投手を重く見過ぎてるんだよ」


 つぐみは笑って言った。智之は考え込む。


「そうかなぁ……?」


 首をひねりながら、智之はつぐみを見る。そもそもつぐみは智之の言うことをあまり聞く気がないので、無理に投手をやらせても結果が出ないかもしれない。それに、つぐみには打撃も期待しているのだ。現時点では四番確定だろう。下手に転向させてそちらに影響が出ても、一勝という目標は遠くなる。


 おまけにつぐみは書類上キャプテンということにもなっていた。今は暫定だがここまで練習させてみて、つぐみよりリーダーシップがありそうな部員はいない。遠からず正キャプテンに就任するだろう。こちらの負担もある。


 捕手で、四番で、キャプテンで、投手というのはいくらつぐみでも無理だろう。2013年WBCの四番捕手キャプテンのように打棒が沈黙してもらっては困るのだ。智之は折れざるをえなかった。


「……わかったよ。つぐみ、おまえは捕手に専念してくれ。その代わり、自分で言った通り活躍しろよ」


 智之の言葉につぐみは顔をほころばせる。


「さっすが兄さん! で、投手はどうするの?」


「おまえがやらないなら、他に候補もいないだろ。芽衣子、おまえが投手だ」


 突然指名された芽衣子は仰天して声を上げる。まさか野球未経験者に投手を任せるわけにもいかない。まずは体が大きくて体力があり、希少な左利きである芽衣子が第一候補だ。


「わ、私かい? 無理だよ、私のトロさをあんたは知ってるだろ!? 無理無理、絶対無理だって!」


 芽衣子は強い調子で首を振る。この女は体は大きいが気は小さいのだ。智之は言葉を選び、説得を試みる。


「あー、おまえに完封してもらおうなんて的外れな期待はしてないから心配するな。おまえはとりあえず試合を成立させてくれればいい。守りの分は攻撃で取り返す。それに、おまえ一人だけにやらせるつもりもない」


 そう言って智之は部員たちの顔を見回す。


「えーっと、洗居場だっけ? おまえも投手頼むわ」

 智之は名字を思い出しながら、夏帆を見て言った。


「兄さん、どっちの洗居場さん?」


 そういえば夏帆と美冬は双子の姉妹なのだった。智之はぶっきらぼうに言う。


「姉の方」


「わ、わたくしですか……?」


 夏帆は目をぱちくりとさせた。送球を見るに、残った経験者勢の中でも夏帆は肩が強い。体格は小さいが十分投手も務まるだろう。


 智之の呼び方があんまりだと思ったのだろう、芽衣子が言った。


「智之、わかりにくいから下の名前で呼べばどうだい? 私やつぐみは下の名前で呼んでるわけだし」


「あ、いいね! 夏帆ちゃんと美冬ちゃんだけじゃ不公平だから、みんな下の名前で呼んでもらうことにしようよ!」


 つぐみが芽衣子に同調し、特に反対意見も無いようだった。智之としても二人に関しては不便を感じていたので、少々恥ずかしいが渡りに船だ。姉妹だけを下の名前で呼ぶように主張するのもおかしい気がするので、黙っていよう。女子プロ野球も最初だけファーストネーム登録だったし。


 夏帆だけはなにやらあたふたしていたが、勝手に美冬が夏帆を代弁する。


「──フッ、私たちは一向に構わん……」


「え、ちょ、美冬!?」


 夏帆は抗議するように美冬の方を見るが、なぜか美冬は得意げな笑みを浮かべていた。


「……あー、それで、投手引き受けてくれるか、夏帆?」


「お、男の人に下の名前で呼ばれるのはちょっと照れくさいですわね……!」


 顔を真っ赤にして夏帆は叫んだ。


「すまない、不快だったか?」


「い、いえ、決してそういうわけでは……。と、投手! 投手の話でしたわね! もちろん引受けますわ! チームのためですから!」


「そうか、助かる。他も投手が変わると守備位置動くから、そのつもりで頼む」


 芽衣子が投手のときは一塁手不在となり、夏帆が投手のときは遊撃手がいない。空いたポジションには千景に入ってもらうことになりそうだ。


「じゃあつぐみ、芽衣子、夏帆、千景はさっそくブルペンで練習だ。他の未経験者組は外野守備の練習! 悪いけど美冬、未経験者組を見てやってくれ。カオルは美冬の補助を頼む」


