三. 生まれ出づるもの
「ああどうしよう、とにかく車止めるよ!」
うまい具合に目の前に現れた待避所(車がすれ違うためのスペース)にあわてて耀司は車を入れる。
「沙織、沙織、どうしたんだ。やばいのか。救急車呼ぶか?」
沙織が押さえている腹に手を当てると、確かに異様な熱感ともごもごした動きが感じられた。
「やめて、ああ、苦しい、いや、いや、痛い痛い」
沙織は身の置き所がないかのように身もだえしている。
素人には何が起きているか見当もつかない。妊娠がわかってからこんな沙織は見たことがなかった。ただ事ではない。沙織ははっはっと荒い呼吸をして目を見開いている。
「これは…… だめだ。いいか沙織、もう救急車呼ぶぞ」
震える手で耀司はスマホを取り出した。だが、電源が切れている。
「おかしいな、宿を出た時点では十分残ってたのに。沙織、きみの使うよ」
だが沙織のスマホもまた画面が真っ暗なままだった。
「くそ、なんなんだ。周りに民家もないか…… 誰かの車でも通れば」
耀司はいたたまれずに車の外に出た。
そして、道の先を見てぎょっとした。
壮一の言っていた「ないはず」の祠が、そこにある。そしてその横に、山肌を上る狭い石の階段……
「あああああああ!」
沙織の叫び声を聞いて、耀司は車にかけ戻った。
「こうなったらこの車で病院まで行くしかない。沙織、荒れた道だけど、がんばれよ!」
ところがどういうわけか、エンジンがかからない。何をどう操作しても、車はびくともせず黙り込んだままだ。額から冷や汗が流れてくる。
閉じ込められたんだ。出ることのできない世界に。
「くそっ、何をどうしたら」耀司がハンドルを殴りつけると
「……許して」荒い息の下で沙織が言う。
「え?」
「謝って。耀司、あの鹿と鹿のおなかの赤ちゃんに謝ってお願い」
「謝った、きみも知ってるだろ、心の中で何度も謝ったよ。でももう、取り返しはつかないんだ。あの母鹿が、きみを呪ってるとでもいうのか。何か見えるのか?」
「かいだん」
「え?」
「慰霊碑が、あるって言った。あそこで、声に出して、謝ってきて。わたし、許されていない」
彼女に階段は見えていないはずだ。なのに、汗を流しながら目を閉じ、身をよじってそう訴えてくる。許されていない? だとしたら……
耀司は祠を見た。
あれがあるということは、ぼくらはふたたび異界に閉じ込められたのだろう。それならば階段を上り、慰霊碑とやらの前で、声に出して謝らなければここから出られないのか。これは、そういうことなのか?
今や道は一つしかない。耀司は言った。
「わかった。
そこに階段が見えてる。ぼくは慰霊碑に行くよ。心から謝るから、どうかここでこらえていてくれ。
鍵をかけていくから、何があってもドアはあけないこと。熊が出没してる最中なんだ。ぼくは必ず戻ってくるから、車からは絶対に降りないこと。約束できるね?」
充血した涙目を上げて、沙織は言った。
「できる。わたしもお祈りする。耀司、お、お願い。わたしを、赤ちゃんを、たすけて」
沙織は耀司の手を握りしめた。耀司は異様に体温の高い沙織の体を抱きしめた。
熊撃退スプレーと、どこかの神社でもらったお守りをジャケットのポケットに入れて、ぐっと腹に力を入れる。
「がんばれ。必ず帰ってくる」
詩織の頬にキスをして、耀司は車のドアを閉め、石の階段に向かった。
壮一の言う通り、階段は苔むして落ち葉だらけだ。見上げると、何やらがさがさと音がして、生き物の気配がする。
咄嗟にポケットのスプレーを握りしめる。だがそのあと目に入ったのは、階段を上がって行く狸だった。
耀司は上を向いてまた段を上がった。
急なうえに滑りやすい。確かに危険な階段だ。落ち着け、落ち着け自分。
階段の先は、昼なお暗い濃く茂った木々の闇に閉ざされていた。
階段を昇り詰めると右側にほぼ全体が真っ黒の、壊れかけた炭焼き小屋が見えた。
その五メートルほど先の向かいに、人の背丈ほどの石碑がどっしりと構えてある。
この空間全体が何か、うっすらとした靄に包まれているようだ。
「万物慰霊碑」
はっきりとは読めないが、苔むした碑には確かにそう彫ってあった。
あたりに漂う冷気を何と表現したらいいのだろう。
ただでさえ人の気配のないこの地で、気温は碑の周囲だけが異様に低い。
