黒衣の男 黒い塊
——来る。
ノーラの反応は速かった。
「走れ、シド!」
ふたりは同時に跳ねるように走り出した。
奥へ。瓦礫の連なる通路を、影の中へ向かって。
背後で、何かが“歩いた”。
金属が擦れる音。
廃材の上を這う脚音が、空間の静寂を裂いた。
「……ウソ、だろ」
シドが吐いた声は、微かに震えていた。
目に映るものが、現実とは思えなかった。
——収穫個体|ハーベスタ。
規格外。通常、階位50未満の攀者には出現しないとされる個体。
都市が攀者を“素材”として収穫するために差し向ける存在——その役割から《ハーベスタ》と呼ばれている。
「おかしい……階位、足りてない。私じゃ……これは——出会っていいものじゃない」
脊髄連結索が反応を起こす。
痛みすら感じるほどの逆流信号。都市の評価回線が“読み取り不能な何か”に接触している。
「姐さん……これ、逃げられる!?」
「走れ!スパインが焼けてもいい。索敵に集中」
「はぁぁ……ヤバいよヤバい!……」
ノーラは構えた。裂け目を背に、瓦礫が連なる狭い通路。
だが、対象の動きは一切読めない。スパイン経由の神経反射が、対象を“無効”と判断している。
一瞬後、その存在がこちらを“視た”。
視線ではない。空気が圧迫されるような、情報の塊が脳を直接打った。
ノーラの体が“データとして読まれる”感覚に包まれる。
そのとき脊髄連結索が、限界まで光を放ち——警告すら出せずに制御を落とした。
「姐さん、動け! 逃げなきゃ……!」
ハーベスタは言葉を待たなかった。
音もなく、前肢を持ち上げた。
ブレード、捕獲鉤、回転駆動式の穿孔爪。
すべてが、“収穫”のために設計されたもの。
本来、素材として十分に成長した攀者に、送り込まれる、正当な殺意。
ハーベスタが前進する。 存在そのものが圧力だ。
ノーラは走った。脊髄連結索が焼けた。
足元が崩れ、通路が呻くように軋む。だが、それすら彼女の意識には届いていない。
ハーベスタの反応は、読み取れない。義眼はただ“像”を結ばず、脊髄連結索も座標を提示しない。
収穫個体は、都市が攀者と意図的に戦わせている排体とは明確に違い、脊髄連結索やギフトを通じた情報を与えないのだろう。
「シド、回り込んで! 逃げて……!」
「ヤバい!あたしのグリッド、何も表示してくれない!」
「諦めるな、動け!」
ノーラは、自らのスパインに命じた。だが、制御系は限界を超えている。痛みすら感知できない。
アームが迫る。視界外からの一撃。義眼では捉えられない速さと軌道。 それでも、動くしかなかった。
義肢のブレードを抜き放ち、反射的に上段へと弾く。 激突。火花。押し返される。脇腹が裂け、感覚が失われる。
「姐さんっ!」
シドの叫びが届く。だが、ノーラの動きは止まらない。
「まだ……動ける。まだ、スパインが残ってる……」
もう何も視えない。けれど、手は動く。
この義手は、ギフトとして“身体の一部”になっている。それを信じるしかない。
ハーベスタの第二撃がシドを捉えようとする。アームが伸びる。
その瞬間、ノーラは身体を捻じ曲げ、彼の前に割り込んだ。
スパインが焼け落ちる音が、彼女の内側で鳴ったように思えたその瞬間。
アームの軌道が、ノーラの目前で“凍る”ように止まった。
空気が、軋む。
それは、質量がそのまま空間に突き刺さるような“圧”だった。
視線を向けた先、いつのまにかそこにひとりの男が立っていた。
黒衣。顔は影に沈み、読めない。だがその背に背負った異物が、すべてを覆い尽くしていた。
それは“武器”とは呼べなかった。
形は何物にも似ていない。斬るためのものではない。
都市に属さない構成。重力さえ歪めるような存在感。
攀者の誰もが見たことのない、質量そのものの塊。
ハーベスタの標的が、ノーラからレイヴンへと移っていたようだ。空間を“評価”するような沈黙ののち、前肢が再び持ち上がる。 都市に存在しない異物。 レイヴンに向かって、殺意が振り下ろされる。
だが、男が苦もなく“塊”を一閃。空間を歪め、ハーベスタを苦もなく砕いた。 金属音。沈黙。崩壊。
シドの口が、言葉にならない震えを走らせた。
ノーラもまた、視線を奪われていた。
廃墟のただ中に、異形の“黒い塊”を握った男が、立っていた。
シドが呟いた。「……あれ、何だよ……」
「黒塊……だな」
誰に向けた言葉でもなかった。けれど、その場の空気を刻んだ音になった。
男は、黙ってそれを背に戻した。
地面に散ったハーベスタの残骸は、微かに蒸気を上げ、赤黒い液体が瓦礫の隙間を染めていた。
ノーラは、目を細めて“それ”を見つめていた。
——人。
だが、明らかに“普通ではない”。
誰も、声を出せなかった。
空間から音が消えたような“間”が訪れた。
黒衣の男は、黒い塊のような武器を背負ったまま静止していた。
体躯は攀者にの中でも大きく、背負った“塊”は武器としての形すら持たない。
その存在は、音も、気配すらも持っていない。ただ異物のように、そこにある。
ノーラは焼けた義眼の残光越しに、男の背を見ていた。
脊髄連結索はまだ回復しておらず、視界もぼやけている。
それでも分かる。
——あれは、都市のスキャンに“映っていない”。
「……姐さん。スパイン経由のVMIログ、更新されてない……階位タグも、ゼロ」
「構造認識が通ってない……都市が、あれを“存在として記録していない”……」
その言葉に、シドがふと視線を向ける。
「じゃあ……そいつ、人間じゃないってこと?」
ノーラは、ほんのわずかに目を細めた。
(あれは……何か、“普通”じゃない)
違和感。圧力。拒絶されていないのに、分類されない存在。
黒い塊——それが唯一、視覚に残った異物だった。
それは、槌にも見える金属の“塊”。
塊そのものが武器になっているような質量。
「見たことないな、あんな……黒い塊のような武器は」
——都市に、あんなものはない。
都市が生むものには、目的と制御がある。
だがあれは、そうではない。“ただそこにある”ものだった。
男が、こちらを向いた。
目線は感じない。だが、“見られた”という感覚が、脊髄を走った。
「お前……何者だ」
ノーラの問いに、男は一言だけ返した。
「……レイヴン」
その声は、沈んでいた。低く、無感情で、だが確かに響いた。