二. イヨマンテの夜
食事を片付けた後、壮一が、旦那さん日本酒好きならきき酒セットどうですかね、と言い出した。
「ぼくも参加するから、タダ。酒飲みながらグダグダ話するの好きなんだよねえ。何しろ日ごろ話し相手も少ないし」
夫がオッケーが欲しくて沙織の方をチラチラ見てくるので、
「明日に響かないようにね」とだけ言って、沙織はOKサインを出した。
「あー。明日のチェックアウトならなんぼでも延ばしますので大丈夫ですよ奥さん」
壮一はいそいそと厨房に向かい、日本酒をストックしてある冷蔵ケースのふたを開けて吟味している。
おかみさんが沙織に声をかけてきた。
「奥さんお暇持て余しちゃうわね。廊下に面して、お客様用の大きな本棚があるでしょ。お好きな本があったら、お部屋に持って行っていいわよ」
「ありがとうございます。じゃ耀治、楽しんでね」
沙織は耀治に手を振って、適当に二、三冊、子供向けの絵本コーナーから読みやすそうな本を選んで部屋に持ち帰った。
お腹の子供に読み聞かせてあげよう。
部屋に戻り、少し変色した畳に敷かれた花模様の布団の上に横になって、沙織は本の表紙を見比べた。
ひとつは、谷川俊太郎の詩集。
もうひとつは、まど・みちおの詩集。
もうひとつは……
「もりのいきもののものがたり」という、絵本というか短い物語集だった。
表紙にかかれた狸や兎やキツネの絵がかわいくて、詩織はその本から先に開いた。
そのとたん、内表紙の鹿の親子の絵に目が留まった。
『その1 雪と鹿』
声に出して読もうと思ったのをやめて、詩織はページをめくった。どうやらこれは物語集というより、森で暮らしていた猟師さんが、思いだして書いたエピソード集のようだ。
『森にはたくさんのいきものがすんでいます。
森にはどうぶつたちのえさとなる木の実やしょくぶつがたくさんありますが、草を食べるいきものもまた、にくをたべるどうぶつにとってはごちそうです。
草を食べるどうぶつで、森でいちばんよく見かけるのは、鹿かもしれません。
ではこのきびしいかんきょうのなかで、鹿のおやはどうやって子どもたちを守るのでしょうか。
たとえば大雪がふると、できるだけ雪がつもりにくい森のおくに、鹿のママとパパは小鹿をつれて行きます。みをかくせるどうくつでもあればいちばんいいのですが、熊がねていないともかぎりません。
鹿のママとパパは身をよせあって、そのからだの下に小鹿をひそませてけんめいにまもります。それでしのげることもありますが、あまり大雪がふりつもると、たちつくしたまま、おなかのしたの小鹿は雪にうもれてしまうこともあるのです。
小鹿ははさいごのくうきをもとめて、お母さんのおっぱいにほそい鼻先をのばします。
だれか、たすけて。あかちゃんがしんでしまう。
親鹿のかなしいこえが、森のなかにひびきわたります……』
「お客さんさ」大き目のぐい飲みで何杯目かの冷酒を喉に流し込むと、壮一は言った。
「もしかして、下の道で動物、はねたのと違うかい」
「あんた……」つまみの岩豆腐の揚げ物を持ってきたおかみさんが咎めるように言った。
「……はい。実は。どうして、わかったんですか」観念したように、耀治は答える。
「へこんだフロントバンパーに獣の毛がついてたからさ」
「そうかあ。さすがですね」
「へこみと毛の具合からして、熊じゃねえな。大型の鹿かなんかかい」
「その通りです。すごいな…… 本当に、見たこともないくらい、大型の鹿でした。そして、妊娠してました……」
「あら、まあ」おかみさんはいろいろ察して口元を抑えた。
「もう、この人すっかり酔っぱらってるから。わざわざ言いたくなかったことでしょうに、すいませんね」おかみさんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ。なんかずっと、そのことが腹にたまってたんで」
「ためるこたねえよ、山では生まれるのも死ぬのも自然なこった。で、鹿は谷底かい」
「はい……。可哀相なことをしました。妻がしばらく泣いて……」
