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朱夏

作者: 時輪めぐる

私は、むんずとそれを掴み上げて驚いた。


「何これ?」





 都会の大学に進学し、そのまま現地の設計事務所に就職。三十九歳の今日まで、建築設計を生業なりわいにしている。


 両親に乞われ、数年ぶりに盆休みに帰省した私は、自宅に隣接する空き地の草取りを、母に頼まれた。


 母は体調が思わしくない。持病があるが、それなりに日常生活を送ってきた。それが、この夏の暑さにやられたらしい。お盆には、父が氏子代表を務める神社の、四年に一度の大祭がある。父はその準備で忙しいので、母の面倒を見て欲しいという。


 元気だからと、日頃あまり気にも留めていなかったが、両親は高齢になっていた。自分も歳を取っているので当然なのだが。


 今年の夏は暑すぎて、小まめに草取りが出来なかったのだという。もっとも、今年七十歳になる持病持ちの母に、この空き地は、もう手に負えないだろう。数年前は家庭菜園だったが、放置され、見渡す限り腰位の高さまで草が茫々だった。


 何処から手をつければ良いのかと、暗澹あんたんたる思いになったが、少しでも、親孝行になればと、端から草を取り始めたのが一昨日の事。今朝も早朝の涼しい時間帯に、少しずつ作業を進めていたのだが。





 ザワザワ、サワサワと草の擦れる音に、斜め前方に目を向けた。


 何かが、生い茂った草を分けて進んでいる。


 大きさから推定するに、野良猫だろうか。


 しかし、猫にしては動きが変だった。何というか滑るように移動している。


 目で追っていると、茂った草の間から飛び出して、草取りをした辺りを走り抜けた。


 すると、その走った跡から、草がグングンと伸びた。走り回る軌跡のままに、後から後から、早送りのコマの様に草が茂った。


「えっ」


 目を疑った。何が起こっているのだろう。


 と、思うと同時に、猛烈に腹が立った。


 折角、草を取って綺麗になったというのに、何かが草を生やしているのだ。一昨日から費やした、時間と労力はどうなるのだ。


「何なの?」


 大股で近付き、掴み上げて驚いた。


 見た事も無い生き物? いや、生き物なのかも良く分からない。


 草で編んだお面を着けた身長十五センチくらいの小人は、白装束を身に着けているが、裸足だった。


『ぐぬぬ、離せ。ワシが見えておるのか、オヌシ』


 草で編んだお面は、四角くて、体に対してやけに大きい。お面の所為で表情は分からなかった。


「喋ったー!」


『いや、オヌシの心に直接話しておるのじゃ。と、兎に角、離せ』


「だが、断る! アンタは、私が折角、草を取ったのに、生やしたじゃない。離したら、また生やすんでしょ?」


『それがワシの仕事じゃからな』


「はぁ?」


『ワシを知らんのか?』


「知らん」


 でも、そのお面は知っている。


『ワ、ワシは、夏の精霊じゃぞ』


 夏の精霊と名乗ったそれは、白装束の腰に紐代わりに絞めていた草の蔓つるを、小さな両手でググッと持ち上げた。


「夏の精霊?」。


『そうじゃ、朱夏神社の御祭神、夏高津日神(なつたかつひのかみ)様のしもべ。夏高津日神様は夏の高い日差しである。稲を育てる太陽神であり、かつ農業神であらせられる。ワシは草木を茂らせ、夏の花を咲かせるのが仕事じゃ。夏は、生い茂る、繁茂する、盛る季節なのじゃ』


「こんなに草を茂らせたのは、アンタだったのね」


『カカカ、それがワシの仕事じゃもん』


「じゃもん、じゃない!」


 私は、力任せに夏の精霊をぶん投げた。


「もう、こっち来んな!」


 精霊は『あーっ』と声を上げながら、空き地と道路の境界辺りへ飛んで行った。


 空き地の四分の一くらい綺麗になっていたのに。私のこれまでの努力は水の泡だと思ったら、脱力した。


 少し休憩しよう。小まめな水分補給と言うし。自宅の縁側に腰掛けて、汗を拭う。今日も暑くなりそうだ。スポーツドリンクを飲んでいると、先程の夏の精霊が滑る様な摺り足で近付いて来た。結構なスピードだ。


