源泉の喫茶店
「おつかれさまです」
午後六時、煌々と光る店の明かりを背にそう告げる。気だるそうにレジカウンターの向こうで店長が手を挙げ、言葉なしに返事をする。入退店時になるコミカルな音が耳障りだった。
外は暗く、空もグレーであった。雲が立ち込め蓋をしており、辺りには街灯と働き者の窓辺が光るのみ。駅近であるためか人通りは多く、みな疲労感を背負って似たような格好をしている。
まるでアリだ。
蟻塚に住むことを捨てた俺は、その大群を避けるように自転車を押して歩く。妙な匂いが鼻をさし、それが通り雨の匂いであることに気づく。あいにく傘は持ち合わせておらず少々困ったが、少し先に妙な灯りを見つけた。雨よけのために走り出しその灯りの元へ向かう。
立ち込めた雨どもを繕い軒下へ入り込み、水滴を払う。バサバサと服を揺らしている時ふと視線が店内を映す窓へ向いた。おおよそ現代的とは言えぬ内装。先ほど妖しく光っていたのはこの灯りだったかと思い、ちらちらと外装を見始めた。
雑居ビルの建ち並ぶ駅近にこんな古臭く感じらせれる店があったとは、正直ビックリである。数年ほど色田市に住んでいるし、駅周辺の雰囲気の良い様々な店を見たからこそ、それらを見ておきながらこの店を見過ごしているなど考えられなかったからだ。
本来入店するつもりなどなかった。しかしどうも心を引っ張られている。しかもその重力は決して逃れることのできない代物だった。
自転車を店の隅に置き、もう一度丁寧に水滴を払って扉に手をかける。選ばれたものにしか開けることのできない、ファンタジーの魔法がかかっているような気がしてならなかった。それだけ、この喫茶店には不思議と想起させるものがあった。
「いらっしゃいませ」女性がそう言う。てっきり老人の余生で通った店だとばかり思っていたので、俺は思わず首をかしげてしまった。しかし顔を上げ、店主と思しき女性を姿を見たとき、激しい胸の震えが自身の魂を揺さぶった。物語の世界、始まるとすれば今だろう。
偶然雨に降られ、偶然喫茶店を見つけ、入ってみればそこには運命的な女性。俺は思わずああどうも、なんていう台詞をぼそぼそと吐き、足早にカウンターから一番離れた個人席へついた。少し湿ったバッグを床に置き、顔を垂らしつつカウンターへ視線をチラと向ける。
少し見ていると、女性はこちらに水を持って歩いてくる。俺はギョッとして視線を下に向け、なるべく視線の交わることのないよう努めた。お水どうぞ、という女性の声を、何か精巧な時計の歯車の調子を聴くように聴き、その調べにやはり感嘆の息を漏らさないではいられなかった。
端的に言えば、俺は一目惚れをしていた。
去っていく女性の背中を見ながら考える。いや、一目惚れというほど俗なものではないのかもしれない。ありがちなラブコメや恋愛映画とは違うとはっきり言えてしまう。
嫋やかな黒髪や自然の奇跡と呼べる顔の作り、若干細い指先やエプロン越しに確認できるなだらかな膨らみ、それらも要素であるとは言える。しかしそれだけではない、別の引力によって俺は彼女に、明確に惹かれていると分かるのだ。これは俺が物書きをやっているからとか、そんなチャチなものじゃない。
とにかく自然でありながら自然ではない……超然的な力によって俺は、彼女に惹きつけられてしまっているように思えてならないのだ。
しばらくそんなことを考えつつ彼女を見ていたが、ふとこの内装にも興味が湧いてきた。丁寧に手入れがなされている観葉植物。窓枠の小さな埃。誰かが使った食器。うら若き謎の美女と、夕刻雨香る喫茶店。だんだんと、勝手に脳がぐるぐるし始めた。
ここはどういう経緯でできたのだろう?なぜ喫茶店なのか?なぜこの女性が働いているのか?これらのインテリアはどこで手に入れたのか?ここではどのような人々が、どのように過ごしているのか?……巡る思考に疑問は止まず、側から見れば病的と言えるほど、俺は興奮冷めやらぬという状態であった。きっと息遣いや諸々の仕草に出ていただろうと思う。
我慢ならず、俺はあるメモ帳とシャープペンを取り出した。どこでもアイデアを書き留めておけるよう常日頃から持ち歩いている、まあアイデア帳と呼ばれるものだ。今日まで、あまり活用されて来なかった代物だが、どうやら無駄ではなかったようだ。
疑問や想像の設定を書き記していく。他人が、恐らく自身でも読めないであろう崩れた字で書いていく。ハッキリ言って、俺は文章をつらつら書いているときよりももっと、この作業が好きだ。自身の脳に世界が湧き出ているようで、好きだ。
当然、彼女のことも書いていく。肌が綺麗、髪は良い匂いだろう、喫茶店に似合わない、エプロンは似合う、ヴァイオリン弾けそう……直接的な想像から間接的なものまで、二ページにびっしりと書いたところで、俺はひと息つくためにポケットからタバコを取り出した。
ボックスからととんと一本取り出し火をつけようとしたが、間際にハッとなってやめた。視線が横から注がれていたのだ。彼女はこちらをジッと見て離さない。俺はタバコを落としてしまい、拾うことすらその視線の前では叶わなかった。
「店内は禁煙ですから」と彼女が言う。
「うっかり癖で、すみません」と言ってボックスに急いでタバコを戻そうとすると、彼女はこちらへ、と言ってキッチンの方を手で指し、次に俺へ手招きをした。
あまりに唐突でしかも、カウンターを越えてキッチンの方へ招く店などないわけだから、俺は何も言えず、ただ呆然としていた。すると自身の異常性に気がついたのか、彼女は笑いながら俺に言った。
「普段いらっしゃるお客様に喫煙者がいないものですから、慣れていないものでして」
「だとしても、客をキッチンの方へ上げちゃって大丈夫なんです?」
「大丈夫ですよ。盗まれるものなんてありませんし、何よりここに辿り着くお客様はそういう類いの方々ではありませんから」と彼女は確信の色を持って言った。
「なら……お言葉に甘えて」
そう言って俺は立ち上がり、普段ではありえない場所へ入っていった。




