どうして
暗闇に一人座っている。何も見えず、風や他人の音はない。先ほどまでいたツムギさんの姿すらない。喫茶店の温かみは僅かながら残っているが、きっとすぐに消え去ってしまう。
いったい、これからどうなるのだろう。得体の知れない不吉さが取り巻く。寸分前の選択に後悔の念を抱き始めていた矢先、何もなかった暗闇に一筋、青く輝く彗星が宙に見えた。それはゆっくり眼前を通り、やがて数メートル先に弾けた。
なんだろうなんだろう。立ち上がり、のそのそ近づいて見れば、彗星らしき物体が落ちた場所に画用紙と煌めき火花があった。火球はやがて頭上に舞い、かと思えば留まって、手元を照らす小さなランプとなった。
「この画用紙……」
手に取り灯りの下で画用紙を覗けば、そこには見覚えのある、自身の原点となりうる文字列が記されていた。拙くも当時の興奮をダイレクトに伝えてくれる、懐かしくも恥ずかしいものである。画用紙いっぱいに敷き詰められた絵空事、注釈のようなものまで存在しており、確かな熱を感じられる。
あくまで児童期に書いたものだ、出来栄えなど講評するに値しないものである。表現の幅もなく、なにか革新的な仕掛けがあるでもなく、納得させうる伏線があるわけでもない、ただの冒険譚だ。しかし現在、この物語の興奮を、手に汗握る展開を、俺は書き得るだろうか?
いつまでも大成しない、三文文士にすらなれない俺に、これからを望むものは成し得るだろうか。夢は、吐き出してしまおうか。
「君が作ったんだ」
「だっ、だれだ!」
どこからか声がする。それはいつかの日に聞いたことのある、鼓膜の鳴り方に似ているような……。辺りを見渡せど何者もいない。こっちこっち、とまた声がする。呼びかけに応じて声のする方向を見る。やはり誰もいない。
「どこにもいないよ」やはり声がする。
「やっぱりいないじゃないか」
「ごめんごめん、ちょっとからかっただけだよ。昔はそうしてよく、両親を困らせていたじゃないか」
「あっ」
その声と過去の出来事で思い出した。声の主は、俺自身だ。児童期の、ちょうど手元にある作品を作った時期の、俺なのだ。
「……ここはいったい」俺は姿のない声に問う。
「気にする必要はないよ、大事なのはそこじゃない」
我ながら腹立たしいガキである。しかしそんな怒りも現状をひっそり思い出しておさめ、俺は腕組みをしつつ、声音を下げて無の一点を見つめて言った。
「ここがどうであれ、無事に帰れるんだろうな?」
「帰れる、しかし君は、ここで決断をしなくちゃならない」
「決断?ああ……」
「そう、さすが僕は君だ、今の君の胸中にある狂気的熱と普遍のせめぎ合いのことだ」
「いちいち子供らしくないことを言うなぁ……」本当にそうだ。過去の俺はこんなに堅物ではない。
「まあね。知識は共有されてるから、表現に幅は持たせてもらうよ」見えぬ顔は微笑んでいるようだ、声音がやや明るくなる。
俺は頬を上げたくなったが、途端に下がる。ぐるぐるのたうつ脈拍、やはり迷いは簡単に捨てきれない。
「なるほど……どれだけ絶望していようと、君はそれが捨てきれないんだ」
見えているかもわからぬが、俺は無言で頷いた。
「ならば、それで良いじゃないか!」
「えっ」
「だってそうだろう?その画用紙は何を満たすために書いたか、よく思い出してごらん。君の夢や将来の展望はもちろん承知している。それが成し難い状況にあるのも……しかしそれがどうしたというんだ。どうして認めてあげないんだ、君が生み出したんだろう!?」
「……ああ」
そうだ、そうなんだ。
確かに、そうなんだ。
あの日あの時、俺は誰かに褒められたり楽しんでもらうために書いていたんじゃない。自らの内から溢れる想像を創造へと昇華し、発露しまた取り込むために書いていたんだ。だというのに最近はどうであったか?楽しんでもらうなどという、自身の本望でないことを本望と勝手に信じ、自身の欲と望みを深間へと追いやっていたんだ。大事な大事な、心の叫びだというのに。
「限定はいらない、君が見限ってどうするんだ!!」
「そうだ……そうだッ」
「そんな性根……捨てちまえッ!!!」
パツンっと弾ける。
暗闇にパラパラ火花が散り、燦々と星々が輝き出した。風はびゅうびゅう、草木が揺れる。遠く地平線には朝焼けの姿。海中の帆船が唸りをあげ、ゆっくり朝陽に溶けてゆく。
何か重苦しい、いつか思い出となろうものが、落ちた気がした。
朝が来る、視界がぼやける。
白んで輪郭おぼろに溶ける。世界は暗闇から反転、真っ白に包まれていった……。
* * *
瞼の熱で、目を覚ます。身体を起こして見ればそこは喫茶店で、横にはうつらうつらとしているツムギさんの姿があった。髪は解かれバラバラとたおやかな黒が肩に垂れ下がっている。起こすまいと静かに立ち上がり伸びをしていると、彼女は気がついたのか、瞼をゆっくり擦り、こちらを見上げた。
「お目覚めですか、ノボルさん」
「すみません、いつのまにか眠ってたみたいです。あの赤い石を触ってから……あっ、あれ?なんだろう、すごく気持ちの良い夢を見ていたような……」
先ほどまで確かにあった光景が思い出せない。しばらくうんうん唸っていると、ツムギさんが小さく微笑み告げる。
「今日はもう閉めます。ノボルさんも、お気をつけて」
「あっ、はい」
荷物をまとめてお代を支払い、店外に停めていた自転車にまたがり漕ぎ出そうとすると、彼女が小さく呼び止めた。
「明日はここに来られますか」
「明日……はい、予定もありませんから」
「それなら先日言っていた作品、ぜひ読ませてください」
その言葉にゆっくり首肯する。ペダルを漕ぎ出す。
夜風は心地よく肌を包み、そろそろと今日の終わりを告げる。そんな夢心地に浸りつつ、ふと気になって後ろを振り返る。
そこにツムギさんの姿はなく、喫茶店の暖色も、まるで最初からなかったかのように、さっぱり消えてしまっていた。




