おはなし
「いらっしゃいませ」
前回同様の格好で人当たりの良い笑みを浮かべて言うツムギさんは、来店者である俺をカウンター席へ促す。ゆったりと、ちょっとした喜びとドキドキを携えて店内を進む。トントンと鳴る床に身体の重みを感じる。見渡す店内に客はおらず、不思議とこの喫茶店は異世界感を覚えさせる。
席に着くと背負っていたバイトの荷物を隣席に置き、素早く、出された水を飲んだ。簡単なやりとりで注文を済ませる。心地良い疲労感と喫茶店の香ばしさがほど良く混ざって鼻腔をくすぐる。客が俺一人ということもあって注文もつつがなく通り、頼んでいたコーヒー一杯とオムレツがカウンターに置かれる。手に中サイズのスプーンを持ち、空腹を満たすため勢いよく食べ始めた。
特に変わった味付けがあるわけではないが、不意に懐かしさが込み上げてきて、なんだか泣きそうになってしまった。目に溜まった涙を悟られまいと素早く拭く。幸いツムギさんは気づいていない様子で、澄ました凛々しい表情のままグラスを拭いていた。
しばらくすると胸中に巣食っていた虚しさや漠然とした不安、懐古の情、それらはスッとどこかへ行ってしまった。雫は頬に流れることなく消え、同時に皿上にあったはずのオムレツも消えていた。きっと彼がみんな連れ去ってしまったのだろう。
完全に腑抜けた、しかし腹に確かな重みを感じつつ、コーヒーを啜る。ほろ苦い液体が舌の上で踊る。壁掛けアンティーク時計の針がカチカチと鳴る。窓外から雑踏と夜特有の音が響いて届く。それらの音が鮮明に聴こえて脳内で文章となってしまうほど、俺とツムギさんの間には不自然な沈黙が流れている。
話そうと思えばできるだろう。相変わらずツムギさんに目線を向けることは難しいが、そんなことは些細な問題であるだけで。ツムギさんも、俺と会話することなど造作もないことだろう。しかし今日は勝手が違うように感じる。喫茶店に流れるなにかがそうさせている。
そんな雰囲気を飲み込みジッとしていると、いよいよ均衡が崩れたのかツムギさんの口が動く。
「今日は仕事帰りですか」
「えっと、まあそんなとこです」俺は少しばかり濁して言う。仕事帰りではあるが、定職に就いていないと知られたくなかったからだ。
「この時間でも仕事帰りの人は多いのですね。みなさんお疲れのようです」
そう言って窓外をしげしげと見つめるツムギさん。俺はのんびりとコーヒーを飲み、簡単に相槌を打つ。しきりに時計を確認しつつ、まだここにいられることを内心喜ぶ。やはり俺はこの喫茶店でこうしてゆっくりいることが好きなようだ。
小説を書くことは好きだ。家にいることも、時にどこか遠くへ小旅行をすることも好きだ。しかしそれらとは別に、コーヒーと彼女と自身とが時間に溶けてしまいそうな、全くの暗海にぽつり小舟で浮かぶ感覚が、俺は特別好きなのだ。
ツムギさんは変わらず、店じまいのために、今日はもう使わぬグラスや食器を丹念に拭いている。棚へ収納する動作には無駄がない。しかし金切り声のような、神経を乱すような音はなく、ただあるべき場所へ勝手に戻っていく錯覚を生み出すほどに心地よい。
やがて全ての食器類を片付け終えたのか、彼女はこちらに目を向ける。横目で見ていたことを悟られたと思い飛び上がりそうになったが、どうやらそうではないらしく、彼女は無言で厨房を指差し、煙草を誘ってくれているようだ。
いいんですか、と結果が分かりきった俺の模範答にどうぞ、というこれまた分かりきった返事が来る。俺はおずおず立ち上がり、カウンター席と内部を隔てる段差を上り、厨房へと入った。
厨房内のさまざまな銀が鈍く光り、冷凍庫からは独特の香りが立つ。かき消すように煙草へ火をつけ紫煙を燻らせる。俺の吸うものは変わらず臭い。ツムギさんの吸うものは変わらず良い香りだ。本当に高価で洗練された代物なのだろう。
ごうごうと換気扇が鳴る。微妙な風で煙が揺れる。煙草の混ざり合う匂いが鼻先を刺してほんのり目眩を起こす。
「こうして喫むとき、やはり一人は寂しいものですね」
「でも、今は二人ですよ」
「そうです。ノボルさんは、寂しくありませんか?」
唐突な会話に少しギョッとしたが、特に中身がないので簡単に答えることができた。反対に、この答えや問いになにか意味があったのかも知れないが。
喫みながら考える。どうして彼女は急にこんなことを訊いたのか、不思議でならない。どうにも彼女の意図が分からない。かといってそこで不信感を抱くなんてことは無いのだけれど、気になってしまうものだ。
ただ、こうして誰かと煙草を吸っていること自体珍しく、ふわりとした高揚感と非日常感が、寂しさや悲しみとは思いたくない。
「寂しくなんかないですよ。俺、この喫茶店好きですよ」
「ふふふ、嬉しいです。なら寂しくはないですね、良かったです」彼女は微笑んだ。続けて言う。
「ノボルさんは、なにか夢はおありで?」
「ゆめ?」
これまた唐突である。これがバイト先の店長やよく分からない相手であれば適当に答えていた。しかしなぜだろう、彼女の質問には言葉以上の意図が感じられなかった。玲瓏でいて無邪気、その声音がそうさせているのかもしれない。……俺は、気づけば自身の夢を話していた。
昔から物語に携わる生き方を志していたこと。やがて物語を小説として表すようになっていたこと。今はまだ三文文士ですらなく、公募に作品を送っては落とされていること。いつしか、自身の作品が稼ぎ頭となり、誰かの支えや世の中のためになって生きていきたいということ。あまり饒舌ではないが、それらのことをゆっくり確かに話した。ツムギさんはなにかを言うことなく黙々と、都度の目線や相槌を交えながら聞いてくれていた。
「もしよろしければ、またこちらにいらした時、ぜひ作品を読ませてください」彼女はそう言った。俺は思わず大きく頷いた。そんなことを言われたのは初めてだった。
遅くだったこともあり、俺は厨房から出てそのまま会計を済ませ、足早に店を出る。人影はまばらであった。自転車はいつもより風多く、風に近かった。夏は少し前に終わったというのに、胸中は真夏の夜同様、凪いだ熱を確かに持って脈打っていた。




