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アステロイドに東雲を 〜インカローズと喫茶店より〜  作者: ベアりんぐ
第2章 〜生死・逃れえぬ老婦と喫茶店〜
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エマージェンシー

 喫茶店前に立つ。小さな看板には『open』の文字があり、同時にコーヒーの香りがして、なんだかそれだけで胸が躍ってしまう。きっとここは私のために用意された箱庭なのかも知れないとさえ思うほど、たった1回の来店で私の心は鷲掴みにされていた。


 窓に反射する夕焼けがやけに眩しい。なんだか朧げでゆらゆらとしているし、絵画のように印象的だ。……扉に手をかけ、押す。カランと小気味良い音とともに広がるのは、前回となんら変わらぬ内観と店主であるツムギさんの姿。彼女はこちらに気がつくと小さく手を振り、カウンターテーブルを指差す。


人差し指で示された席には誰もいない。前回来店していた兄妹の姿はどこにもない。……ここに来てください、ということだろうか?


 誘われたのならば、行かない理由はない。なにより私は今日、彼女と話したいから来たのだ。


 入り口から一歩、また一歩と踏み出し、小さなハンドバッグをカウンターテーブルに置いて席に着く。目の前ではツムギさんが意味ありげな微笑をしており、案外恋というものに似ているのかもと心を弾ませた。


 カウンターにコトリと置かれた水入りガラスコップを手に持ち、目の前の彼女に一礼した後、口につける。フーッと息を吐いた時、今日一日だけのものではない疲労が少し和らいだ気がした。


肩と首をそれぞれひと回転だけさせて、もう一度水を飲む。ガラスと水に反射した夕陽の濃いオレンジが、改めて一日の終わりを告げているようだった。窓の外では帰宅途中のサラリーマンや学生が歩いている。雑踏は、頭の中からしか聴こえてこない。


しかしその、無意識のうちの想像音もツムギさんからの問いかけで霧散していった。



「トモエさん、どうかされました?」


「え、あっ、なんでもありません。いやね、どうも最近ボーッとしてしまうことが増えたみたいで」



 苦笑しながら言う。言っていて自分でも情けなくなったが事実だ。目下の悩みでないことは確かなのだが。ツムギさんは特に何も言わなかった。


 コーヒーでよろしいですか?というツムギさんの問いかけに返事をしつつ、メニューを手に取り、眺めた。前回と何一つ変わらない。季節限定メニューや定期的なフェアも一つとして無い。それがなぜだろう、私には嬉しくも羨ましくも思えた。


 人は変わってしまう。たとえ本人にその意識がなくとも、絶えず変わり続けている。私も随分長い時間をかけて多くの変化をしてきた。人生的なパラダイムシフトすら経験している。それを良いことと捉える人も、羨ましく思う人もいる。しかし私にとって変化は、本来望んだものとは違ったのだ。


変わることは望んでいなかった。そんなことは不可能と知りながら求めたのだ。私にとって変化はずっと、きっとこれからも、恐怖の衣を纏った死神的存在でしかないだろう。


 やがてコーヒーがやってきた。グラスには水滴が付いており、冷え具合が見て取れる。それと同時に、なぜか小魚の煮干しとアーモンドの入った小皿がカウンターに置かれた。驚いて見上げると、ツムギさんは首に着くネックレスを触りながら、微笑んで私に言った。



「小魚の煮干しとアーモンドです。良ければ食べてください」


「あら、でもいきなりどうして」



 そう口走った時、ツムギさんの意図が分かり思わず笑ってしまった。そんな私に彼女は少し困惑している様子を見せた。



「ふふっ、ごめんなさいね折角出していただいたのに。気を遣って出してくださったんでしょ?」


「はい、ご迷惑でしたか?」


「いえいえむしろ有難いわ。でもね、きっと勘違いをしてらっしゃるから笑ってしまったの。ごめんなさいね」


「かんちがい……」



 しばらく思案顔で顎に手を添えるツムギさん。しばらくすると耳から頬にかけて赤くなっていき、目を合わせようとすると逆に目線を逸らされてしまった。一回、二回と咳払いをすると再度、こちらに彼女は向く。



「なんだか、すみません……」


「ふふっ、良いのよ。ありがたく頂戴するわ」



 小皿に乗せられたアーモンドを一粒摘み、口に運ぶ。直後に小魚の煮干しを二尾掴み、砕けたアーモンドを追うようにして食べる。ボリボリという食感と音。口内に広がるアーモンドの甘味と、煮干しの苦味。


どれも懐かしく味わい深いもので、まだ食べるための歯が残っていて良かったと素直に感じた。でなければこうして微笑むことも出来なかっただろうから。



「メニューの方はお決まりですか?」


「そうね、ではカルボナーラを普通盛りで」


「はい」



 そう返事をしてキッチンへ向かう彼女の耳は未だ紅潮している。少し申し訳なく思ってしまうが、そんな彼女がなんだか可愛くも思えてしまうのだ。まだ会うのは二度目だが、こんな一面もあるのだなと新鮮さすら感じる。それほど彼女は整然としているのだ。


 程なくしてカルボナーラが運ばれてきた。フォークを取って麺を巻き、口に運ぶ。ほのかに香るミルクらしい、甘い匂いが心に温もりを覚えさせる。少し太めな麺の食感も、アクセントをもたらしている。先ほど起きたアーモンド小魚の件を引きずっているのか、改めて加齢に耐え続けてくれている永久歯たちに感謝せざるを得なかった。


 あっという間に平らげてしまい、自分でも空になった皿を見て驚いてしまった。コーヒーを一口飲んで、大きく息を吐く。脈が激しくなっており、どうも食後の充足感を身体全体に行き渡らせている様子。


 少し汗を拭っていると、ふと隣に気配を感じた。見ればツムギさんは私の横にあるカウンター席に着いて、首元のネックレスを触っている。



「前に話していたインカローズのネックレスね。なんだか、朝焼けね」


「朝焼け……良い表現ですね」



 そう言いながら微笑み、ネックレス先の赤いインカローズを触るツムギさん。その指先は滑らかで白く、まるで絹みたいだと感心してしまう。それとは対照的に黒々としていて艶やかなポニーテールが、また彼女という人間を象徴しているようだ。


それはきっと、彼女の中で変わらず続いてきたものだ。根付き続けたものだ。けれど、この世で不変はあり得ない。きっと彼女も今の私のように、シワをたたえ、足腰が悪くなり、頭髪が雪となり、溶けるように消えてしまう。


私のことではないにしろ、それはなにか大切なものを失ってしまうような、そんな痛みを伴って辛く感じてしまう。


 グラスを取ってコーヒーを飲もうとするが既に空いていて、再びテーブルに置こうとすると、ツムギさんがあ、っと言いつつこちらに右手を伸ばしてくれた。きっと空きグラスに気が付いたのだろう。



「ありがとう、もう一杯コーヒーを――」



 

 そう言って空きグラスを手渡そうとした瞬間、私の視界はふやけ、同時に身体が地面に沈んだ。



 

……なんだか音もよく聴こえない。震える手先と途切れゆく意識の中で、誰かが私を呼んでいた。



「……!!ッ!」


「っ!?……、……ッ!!」



 ぼやぼやとした音が消えゆき、やがて私は意識を失った。

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