待たない
翌日の朝。朝一番で来てくれたツムギさんと待っていると、慌てた様子の娘とカズオさん、それに孫娘であるハルナちゃんがやって来た。私の前腕から伸びた管や血色の悪い顔を見て、三者三様の表情を見せた。娘は涙ぐみ、カズオさんは安堵の表情を浮かべ、ハルナちゃんは……よく分からない表情。そも、いつぶりの対面だろうか?私としてもどう声をかけて良いか分からない。
側で付いていたツムギさんが丁寧に私の状態を告げていく。相変わらず美しい。
昨日は私のせいで夜遅くまで活動していたはずだが、疲労感がまったくない。普段通り艶やかな黒髪に、整った顔。それぞれのパーツが完璧と言って良い位置にある。脚はすらりと、姿勢はキリッと。
インカローズのネックレスがワンポイントとして彼女の魅力を引き出し、家族よりもそちらに目が行ってしまう。というより、吸い込まれてしまう。
ツムギさんが説明し終えるころには、娘もカズオさんも安堵に包まれた表情をしていた。数秒の間、無機質な空間に沈黙が走る。
初めに口を開いたのは私だった。
「そういうわけなの。だから、そんなに心配はいらないわ。みんなごめんなさいね」
「いえ……事前にそちらの……えっと、黒野さんから電話口で説明は受けていたので、改めて無事を確認できて良かったです」
カズオさんが言う。それに続くかたちで娘がこちらに近づき、手頃なパイプ椅子に座りながら言う。もともとパイプ椅子はツムギさんが用意してくれていた。
「もうほんっとに……貧血で良かったわ、お母さん」
「心配かけてごめんなさいね。それにわざわざ遠くから来てくれて……」
そう言いつつ、視線をハルナちゃんに向ける。目が合うと、ハルナちゃんは窓辺に視線を向けてしまった。
「ハルナちゃん、よね?……随分見ないうちに大きくなったわね」
「……久しぶり、おばあちゃん」
娘そっくりの困り顔で頬をかきながらそう言う。照れ臭くなったり居心地が悪くなったりすると頬をかく癖は、母親譲りだ。そして私も……。つい笑みが溢れてしまう。
娘夫婦やハルナちゃんが私のいるベッドの近くに、パイプ椅子を並べて座る。しばらく顔を見合わせたまま静寂を楽しんでいると、おもむろにツムギさんが立ち上がり、パイプ椅子を畳んで病室の扉に手をかけた。目が合う。
気を遣っているのだろう。私はそう感じ一礼をすると、ツムギさんもペコリと頭を下げ、ゆっくりと病室を去っていった。
ツムギさんが出ていったからか、私と家族との間に会話が生まれた。おそらく気まずかったのだろう。それにゆっくりと相槌を打ちながら、私は雑談を聞き流し、ある不安な言葉を考えていた。若干怯えるように、しかし諦めるように。
その言葉は思いのほか早く、娘の口から出てきた。
「ねえお母さん、やっぱりこっちで一緒に住まない?」
その言葉に空気が少しひりつく。おそらく私が目線を下げたからだろう。病室の壁にかけられた電波時計が動くたび、一定のリズムで心に鈍い痛みが走る。私は何も言えず、とにかく悩み、沈黙を貫いた。
言葉のない時間に耐えかねたのか、カズオさんが探るように口を開く。
「トモエさん、あの家が大事なのは分かります。しかし私たちもあなたを心配しています。今回は貧血でしたが……次どうなってしまうか分かりませんし、それはトモエさん自身もよく分かっているはずです」
ですから――と続けて言う声を私は流し、自己に閉じこもるかたちで考えた。
娘夫婦の心配も痛いほど分かる。私も母や父が年老いていくたびに彼らの死を恐れたから。それは亡き夫の時もそうだった。それに家族に囲まれて死ねる幸福はそう簡単に手放して良いものではないように思う。だから本来ならば家を手放し、娘夫婦のもとで生活をすることが最善なのだ。
しかし、離れ難い。あの家には私の人生の大半が詰まっているのだ。娘との思い出もそうだ。あの地で育ち巣立っていく娘の背中は私に涙を流させた。決して軽いものではない。だがそれよりも夫だった。彼との生涯がなによりも大切だったのだ。そんな彼との領域とも言える家を、手放したくはなかった。
相反する理想とわがままに眉をひそめながら、娘夫婦との会話を流していく。それは彼らが病室を去るまで続いた。側でジッとしていたハルナちゃんは、その間一言も発さなかった。
* * *
貧血による入院から三日後の早朝、私は冷たい自室でいつもの時間に目覚めた。若干震える手足でいつも通り水を飲み、散歩以外の日課をする。
本来であればジャージに着替えて散歩をするところなのだが、貧血で倒れたこともあり控えた。なにより自身の身体が散歩を拒否したのだ。目覚めと同時になにか不吉な……予感めいたものが脳裏に浮かんだ。
簡単な朝食を食べ、本日の新聞を読み、ある程度読みえたら次は掃除機をかける。重みを感じるコードレス掃除機を手に取り、リビング、キッチン、廊下と順にかけていく。……今日は夫の書斎がある二階もかけよう。そうふと思い、一度電源を落としてから、掃除機を持って階段を登る。
備え付けの手すりがあるというのに、ずいぶんと重い。一段ずつ注意をはらって、ようやく二階廊下に足を乗せる。一呼吸つき、今はもうほとんど使われていない二階部屋たちのほこりを吸っていく。子供部屋、以前までの寝室……そして、亡き夫の書斎。一度扉の前で立ち止まり、中に入る。
唯一ある小窓に遮光カーテンが取り付けられ、部屋は暗闇に閉ざされている。スイッチを押し、パッと明るくなった部屋には懐かしさを覚えた。天井近くまで丈のある大きな本棚。そこにはびっしりと様々な本があり、彼らは沈黙を貫く。
掃除機を一通りかけ終えるころ、ふと一冊の背表紙が目に留まる。掃除機の電源を落とし、革張りのほこりをかぶったソファに立てかける。両の手が空いた私は本棚に近づき、目に留まった背表紙を確認してからそっと、本を抜き取る。
「……」
あの人と出会った本屋で買った、最初の本。その古めかしい一冊は私たちとともに、ここにあり続けた。ペラペラ捲れば香るのはほこりと、決して戻ることのない時間だった。いたたまれぬ心持ちになり、素早く本を戻し、掃除機を持って一階のリビングに戻った。
リビング、その隅にある小さな椅子に座り、一呼吸おく。パッと時計を見れば午前七時を過ぎたところだった。窓外からは夏を思わせる青空と、遠方に位置する大きな入道雲。きっと外は気持ちが良い。
「今日は、開いているかしら?」
一人呟き、自身がそこへ行きたいと思っていることを再度確認する。そしてゆっくり立ち上がり、私は最低限の荷物を持って、自宅を後にした。
この不安を、どうにかしてしまいたかった。




