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『あの世界』の常識に巻き込まれていく話  作者: 渡しログ
ワールドカウント24
74/419

3.7.04


 翌朝。


 雇用主からメッセージが入る。


『スーツを届ける時間が無かった。

 報酬増やすから。どこかで買ってから病院へ行け。

 いいか、受付はするな。病室へ直行だ』


 オレは、紳士服量販店の開店時間に合わせてアパートを出た。


 派手さは要らない。地味でいい。


 安売りのハンガーラック。

 紺色のカジュアルスーツの上下を選ぶ。

 ブラウン色の革靴を合わせる。

 靴下とシャツは、店員に頼んで持ってきてもらった。

 ネクタイは必要ない。

 ニット帽は黒。

 最後に、眼鏡を掛ける。


 鏡を見ると、ニット帽を被っていてもギリギリ普通だ。

 オレはまだ、ハタチだ。

 ベンチャー企業の社会人1年生に見えなくもない。


「全部、着ていきます」

 店員に告げる。


 買った服以外は、全て紙袋へ。

 時計を見ると11時半。

 時間にはまだ余裕があった。


 駅へと向かい、コインロッカーに紙袋を預けて、電車に乗る。


 最寄り駅に着いてから、本屋へ。

 なんでもいい。棚にあったエッセイ集にした。

 また紙袋に入れてもらう。

 写真も一緒にその中へ。


 タクシーで病院へ。

 仕事場へ着くと、13時20分。

 丁度いい時間だ。

 お見舞いの時間。


 「受付をするな」の意味は、だいたい分かる。

 手が回っている可能性だ。

 スーツは、面会のカード無しでも怪しまれないようにするため。


 病室はどうだろうか。

 行けば分かる。


 自動ドアを通り抜け、病院に入った。

 受付に人はいない。

 立ち止まって監視しているような客もいない。


 早足でエレベータへ。

 ボタンを押すと、すぐに開いた。


 カゴに入り5階を押す。

 革の手袋を嵌める。

 5階で停止。

 エレベーターを出て、病室へ。

 引き戸の前には誰もいない。

 オレを呼び止める者もいない。



 引き戸の前に立つ。

 話し声も聞こえてこない。


 引き戸を開けた。

 奥のベッドに、吉村がいた。

 病人以外、誰もいなかった。


 病室に踏み込む。

 オレを見た吉村の顔が引き攣る。


 オレは何も言わずに、紙袋から文庫本と、住宅街の写真を取り出した。

 それを、吉村の胸元に、写真が見えるように、そっと置く。


 それだけでいい。

 言葉は必要ない。


 立ち去ろうとすると、後ろから声。


「あの……」


 無視して、病室の入り口へ。


「だれにも、言いません……だから、かぞ」


 引き戸を閉めた。

 通路を歩き、エレベーターの前へ。


 これで今日の仕事も終わりだ。


 エレベーターのドアが開く。

 血液が波打つ。

 逆流でも始めたのかと思うほどに、心臓が高鳴った。


 カゴから出てきた男と女。

 灰色の背広を着た男性。紺色のスーツの女性。

 香水やコロンの匂いは無い。少し汗臭い。


 オレは、自動ドアの端に寄り、ふたりが降りるのを待った。

 無人になったエレベーターに乗る。

 「1階」と「閉める」のボタンをほぼ同時に押す。

 大丈夫だ。怪しまれていない。

 ドアが閉まろうとするとき、何かに気が付いたように、女性がオレを見た。

 ドアが閉まる。


 動け。動け……


 エレベーターが動き出す。


 そして、1階へ。


 早足で、病院を出る。

 ロータリーには、数台のタクシー。

 オレは、タクシーに乗り込み「駅まで」と告げる。


 タクシーは、すぐに走りだした。


 後部座席から、ロータリーを見る。

 ロータリーが見えなくなる直前。

 よく見えなかったが、誰かが緑色のタクシーに乗った。

 そのタクシーが動き出した。


 最初の信号待ち。

 緑色のタクシーも、何台か後ろに停車していた。

 そのあとも、ずっと同じ道をついてくる。

 おかしなことは無い。

 行先が同じ駅なのは、なんの不思議も無い。


 だが、念のためだ。

 オレは、駅につく数百メートル手前。

 飲食店の前。

 そこでタクシーを止めた。

 カネを払いタクシーを降りる。


 緑色のタクシーが通り過ぎる。

 視界の隅で観察する。


 後部座席に乗っていたのは……


 紺色のスーツの女性だった。


 緑色のタクシー。

 交差点の手前で停車し、ハザードランプを点灯させた。

 時間は無い。

 呼び止められたら、終わりだ。


 早足で歩く。考えろ。


 適当な大きさのオフィスビルを探す。

 複数の会社が入った雑居ビル。

 非常階段の出口が、ビルの裏手にあるビル。

 守衛は、立っていないほうが良い。


 条件に合うビルはすぐに見つかった。


 信号の無い道路を横断する。

 振り返らずに、そのビルに入る。

 受付の無い広いホール。奥に1基のエレベーター。

 カゴは、すでに待機していた。

 ボタンを押してエレベーターに乗る。


 最上階は8階だった。

 8階を押す。

 ドアが閉まる瞬間。

 道路の向かいにスーツの女性。

 横断するタイミングを見計らっていた。


 エレベーターはゆっくりと8階へ。

 8階に到着し、エレベーターのドアが開くが、オレは降りない。

 2階と1階のボタンを押す。

 エレベーターが再び動きだす。

 そしてオレは、2階で降りる。

 非常階段のドアを探すと、エレベーターのすぐ近くだった。


 開けると、サラリーマンがタバコを吸っていた。

 下へ向かおうとするオレを見て、道を譲ってくれた。


 手であいさつしながら、オレは、非常階段を降りた。


 降りながら、ニット帽と眼鏡を外す。

 上着を脱いで、腕に掛ける。


 階段の出口は、施錠されていなかった。

 オレはビルの裏通りへ出た。

 そのまま駅へ向かう。


 しばらく歩いて、振り返ったが、女性の姿は無かった。


 改札を抜けて、電車を待つ。

 念のため、アパートと反対方向の電車に乗る。

 乗ってから、歩いて、車両を4つ移動する。


 追い掛けてくる人影は無い。


 スマホを出して雇用主にメッセージ。


『担当さんにしばらく尾行されました。明日はどうしましょうか』


『分かった。明日は行かなくていい。

 スーツは処分。免許証だけA4で戻してくれ。

 よくやってくれた。ごくろうさん』



 仕事が、終わった。



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