そして、しんと静かなのにただならぬ騒がしさの中にいるような、異次元の喧騒を感じる。
(確かにヒトのくるべき場所じゃない……。だからこそ呼ばれたのか)
碑の前の花筒には、まだしおれていない野花がさしてあった。
耀司は碑の前でしゃがんで手を合わせ、沙織の分も、心を込めて祈った。
「身重の鹿をぼくはあやまって撥ね殺してしまいました。
すみません。わざとしたことではないとはいえ、取り返しのつかないことをしました。心からお詫びいたします。
だけど、お恨みがあるようならどうぞこの身に。
鹿と同じに妊娠中の妻はその光景を見て驚き悲しみ、その死を悼んで罪の意識に苛まれ、苦しんでいます。
にんげんはすべて、欲深く罪深いものです。だとしても。
どうか彼女と彼女のお腹の中の命に恨みを向けないでください。向けるなら、どうかこのぼくに。お願いです。お願いします」
無意識のうちに、耀司は、想像の中のまっ白な神鹿に向かって祈っていた。
そのとき。
ぼきぼき、がさがさがさ。
石碑の向こうの茂みから、異様な音が聞こえてきた。
耀司ははっと顔をあげた。
これは…… 狸じゃない。もっとずっと大きな……
やがて、茂みをかき分けて、黒い塊が姿を現した。
ふた抱えもある岩のようなシルエットは、ゆっくりと二本足で立ちあがって全貌をあらわにした。
あの宿の巨大な熊のはく製そっくりの真っ黒な熊が、目のまえに立ちはだかっている。
憎しみに光る眼を天に向け、森の中に、木々を震わせるような咆哮を上げる。
ぐぉおおうおおおお!
……そういうことか。
……これがぼくの運命か。
耀司の背中を汗が滑り落ちる。
考えてみればここまで、まるで導かれるように、なにかが用意した道を進んできた気がする。
命も、死も、そして死後も、光りながらそこここに。
イヨマンテの夜。
……行かん方がええよ。
押すなと言われたスイッチは、考えなしの子供ほど押したがるものだ。
宿命に導かれて、見えない道を辿ってここに来たわけか。
ならばこの身を贄として差し出そう。
だが、沙織だけは、腹の中の命だけは襲わないでくれ、お願いだ。
耀司は顔を上げて熊よけスプレーを熊に向けながら、距離が縮まるのを待ち、わずかな抵抗むなしく振り下ろされる熊の爪を、血まみれになる自分の姿を、心の中で受け止めた。
そのとたん、耀司の背後からまるで車のハイビームのような光が目の前の木々と熊を照らしだした。
あたりは真昼の広場のように輝き、立ち上がっていた熊は白く照らし出されて、フリーズしたように動かなくなった。
そして光に溶けるように、その姿はかき消えた。
耀司は夢のような光景に呆然とした。
(消滅した…… のか? あれは幻か? この光は何だ?)
手からスプレーが転がり落ちる。その刹那。
耀司の頭上を飛び越えて、光の塊が慰霊碑の前に音もなく立った。
その姿は耀司が想像していたそのままの白く輝く巨大な雄鹿だった。
白鹿は、こちらを振り向いて首を振った。
壮一や沙織の言った森の色と同じ、透き通るような翠の瞳だった。
神鹿……
全てはこの時のために用意されていたような気さえする。
知らず知らずのうちに、耀司は土に膝をついていた。
立とうとしても、もう立てない。祈ろうとしても、何の言葉も出てこない。
巨大な体を光らせて、白い雄鹿はすっくと立って耀司を見降ろしていた。
立派な角が、枝のように左右に広がっている。
次の瞬間、言葉ならぬ言葉が、耀司の頭に直接流れこんできた。
<アレハシタノムラデ イマコロサレタモノダ>
それは……
壮一さんたちが狩った熊か。にしても、これは声じゃない。目の前の鹿から流れ込んでくる、信号のような……
<オマエガクルマデハネコロシタノハ
ワタシノイノチヲヤドシタ
ワタシノイトシイツマダッタ>
「え」
鹿の澄んだ翠の瞳に怒りはなかった。耀司は再び白い鹿の前にひれ伏した。
全身が震えていた。
<ダガワタシハオマエヲニクマナイ
オマエトオマエノツマト、チイサナイノチヲマモル>
思いがけない「神の意志」に、耀司は面食らった。
これは現実のことなのか。
神の鹿は、現世で鹿の妻をめとりはらませるのか。
神の鹿の妻とそのおなかの子を自分は確かに撥ね殺したのだ。
では、なぜ、自分たちを守ると?
