貴婦人の孫の手は逃げようとした
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
目を覚まし、モニターを確認すると、何も変わってはいなかった。そこにはノイズがあるだけで、高木さんのカメラからの画像は届いて来てはいない。
一瞬、ノイズが消え、何かが映った。
なんだ? 針のようなものの並んだ、口の中のような……
ノイズに紛れて音声が聞こえる。
『──ケテ! タス……テ!』
『……∅℃∵くん! たにく……!』
『思い通りにはさせないぞおぉぉ!!!』
最後の音声だけはっきりと聞こえた。
黄泉野さんの声のようだった。怒りがこもっているが、泣くような声だった。
「何かあったんだ!」
私は何とかしようとした。
しかし私に何ができるだろう? 連絡は通じない。
警察を呼ぶ? 信じてもらえるだろうか?
何より立入禁止の廃工場に忍び込んでいたことがバレては……私の社会的信用に傷がつく。
仕方がない──
逃げるしかない、と考えるのがふつうだろう。乗って来たバンには鍵がかかっているが、国道まで歩いて出ればタクシーでも拾える。
みんなには悪いが、逃げさせてもらう。恐ろしくなって当然だろう。動画が成功すれば撮影メンバーに名前を加えてもらおうと思っていたが、失敗したのならこれ以上関わる必要はない。ここで逃げても、誰も私が彼らを見捨てたことを知る者はいない。
テントの中に冷たい風が吹き抜けた。
小型石油ストーブの炎が消えた。
テントを出て帰ろうとすると、廃工場のほうから誰かが歩いて来る。三人の影が月明かりの下に見えてきた。
「……駒子さん?」
声をかけたが、彼らは何も答えず、ただ歩いて来る。
テントに戻り、懐中電灯を取ると、改めて声を投げる。
「誰だっ!?」
明かりが三人の姿を照らし出した。
駒子さん、黄泉野さん、谷くんの顔が並んでいた。
何も変わったところはない。だが……
「三人だけですか? あとの四人は?」
すると駒子さんが、ようやく口を開いた。
「大変よ、貴婦人さん。カメラをむこうの世界に置き忘れて来てしまったの」
「カメラを!? それ、一番大事なやつじゃないですか……」
「ごめんなさい。うっかりだったわ」
「動画は撮れてたんですか? っていうか、やっぱり異空間に飛んでたの? こっちにはノイズしか届いて来なかったですけど……」
なんだか感情を感じられない。
後の二人はずっと何も言わず黙っている。
「カメラを取りに行かないと」
駒子さんが言う。
「ネットでメンバーを募集して、またあそこへ行くの。貴婦人さんも行きましょう」
「どんなところだったんですか? 異空間って」
「……楽しくて少し居すぎちゃった。もみじたちはあまりに気に入って、住み着いちゃう勢いで──まだあっちにいるの」
「カナさんとは会えたんですか?」
「ええ! ええ!」
ようやく駒子さんに、いつもの笑顔が浮かんだ。
「感動の再会だったわ。行ってよかった」
私は考えた。
カメラを取りに行くだけなら、今すぐのほうがいいのではないだろうか。
駒子さんに聞いてみた。
「階段を下りればすぐに帰れるんですよね?」
「そうよ。楽しくてなかなか帰りたくなかったけど」
「じゃあ、今すぐ行きましょう」
好奇心をそそられた。
「私も一緒に行きます」
黄泉野さんと谷くんが、ようやく口を開いた。嬉しそうに、笑いながら。
「いらっしゃい」
「いらっしゃい」
「これが済んだらネットで噂を拡散しましょう」
そう言いながら、駒子さんが、私に抱きついて来た。
「こ……、駒子さん?」
私は以前から彼女のファンだ。
これから何が始まるのかと、楽しい期待をした。
(了)




