第21話 カメラを持った女
自販機の横のくず入れに空の缶を投げ入れ、優悟は食堂を後にする。幸い部活後に喉を潤そうとする生徒は彼の他におらず、流した涙を見られることは無かった。玄関に辿り着いた優悟は自分の靴箱からローファーを引っ張り出し、放り投げるように地面に置いた。その時である。
「大久保君」
振り返るとそこには晴馬の彼女、下川渚が立っていた。忘れ物でも取りに行ってたのだろうか。少し濡れた髪と紅い頬、仄かに香ってくるボディーシートのミントの匂いは、優悟と同じように先程まで部活で汗を流していた証拠だ。
「えぇと、俺に何か用?」
優悟は余所余所しい態度だ。渚とは一年生の時にクラスが同じになっただけ。しかもその時も片手で数えられる位しか会話をしたことが無いので、初対面と言っても過言ではない。
「あのさ、大久保君って晴馬君の友達だよね?」
「そうだよ」
晴馬の事を苗字では無く名前で呼んだことに優悟は若干の違和感を覚える。渚が晴馬の彼女だからどうこう...という話では無い。彼の周りで晴馬を名前で呼ぶのは基本的に優悟しかいないからだ。
「ならさ、晴馬君から連絡とか、来てたりしないかな...?」
「え...」
震えるその声に、優悟は思わず渚を見る。肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握り、やや視線を落として優悟を見つめるその目には、うるうるとした光が煌めいていた。
「私さ、後夜祭で晴馬君が倒れた時、何も出来なかった...。大好きですって伝えた相手が倒れたのに私、怖くて悲鳴を上げることしか出来なかったんだ...。だから晴馬君が学校に来たら、絶対にそのこと謝らなきゃいけないのに、なのに晴馬君...救急車で運ばれたっきり、電話にも出てくれないんだ。私、もしかしたら嫌われちゃったのかな...でも、それでも良いから晴馬君に謝りたくて...だから...大久保君に...」
言葉を紡ぐ渚の頬に、潤んだ瞳から光の筋が延びた。
「ごめん...俺も何度も連絡してるんだけど、全然繋がらなくて...」
静かに涙を流す渚を前にしてどうしたらよいのか分からなかった優悟はとりあえずその事実を告げる。
「...そっか」
鞄の紐を握る手の力が緩む。
「でも、何だか安心しちゃった...。友達にも連絡つかないんだったら、別に私、嫌われた訳じゃないのかなって...」
優悟は何も言えなかった。
晴馬に何があったかは分からないけど、あいつはそんな簡単に人を嫌うような小さい男じゃない
もし目の前で泣いている人間が男友達であったら、優悟は迷いなくそれを口にしていただろう。でも、今の渚はそんな励ましの言葉ですら傷ついてしまいそうな、触れただけで弾けて消えるシャボン玉のようで、優悟はそんな彼女を前にして動けなくなってしまう。
「ごめんね大久保君。私、友達待たせてるから先...行くね」
渚は自分のせいで優悟が困惑しているのを察したのか、足早に校舎を出て行ってしまった。渚が校舎を出たその時、落ちる夕陽が雲に隠れたのか、玄関に深い闇が落ちた。
(右手...左手...最後に口...だったよな確か...)
明かり一つ無い真っ暗な手水舎の下、優悟は手探りで柄杓を握り、石盆の水を掬う。あれから一人で最寄り駅を降りた優悟は真っすぐ家に帰らず、秋山神社に寄り道をしていた。
(にしても夜の神社ってこんな怖えのかよ...)