『夏の精霊であるワシを粗末に扱いおって。こうしてくれる!』


 夏の精霊は、ジャンプすると、あっという間もなく、私の背中に憑とりついた。


「あっつい!」


 まるでカイロを背中に着けているかのようだ。汗が一気に噴き出した。真夏のカイロは、地獄のように暑い。


『カカカ。そうじゃろ、そうじゃろ。ワシは夏の精霊じゃからな』


 背中に手を回して、引き剝がそうとしても、体が固くて手が届かない。あっちから、こっちから手を伸ばした挙句に諦めた。誰かに取って貰おうと思っても、見える人でなければ、何処にくっ付いているのか分からないだろう。


「ま、いっか」


『いいのか? オヌシ、諦めが早いのう』


「取れないのだから、仕方ない」




 学生の頃、似たような事があった。


 都会の大学に進学した。


 一人暮らしのアパートは六畳一間だったが、その隅の一つは、窓から遠く、照明を点けても常に暗かった。そこにソイツは居た。


 所謂、地縛霊なのか、何かの精霊なのか。サイズ的に人間ではなかった。


「悪いけど、出て行ってくれる?」


 私は、ソイツを掴むと、窓を開けてぶん投げた。


 ソイツが居なくなった部屋の隅は、照明が届くようになり、明るくなった。


 しかし、ソイツは直ぐに戻って来た。今度は私の背中に憑りついたが、無視を決め込むと、いつの間にか居なくなっていた。諦めたらしい。




 だから、背中のコイツもその内離れるはず。


 私は、見える人なのだ。何で見えるのかは分からない。我が家が代々、地元の『朱夏神社』に神楽舞を奉納する家柄の所為なのかもしれない。


「お父さんは?」


 家の中に父の姿が見えないので母に訊ねる。


「お父さんは朝から、神社へ神楽面作りに行ったわよ。それより、ご飯食べちゃって」


 夏の大祭は明日だという。




 シャワーを浴びる為に衣類を脱ぐとき、夏の精霊は動き回り、引き剥がそうとする私の手を逃れた。


 憑りつかれている所為で、浴びる冷水は、お湯になる。


 遅めの朝食を終えると、母は、父に十時のおやつを届けて欲しいと言った。


 草取りは、まだ途中だ。本当は、もう少し取る予定だった。ちょっと休憩のつもりだったが、徒労感でヤル気が失せてしまった。




(コイツの所為で)




 イライラしたので、孫の手で、背中の熱を感じる辺りをパシッと叩いてみた。が、避けられて、自分の背中だけが痛い。


『カカカ』


 耳元で笑い声がした。


「何だか、家の中が暑いわね。午前中からこんなんじゃ、今日は一段と暑くなりそうね」


 母はエアコンの設定温度を下げた。





 母から託された飲み物やお菓子を持って家を出た時、隣家のクミちゃんが、丁度、家から出て来た。


「クミちゃん!」


「ナツキ! 久しぶり」


 幼馴染のクミちゃんは、結婚して隣町に住んでいるのだと母が言っていた。お祭りがあるので里帰りしているのだという。


「クミちゃん、何だか綺麗になったね」


 小学三年生の男の子のお母さんだそうだ。


「そういう、ナツキは相変わらずだね」


「まぁね」




 私は大学生の時から、ずっと飾り気無しだ。


 所属した建築学科は、殆ど男子だった。


 定員百数十名の内、女子は私を含めて三人しかいなかった。その中で、私は、四年間、ノーメイク、且つ男子学生と変わらない格好で過ごした。元々、あまり外見に気を使わなかったが、男の群れの中で生活している内に、男子化が進んだ気がする。


 私は建築設計の仕事に就きたかったが、田舎には、女性を雇ってくれるような建築設計事務所は無い。だから、田舎に戻らず都会で就職したのだ。就職してからも、周りは男しかいなかったので、そのままモッサリを良しとしていた。




「もう少し、お洒落すると良いかも」


 クミちゃんは、母と同じ様な事を言う。


 さすがに、「結婚しないの?」とは言わないが。その言葉を聞きたくなくて、ずっと帰省しなかった。両親と不仲な訳ではない。この歳まで独身で、仕事一筋の自分の身の置き処が無いように思えたからだ。




 私は、建築学科に進むとき、女の道より仕事を選ぶ覚悟を決めた。その為に諦めたものもあるのだから、この道を脇目もふらず進むしかないと思い、生きてきた。


 就職後に浮いた話が無かった訳ではないが、自分のキャリアを手放す気はなく、仕事と家庭の両立が図れるとも思えなかったので、結果、今日まで独身だ。アラフォーになった時、焦らなかったと言えば嘘になるが。




