偽りの友情
1
私は小説家だ。私は『兄貴』にある感情を抱かせたいがために書く。
空気と同じような兄貴との関係は、僕が小学六年生の時からでした。多分その頃よりずっと前から、兄貴は憎んでいたのかも知れません。僕と兄貴は年が三つ離れています。自意識が確立していく時期の彼には、依怙ひいきだったのでしょう。彼が小学校から家につく頃には、幼い僕が母親にデレっとしているところを、彼はいつも見ていました。低学年のころからそれを見せ付けられていた彼は、恐らく孤独を感じていたのかもしれません。もちろん、母はきちんと両方に愛情を分け与えていたと思いますが、やはり自分の知らないところで羨ましい事をされている事に寂しさを感じていたのでしょう。そして僕が小学六年生の頃には喧嘩が絶えませんでした。きっかけと言えば子供の考え付きそうなことなので、伏せて置きますが、問題は彼には孤独があり僕には疑心暗鬼が取り付いていたことです。
彼の嫌がらせは、彼が孤独を感じてからずっと続きます。親の見ない間に僕は度々騙されていました。幼い頃は意味も解らないまま、ただ茫然としていて、玩具を取り戻すことも、気に入っていた玩具を捨てられたことにも何も僕は言えず、ただ闇雲に玩具を探していました。僕が言い返せる年頃になってもまだ続き、小学六年生になった頃では、取っ組むことになりました。彼もまた、僕が他人を信じる事ができなくなったように、自分をさらに孤独に追い込んでいったのでしょう。
先生は、どう思いますか――
先生はじっと僕の話を聞いてくれた。何も言うでもなく、僕の顔を見ながら聞いてくれた。
「もし君の言うとおりなら、今もお兄さんのことを憎んでいるわけだ。でもそしたら、どうしてここに来たのかを考えてみたまえ」
彼との関係を少なからず良くしようとするために来ている。でも、本当はただ単に彼によって気持ちを沈ませたくない、喧嘩に疲れているのだろう。わかりましたと答えた僕の心はその一心なのかもしれない。恐らく先生はそれとこれを見透かしている。僕にはどうして喧嘩がこうも続くのかが解らない。ただ不思議なことに自分の精神状態を理解することができた。
母親は心筋梗塞だ。幼い頃から良くしてもらい、親自身の体を壊してまでもする仕事の倦怠感を、いつもいつも見てきた僕には、ぞうっとする強い畏怖の念に抱かれていた。以前母が倒れたと聞くや否やそれが弾け出し、まるで不可抗力のように今の状態に陥ってしまった。そして元々の疑心暗鬼も重なって不登校になり、精神科医・心療内科にも通う程追い込まれていった。僕の唯一の願いが両親を幸せにすること。僕の精神は異常になっていた。また、兄貴がいるのだが傍若無人で女たらしで、医療費に何百万とかかっているのに親から金を持ち出したり、その悪逆を僕に擦り付けたり、自分のためだけの車を買ったりと僕の苛立ちは日に日に重なる。兄貴は僕と同じ気持ちなのか?母親は……誰のせいでこうなったんだ?
一時間聞いてくれた先生は立ち上がり、向こうに話しかけると、会計の女性の声が聞こえた。
「では、こちらへ」
いつもの一連でこの部屋を出るが――窓からの陽光が差し込み綺麗だ――ひと時見入り、僕の背は逆光にも浴びず、それから後にした。
2
先生に話を聞いてもらったが、不安で心に隙間は無かった。外では初夏の陽光が、周りの全てを初々しく活気付けて照らしている。心療内科は最近開発されたこの街の中枢から、少し外れた住宅地寄りにあった。道路を三本通り過ぎた所では住宅街と学校を往来する学生によく会い、先程心療内科からもらった薬は、彼らに見られると恥ずかしいので隠し持つようにしている。その道は学生が通うだけあって、彼らを標的とした商店が並んでいた。帰路に小洒落たオープンカフェがある。僕は通り過ぎるときに見たんだ。
陽に照らされたティラミスケーキを囲む二人の男と女。兄貴と僕の初めて好きになった同級生。
僕は歩き出す。いや急ぎ足から走って。――息が切れてきた途端に記憶がとんだ気がした。あれ、なんだっけ。さっき桂木クリニック(心療内科)出て、さっきコンビニで立ち読みして、さっきあのオープンカフェを通りかかって、琴乃さん見て、兄貴が……。何してたんだ?