「──任務了解、皆の者、私についてこい!」


 美冬が意外なリーダーシップを発揮し、未経験者組をぞろぞろと外野に連れていく。コーチングの人手も足りなかった。明日にでもクラスの野球経験者にコーチの手伝いを頼もう。軟式も含めれば中学までで野球を辞める者は結構多いのだ。




 智之は四人を連れてブルペンに入る。ブルペンはネットで申し訳程度に仕切られた、投球練習用の細長い空間のことだ。芽衣子とつぐみ、夏帆と千景で組んで、智之はさっそく指導する。


 芽衣子も夏帆も全く投手としての指導を受けたことがないので、一から教えなければならない。投げさせてみると、二人とも腕の力だけに頼った、いわゆる野手投げになっていた。野手と違って一試合に百球前後を投げる投手であれば、下半身をきちんと使った正しい投げ方をしなければ体の負担が大きすぎる。野手投げでも夏帆などは結構な球速を出していたが、芽衣子は今の智之よりずっと遅いへろ球だ。夏帆を見てから、芽衣子は智之の方を見る。智之は目を逸らしながら言った。


「……左で角度があるから抑えられるだろ」


「なら目を逸らさないでおくれよ……」


 芽衣子は情けない声を上げる。


 下半身をうまく使えるようになれば球速も上がるはずだ。途中からは七菜も合流して、芽衣子と夏帆をコーチする。智之は右投手で七菜は左投手なので、それぞれ利き腕に合わせて夏帆と芽衣子を担当することにする。


「そう、ステップはそのくらいの幅で……。腕は自分が投げやすい角度でいいと思います」


「こ、こうかい?」


 七菜のアドバイスに従って、芽衣子はつぐみに向かって投げる。受けたつぐみは「今の感じだよ!」と芽衣子を盛り立てる。なんとかモノになりつつあるらしい。


 夏帆の方はというと、やはり芽衣子よりセンスはいい。智之が教えた正しい握りで、しっかりストレートが投げられるようになっていた。


「いきますわよ!」


 まだあまり下半身を使えておらず、ほとんど上体だけで投げている感じだが、地肩の強さで補っている。夏帆の球は勢いよく千景のミットに飛び込み、「な、ナイスボール!」と声を上げる。千景の捕球も心配だったが、何度か弾きつつもどうにか対応していた。


「千景、手は大丈夫か?」


 智之は夏帆の球を受け続けた千景に尋ねる。夏帆の球は結構速いし、千景は野球のキャッチャーは初めてだ。あまりやり過ぎると手が腫れて明日からに支障が出る。


「だ、大丈夫です!」


 元気のいい返事が返ってきて智之は苦笑いし、次は夏帆に訊く。


「肩は大丈夫か?」


「まだまだ行けますわ!」


「そうか……」


 夏帆は即答する。とはいえ、夏帆は遊撃手の守備練習でも肩を使っている。そろそろ上がらせた方がいいだろう。


「よし、じゃあもう少しだけやって、終わりにしよう。あまりやりすぎてもよくないからな」




 投球練習を終わらせると、もう部活終了時刻だった。やはり時間が圧倒的に足りない。朝練などで多少練習時間を増やしたとしても焼け石に水だ。やはり一ヶ月で試合というのは最初から無理があると思う。


「こりゃ厳しいな……」


 智之のつぶやきを聞きつけたのか、つぐみが駆け寄ってきて言った。


「わかってると思うけど、初心者がかなり多いから、あんまり厳しくし過ぎないでね」


「わかってるよ」


 野球は楽しいが野球部は楽しくないという現象はありがちだ。もちろんそのくらい厳しく練習しないと勝てないということなのだが、このチームの場合一人でも脱落者が出るとそもそも試合するのが難しくなる。初心者が多いことだし、まずは野球の楽しさをわかってもらうことから始めなければなるまい。


「ジョイナスだよ、兄さん!」


 智之はうなずく。


「ジョイナスだな、つぐみ!」


 高木中日もなんだか楽しそうだしな!




