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アステロイドに東雲を 〜インカローズと喫茶店より〜  作者: ベアりんぐ
第4章 〜夢死・終の作家と望みの喫茶店〜
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出先にて




  *         *          *




 眼前に広がる海は煌めき、その上をゆく海鳥は低空をヒョッフウと飛び、再び上昇するときその嘴には一匹の魚が咥えられていた。陽は西に傾き、水面の白と青をキラキラと輝かせている。


 色田市近辺とは違った潮風。その違いは微量ながら、空の色と匂いと肌触りで理解した。少し冷たく青によく近い。さながら絵画のような色の褪せ方をしている。


 俺はバイトを休み、いつぶりかの小旅行に出かけていた。スーツケースなど必要のない、おおよそナップサック一つでこと足りる旅行である。電車に揺られバスに乗り、安い旅館にチェックインを済ませ、近くの海岸へとくりだしていた。


 気分転換、そうなのかもしれない。しかし心はほんのり安らぐだけである。選考への不安、次作の構想、日々の生活、生活費の心許なさ、それら日常的にまとわりつく漠然とした不安というものは容易に消えることはなく、不吉な塊として奥底に沈殿している。


 一陣の風は髪を乱し、はためく衣類はまるで波のうねりのように身体へまとわりつく。特に意味もなく海辺へ来た自分を咎めるようだ。物悲しくなり、来た道を引き返そうとすると、なにやら浜辺に物影が沈んでいる。わずかに動いているようで、目を凝らせばそれは老婆であった。ゆっくり近づき、どうしたか、と訊けば、老婆はこちらを見上げ、少しばかり驚いている様子であった。


「鍵を落としてしまってね、どうにも目が悪いもんだから見つからなくて」


 辺りを見渡せば、どうやらこの老婆は見当違いの場所を必死に探していたようだ。流木や丸石の隙間にきらり光るものが見える。光源に近づくと、小綺麗な貝のアクセサリーの付いた鍵が、陽光を反射し光沢を持っていた。


 鍵を拾い老婆へ渡す。彼女はたいそう嬉しそうに受け取り、俺の手を、その皺の多く走った手で固く握った。不思議と嫌悪感はなく、まるで離れた母親の、無条件で温かい愛を彷彿とさせる柔らかさだった。


 老婆が語るに、彼女も俺と同様、小旅行でこの場所に来たのだと言う。浜辺を散策しているとどうにも旅館の鍵がない。そのためずっと探していたのだそうだ。訊けば旅館が同じらしく、そのことを告げると老婆は少し驚いていた。なんでもあそこは安いが、そう易々と見つけることのできない場所なのだとか。


 鍵を見つけてくれたお礼がしたい、と老婆が言う。鍵を見つけたぐらいで大袈裟な……とも思ったが、自身の懐が寂しいこと、少しばかりの礼を受け取らないのは逆に礼がなっていないと思ったこともあり、俺は素直に老婆の心ばかりの施しを受けることにした。



 

 老婆とともに旅館へ戻り、食事処の一隅に陣取った。少し時間が早いためか客はまばらであり、快適に過ごせそうである。もっとも老婆によると、「ここは静けさを求めてくる人が多いからうるさくなることはない」、のだとか。


 そこまで広くはないが、和室と洋室のほど良く混ざり合った空間は思いのほかしっくりくる。調理場は離れているのか、物音もあまりない。確かに老婆の言う通り、特にここには静けさを求めて来るようだ。


 それぞれ簡単に注文を済ませ、老婆との会話に花を咲かせる。それはほんの、ささやかなものに過ぎない。普段はどこで何をしているのか、どうしてここに来たのか、趣味や夢や過去のほんのりした思い出話など、もう会うことはないだろうという前提を持って話をした。


 老婆は慰労のためこの地を訪れたらしい。普段は東京都内をちらほらしているらしく、老婆自身も不思議なことを、歳に似合わぬことをしていると言って笑った。なんだか浜辺で会った時よりも、若々しく感じた。


 料理が届く。それぞれしばらくは黙々と食べた。きっとどちらも味を求めていたからだ。実際料理は格別に美味く、これまで食べてきたものの中でも一、二位を争うほどであった。それぞれ皿の上がずいぶん寂しくなったところで、老婆は茶を啜りながら言う。


「旅は道連れ世は情け、とはよく言ったものね」


「ここ、ずいぶん美味しいですね。正直侮ってましたよ」


「ふふっ、でしょう?……そういえばお兄さん、今はバイトで生計を立てているのよね、何か夢があるのかしら?」


「……小説を書いていまして」


 諦めとほのかな安堵を持ってそう答えると、老婆は、あら良いわね、とだけ言って、また料理に舌づつみを打つ。いったいなんだったのか、と思いつつ深掘りされぬことにひと息つき、俺もまた残りの料理に手をつけた。


 やがて皿の上はいよいよ空となった。若干ついた微かなソースや破片が、食事の終わりを告げる。老婆も食事を終えたらしく、上品にナプキンで口元を拭っていた。彼女は歳に負けぬ食欲を持ち合わせているらしく、続けてデザートを注文していた。勧められたが、これ以上は気が引けてしまったことと、途中の作品を進めておきたかったので、遠慮した。


 老婆は少し残念そうにしていたが、デザートであるショートケーキが届くと下がっていた眉を上げ、嬉しそうにフォークを通す。その身姿はまるで少女同然である。


 俺は立ち上がり、老婆に別れを告げた。老婆は、もう行ってしまうの、とか、やっぱりデザートを食べないか、とか言ってくれたが、俺が、部屋に戻ってやることを済ませたい、と言うと、老婆は逡巡、のちに別れ文句と一つ、


「鍵は本当にありがとうね。また会うことがあったら声をかけるわ。それと一つ」


「なんでしょう」


「夢に喰われちゃ駄目よ、もっとも日常が夢同然なんだから。頑張ってね」


 さきほどまで少女然としていた姿、それが一瞬間のうちに大輪の樹木と化した。俺はただ、しめ縄のかかった大樹に礼をするが如く、老婆に頭を下げて去るばかりであった。

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