吐き気がする……。
家の中に入り自室へ戻り、机に伏す。と発作が起きた。激しく震える手でさっきもらった薬の袋を鷲掴み、薬を大量に飲み干す。さっきコンビニで買って開けておいたジュースを倒してしまった。……でも震えはいっこうに収まらない。がたがたと机は揺れている。この前も大量に服用して全身痙攣で病院に運ばれたばかりだった。――すると意識が途絶えた。
――それから僕が起きたのは、大学病院のベッドの上だ。あの後僕は意識の無いまま出掛けたらしい。数日間の時間が経過し、地元の警察官が発見してくれたのだと後で医師に教えられた。それと親が警察に泣いてお願いしたとも教えられた。意識が戻ってからのこの時、全ての経緯を知らない事に自分は一体何をしていたのだろうかと言う非常に大きな不安に駆られていた。
これは異様な行動のため、検査を勧められ受けることになっているらしい。
元々心療内科に通う程度だからこういう奇怪な行動を取る事は僕の考慮に含まれているのだが、医師の慎重な微笑から察すると、どうやら僕の思い込みらしい。事は重大なのだろう。
駆け付けてくれたのは三人。急ぎすぎてろくに化粧もしない母親と、急ぎすぎて携帯の電源を切り忘れ、会社からの電話であろうバイブレーションを鳴らす父親、手ぐしで髪の毛をすいている見知らない男。
白く清楚なこの病室で、白いベッドに白いシーツで体を温めてもらいながら彼を見やる。特に痛みも感じず、外見健康な僕には、理由も解らなかった。
この人、誰。
第一印象は僕に似つかないほど端正な顔つきと言えるほどで、香水の匂いも漂わせ色者だ。その彼が、勝手な解釈だが僕の方を大丈夫か、とちらり目線を向ける。僕はそれに対して敬語で感謝を述べる。大丈夫です、ありがとうございます。すると親も含め彼は驚いた表情をした。はて、僕はそんなにならず者だったか?僕が初対面に敬語を使う人間だって事を家族は知っているだろう。――ところで彼は一体誰なのだろう。家族が怪訝そうな顔つきで、そわそわだか、ざわざわだか。
どちらさまですか?と聞いてみたら、思いもよらない声を聞いた。
「お前……何言ってるんだ?」
硬直した喉から振り絞ったような彼の声だった。
父親は口端を痙攣させながら
「お前の兄だよ」
だけれども僕の記憶には全てにおいてその男の顔が出てこない。年少のときから一人で遊び、思い出だって両親と過ごした日々しかないんだから。「養子?」と言う考えもあったが、この状態でそれは否定すべきものだと解る余裕もあった。そんな話は食卓にも出なかった。なんて言葉も出すことができた。
――エピソード記憶症。
対人関係や、対人との会話などを忘れる記憶症。
解りやすく本で説明するならば、海馬とはほんの大事な記憶にしおりを挟む役割を持っている。しかし記憶喪失はそのしおりを無くしてしまう。つまり記憶はなくなってはいないが開きたいぺージを探し出せなくなるのが記憶喪失ということだ。原因は大きなショックを受けるか、大きなストレスによってとのことだ。
兄貴の思い出だけ、脳の片隅に無くしてしまったらしい。検査の結果を医者から聞いても親から聞いても僕には寒心と言うものが湧かない。医師によると日常には影響が無いので、退院できるそうだ。
3
挨拶をさせていただこう。私は小説家だ。この退院した初日からは『僕』と『兄貴』はぎこちない会話が続いた。それもそのはず、『僕』は今まで『兄貴』が接してきた『僕』とは別人なのだから。でもそのおかげで記憶喪失の間の『僕』と『兄貴』の関係はとても良くなった事を読者に伝えたい。私の書いたこの次の話からは『僕が退院して五日後』の話だ。
いつもの、記憶を取り戻すためのリハビリテーションとして兄貴との会話をしていたときだ。兄貴が今度出掛けようかと提案してくれた。
行く先は近くのゲームセンターだ。昔はこの街にひとつしかなかったため、よく人が来ていたものだ。ただここ数年で都市化が進み、その活気強さに急速に後退した。だが、小さい頃から遊んだ地だ。記憶が戻るかもしれないと兄貴がそこに誘ったのだった。店長は僕が小学低学年の頃から知り合いのおばちゃん。僕はその店長に会いたくなったから行きたい。
