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アステロイドに東雲を 〜インカローズと喫茶店より〜  作者: ベアりんぐ
第4章 〜夢死・終の作家と望みの喫茶店〜
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煙に等しい

 キッチンはひどくこざっぱりとした、白を基調とした空間であった。換気扇がぼうぼう音を立てている。シンクは眩く光り、皿やグラスやスプーン等の食器がいくつか置かれており、ところどころ汚れがついている。


シンク横にはコンロがあり、乗せられたフライパンには小さく焦げがついている。備え付けられた棚には調味料が乗せられていて、その匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。奥には小さな丸椅子が置かれていて、店主と思われる女性は手で、そこに座るよう促す。一礼し、座ってタバコのボックスを取り出す。


一本取り出し火をつけ、空間に合わぬ煙をスーッと吐き出す。先ほどまであった緊張がその煙に溶け出したのか、いくぶんか気が楽になった。


「ありがとうございます、すいません」と言うと、彼女は無言で微笑み、懐から何やら箱を取り出した。その箱は一見タバコに見えたが、どうにも見覚えがない。箱のデザインはあまり変わることがないし、おおよその銘柄を知っている自身の知識にないデザインであった。


 彼女がその箱から一本取り出し火をつけるまで、正真正銘タバコであると気づけなかった。彼女は慣れた口であるのか、ふーっと静かな呼吸のように紫煙を吐き出した。


香りは非常に特殊で、タバコ独特の、あのねっとりとした嫌味さがまったくなかった。自身の吸っているタバコの臭いがかき消され、キッチン全体を包み込むほどの香りを持っているにも関わらず、香りの中心である木々や花々のような匂いは、どれほど香ろうと良い匂いである。


「あの……」と口を開くと、彼女がこちらを向く。


「それ、どんなタバコなんです?すごく良い匂いで」


「これ、アウローラっていう銘柄なんですよ。この喫茶店と同じ名前です」


「へぇ、アウローラ」……訊いたことのない銘柄だ。これほどの香りと上品さ、きっとオーダーメイドや庶民以下の俺では手の届かない代物なのだろう。


「最近はあまり吸っていませんでしたが、なんとなく」と彼女は照れながら笑う。つい、胸が高鳴ってしまう。


「俺のとはだいぶ違いますね」


「同じタバコですよ。香りが違うだけです」


 数分黙って吸い続け、差し出された灰皿にフィルターを擦り付け、吸殻を灰皿に捨てる。彼女も吸い終わったようで、俺と同じように火を消し吸殻を捨てる。


 立ち上がり、元の席に戻ってしばらく先ほどの香りを思い返していると、不意に横からコーヒーとパンが差し出された。見上げれば彼女、その顔には変わらず笑みがある。俺は慌てて両手を振り、コーヒーとパンを拒否する。


「頼んでませんよ」


「はい、サービスです」


「サービス」と訝しみながら言うと、彼女は無言で頷く。


「喫んだ後にも良いものですよ」


 彼女の意図はよく分からなかったが、きっと誰かと一緒に吸えたことが嬉しかったのだろうと勝手に解釈し、俺はありがとうございます、とだけ言って、コーヒーとパンを受け取った。


 コーヒーとパンを腹に入れ、しばらくの間メモ帳に目とペンを通していた。彼女は変わらずカウンターにおり時折目があったが、特に会話は生まれなかった。というより生まれる前に俺が目を逸らしてしまうのだ。


照れくさい、それでいてどこか嬉しい。目が合うとバチバチ心臓や脳に電流が走る。妙によだれが湧いてきて、飲み込む音がやけに大きく聞こえる。


 しかし彼女にそんな乱れを悟られまいと、俺は平静を装ってメモを取り続けていた。


 しばらくそうしていると、驚くことに時間はあっという間に過ぎていた。パッと時計を見れば短針が十の字を過ぎており、俺は驚きを隠せず立ち上がり、荷物をまとめてカウンターの方へと向かった。


「もうお帰りですか」と、こちらに気づいた彼女が言う。俺は無言ではにかみながら頷き、そそくさと財布を取り出した。


「コーヒーとパン、払いますよ」


「いいんですよ、サービスですから」


「そういうわけには……」と言い淀んでいると、彼女は少しこちらに近づき、囁くように言った。二人だけの空間であるのに、わざとそうしたのだ。


「また、来てくださいね」


 俺はどうも手のひらの上で転がされているようだ。そう気づけば通常ならふつふつと怒りが湧いてくるのだが、彼女が持つ嫌味のなさや不思議な美しさが、それを許さず、むしろかき消し好感を持たせるようだった。そしてその通り、俺はころっとドキッとしてしまい、まったく気の抜けた、はい……を溢してしまった。



 外へ出ると空にはぽつぽつ星が覗いており、暗闇に淡く輝いている。時間が時間だからだろう、人通りは少なく、辺りには数人程度の人影が見受けられるのみである。背後では彼女が見送る姿勢をとっており、俺は一礼をして、少しばかりの会話を試みた。


「ここはいつ開いてるんです?」


 彼女は変わらず微笑み、言う。「来ていただければ開いていますよ」


 通常の店とは勝手が違うらしい。なかなか不思議な返答だが、そこにもやはり温もりがあった。きっとその通りなのだろう。


 他に何か言うべきか悩んでいると、彼女はなにやら失念していたことを思い出した様子で、話し出す。


「そういえば名前を訊いておりませんでした」と彼女は言った。どうして名前を、とは思ったが、別段訊かれて困るものではないし、この人が俺の名前を知っていてくれるのはなんだか嬉しい気がしたので、答えた。


白宮(しろみや)ノボルです、どうぞよろしく」


「ノボルさん、ですね。私は黒野ツムギです。この喫茶店ではこうして訪れた方の名前を訊いているんです。またの来店お待ちしてますよ、ノボルさん」


 そう言うと彼女、ツムギさんはにっこり微笑みペコリとお辞儀をした。俺も無言でお辞儀をし、惜しさを噛み締めながら振り返って、道を歩き出した。


街灯の下に立った時、少し振り返って喫茶店の方を見た。まだツムギさんがいるかもしれないと思ったからだ。


しかし予想は外れた。喫茶店は先ほどまでの灯りを落とし、静まろうとする街と同化するよう、すでに眠りに就いていた。

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