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アステロイドに東雲を 〜インカローズと喫茶店より〜  作者: ベアりんぐ
第2章 〜生死・逃れえぬ老婦と喫茶店〜
16/42

つれ




  *         *          *




「今日はありがとうございました」


「いえいえ、またのご来店お待ちしてます。おやすみなさい」


「ええ、おやすみね」



 スッと小さな看板表示を『open』から『closed』にするツムギさんを他所目に、私は少しばかり遠い自宅へ歩き出す。人の少なくなった道の乾きと初夏の湿気が程良く混ざり合い、なんだか足取りも呼吸も深くなってしまう。


しかしゆっくり帰ってはいられない。店を出る前に確認したのだが、すでに時刻は午後10時半。星と月の位置が数時間前と異なっており、目視で確認できる時間経過は深くなりかけた足取りを浅くさせた。


ゆっくり帰ってはいならない、というのはなんでも私がわたしをよく知っているからだ。このまま夜に浸りながら帰ってしまっては必ず寄り道をする。それはほんの些細なきっかけがそうさせるのだが、私の寄り道は長い。そして思い立てばもう止まらない。


若い頃はそうして誰も知らない知識を蓄え密かな喜びへと変換されていったものだが、今は必要がない。それに私はもう若くもなければ先も長くはない。どうしてこうも生きたがるのかは分からないが、この先を少しでも長く生きるためにはリズムが欠かせない。だからこそ、早く帰って眠らなければならないのだ。


……いや、長生きをしたいのではないのかも。元来持っている生真面目さゆえ、漠然と(せい)に対して真面目であろうとしているのかも。……うん、そちらの方が、しっくりくる。


 兎にも角にも、私は寄り道をせず帰宅することに成功した。玄関扉の鍵を開け、土間に座って靴を脱ぎ、そそくさと入浴の準備をする。


10分ほどで浴槽にお湯を張り、浴室モニターの音声によって、私は1日を十分に吸った服を脱ぐ。服が力なく床に全て落ちきったころ、視界の端で動いたあるものに気づく。見ればそれは鏡に映る自分自身だった。


無数の皺をたたえた顔に、骨の浮き出た腕や腹、垂れ下がる乳。眼力は無く、表情には疲れが滲んでいる。目を背けたくなったが、しばらくジッと見つめた。


老いた身体に昔の、若く艶やかでいて力のある私を重ねる。重なっていたイメージはやがて私の横へと移った。違いなど言葉にするまでもない。というより言葉にしたくないとする方が正しい。いったいどうして、こんなことをしているのだろう?



「なんとも、情けないわね」



 独りつぶやき、自嘲する。悔しさではなくあくまで笑った。そうすることでしか、今の自分を守れないから。


 ……私は、鏡から逃げるように浴室へと入った。




  *         *          *




 あの喫茶店での夜から2週間が経った。何度か店の前を通ることはあったけれど、入ることはしなかった。そうしたいのは山々なのだけれど、そうできない理由が今、私の目の前にある。


 1階すみの部屋、そこに机と椅子がある。私が座っているのはまさにその椅子。正面にはパソコンがあり、文字がいくつも並んでいる。机上の両端には山積みの書類と参考文献。びっしりと積まれていて、まるで壁だ。私と日常を隔てる壁。


パソコンに映し出されている文字列は私が紡いだ、私以外のキャラクターのもの。眉を顰めていたり、かと思えば驚くほどよく笑っていたりしていて、作者である私でさえ彼は忙しないと思えてしまい、つい笑みがこぼれた。


画面横の余白に付箋がいくつか貼ってあり、それはいつかの私が立てた設定やセリフたちだった。恐らくは使われないであろう罵倒や、物語終盤に告げるだろう真実。すっかり前のことだ、覚えていられるわけがなかった。


キーボードを駆使して言葉を映し出していく。カタカタとリズムよく鳴る時もあれば、ひたすら同じキーを押すだけの数秒がある。それらを経てようやく納得のいく形にまとまったところで私は、座りながらうんと長い伸びをして机の上に置かれたマグカップを手に取る。


 今ではすっかり頻度こそ下がってしまったが、私はれっきとした作家だ。始まりは夫と結婚してから。趣味を持っていなかった私は、育児家事のプレッシャーや退屈さから逃れるために小説を書き始めた。


最初こそただなんとなく書くばかりであったが、次第に生来の生真面目さがゆえに凝り始めていったのだ。時には寝る間を惜しみ、なんとか書き上げた作品を出版社に持ち込んだこともあった。いま思えばなぜ専業主婦ではいられなかったのか、はなはだ疑問である。


ただなんとなく、作家として夫とは別にお金を稼ぎたかったのだ。生活の足しになれば良し、その程度で考えていた。


……結果的に、私の作品は本となって世に出回ることとなった。そんなこともあって、老いた現在でも依頼があればこうして書いている。もっとも、私のような作家の端くれに依頼をする人など限られてはいるのだが。


しかし仕事は仕事だ。手を抜くことは出来ない。そうしてああだ、こうだと悩んでいたら締め切りの1週間前となっていた。よって現在、カタカタと指をキーボードに沿わせ続ける羽目になってしまった。


 マグカップに入っているコーヒーを飲み干す。苦々しくてすっかり冷めてしまったものは、あの喫茶店で飲んだコーヒーを恋しくさせた。私はその欲求を振り払うようにして首を2、3度回し、フーッと息を吐いてからもう1度、パソコン画面とキーボードに向き直った。


…………


………


……午後5時を告げるチャイムが鳴る頃、私は思いきりエンターキーを押し、両手を挙げた。ようやく作業が終了したのだ。


作品自体は少し前に書き終わっており、文章の添削・推敲をしてから担当編集へとその文章データを送って、いまに至る。


妙な解放感と永らく感じていなかった達成感に眠ってしまいたくなったが、ふとカラになったマグカップの底に残る、ほんのり黒い液体を見て思った。まだあの喫茶店が開いているかもしれない、と。


店主であるツムギさんいわく、どうやら閉店時間は適当なのだとか。口調や容姿からは想像外な返答に私はだいぶ驚いたものだが、よく考えれば別に不思議なことではない。営業時間が適当なお店は案外多いのだ。


 凝り固まった身体を揺らしながら部屋着から私服に着替え、土間に座って靴を履き、玄関を後にした。外はすでに夕刻の姿で、空は濃い青とビビットなオレンジ色に分けられている。建物の影が伸び、道行く私を暗く覆う。


しかし気分は晴れやかなものだった。2週間ぶりに訪れるからなのか、それとも仕事からの解放感か。きっと前者だろうとは思うが、そんなどうでも良い思考がすぐに消え去ってしまうほど、今の私には明確な楽しみがあった。



「今日は、いったいどんな話ができるかしら」



 私は若干早足になり、ツムギさんのいる喫茶店へと向かった。

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