「差し入れを頼まれて、これから神社に行くの」


「私も。お兄ちゃんに差し入れを頼まれて、もって行くところ。暑いね」


 クミちゃんは、首筋の汗を拭う。


 私は、クミちゃんと一緒に神社に向かった。





『朱夏神社』の集会所では父を始め氏子の男衆が集まって、神楽舞の準備をしていた。扇風機が回っているが、人いきれの中に草の香りが混ざってムッと匂う。


 父とクミちゃんの兄のヤマトさんは、長い葉の草で四角い大きなお面を編んでいた。




(これだよ、これ!)




 背中のアイツのお面。見覚えがあった訳だ。最後に見たのは高校生の時。


「アンタ、此処の?」


 背中のカイロ(アイツ)に小声で話し掛ける。


『だから、そう言っておろう? ワシは夏の精霊じゃと』


「ん? ナツキ、誰と話しているの?」


 クミちゃんが不思議そうな顔をする。


「ううん、独り言」


 クミちゃんは、「ふうん」と言って視線をヤマトさんに移した。


「お兄ちゃん! 差し入れ持って来たよ」


 ヤマトさんは、編んでいる草のお面から顔を上げた。


「お、クミ! あれっ、ナツキちゃん?」


 眩しそうに目を細める。


 少しオジサンになったけれど、変わらず素敵だ。誠実そうな人柄が、全身から滲み出ている。ヤマトさんは、私達より三つ年上で、地元の大学卒業後、ご実家の家業を継いでいた。




 クミちゃんとヤマトさんとは、幼い頃三人で一緒に遊んだ仲だ。私は、幼い頃から活発で、男の子の遊びが好きだった。魚釣りや虫取り、探検ごっこ。中でも、神社の裏山に三人で作った秘密基地は、私の原風景になった。自分が作った空間の内部に入る体験は、とても魅力的だった。建築に興味を持つきっかけになった。




「……お、お久しぶりです」


 日頃、男の群れの中で、男に同化して生きている私。男性と話すのは何でもないはずなのに、緊張して言葉に詰まる。


 きっと背中のアイツが熱い所為だ。


「ナツキか。母さんからの差し入れかな」


 父も顔を上げる。


「神楽舞を、ヤマト君と一緒に舞うんだよ。俺より上手に舞えるんだ」


「そんな事、ないですよ、師匠」


 ヤマトさんは、ちょっと照れたように笑う。


「ナツキちゃん、見に来てくれる?」


 真直ぐ見詰められて、また言葉に詰まる。


 私は、「はい」と小さく言って頷いた。


 もっと、何かお愛想を言えれば、良かったのだけれど。


「あ、そうだ! お兄ちゃん、ナツキちゃんと一緒にお祭り回ってあげたら? 一人で回るのも寂しいし」


 クミちゃんの思い付きに、私は「えっ」と顔を向ける。




(そんな勝手に……。ヤマトさんが困るでしょ)




「じゃあさ、舞の奉納の後、一緒にお祭り回ろうか? 良いですよね? 師匠」


 予想に反して、ヤマトさんは私を誘ってくれた。


「良いんじゃないか。奉納の後は、特に何もない」


 父は、私の顔を見てにっこりとする。


「と、ところで、今更なんだけど、このお面って、どういう物なの?」


 何だか恥ずかしくなって、私は話題を変えた。そういえば、ちゃんと聞いた事が無い。


「ああ、これか」


 父は、編み上がったお面を脇に置いて、『朱夏神社』の成り立ちを語り始めた。


「朱夏というのは、人生の夏のことだ。この神社が夏を司る神様をお祭りしているのは知っているね。『夏』という字の成り立ちを調べると、大きなお面を着けた人が、摺り足で踊る様子を表しているということだ。夏の繁る力、盛る力への畏怖と祈りを表わすお面を着けて、夏の神様に神楽を奉納するのだと、俺は親父から聞いた」


