ここから
* * *
「お目覚めですか?」
気がつけば私は、椅子を数個並べて作られたベッドに寝かされていた。直上にはツムギさんの顔がある。私はゆっくりと身体を起こし、カウンターテーブルに置かれたお冷を手に取り、グッと一気に飲み干す。ぼんやりとしていた頭がスッキリする。目覚めた脳で少し考える。
確か赤石に手を触れて……そこからの記憶がない。思い出すことを拒絶しているでもなく、決して忘れているわけでもない。ただ思い出せない。
けれどもどこか、この感覚は懐かしいもののように感じる。不思議と温かさを持っている。
「いま、何時ですか」
「九時過ぎです」
そう告げられ一気に現実が戻ってくる。バッと振り返って壁掛け時計を見れば、ツムギさんの言う通り短針が九を、長針が十二と一の間にいた。私は慌ててスマホを取り出し、家族へ連絡を入れる。放任主義ではあるが、遅くなる場合は連絡を入れておく約束をしていた。
簡単な謝罪と遅くなるという旨のメッセージを入れる。大きく怒られることはなさそうであり、ホッとひと息つく。
そろそろ帰らなくては――と思い荷物をまとめて立ち上がろうとすると、小気味の良い音とともに扉の向こうから誰かやってきた。それは、頬がところどころ赤くなり、服も少しボロボロになって濡れている、赤松アキラだった。口の端から血が出ており、破けた服の穴からも生々しい傷跡が見える。
「アキラくん、大丈夫ですか」
「ええ、まあ……少しもめまして」
「アンタ、その傷……っ、いったいどうしたの」
赤松アキラはカウンターテーブルにつきながら頭を掻き、ツムギさんが出してくれたお冷を飲む。片手にはビニール袋が下げられており、私はハッとして頭を下げる。
「ん、どうした?」
「ごめん。せっかく買ってもらったのに、走っていなくなって」
「……だいたい事情は分かってる。あそこにいたの、トウマ先輩だよな?」
頷く。すると赤松アキラは頬を掻き、もう一杯水を飲み干して言った。
「たしか青屋の……だったよな?」
「……そう、でも騙されてたみたい」
自分で言っていて情けない。あれだけ社会がどうだこうだとのたまっていた私の、どれだけ人間を浅はかに見て悦に浸っていたか。そんなことにも気づかず、仮面越しに誰の顔も見えていなかったのだ。そしてそれは、素の状態でもそうだった。
しかしなぜだろう、眠ってしまう前と後とでは世界が違うような気がした。前であったなら、きっと絶望するだけして何も動き出せずただジッとしていただろう。だが、後になって分かる。もはやこれすら真実に到達することなく、作られたものであり、全てを引っくるめて現実なのだと。
妙な諦観も、絶えずうごめく社会も、今の私にとって怖いものではないのだと。
そんなふうに思えて、ふとあるアイデアが浮かんだ。それは社会的にみれば地位を脅かすものになりかねない。これまで作り上げた仮面やコートを脱ぎ去ることになりかねない。しかしどうにも止まれないようだ。……それを思って心が躍り出そうというとき、赤松アキラは私の目の前を指でトントン軽く叩き、言った。
「俺に考えがある。復讐しようぜ」
なぜかツムギさんは、いつのまにか席を外していた。私は赤松アキラの顔を一度見て、胸の内に湧き出た嬉しさと少しの恐怖を噛み締めながら、歯を見せて彼の手を取り言った。
「ちょうど、私も考えてた」
* * *
休日を挟んで、月曜の学校の放課後。私は校舎裏の、太陽のささぬ場所にいた。これから投げかけられるだろう言葉と、そのとき抱くだろう感情を前もって考えていた。
少しばかり怖い。しかしそれ以上に、これから動くだろう日常と新しい私に胸を躍らせていた。だがやはり手は震えるし、もし失敗に終わったとしたら……そう考えていると、隣から肩を叩かれる。
「これならいける。クズを引きずりおろしてやろうぜ」
そう言って、アキラは私の震える手を取り、固く握った。私は頷く。ただ黙って頷く。
やがてアキラは手を離し、はやばやと物置きに隠れる。中からドカンだのボカンだの物音がしたが、やがてシン……と静まり返って、まるで時が止まってしまったかのようになる。
けれど、やはり時間は動いていく。望む望まないではなく、動いていく。私はそのただ中で、社会に従い偽り生きていこうとしていた。
しかし今は違う。
私はこれから……ここから、別の動きをしていくのだ。
「どうしたの、ハルカ」
その声に身体が緊張する。振り返れば、そこにはトウマ先輩がいた。今日呼び出しをした張本人である。
「ええ、どう切り出せばいいかしら」
「……ちょっと変わった?いつものハルカとは別人みたいだね!クールなハルカも新鮮みがあって良いね」
「そう?ありがとう。でも今日はそんなクソみたいな話をするために呼び出したわけじゃないの」
大きく息を吸い、スマホを取り出す。その様子をトウマ先輩は、ニコニコと入念に作り上げられた表情で見ていた。その笑顔が自身にもこれまで貼り付いていたのかと思うと、反吐が出る。
「これ、なに?」
スマホ画面には先日の、先輩と三年女子生徒と思われる二人が映っている。トウマ先輩の顔端がピクリと動く。しかし表情は崩しておらず、まだ余裕そうな、いけすかない笑顔を貼り付けている。
「これ、なに?僕は同級生と歩いていただけだよ。君の思うような関係ではないし、第一その日はバッタリ会ったんだ」
「私、あの場にいて会話も聞いてましたけど?」
そう告げると、彼の表情は瞬く間に変わった。普段貼り付いていた甘いマスクはどこにも無く、残った素顔には残虐で狡猾で、人を弄ぶような気味の悪い笑みがたたえられていた。
しばらくの沈黙をもって、彼は奇妙に笑い始めた。きっとこれまで何度もしてきたのだろう。シワのでき方が自然で、笑い声もいつもより強く響く。
「こっちが本性ってわけね」
「それがどうした?……そうか、お前はあそこにいたんだな。あのガキと同じように聞いてたってわけか。まあ……こんなことは些細なものでしかない。結局お前は訴える術もなく、この学校を去るしかないんだ。僕がそう仕向けるからね。そんなことは、君なら分かるんじゃないかな?」
「……」
地位というものは凄まじい。淡々とした声で、好かれるための抑揚など一切排除した、実に人間の悪い部分を煮詰めたようなことが言えてしまう。
しかし私には、屈する理由も敗北も無かった。




