絶望の勇者
若者が一人、満月と空いっぱいに散りばめられた星々の幻想的な明かりが夜の平野を照らすなか、王都グリーンベルに向け歩いていた。傷ついた白銀の鎧に身を包み、簡素ながらも頑丈な作りの両刃の剣を腰に差し、金をクリームで溶かして染め上げたような色の短髪に青い目をしたその若者の名はエラード。
彼は伝説の勇者と国中の人々に崇められ、希望を一身に背負い、古の封印が解け復活したとされた魔王を討伐するため魔王城に赴き、魔王が城を構えるロンバルディア王国の北端と東端に沿って連なる最果ての山脈「ゴリアテ」山頂から先日、下山したばかりだ。
夜の平野を歩くエラードの青い目からは止まる様子のない大粒の涙があふれ、足取りは重く、その様はまるで処刑台に向かう囚人のようである。
夜通し歩き続けたエラードが防衛用の外壁に囲まれた王都グリーンベルの外壁北門に着いたのは星々の光が弱まり、東に見えるゴリアテ山脈の向こうから日の光が漏れ始める暁の時だった。見上げるほど大きな鉄門の前にエラードが立つと、中から閂が外される音が聞こえ、その分厚い鉄門がエラードよりも頭一つ大きい、全身を鎧に包んだ二人の守備兵の手によって開かれた。
「グラン団長が中央広場でお待ちだ」
守備兵の一人が怒気のこもった低い声でエラードに伝えた。それを聞いたエラードは何も言わず、顔をうつむけたまま歩を進める。そんなエラードを二人の守備兵は、勇者に向けるには似つかわしくない憎悪に満ちた目で見送った。
北門と南門を結ぶ大通りの中間に位置している中央広場に向かう間の道は異様な雰囲気に包まれていた。大通りの両脇には槍を持った兵士が並び、その後ろにはまだ夜が完全に明ける前にも関わらず城下町の住民が群がっていた。彼らは隣同士、何やら囁きあい、その目には失望、蔑みそして先ほどの二人の守備兵と同じ様に憎悪が吹き荒れ、その視線の中心には相変わらずうつむいたまま広場に向け歩き続けるエラードがいた。
エラードが通りの脇に並んでいる兵士と住民の視線を集めたまま広場に入ると、広場中央にある噴水の前でエラードよりも一回り大きく、口ひげをはやした中年の男が忌々しい表情を浮かべながら仁王立ちで待ち構えていた。年齢に見合わない引き締まった体をもったその男の名はグラン・ヴォルザック。屈強の戦士を擁するロンバルディア王国騎士団の団長を務める男である。
「まさか帰ってくるとわな……」
集まった人々に反して不気味に静まり返り、噴水の音だけが辺りを包む広場の中心で、顔をうつむけたままのエラードを前にしてグラン団長は怨めしそうに吐き捨てた。
「全て……知っていたのですか?」
グランの怨み言を受け止めたエラードはそれまでずっとうつむけたままだった顔を上げ噴水が作り出す極小の水しぶきを顔に浴びながら、まっすぐにグランの目を見つめ、藁にもすがる思いで尋ねた。
「無論だ」
エラードの問いにグランは悪びれる様子もなく、当たり前だといわんばかりにきっぱりと答えた。
「……」
この答えはエラードにとって予測できたものだが、それでも彼はグランが違う答えを返してくれるという淡い希望を持っていた。しかし、エラードに残されていた一縷の望みはグランの一切迷いのない返答によって、完全に断ち切られた。
「捕えろ」
グランは自分のことを呆然と見つめたままのエラードを拘束するよう周りにいた兵士に命じた。エラードに抵抗の意思はなく、兵に促されるまま武装解除に応じ、腰の剣をなんの価値もない物のように指し出したあと、力を封じる鉱石を含んだ頑丈な手錠をはめられた。
「国王陛下は貴様を処刑することを既に決定なされている、刑の執行は明日の正午だ」
武器を没収され拘束されたまま広場から連行されようとするエラードにグランは宣告した。エラードは驚く様子もなく一瞬グランに視線をやった後、兵士に連れられて広場から出て行った。
「よろしかったのですか?」
グランのそばに控えていた騎士が静かに尋ねた。それはその他の騎士団員も抱えていた疑問だった。エラードは勇者と呼ばれるにふさわしい実力を確かにもっていた。いかに彼の行いが許容できるものでなかったとしても、その強さはこれからロンバルディア王国が立ち向かわなければならない苦難には大きな助けとなると思われたからだ。
「たしかに個人の力としては、間違いなく奴はこの国最強であろう。だが……」
グランは、城門の中に入り見えなくなっていくエラードの小さい後姿を見つめながら険しい表情で続けた。
「奴が我々に味方する保障など今はどこにもない、それにこれは国王陛下の決定だ。そしてあの目……」
そう言いながら彼はエラードが最後に見せた目を思い出していた。それは絶望に支配された目ではなく、静かながらも確かな怒りを宿した目だった。
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広場から連行された後、エラードは身に着けていた防具や持ち物も剥ぎ取られ、質素な布で作られたみすぼらしい囚人服を着せられ、日の光の届かない王城地下にある牢に入れられていた。室内には机に向かっている牢番が一人だけおり、所々に置かれた小さな光石が放つ淡い光が牢内の様子を最低限映し出すだけだ。