 父の話の間、背中のアイツは『そうじゃ、そうじゃ、その通り』などと、相槌を打っている。


 父は続ける。


「人生の四十歳から六十歳までを朱夏というそうだよ」


 私は明日、四十歳になる。ということは、朱夏の始まりだ。


「なるほど、実りの秋を迎える為に、爆発的に繁茂する夏が必要なんだね」


『ワシの大切さが分かったか?』


 アイツが付け上がる。


「まぁね。だけど、草茫々になるのは、ちょっと困る」


『ワシは、オヌシに投げられた仕返しをするまで離れんぞ』


 結構、執念深かった。





 ヤマトさんに、お祭りに誘われたことが、すごく嬉しい。


「お母さん。明日、私、隣のヤマトさんとお祭りに行くことになった」


 帰宅するなり母に言うと、母は着て行くものの心配をした。


「えーっ、別にこれで良いよ」


 着ているTシャツとジーンズを指差す。


「ダメダメ。浴衣を着て行きなさい。遂にこの日が来ましたわ」


 母に言われて、和ダンスの引き出しを開けると、私の為に仕立てた浴衣一式が入っていた。


「苦節十数年、ナツキが浴衣を着る日が来るなんて。ううっ」


 何も泣かなくても良いのに。でも、お蔭で、明日は浴衣でお出掛けできる。ありがとう、お母さん。


「着付けは、クミちゃんが出来るって言っていたから、頼んでね」





 翌日、大祭の当日になった。


 着付けてくれたクミちゃんは、浴衣の私を褒める。


「うんうん、良い感じだよ、ナツキ」


「そ、そう?」


「これで、お兄ちゃんのハートは頂きだ」


 肩に手を掛けたクミちゃんが顔を寄せた。


「な、何」


「私、知ってるよ。ナツキが、お兄ちゃんを好きだったこと」


「……昔のことだよ。大学に行く時に諦めた」


「ナツキは諦めが早いと思う。妹の私が言うのもなんだけど、お兄ちゃんは優しくて真面目で良い人だよ」


「知ってる」


「結婚を勧められても、全部断っちゃうの」


「えっ……そうなの?」


「何でか分からないけど」


「……」


「私は、ナツキとお兄ちゃんなら、上手くいくんじゃないかと思っている」


 クミちゃんは、肩から手を離して腕組みをした。


「夏ってさ、何かザワザワするっていうか、内なる力が増すというか、いつも出来ない事が出来ちゃうような気がしない? それに、今日はナツキのお誕生日。四十歳になるよね、おめでとう。人生の夏の始まりじゃん。今夜キメよう!」


 クミちゃんは、後から合流した旦那さんと、小学生の息子さんの三人でお祭りを回ると言った。




(ザワザワする、内なる力が増す)




 クミちゃんが言うように、私の中で何かが落ち着かなかった。





 朱夏神社では、神楽殿の周りに近隣の人が大勢集まって、神楽舞の始まりを待っていた。


 沢山の提灯に明るく照らし出された舞台が、そこだけ異世界のように薄闇に浮かぶ。


 人々の騒めきを切り裂き鎮める、一吹きの笛の音。


 静寂の中、やがて、笛や太鼓のお囃子に合わせて、緑の草で編んだ大きなお面を着けた白装束の男が二人、神楽鈴を手に登場した。


 神楽鈴が激しく鳴らされる、魂振り。


 期待感に、私の魂も震え高まる。目は舞台に吸い寄せられた。


 二人は、白足袋で反閇へんばいを踏みながら、舞台の四隅を回った後、中央で掛け合いの様に舞う。


 シャン! 


 互いの右腕が交差するように高く掲げられる。


 シャン! 


 そのまま、ゆっくりと畳を擦りながら一回り。


 シャン! 


 離れて体の向きを変え、宙に円を描く。


 太陽を表わしているのだろうか。


 シャン!


 神楽鈴が振られる度に、場の空気がキンと引き締まり清浄になって行く。総毛立つような緊張感に固唾かたずを呑んで見守った。


 お面の下に絞めた白く長いハチマキが、舞う度に棚引いて勇ましい。若い足取りが、ヤマトさん。気付けば、目で追い続けていた。一挙一動、一挙手一投足、ピシリと決まる所作が美しい。数年ぶりに神楽舞を観た。こんなに心が引き込まれるとは思わなかった。


 舞の奉納が終わり、私は社務所の入り口で、ヤマトさんが着替えて出て来るのを、待っている。神楽舞の余韻冷めやらぬまま、人が行きかうのを、見るとはなしに見ていた。




 ヤマトさんと行動を共にするのはいつ以来だろうか。私が小四の時、中一のヤマトさんが、図書館で借りて来たアントニ・ガウディの写真集を見せてくれた。私が建築に興味を持った話をした後、借りて来てくれたのだ。


