3.7.04
翌朝。
雇用主からメッセージが入る。
『スーツを届ける時間が無かった。
報酬増やすから。どこかで買ってから病院へ行け。
いいか、受付はするな。病室へ直行だ』
オレは、紳士服量販店の開店時間に合わせてアパートを出た。
派手さは要らない。地味でいい。
安売りのハンガーラック。
紺色のカジュアルスーツの上下を選ぶ。
ブラウン色の革靴を合わせる。
靴下とシャツは、店員に頼んで持ってきてもらった。
ネクタイは必要ない。
ニット帽は黒。
最後に、眼鏡を掛ける。
鏡を見ると、ニット帽を被っていてもギリギリ普通だ。
オレはまだ、ハタチだ。
ベンチャー企業の社会人1年生に見えなくもない。
「全部、着ていきます」
店員に告げる。
買った服以外は、全て紙袋へ。
時計を見ると11時半。
時間にはまだ余裕があった。
駅へと向かい、コインロッカーに紙袋を預けて、電車に乗る。
最寄り駅に着いてから、本屋へ。
なんでもいい。棚にあったエッセイ集にした。
また紙袋に入れてもらう。
写真も一緒にその中へ。
タクシーで病院へ。
仕事場へ着くと、13時20分。
丁度いい時間だ。
お見舞いの時間。
「受付をするな」の意味は、だいたい分かる。
手が回っている可能性だ。
スーツは、面会のカード無しでも怪しまれないようにするため。
病室はどうだろうか。
行けば分かる。
自動ドアを通り抜け、病院に入った。
受付に人はいない。
立ち止まって監視しているような客もいない。
早足でエレベータへ。
ボタンを押すと、すぐに開いた。
カゴに入り5階を押す。
革の手袋を嵌める。
5階で停止。
エレベーターを出て、病室へ。
引き戸の前には誰もいない。
オレを呼び止める者もいない。
引き戸の前に立つ。
話し声も聞こえてこない。
引き戸を開けた。
奥のベッドに、吉村がいた。
病人以外、誰もいなかった。
病室に踏み込む。
オレを見た吉村の顔が引き攣る。
オレは何も言わずに、紙袋から文庫本と、住宅街の写真を取り出した。
それを、吉村の胸元に、写真が見えるように、そっと置く。
それだけでいい。
言葉は必要ない。
立ち去ろうとすると、後ろから声。
「あの……」
無視して、病室の入り口へ。
「だれにも、言いません……だから、かぞ」
引き戸を閉めた。
通路を歩き、エレベーターの前へ。
これで今日の仕事も終わりだ。
エレベーターのドアが開く。
血液が波打つ。
逆流でも始めたのかと思うほどに、心臓が高鳴った。
カゴから出てきた男と女。
灰色の背広を着た男性。紺色のスーツの女性。
香水やコロンの匂いは無い。少し汗臭い。
オレは、自動ドアの端に寄り、ふたりが降りるのを待った。
無人になったエレベーターに乗る。
「1階」と「閉める」のボタンをほぼ同時に押す。
大丈夫だ。怪しまれていない。
ドアが閉まろうとするとき、何かに気が付いたように、女性がオレを見た。
ドアが閉まる。
動け。動け……
エレベーターが動き出す。
そして、1階へ。
早足で、病院を出る。
ロータリーには、数台のタクシー。
オレは、タクシーに乗り込み「駅まで」と告げる。
タクシーは、すぐに走りだした。
後部座席から、ロータリーを見る。
ロータリーが見えなくなる直前。
よく見えなかったが、誰かが緑色のタクシーに乗った。
そのタクシーが動き出した。
最初の信号待ち。
緑色のタクシーも、何台か後ろに停車していた。
そのあとも、ずっと同じ道をついてくる。
おかしなことは無い。
行先が同じ駅なのは、なんの不思議も無い。
だが、念のためだ。
オレは、駅につく数百メートル手前。
飲食店の前。
そこでタクシーを止めた。
カネを払いタクシーを降りる。
緑色のタクシーが通り過ぎる。
視界の隅で観察する。
後部座席に乗っていたのは……
紺色のスーツの女性だった。
緑色のタクシー。
交差点の手前で停車し、ハザードランプを点灯させた。
時間は無い。
呼び止められたら、終わりだ。
早足で歩く。考えろ。
適当な大きさのオフィスビルを探す。
複数の会社が入った雑居ビル。
非常階段の出口が、ビルの裏手にあるビル。
守衛は、立っていないほうが良い。
条件に合うビルはすぐに見つかった。
信号の無い道路を横断する。
振り返らずに、そのビルに入る。
受付の無い広いホール。奥に1基のエレベーター。
カゴは、すでに待機していた。
ボタンを押してエレベーターに乗る。
最上階は8階だった。
8階を押す。
ドアが閉まる瞬間。
道路の向かいにスーツの女性。
横断するタイミングを見計らっていた。
エレベーターはゆっくりと8階へ。
8階に到着し、エレベーターのドアが開くが、オレは降りない。
2階と1階のボタンを押す。
エレベーターが再び動きだす。
そしてオレは、2階で降りる。
非常階段のドアを探すと、エレベーターのすぐ近くだった。
開けると、サラリーマンがタバコを吸っていた。
下へ向かおうとするオレを見て、道を譲ってくれた。
手であいさつしながら、オレは、非常階段を降りた。
降りながら、ニット帽と眼鏡を外す。
上着を脱いで、腕に掛ける。
階段の出口は、施錠されていなかった。
オレはビルの裏通りへ出た。
そのまま駅へ向かう。
しばらく歩いて、振り返ったが、女性の姿は無かった。
改札を抜けて、電車を待つ。
念のため、アパートと反対方向の電車に乗る。
乗ってから、歩いて、車両を4つ移動する。
追い掛けてくる人影は無い。
スマホを出して雇用主にメッセージ。
『担当さんにしばらく尾行されました。明日はどうしましょうか』
『分かった。明日は行かなくていい。
スーツは処分。免許証だけA4で戻してくれ。
よくやってくれた。ごくろうさん』
仕事が、終わった。