エラードは牢の隅に崩れ落ちる様に腰を下した。
彼は昨日から何も口にしていなかった。その心理状態を考えると何かを口にできるような状態ではなかったという方が正しいのだろうが、いざこうして腰を落ち着け一息つくと、疲れと吐き気を伴うほどの空腹感が一気にエラードに押し寄せる。
「飯は出るのかい?」
机に向かって何かの書類作業をしている牢番に力のない声で尋ねた。
「明日の昼まで我慢すればもう飯の心配をする必要もなくなる」
その牢番はエラードの方を見るそぶりも見せず、作業を続けながら壁にでも話すように素っ気なく答えた。
「くっくっく」
しばらく牢番が書類をめくる音しかなかった部屋にエラードの自虐的な笑い声が静かに響いた。牢番は一瞬だけ手を止めてエラードを一瞥すると、また作業に戻った。
エラードは笑いを堪える事が出来なかった。もはや彼には笑うしかなかった。魔王討伐を目前にした彼がこの王都を訪れた際は住民総出の歓迎を受け、王と食事を共にし、国の希望を背負う勇者として送り出されたのがたった一ヶ月前だ。それが今、人々は彼を憎悪し、王は一度も姿すら現さず処刑の命だけ下し、罪人の飯さえも与えられず、弁明の機会を与えられることもなく、自分が信じ、そして救おうとした人々に明日、命を刈り取られるのをこの暗い牢屋で腹を空かせて、ただ待つだけだ。
彼は自分が人々の前で踊る道化であったことに今の今まで気付かなかった自分の愚かさと滑稽さを笑わずにはいられなかった。
頭の中に巡るのは、生まれ育った町ザイオンの事、自分を育てた人たちの事、魔王討伐を共に目指した仲間の事、そして魔王城での出来事。色々なことが頭の中に現れては消えていくうちに、心身ともに疲れ切っていたエラードは牢屋の壁を背にして自分でも気づかぬままに眠りに落ちた。
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エラードが眠りに就いてからどれくらいたったころであろうか。彼は牢の鍵を開ける乾いた金属音で目を覚ました。まだ夢見心地のままの目を扉の方に向けると、鉄格子の扉を開けながら黒い人影が入ってきた。
一瞬、エラードは処刑の時刻まで眠ってしまい、これから処刑台に引きたてられるのかと思ったが、すぐにそうではないことに気が付いた。薄暗い牢の中で、彼に唯一はっきりと視認できるその人物の瞳が緑色だったからだ。それはすなわち、その瞳の主はロンバルディア国民ではないことを示していた。ロンバルディアに住む全ての人々は青色の瞳を持つ。しかし、その人物の目は若草のようにとても澄み渡った緑色だった。エラードが青色以外の瞳を見たのは彼の人生でたった一度だけ、魔王城の中でだけである。
驚きのあまりエラードが身動きをとれずにいることなどお構いなしに、その若草色の瞳の持ち主は素早く座ったままのエラードの前に屈みこみ、エラードの手を拘束している手錠を外した。
近くで見ることでエラードはそのマントで首から下を隠した人物の顔を確認することができた。
そのまま闇に溶けていきそうな短い漆黒の髪、透き通るような白い肌、血色の良い薄く赤い唇、そして綺麗な緑の瞳を持った目つきの鋭いその女は。未だに事態を呑み込めていないエラードを立ち上がらせた。
「逃げるわよ!」
緑目の女は静かながらも力強く言いながら、エラードに彼女と同じフードつきの黒マントを手渡した。
「君は……?」
差し出されたマントを着ながらエラードは疑問を女に投げ勝掛けた。
「私の名前はメリル、でも詳しい話は後、今は何も考えず私の後についてきて!」
そういって女はエラードに自分の後についてくるよう促し牢部屋を急いで後にした。エラードは、薄暗い牢部屋の中で一際明るい机の上にできた血だまりとぐしゃぐしゃになった書類の中に顔を沈めている牢番の姿をちらりと見て確認したが、無言でメリルの後に続いて部屋を出た。
不可思議なことに、いるべきはずの見回り兵に出くわすこともなく、エラードは地下牢から地上に出る階段を駆け上がり、メリルに導かれながら城を出た。
城の外は明かりの灯っている家もなく、真っ暗で、街頭に使われている牢屋にあった物より光量の多い光石が大きな通りを薄青く照らしていた。
「こっちよ!」
そういうとメリルは南門に向け走り出しエラードもその後を追い、彼らは寝静まりかえったグリーンベルの街並みを足音もなく駆け抜けた。
南門に着くと固く閉ざされているはずの鉄門が開け放たれており、守備兵も見当たらなかった。エラードが警戒心を拭えぬまま門をくぐり門の外に出ると、メリルと同じ黒マントに身を包み馬に乗った初老の男が二頭の馬を引き、エラードたちを待ち構えていた。
「早かったのお、さあ乗れ」
初老の男がメリルにそう伝えると、彼女は素早く馬に跨りエラードもそれに続いた。そして、何もわからぬままのエラードを乗せたまま馬は南に向け走り出した。
「……」
馬に跨り平野を駆け抜ける三人の間に会話はなく、西の方に黒く見える海面に満月がその姿を映しながら沈もうとする中、彼らはただ黙々と馬を進めた。