 それから、学年が上がるにつれて、いつしか一緒に遊ばなくなった。私の中でヤマトさんが異性として意識されたのだと思う。




 心拍が加速して胸が苦しい。人を待つのは、嫌いだ。早く来て、と思うと同時に、何だか逃げ出したくもなる。緊張のあまり、口の中が乾いて辛い。いや、これは緊張ではなく、背中のアイツで暑い所為なのか。私は、こんなことで緊張しないはずだ。何か飲み物でも買って来ようかと思った時、背中で父親の声がした。


「お、ナツキ。あれまぁ、可愛くなって」


 ヤマトさんは、父に続いて外に出て来た。


「お待たせ、ナツキちゃん」


 それから、振り向いた私を、頭の先から爪先までゆっくりと見下ろした。


「浴衣、似合ってるね。ですよね、師匠」


「ったりめえだ。俺の娘だからな」


「じゃあ、俺達、お祭り行ってきます」


「俺は、一遍、家に帰るわ」父は片手を上げて背中を向けた。


「じゃあ、行こうか」


「……はい」


 私は、しおらしく返事をする。十代の頃に戻ったみたいに。





 ヤマトさんと一緒に、夜店を冷やかして回る。金魚掬いや射的。てらてら輝くりんご飴や焼きそばの匂い。ヘリウム風船を膨らます音や、人々の笑い声、騒めき。お祭りは、こんなにも楽しいものだったのか。


 私は嬉しくて幸せで、思わず隣のヤマトさんを振り返る。


「楽しいですね!」


 すると、ヤマトさんが言った。


「草生える……」


「えっ?」


 草生えるは、ネットスラングで、笑えるとか面白いという意味だ。


 ヤマトさんは、私を見詰めて微笑んでいる。


「な、何でしょう?」


 私の何かが滑稽こっけいだったのだろうか。慣れない浴衣姿が笑ってしまうような状況なのだろうか。浮き立った気持ちは、忽たちまち不安に取って代わった。


「いや、草生えてる」


「草が生えてる? どこにですか?」


 ヤマトさんは、私の頭を指差した。


 慌てて、両手で頭を探ると、草がモッサリと生えていた。


『カカカ、仕返ししてやったわ』


 背中のアイツの仕業らしい。真夏のカイロだけでは気が済まず、ヤマトさんとのデートを邪魔しようという魂胆だ。


 怒りと恥ずかしさが込み上げてきて、私は走り出した。


「待って! ナツキちゃん!」


 ヤマトさんが、後ろで呼んだけれど、草頭くさあたまの私をこれ以上見て欲しくなかった。





 夢中で走って気が付くと、お祭りの喧騒も屋台の灯りも無い神社の裏山にいた。確か裏山には奥宮があったはずだ。奥宮といっても、無人の小さな社があるだけだが。参道には、疎らに外灯が点いていた。遠くに見える社の明かりを頼りに更に登って行く。


 社の正面の鈴緒の上部裏には、電灯が一つ点いている。私は社の階段に座った。下駄の鼻緒が当たって痛い。下駄で走るものではない。


『カカカ。どうじゃ、懲りたか』


 夏の精霊は良い気分になっている。


「アンタ、夏の精霊なんでしょ? 私は今日、四十歳になり、人生の夏が始まるっていうのに、その出鼻を挫くじくなんて!」


『カカカ。オヌシが、ワシを邪険にしたからじゃ』


「もう一回投げたろか!」


 背中に手を回すが、チョロチョロ動き回って掴めない。


 諦めて草を毟むしる。ブチッブチッと掴んでは捨て、掴んでは捨てするが、毟ったそばから生えてくる。切りが無い。


「私さ、クミちゃんに言われて気付いたけど、やっぱり、ずっとヤマトさんが好きなんだな。


 建築学科を目指すのを決めた時、ヤマトさんのことを諦めたんだよ。地元の大学に建築学科が無かったから、他県に行くしかなかった。辛かったけれど、どうしても、建築の勉強がしたくて。ヤマトさんが昔、見せてくれた、アントニ・ガウディの写真集に感動したからなんだけどね」


 草を毟りながら考えていることが、知らず声に出ていた。


「そうなの?」


 暗闇で声がした。参道を上がって来るヤマトさんの姿が、外灯に浮かんだ。


「ヤ、ヤマトさん」




(何処から聞いていたの?)