ゲームセンターに着き内部の様子を伺うと、整然としていた。客はめっきり来ていないようだ。軋んだような音を立て開いた自動ドアは、昔のように期待させるドアでは、もはや無かった。汚れとかゴミ一つ無いが、蛍光灯が悪いのかまたは人が誰も来ないせいか、なんだか薄汚れたような店内。
中に歩み店内を見回す。ゲームの効果音がかすかに鳴っている。兄貴と僕は寂しさを感じた。
店の奥に人の気配を感じる。遠くからでも解る。モップにバケツに清掃服……。薄汚れた床を丹念にモップでこすりつけている。背を丸めながら……もう七十歳は超えてるはずなのに、休まずモップを動かす。
ふぅ、とかすかに汚れた腕で、汗をぬぐうおばちゃん。さて……、と言いモップをこすっていたのとは別な方向にむかって磨こうとして、顔を上げたら僕らに気づいたようだ。おや、おひさしぶりだねぇ。埃にまみれた顔でうれしそうに笑う。
僕らは何もいえないまま、その姿を見ていた。僕らの事を覚えててくれたんだ……。
よっこらせっと。お客さんに清掃服のままじゃいけないねぇと言いながら、埃で本来の色がわからない程の三角巾をはずして、くしゃくしゃになった髪を整え、近くの丸椅子に腰を掛ける。猫背で腰が痛むのか、トントンとたたく。きょうはなにしにきたんかぇ?にっこりしながら言った。
「今日は……ゲームしに……」
そうかい、そうかいと嬉しそうに目尻に皺を作って微笑んで、よっこらせとカウンターのところに行き、全部のゲーム機の電源を点けた。久々の仕事なのだろう、機械たちは楽しそうに動き出す。
さぁ、ゆっくりあそんでおいき、とカウンター席に座り込み、静かに機械たちと僕らを見つめていた。始めはためらいがあったけど、兄貴に先導されて機械たちと遊ぶことになる。最新のゲームはひとつも無い。アーケードゲームは三年前に流行したものであったり、UFOキャッチャーもなんのキャラクターか忘れるほど古い。ぬいぐるみ達は、透明なお家でいつまでも笑っている。
とりあえずガンシューティングをしてみることにした。兄貴がプレイヤー1で僕がプレイヤー2。勢いよく敵が出てきたが、古い画質なので迫力も無い。その上、撃っても撃っても当たらない。真っ直ぐに撃ったつもりが、ありえないところに銃弾が表示される。機械の標準があっていないようだ。
しばらく色々な他のゲームでも遊んでみたが、実際のところ面白白さにかけていた。UFOキャッチャーに移ろうとした時、おばあちゃんは声をかけてきてくれた。
「ふたりでいつもいっしょにやっていた、ほら、なんていったかねぇ……。バーチャなんだかっていう、たたかいするゲームやってみたらいいんでないかい?」
優しそうなおばあちゃんの笑顔。ふたりでいっしょにか……。「やってみますね。」と答える僕ら。そのゲームは格闘ゲーム。2Dの古いそのゲームはとても懐かしく、切ない。これを兄貴とふたりでやっていたんだね……。
僕はずっとこのままでもいいかも知れない。こんなに楽しいし嬉しいんだ。記憶の無い僕とある僕、どっちが幸せなんだろう。
先日、母から聞いた。昔の僕は兄貴と仲が悪かったと。お互い卑劣で、最悪の場合刃物を持ってきたこともあったと。僕は何もいわなかった。今頃だけどごめんね、お母さん。
4
また、挨拶させていただこう。私の書いたこの次の話からは『僕が退院して四日後』の話だ。
兄貴とのリハビリテーションでも思うことは両親の事だ。この迷惑がどれほど両親の寿命を縮めているのだろうか、という事ばかりが脳裏でうごめいている。その思いの中でこのリハビリは、始めのあのおどおどした様子と今と、まるっきり相違ないのだが、僕は兄貴と話すのが楽しいと思うようになっていた。リハビリといっても、ただ兄貴の顔をじぃっと見つめたり、昔した兄貴との幼い遊びをしたり古い思い出話をしたりなど、気恥ずかしそうになることばかりだ。ただ、全てが新鮮で楽しかっただけだ。兄貴との想い出よりも、両親との想い出の方が良く浮かんでいた。
明るく手を振る少しやつれた母は、僕を見送った。無理しないでね母さん。
これから街を歩こう。見慣れたあの道で少し安堵するはずだ。
退院してから外に出たのは初めてだ。僕が無意識の徘徊や入院している間に学校は夏休みに入っている。僕は馴染みのコンビニで涼みながら立ち読みしてから心療内科に行った。この時期だから多くの私服の学生とすれ違う。病院の袋を忍ばせる。いつもの一連。