晴馬から鈴の音や生臭い水、石の蛇から噴き出して来た水のことを聞いていたこともあり、優悟は鳥居の前に立った瞬間から回れ右して帰りたくなったが、それでも恐怖を何とか抑え境内まで足を運んだ。
晴馬の動作を思い出し、優悟は両手と口を清める。水が唇に触れた瞬間、「俺も晴馬と同じ事にならないよな」と身構えたが、水は至って普通の、冷たくさらさらした触感だった。
身体を清めた優悟は拝殿の前に立つと、立派な瓦屋根が賽銭箱の下に落とす影の中で、これまた手探りでなけなしの百円玉を取り出した。
お賽銭に百円。中学生の懐にはそれなりに手痛い出費だが、優悟は迷いなくそれを箱の中に放り込んだ。
コン、チャリン!
木と硬貨同士がぶつかる音が境内に響く。そして優悟は二拍二礼の後、目を瞑って己の願いを神様に伝えた。
(神様こんばんは。自分は青花市杉区に住む大久保優悟と言います。今日は神様にお願いがあって来ました。今、僕の友達の杉内晴馬に何か異常なことが起きています。晴馬がおかしくなり始めたのは、以前神様のところに彼女である下川渚と共に訪れてからです。あの時晴馬は、いつも神様に見せていた挨拶を初めてし損ねたと言っていました。もしそれが晴馬をおかしくしたきっかけなら...晴馬を苦しめているのが神様の罰みたいなものだったら...)
そこで優悟は一呼吸を置く。
(お願いです。どうか晴馬を許して下さい。あいつ、彼女も出来て、バスケもようやく芽が出始めて、それにこれから体育祭や修学旅行だって待ってる。これから晴馬には楽しいこと、幸せなことが沢山待っているんです。どうかそれを、奪わないで欲しい。どうか、よろしくお願いします)
これ以上心の中で喋っていると色々なものが溢れて止まらなくなりそうだ。優悟は最後の一礼で無理やり願いを終わらすと、逃げるように踵を返した。
「俺もこれで呪われちまうかな...」
優悟は自棄気味に呟く。
でも呪われるなら呪われるで、それで良い。友人の安否が何も分からないのに、なにもせずに変わらない日常を過ごすのは耐えがたいものだった。この二週間で広がった心の穴と渚の涙が、それを嫌という程教えてくれた。
「学生さん...?」
突然、行く先から女性の声がした。驚きの余り、優悟の全身に電流が走る。
境内の入り口から拝殿まで続く石畳の先に人影があった。周囲が暗い上に下を向いて歩いていたことで気付かなかったようだ。石になった優悟に、その人影がゆっくりと近づいて来る。
「あぁごめんなさい。驚かせちゃったみたいね」
優悟の前に現れたその人は四十代くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だった。ベージュ色のカーディガンを羽織る上半身には、高そうな一眼レフカメラが斜めに掛けられている。
「あらその制服...。関央の学生さんね。若いのにこんな時間になってまでお参りだなんて、神様も喜んでいるんじゃないかしら」
女性はにっこりと微笑む。上品で落ち着いたその佇まいから見ても、少なくとも不審者の類ではなさそうだ。優悟は自身を固める緊張を少し解いた。
「はい、そうです。来年兄が大学受験なのでそのお参りに」
とっさに出たその嘘は全て虚偽では無い。実際、今年の初詣で晴馬は「県大会出場と兄の受験の成功」を神様に祈っていた。少なくとも前者は叶わなかったが。
「あらそうなの。素敵な弟さんね」
女性は再び微笑んだ。
「急に話しかけたりしてごめんなさい。私この神社を管理している者なのだけど、こんな時間に人がいるなんて滅多に無いからついね?」
「あ、ご、ご迷惑でしたか...?」
「いえいえそんなこと無いわ!それよりもお帰りの途中だったわね?引き留めてごめんなさい。私はちょっと仕事があるからこれで失礼するわね」
そう言うと女性は優悟に一礼すると背後の拝殿へと歩いて行った。
(やっぱちょっと変な人だな...)
優悟はそう思いつつ境内を出る。鳥居の前で一礼をした時、微かにシャッターを切る音が聞こえた気がした。