「急に走って行っちゃうから、心配したよ」


 ヤマトさんは、キョロキョロした。


「誰か居た?」


「いえ、独り言です」


「……草、取ってあげる」


 ヤマトさんは、近付いて私の頭に手を伸ばすと、草をブチブチと抜き始めた。


「さっきは、ごめん。ナツキちゃんの頭に草が生えているが見えて。ちょっと驚いただけなんだ」


 ヤマトさんは、ゆっくりと私の隣に座った。


「小さい時、クミとナツキちゃんと俺と三人でよく遊んだね。俺は弟が欲しくて」


「私はお兄ちゃんが欲しかった」


「ナツキちゃんは、男の子みたいだった」


「ふふ、今もですよ」


 暫し沈黙が流れ、ヤマトさんが前を向いたままポツリと言った。


「……さっきの独り言、全部聞こえちゃった」


 私の顔は熱くなる。背中のアイツが顔にくっ付いたのかと思ったが、そうではない。


「俺もさ、ナツキちゃんのことが、ずっと好きだった。結婚しなかったのは、そういう訳」


「えっ?」


 ヤマトさんが顔をこちらに向けたので、顔を見合わす格好になった。


「ナツキちゃんのことを、初めは妹みたいに思っていた。幼い頃から、クミをいつも助けてくれて、強くて優しくて良い子だなって。都会の大学に行くって聞いた時は、ちょっと普通ではいられなかった。しかも、男ばっかりの建築学科だなんて。その時に、自分の気持ちに気が付いたよ」


「男ばかりだけど、私を女と思う人はいなかったと思いますよ」


「ナツキちゃんが気付かなかっただけかもよ。俺の気持ちも、気付かなかったでしょ?」


「それを言うなら、ヤマトさんだって」


「ははは、そうだね。俺達、似た者同士かもね」


 闇にそびえる木々の葉を風が揺らす音がする。見上げた空に星が輝く。


「あのさ」


 声に顔を向けると、ヤマトさんの目が真剣だった。


「こんな俺で良かったら、お付き合いしてくれませんか」


「……私、仕事が」


 建築の仕事をしたくて、目の前の人を諦め、歩いてきた道だった。


「続ければ良いよ。遠距離だってお付き合いできる」


「私、器用じゃないから、二兎を追うことなんてできないと思います」


「さっきさ、師匠が朱夏は人生の夏って話したでしょ。ナツキちゃんは、今日がお誕生日だよね。四十歳のお誕生日おめでとう。クミが言っていたけど『夏は内なる力が増して、いつも出来ない事が出来るような気がする』って。俺は三年前から夏が始まっていたけど、ナツキちゃんに再会して、一気に熱くなった。だから、ずっと言えなかった事を、今話している」


「人生の夏……」


 夏の精霊が、繁茂する夏が無ければ実りの秋は来ないと言っていた。夏を抑え込んで生きたとして、人生の秋に手にする実りとは。仕事の実りだけが人生の実りではないだろう。早々に諦めて選択肢を減らしたりせず、もう少し欲張って、色々な可能性の種を蒔き茂らせば、実りもより豊かになるかもしれない。自分の中に、沸々と燃えるものが出現した。


 若い人の様な我武者羅な恋ではない。少しくたびれた大人の恋。でも、心は真夏の太陽の様に一途に燃えている。


 私は真直ぐにヤマトさんを見詰めた。


「……私で良ければ」


 胸が躍るような夏が始まる予感。期待感が高まった。




『ちっ、上手くいってしまったな。ワシは夏の精霊じゃから、どうしても夏の後押しをしてしまう。性さがなんじゃ。懲らしめてやろうと思うておったのに、つまらんのう』


 アイツの声が耳元でした。


『これ以上、上手くいくのは癪しゃくじゃな』




 花火の音が空気を震わせる。


 花火大会が始まったようだ。


 気が付くと背中の熱さは消えていた。


 頭の草も、いつの間にか無くなっていると、ヤマトさんが言う。




 夏の精霊は、背中から離れ、闇に消えたらしい。摺り足で進んだ跡には草が茂っていた。


『カカカ』


 アイツの笑い声を聞いた気がした。

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