オープンカフェにも寄る。一人だけの入店は少し恥ずかしかったけど、冷たいカフェオレを飲むとずいぶん満喫できた。
そして人が行き交うのをぼうっと眺めていると兄貴が歩いているのを発見する。女の子と一緒に歩いている。あ、もしかして兄貴が言ってた琴乃さん?可愛い子だなぁ。兄貴と腕を組んでる。余程好きなんだ。
カフェオレを飲みながら遠ざかる二人の背中を見送る。空を仰ぎながらコーヒーカップをコツンと受け皿に置くと、僕には好きな人いたのかなぁと思った。
しばらくして家に帰ると、玄関には女物の見慣れない靴があった。兄貴の靴の隣に綺麗に並べてある。靴を脱いでると居間から談笑が聞こえてきた。
居間をのぞいてみるとやはり兄貴と琴乃さんらしき女の子がいた。あ、女の子と目が合った。「久しぶり。」と声をかけられたので、どうも初めましてと軽く会釈する。すると彼女は目を丸くして、こう切り出してきたのだ。
「そんな敬語使わなくていいって。お兄さんの前だからって。学校でいつもため口でしょ?」
僕は恐らく口が震えていただろう。琴乃さんは僕の記憶喪失の話してから、クラスの話をした。でも僕は、知らない……とだけ口走ったと思うが、よく覚えていない。きびすを返して階段を駆け上がったから。
兄貴に「琴乃さんと付き合ってるよ。」と聞くまで僕は琴乃さんという存在を知らなかった。でも僕はいつも話していたんだね。学校で。机の上の集合写真を見た。……いた。
ベッドに飛び込んで、頭を枕の下に入れ込む。僕はもう一人、記憶を無くしていた。
5
また、挨拶させていただこう。私の書いたこの次の話からは『僕が退院して一週間後』の話だ。
ただいま、と家のドアを開けた。するとシチューの匂いが出迎えてくれた。
兄貴と一緒にまだまだぎこちない会話をしながら靴を脱ぐ。
どんっと台所の方から聞こえたが、僕らは気にも留めなかった。
リビングのソファーにどっしり座ると、疲れを取る。
台所に僕が飲み物を取りに行くまでに、兄貴はゲーム機の電源を点けていた。
起動音が流れ、僕が倒れた母親を見たときには、軽快なゲームの音が流れ始めていた。
白いベッドで眠る母親の姿は、二人の心を潰した。白いシーツに包まる母親は、目を瞑っている。この部屋には、呼吸機の音だけが聞こえている。
大丈夫、だって……。
その言葉を、担当医の話を聞いた僕らは自分自身に言い聞かせたはずだ。
遅れていたら、亡くなってたって……。
僕と兄貴は母親を見て、大丈夫だよと伝えて、帰っていく。
…………。
家に着くと兄貴は、僕を殴った。
「お前のせいだからな」
「お前が精神科行ったりするから母親がストレス溜まって倒れたんだ」
「お前が記憶喪失なんてなるからこうなったんだ」
「お前が学校行かないからこうなるんだ」
「お前が母親を殺そうとしたんだ!」
僕の心は潰れて、また、千切られていった。
その後すぐに謝ってくれた。
僕が退院してから今まで通りの会話をしてくれた。
また……ゲームを起動する。ソファーに座る兄貴と床にぼうっと座る僕。
しばらく経って「ほしい物あるか?」と声を掛けた兄貴。「別に無いよ。」と僕はぎこちなく返す。
兄貴がソファーから立ち上がり台所の方へと歩いていくのを一瞥する。
冷蔵庫を開けた音がして、それから麦茶を取り出しコップについで飲んだ。
「ちょっと、出掛けてくる。」
テーブルをコツンと鳴らしコップは置かれた。僕は何も言わず、ゲームのタイトル画面をただぼうっと見つめている。玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
――数十分が経て、部屋の音にタイトル画面から流れる曲と玄関が開く音が加わる。兄貴は何も言うことなく、テーブルに置かれたコップを台所に持って行き洗う。またこちらに向かってきて隣に座った。
しばらく二人は、テレビ画面を見つめていた。
今の僕は抜け殻で、両親のために生きているようなものだった。
「母親が帰ってくるまでがんばろう」
僕はぽつりと言った。
「そう、昔のお前に言われたかったんだよ」
兄貴は言った。