「腹に子がいる同士だもんなあ。だが、谷に落ちたのがあんたらでなくて何よりだよ。
それと、毛がついてたのは幸いだ。実体があったんだからな。その鹿、何色だった」酒が入る前と後では口調がずいぶん違っている。
「え? 薄暗い中で見たんですけど、普通に茶色でしたよ。実体って、どういうことですか?」
岩豆腐の揚げ物を咀嚼しながら、壮一は答える。
「猟師や林業関係者の間では有名な話さ。
ここらあたりには、一匹、いや匹っていっていいのかとにかく一体、まっ白な毛色の雄鹿がいるんだよ。
そいつはもう百年以上前から目撃されてる。実に立派な毛並みなんで猟師がこぞって撃ち取りたがるんだが、絶対に死なねえのさ」
「絶対に? 弾が当たっていてもですか?」
「ああ。突然やぶの中から現れて、その図体のでかさと光輝くような毛並みに驚いて、銃でばんばん撃った猟師は何人もいる。だが逃げねえ。鹿には珍しい、みどり色の目でこちらを睨んだままびくともしねえ。爺さんも一度、自慢の猟銃を手に対峙したことがあると言ってた。
五発撃ちこんでもこちらを睨んでびくともしない時点で、これは神鹿だと気づいて、猟銃放り出してな。
どうか許してくれろと地面にひれ伏したと言ってたよ。顔をあげたら消えていて、遠くの方に白い光が見えたってな」
「……しんろく、神の鹿、ですか。百年以上前から目撃されているのは、じゃあ生身の鹿でないならその一体なのかな」
「多分な。食えよ、揚げ豆腐。うめえぞ」
壮一の顔はもう真っ赤だった。耀治も左右に体を揺らしながら、あ、いただきますとごりごりとした豆腐の揚げ物を口に入れた。
「じゃ、山で光っている生き物はみんな生身の生き物ではなくて……」
「そこんとこはわからねえ。ただな、動物園の動物やペットとして売られている動物はもう光らないが、山の獣は結構光るって事実があるだけだ。
そして、特に神鹿に出会ったら、銃を向けてはなんねえ」
「五発撃ちこんだお爺さんには何かありましたか?」
「七十五まで現役でやってたが、急に猟やめると言い出して、石屋を呼んで碑を建てたな。その一週間後、心不全で死んだよ。他の猟師も大抵そんな感じだ」
「……」
耀司の脳裏に妻の言葉がよみがえる。
わかってる。でも、でもね。わたしのお腹の子も今、動いてる。ちょっとだけ、泣くのを許して……
湯の面に広がっていった波紋。いのちのかたち……
「多分あの神鹿は、遠い昔から人間が、自分たちの住処である山に入っては山の動物たちを殺してきたのを見てるんだ、バラバラに解剖して金に換えてるとこもな。
熊を一頭仕留めたら捨てるとこはねえ。毛皮は飾りもんやマタギの服に、肉や内臓はもちろん食用に、熊の掌の煮込みなんか昔は高級料理だ。熊の肝や骨や、血の乾いたやつは富山の薬売りが買いに来る。それだけの恵みをもらうから、昔のマタギは熊を仕留めると、感謝と慰魂の思いを込めて、熊の魂を山の神に返す儀式をするのよ。必ず熊の頭を谷側へ向けてな。解体はその後だ」
「アイヌでもある習慣ですね。熊の魂を天に帰す、イヨマンテの儀式」
赤い顔で壮一が歌いだした。
「アーホイヨーアーホイヨーイーヨマンテー」
多分眠っているであろう妻を起こさないようにそっと部屋の引き戸を開ける。電気はつけっぱなしだ。午前0時は過ぎている。戸を閉めるときによろめいたついでにバンッと音を立ててしまった。
「あ、ごめ」
「……起きてるよ」
布団にくるまっているように見えた妻が、窓の方を向いたまま小さな声で答えた。
「ごめん、随分待たせちゃったね。もう酔いつぶれるまで離してくれなくてさ。寝てればよかったのに」
「それで、潰れたのはどっち」
「壮一さん。ハイペースでさ、売り物の大事なお酒をこんなにして、とおかみさんに怒鳴られてたけど、座布団の上で高いびきだよ」
「こっち来て、一緒にお布団に入ろ」
「酒臭いぞ」
沙織の声はなんだか涙交じりのように聞こえた。
乱れた浴衣の胸元を整えて、そっと妻の布団をめくり、まだどこか石鹸の香りのする体を後ろからそっと抱く。
「……何の話してたの」
