プロローグ 春の妖精
祝 13回連続一次落ち&初の一次通過! この小説はフィクションです。実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません。
そこにいたのは、グラブを右手にはめた少女だった。
少し用があって残った放課後の学校。少し肌寒く、息は白い。春なので日も短く、まだそんなに遅くないのに空は茜色に染まっていた。近道をしようと通った裏庭で、城和田智之は見つけてしまった。
裏庭は生垣に囲まれた細長い空間だった。延々と校舎裏の壁面が続き、隅にぽつんと物置があるだけの場所である。近所に住んでいる智之にとっては近道だが、最寄りの駅は正門の方にあるので、普通は誰も通らない。
少し癖のついた栗色の髪を後ろに伸ばした綺麗な少女だった。優しそうな垂れ目が幼い顔によく似合っていてかわいらしい。完全無欠のベビーフェイス。白い肌に浮かぶ玉のような汗も爽やかだ。
周囲は虫の声もしないくらいに静かで、少女の規則的な呼吸音だけが響く。夕焼けに浮かび上がったうちの学校の制服が影絵のように動いて、右手のグラブに左手を突っ込み、白い硬球を握りしめた。
綺麗なフォームである。まるで、白い鶴が羽ばたくのを見ているようだった。
腰の位置まで上げられた右足が大地に降ろされると同時に左足が地面を蹴って高く跳ね上がり、スカートがひらりと浮き上がった。次の瞬間、流れるように腰、肩、肘が躍動してボールに力を与える。
単に教科書通りというだけなら、見やすくて打ちやすい観賞用のボールしか投げられない。しかし少女のフォームはうまく肘をしならせて、肘だけが遅れて頭の後ろから出てくるフォームであり、実戦的でもあった。少女の左腕から放たれたボールは空を切り裂き、大気を振るわせ凄まじいスピードで直進する。男子でも打てないのではないかと思えるくらいに凄まじい球だ。
ボールは校舎の壁に書かれた的に当たる。鈍い音を立ててボールは転がり、少女はボールを拾いに走る。電流に打たれたように智之は動けなかった。
速い。とにかく、速い。昔の自分よりも、この少女の方がずっと速い球を投げている。その事実だけで智之は体の芯が痺れるような感覚に襲われ、少女から目が離せなかった。智之は思わず声を掛ける。
「なあ、君……」
「え、あ、う……み、見てたんですか……?」
少女はこちらを見て、驚いているようだった。こんなところを通る物好きはいないと思っていたのだろう。構わず智之は尋ねる。
「君、すごい球投げるな。どこかで野球やってたのか?」
「あ、えっと……」
少女は視線を宙にさまよわせながら答えようとするが、少女の言葉を遮るように大声が響く。
「お~い、七菜! どこにいるんだ~?」
見れば坊主頭の大男が遠くの方をキョロキョロしながらうろついていた。少女は大男を見てつぶやく。
「あ、お兄ちゃん……」
「あれは野球部の……」
智之は少女を捜している男が知り合いだということに気付く。男は野球部エースの武星孝太郎だ。
「君、孝太郎の妹か?」
智之は訊くが、少女は智之の前から辞した。
「ごめんなさい……。お兄ちゃんが呼んでるから……」
智之は走り去る少女をどこか夢の中でいるような気分で見送った。
○
「……兄さん、本当に夢でも見てたんじゃないの?」
妹のつぐみの返答を聞いて、智之は料理をしながらずっこけそうになった。
「おまえなぁ……」
「だって女子で昔の兄さんより球速が出る人なんて、いるわけないじゃない。それより兄さん、ご飯まだ~!」
放課後裏庭で見た光景をつぐみに話したのだが、この妹ときたら兄の言うことを全く信じていない。つぐみが丸い顔を膨らませてチンチンと茶碗を箸で叩く。智之は嘆息しながら料理のレシピ本を見て、「もうすぐできるから待て」と言ってつぐみを黙らせる。
料理をしながら智之は放課後、裏庭で投げていた女の子のことを考えていた。あの美しいフォームを、もう一度見てみたい。少女は顔も美しかったが、フォームはもっと美しかった。明日裏庭に行けば会えるだろうか。
城和田家は住宅街の一軒家に智之とつぐみの二人暮らしだった。母親はアパレル会社の社長で忙しく海外を飛び回っていて、滅多に戻ってこない。父親はアメリカに稼ぎに出ていて、冬にならないと戻ってこない。昔はお手伝いさんを呼んでいたが、今は智之たちも大きくなったため、自分の面倒を自分たちで見るようになっているのだった。
「兄さんも変わったね~。昔は指に怪我したら困るとかって、絶対料理なんかしなかったのに。お料理本まで買っちゃってさ」
「……もう俺はピッチャーじゃないからな」
智之は夕食のカレーをテーブルの上に用意し、スプーンを持って座る。智之はカレーに口をつけながらつぐみに尋ねた。
「どうだ、学校は?」
「どうも何も今日、入学式に出ただけじゃない。別に何もないよ~」
つぐみはこの春、智之と同じ高校に進学したばかりだった。智之は二年生で、つぐみは一年後輩になる。
「部活とかどうするんだ? おまえの運動神経なら引っ張りだこだろ。決まったら、また練習メニュー作ってやるよ」
智之の質問に、つぐみは満面の笑みで答えた。
「もちろん、野球部に決まってるじゃん!」
「……いや、おまえ、女子は公式戦出られないのわかってるのか?」
つぐみは中学時代、シニアで智之とともに野球をしていた。シニアで女子の選手はかなり珍しく、智之が投手でつぐみが捕手で、当時は兄妹バッテリーと騒がれたものだ。
シニアで男子に混じってレギュラーだっただけあって、つぐみの身体能力は女子にしては凄まじい。もう打撃なら智之だって敵わない。
しかし高校で男子とプレーするのはいくらつぐみでも体力的にきついし、何より高校野球は女子選手の参加を認めていない。参加規定で男子選手しか出場できないと定められているのだ。極希に男子の野球部に参加している女子選手もいることにはいるが、彼女たちは三年間大会には出られない。
そもそもうちの学校の野球部が、つぐみを入れてくれるかもわからなかった。かといってうちの高校にはソフトボール部も存在しないため、野球部になんとか入れてもらうしか道はない。
「そのくらい知ってるよ。でも私、野球しかやる気ないし」
あっけらかんとつぐみは答え、逆に智之に質問する。
「兄さんはもう野球しないの?」
「しないよ。俺の肘はもう壊れちまってるんだよ」
智之は中学で肘を痛め、以来競技からは引退していた。今さら復帰するつもりはない。
「あれ、もう治ってるんじゃなかったっけ?」
「続けてもプロは無理だろ」
「野手なら可能性あるんじゃないの?」
「ねぇよ、ねぇ」
きっぱりと智之は言って、話を終わらせる。今や打撃で妹に勝てない智之が野手をやってどうするというのだ。「ふ~ん」とつぐみは智之の言葉を受け入れ、それ以上は何も言ってこなかった。
まさかこの会話が翌日呼び出される伏線になっていたとは、このときの智之は知るよしもなかったのである。