第五歌:峠を越えて
門は裂けて開かれず
ただ 削られし岩の縁に
一筋の隙間が 断崖に走っていた
風が吠える
それは叫びにも似ていた
過去に落ちた者の声か
それとも まだ語られぬ者の呻きか
行者は立ち止まり
ひとたび背を見た
影はそこで ただ立っていた
何も言わず 何も求めず
ただ 先に行く者の背に 眼差しを注いでいた
「この先は 俺一人で」
行者は言わなかったが 風がそれを告げていた
影もまた 止めなかった
ただ その右手を 胸の位置でそっと握った
別れではない
喪失でもない
それは ひとつの信託だった
岩の縁を 一歩 また一歩と進む
下は 深淵
かつて落ちた自分を 想起させる
だが今は 転ばぬ足がある
影に支えられ鍛えた足
自らの手で繕い直した魂がある
やがて 風が止んだ
そのとき 行者は頂に立っていた
振り返れば 誰もいなかった
だが そこに確かに
誰かが共にいた証があった
名を呼ぶ必要はない
その沈黙が 深く 濃く
行者の胸に在った
行者は ひとつ息を吐いた
その吐息が 雲を裂いた
そのとき 空の向こうに
新たな峠が またひとつ 姿を現した
「果てなど どこにもない」
その言葉を誰が告げたのか
それは 行者か
かつての影か
それとも 通り過ぎた風の中にいた 別の誰かか
わからぬまま 行者は歩き出す
その背に影はない
だが 光もまた 背を押すように射していた
足元に落ちていた
かつて影が手渡した石
今も行者の手にあった
それはもう ただの石ではなかった
罪でもない
褒章でもない
それは 彼自身の物語の
最初の文節となっていた