巨大な鹿は、角を少し下げるようにして、耀司に語り掛けた。
<ツマノイノチハスクエナカッタガ、ムスメノタマシイハツカマエタ
ソノイノチトタマシイハ、タカラダ
オマエトワタシノ、タカラダ
ムスメノタマシイヲ、オマエノツマノタイナイノイノチニタクシタ
マモレ
イキテマモレ ソウスレバスベテノモノカラ
ワタシハオマエタチヲマモロウ>
耀司の口が、ようやっと、意志に連れて動いた。
「あなたは、……あなたは、神なのですか。ぼくが憎くはないのですか。ぼくは罰されないのですか。妻があんなに苦しんでいるのは、二つの魂が胎内に入るのを体が拒否しているということですか」
一層体を輝かせながら、鹿は伝えてきた。
<ワタシハカミデハナイ
ナガイナガイイノチヲユルサレタモノダ シヲ、ウバワレタモノダ
オマエノツマハ、チイサナイノチトタマシイヲムカエルノニ
クルシンデイルダケダ
ウケイレレバジキニラクニナル
ワタシハタクサンノセイトシヲミテキタ
イノチハウマレ ソシテウバワレテユク
シカタノナイコトダ
タイセツナモノヲウシナウカナシミヲ、ワタシハシッテイル
ダカラ、オマエニオナジカナシミヲアタエヨウトハオモワナイ
イキロ マモレ
ウマレイヅルモノヲ>
その後、どうやって階段を降り、どうやって車までたどり着いたか耀司にはよく思いだせない。
まるで瞬間移動のように、気が付くと耀司は妻の待つ車の前に立っていた。
運転席から中をのぞき込む。
沙織は助手席で静かに目を閉じていた。
ロックを外し、ドアを開けて車に入る。
「帰ったよ。……沙織、大丈夫? 寝てるの?」
恐る恐る声をかける。
沙織はふっと目を開けて、「ふー……」とため息をついた。
頭を振り、ごしごしと目をこすると、耀司の顔を見て言った。
「……おかえりなさい」
顔に血の気が戻って、かすかに微笑んでいる。全身から力が抜けていくようだった。
「体のほうは? おなかは、もうすっかりいいの?」
「夢、かな。何かが来て、そして、おさまった。わたしたちのお祈りが、通じたのかな」
「何が来たの」
「それが…… よく、覚えてない」
「……もう平気?」
「うん、もう、苦しくない。なんだか内側からポカポカして、ふんわりした気分。なんていうのか、命が宿ったみたいな」
「もう宿ってるじゃないか」
「ね、みて。スマホがつながってる」
ふと自分のスマホを見ると、画面が光っている。電源が戻った?
試しにエンジンをかけると、車は車体を震わせながらぶんぶんとうなりだした。
少し考えてから、耀司は車を発進させて、言った。
「石碑に行ってきたよ。心からお祈りした。そしたら、生きろって言われた」
「そう……」
沙織は、誰に? とは聞かなかった。よくわからないが、同じようなものに、彼女は別の次元で出会ったのかもしれない。
そしてスマホはつながり、車は走っている。
ぼくらは「あの」世界から出られたのだろうか?
鳥の声だけが聞こえる明るい山道を、車は進む。澄んだ川の流れのように、みどりの空気が流れている。
妻のおなかに響かないように、スピードを落として走る。
沙織は呟くように言った。
「わたし、あのあと、気を失ったと思う。
そしたらしばらくして、おなかをつん、ってだれかにつつかれるような感触があったの。
目を開けても何もいなくてね。
もう大丈夫、ダイジョウブ、って誰かにささやかれているような感じがして。
なんかほうっとした気持ちの中に溶けていっちゃった。
悲しい気持ちも、全部。不安も涙も、みんな」
「そう。全部大丈夫だよ」
「また眠くなってきちゃった……」
沙織がとろんとした目で言う。
「眠るといいよ。何も考えずに」
沙織はすっと瞳を閉じてすぐに眠りについた。
ちゃんと自分たちは、東京へ帰してもらえるのか。
耀司は思った。
ここを出ても、出られたとしても、
いずれ生まれる妻の子どもは、もう、二人「だけ」の命ではないのだ……
ぼくは愛せるだろうか。
生まれる子供は、何色の目をしているのだろう?
隣から聞こえる詩織の寝息に小さな声が混じる。
んー。
んー。
いー。
イイ――。
イイイ―――。
ピイ――――。
ピュ―――――
……ああ、これは。
耀司はハンドルを握りながら思い出した。
中学の修学旅行で、奈良に行った時聞いた、
小鹿の鳴き声だ。
母親を探して鳴く、小鹿の声だ。
ピアノの一番高いキーの、ソのシャープの音だ……
<了>
参考文献:「山怪」田中康弘著 山と渓谷社