――弟に向かって言った罵声について考える度に、なんだか不思議に昔と今の関係を対比させてしまう。
弟に言い過ぎたと思うことはあるが、あいつの日頃の行いが悪いから、責められるのも当たり前なのだと謝罪の心が打ち消されていく。やりすぎではなかったはずだ。でも今の弟に罵声を言い放つ理由が無いってことは重くわかっている。今の弟は昔のあいつではないんだってことも。今の弟との関係には、昔の関係のすべてをなかったかのするようで心地よく感じていた。
この関係が続くならばどれだけ楽だろう。ああ、楽だ。もしかしたらこれがずっと得たかった、兄弟の友情なのかもしれない。
いや。今の弟は本心のあいつじゃない。記憶を失えばこれまで接したあいつとは違う別人だ。だったら今弟といる時間には、望んだ友情がないということなのか。ならばこの友情に安心しなくて良かった。
6
最後に、挨拶させていただこう。幾つか話したいことがある。
私が書いたこの小説は『僕』の記憶が戻ることなく続いていく物語だと言うことを読者に伝えたい。その中でこの兄貴と僕の関係は幸せなのか、考えてほしい。この関係は確かに楽だ。だが大事な事は、この友情は得たかった友情でない事、に気づくことだ。私は『兄貴』に気づかせたかった。これらは私の希望なのだ。さらに話すことにしよう。このまま小説が完結してくれればそれだけのことだ。だが実際の話をすると、私は退院してからのこの『僕』だ。そして、ここで話さなければならないことは、現実の僕は記憶が戻っていると言うことだ。
私が記憶を戻さなければこんなことにはならなかった。私は小説を書き終えたその手で輪のついた白いロープを持っている。待っててね母さん。兄貴の言うとおりなんだ。私は小説として切なる希望を書いたのだが、それを読者は理解していただけたろうか。僕という人間を愚かと思うだろう。だけれど大切な支えが失われたんだ。生き甲斐の存在が大きくなりすぎた僕の末路だ。
母は、私が退院してから一週間と三日後に亡くなった。
私が退院してから四日後の話をしよう。
その日は頭痛が激しかった。
家で琴乃さんと会った次の日、彼女に会いに行った。記憶を取り戻す機会になるだろうと思ってのことだ。家の場所はあらかじめ聞いていた。家に着き、インターホンを鳴らすと琴乃さんが迎えてくれた。そして直接彼女の部屋に通してくれた。琴乃さんの部屋でピンクのカーペットの上にふたりで座り込んだ。
琴乃さんに会えて、彼女の顔を見るたび赤面してしまう自分がいる。緊張していたため、なんだかぎこちなかった僕に琴乃さんは、可愛いと言ってくれる。本当に嬉しかったんだ。彼女のしぐさ、声、香り。それらは僕に忘れていたあの感情をじわじわと思い出させていった。
すると突然、とても大きな頭痛がして地面がぐらぐらした。
そのとき琴乃さんはDVDを見ようと言って、ベッド下に手を伸ばして取り出そうとしていた。奥に入ってなかなか取れないらしく、琴乃さんはしばらく僕に後姿を見せている。
僕は激しい頭痛の中で、彼女のうなじをじぃっと見つめている。
じぃっと。じぃっと。
赤いプラスチックのケースが取り出されると、琴乃さんは嬉しそうな顔をするが、僕にはその顔に影がかかっているように見えた。この感情を、処理しきれない。僕の不安達が理性を惨殺した。立ち上がって、気分が悪いと琴乃さんに断って帰ろうとする。僕の顔はきっと、深く歪んでいる。
なんで兄貴と……。なんで兄貴となんだ?
なんで?なんでだ?
なんでだなんでだなんでだなんでだなんでだ……
琴乃さんは、大丈夫?と優しく声をかけながら玄関まで送った。
「お兄さんがとても心配してたよ……?」
そして
「お兄さんもなんだか元気なくして――」
彼女は僕ではなく、兄貴を心配している。
僕の大切な玩具を捨てた兄貴を。傍若無人な兄貴を。
そう、と僕は言う。この時、僕が変わり初めて直面したこの感情は、憎しみであった。
――実際、僕が書いたこの小説で本当のことを言っているのは、兄貴のモノローグ以外だ。そしてこれが記憶を取り戻した瞬間だった。その瞬間から僕の胸にある感情が、彼と一緒にいたときも渦巻いている。
憎いよ、兄貴。
だからずっと、こう思っていた。
「殺してやりたい」
古いゲームセンターに行った時も、ずぅっと。ずぅっと。