 智之は他の者を帰らせて、グラウンドに七菜とつぐみだけ残した。


「さてと七菜……。プロを目指すっていうくらいなんだから、おまえにはそれなりの覚悟があるってことだよな? 俺はおまえが三年間、部員のみんなと楽しく野球をやるというのでも全然構わないと思ってる。おまえはどうしたい?」


 七菜は即答した。


「プロを目指します!」


「じゃあまず、シニアを引退してからどんな練習してたか、教えてくれ」


 智之は七菜から練習内容を訊き出す。七菜によると、手が使えなかったため引退後は走り込みが主で、骨折が完治してからは軽い投げ込みも行ってきたとのことだった。


「なるほど、だから上半身が細いのか」


 智之は得心がいき、うなずく。七菜は智之より10センチほど身長は高いが、腕はやや細く、明らかに上半身に筋肉がついていなかった。下半身は上半身に比べるとしっかりしているが、それでも一般的な高校球児よりは細いだろう。七菜は体が中学生なのだ。


「よし、なら筋トレで体を大きくしつつ、投げ込みで投球の感覚を思い出す感じでいくか!」


 平行して、変化球を増やすことも検討しよう。スライダーだけでは通用しない。


「えっとそれで、どうやってプロに行くんですか……? 入団テストを受けるとか……?」


 不安そうに七菜は智之に尋ねる。なるほど、女子野球でプレーしてもNPBのスカウトは常識的に考えて見に来ないだろう。七菜が心配するのも当然だ。


 智之は答えた。


「まずは女子で実績残すことだ。そうすれば大学で男子の野球部に潜り込める」


 高校野球は女子の出場を禁止しているが、大学野球はそうではない。投手なら六大学野球で登板を記録した女子もいたはずだ。今まで男子に混じって活躍した女子選手は歴史上いないものの、女子野球で圧倒的な成績を残し、男子の大学野球で活躍するのが現実的なルートだと思われる。


「あとはおまえが言った通りプロテストを受けるというのも一つの手だ。大学に行く気がないなら、社会人野球のクラブチームや独立リーグに行くという手もある」


 今は亡き近鉄バファローズは女子選手の入団テストをしたことがあった。クラブチームだと茨城ゴールデンゴールズの片岡安祐美は有名だし、独立リーグなら関西、アメリカで活躍するナックル姫こと吉田えりがいる。


 完全に女子を締め出しているのは高校野球くらいで、他ならプレーの場は案外多いのだ。もちろん女子で最高クラスの実力があっても男子ではほとんど通用しないのが現実なので、実際に男子の中でプレーする女子選手はかなり少ない。


 野手の片岡安祐美は社会人では代打、守備固めなどの途中出場中心である。投手として何とか通用しているといった成績の吉田えりも、遅すぎる球速とナックルの特異性があってこそで、七菜の参考にはならない。六大学で出場した女子投手たちも、せいぜい数試合の登板である。どのルートを目指しても茨の道であることは間違いない。


「……まあ、おまえが三年間本当にもの凄く成長したなら、親父のツテで入団テストを頼んでみるよ。全てはおまえ次第だ」


 そう言って智之は話を締めくくった。本当にプロで通用しそうなくらいに七菜が成長していたら、マスコミも放っておかないだろう。話くらいは聞いてくれる球団があるかもしれない。


 とにかく、一にも二にも実力だ。今の七菜は中学レベルなら男子も含めてトップクラスのピッチャーだろうが、高校生に混ぜればいくらでも上がいるレベルだ。少なくとも、高校生の間に大学野球で通用する実力をつけねばなるまい。


 女子である七菜は、素材を見込まれてのドラフト指名はまずないだろう。どんなにがんばっても球速は140キロが限界といったところだ。七菜はプロに球速が遅くても抑えられる即戦力だと思われなければならない。


 改めてプロ入りまでの険しい道のりを想像した智之は、努めて明るく言った。


「じゃあ、さっそく練習するか!」


「はい!」


 力強く七菜は返事をするが、そこに声が掛けられる。


「僕も混ざっていいかな?」


 声の主はカオルだった。カオルはグラウンドの入り口で所在なさげに立っていた。


「あれ? 帰ってなかったのか?」


 智之はカオルをまじまじと見る。他の部員の姿は見えない。カオルだけ残っていたらしい。


「なんか体を動かし足りなくってね……。初心者に合わせて練習を少なめにしてるんでしょ? 僕は体力余ってるから入れてよ」


「筋トレ中心になるがいいか?」


 智之が訊くとカオルは二つ返事でオーケーした。


「望むところだよ」


「よし、じゃあまず腹筋から……」


 智之は七菜、つぐみ、カオルの三人に指示を出し、練習させ始めた。

まさか谷繁が兼任監督になるとは思いませんでした(2014.1.1)

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