「ええっと、まあ山の動物たちの不思議話が多かったな。途中から酔っぱらってよく覚えてない。ああ、神鹿の話が印象的だった」
「しんろく?」
「神の鹿だよ。まっ白で巨体で、百年以上前からここらあたりにいて、どんなに弾を撃ち込んでも死なないんだって。とにかく命を超越した何かだろうね」
「あのね、耀ちゃん。わたしこの子の命が宿った夜、覚えてるんだ」
唐突に沙織が言う。
「なんだなんだ急に」
「へへ、覚えてないでしょ。あ、今宿ったって、あなたを思う気持ちのてっぺんで確信したの。幸せだった」
「……」
沙織は振り向き、夫の目をまっすぐに見た。
「ね、もっと強く抱きしめて」
正面から抱きしめる耀司の胸の中で詩織は言った。
「どんな命も、それぞれのいのちの夜から始まっているんだよ。そしてお母さんの、宝物になる」
「もしかして、……また泣いてたの」
それには答えず、猫がじゃれるように肩のところで柔らかい茶色の髪をこすりつけてくる。
耀司は上を向かせてそっと唇をつけた。
「お酒臭い」沙織が呟く。
「うん、ごめん。きょうはもうここまでだ。一緒に狸寝入り…でもしよう……」
そのまま、耀治は寝息を立て始めた。
沙織は天井を向くと目をこすり、
ああ旅に出た日から今までのすべてが夢だったらいいのに、と思った。
翌朝寝坊して慌てて食事処に降りると、一階はしんとして、食卓の上にはラップで覆った朝食が二人分置いてあった。
「あれ、どうしたんだろ…… 誰もいないぞ」
耀司がキョロキョロとあたりを見回す。人の気配はない。
「耀ちゃん、ここに手紙があるよ」
机の上のメモを二人でのぞき込む。
『昨夜は深酒が過ぎて失礼しました。
今朝早く、下の集落に熊が出たという知らせがあり、何人か重傷者が出たということです。猟銃を持つ私も、緊急の熊狩りに駆り出されることになりました。重症者の一人が妻の妹で、妻ともども今日は宿を離れます。
こんなことになって申し訳ない。朝食は用意してあります。
味噌汁は陶器の器に入れてあるのでそのままレンジで温めてお召し上がりください。
ここらは知った人間ばかりで泥棒はいませんので鍵の心配はいりません。どうぞ帰り道、お気をつけて』
「こりゃ大変だな……」耀治が呟く。
「壮一さん、怪我しないといいね」
「とにかく朝食を頂こう。大変な中作って下さったんだ」
「宿泊代、先払いでよかったよね」
菜飯のおにぎりと生みたて卵で作ったフワフワの卵焼き、具だくさんの味噌汁が、昨夜の酒を洗い流してくれるようだった。
朝食がすむと、二人はお皿を重ねて台所に運んだ。
『朝ごはん、おいしかったです。お話も楽しかったです。お世話になりました』
一筆箋に書いて、食卓の上に置く。
明るい日差しの中、二人は玄関に向かって頭を下げ、車に乗り込んだ。
木々を通して朝日の差し込む道は、昨夜通った時とは様相が変わり、少し開けた窓からみずみずしい空気と鳥の声が聞こえてくる。
「ここの森の色、緑、っていうより翠、って感じだね」窓の外を見ながら沙織が言う。
「みどりというよりみどり、って何だよ」
沙織はスマホをいじって、耀司の目の横に画面をかざした。
画面には「翠」という漢字が表示されている。
「こっちのみどり。すい、とも読むの。青と黄との間の色。ひすいの、すい」
「横からそんなの見せると事故るぞ、道がくねくねしてるんだから」
「はいはい」
しばらく無言でふたり走行音を聞く。
「なんかあのおじさんの言葉思い出すとさ、ないはずの祠とやらが出てきそうで怖いんだよね。聞かなきゃよかったな」耀司が呟く。
沙織は窓にもたれて外を見ている。
「あのさあ……」
「うん? 何、揺れる? もちょっとゆっくり行く?」
「なんだか変。ていうか、……おなかが、おなか全体が、あつい」
耀司はぎょっとして妻を見た。
沙織は額にうっすら汗をにじませて腹を両手でおさえていた。
「あついって、痛いのか? どんなふうに。車止めようか?」
「うー……」沙織は目を閉じると体をよじり、突然高い声を上げた。
「無理、だめ。いや! やめて、あああああ!」
「沙織!」




