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滔々

作者: 宗あると

 滔々と流れでゆく時の中で、私はもう4年の月日をベッドの上で過ごしている。とはいえ、病魔におかされての入院生活ではない。

 恋人との別れの後に精神のバランスを崩し、最愛の母も続けて亡くしてすべての気力を失ってしまった。ただ毎日、ベッドの上で時が流れて行くのを待つ。死を望むほどの絶望もない。でも、生きようとは思えない。ただ存在するだけの日々。

 食事は定期的に配達される冷凍の弁当を夜に食べるだけ。ベッドの上で一日中動かずに過ごすだけなら、それだけで十分だった。死にたくもないから摂る、最低限の食事。味なんて、どうでもいい。

 実家にいるから、家賃や生活費は父がどうにかしてくれた。父は私には何も言わない。どうしていいのかわからず、ただ黙って見守るしかないようだった。私もどうして欲しいとは思わなかった。

 父の存在では、孤独は埋まらない。友人はおらず、恋人と母の存在が私の心を支えていた。それを一度に失って、私はもう自分の存在する意味さえないと思った。

 いや、自分だけではない。この世界のすべての存在に意味を見失った。

 ベッドの上で、何もしない。滔々と流れる時間。静寂の中で、1日を何の感情の揺らぎもないまま、時折孤独に心を締めつけられそうになりながら耐えて、過ごして行く。

 世界から消えてしまいたいから。世界との繋がりもなくしたくて、スマホも見なかった。世の中で何が起きているのか、流行の音楽も、売れているタレントも、何もわからない。

 何の影響も受けたくなかった。心が、神経がそれほど衰弱していた。他人のエネルギーが溢れる音楽は、聴くと吐き気がして聴けなかった。

 静かにしていたかった。静寂の中で息を潜めて、生きていたかった。恋人と母のいない世界で、楽しみも喜びも得る意味もなかった。共有する存在がいないのに、喜びも何も必要ない。

 人が絶望の中にいる時に、他人ができることなんて何もない。母の葬儀の時にかけられた親戚の励ましの言葉など、私の心には何も響かなかった。

 音楽も映画も小説もアニメもテレビも、何も聴きたくない、見たくない、感じたくない。意味がない。意味がない。愛する人を失って、この人達が存在して、私に何かを与えようとする意味がわからない。私に必要なのは、あなた達や作品ではない。

 彼、彼女達の言う、誰かの喜びや力になればなんて話は、絶望の中にいる人間には届かない。何とか生きている人に、絶望とは違う、失望している人達に向けられているものだ。

 人生がうまくいかなくて失望しているのではない。もう生きたくなくて、絶望しているのだ、私は。

 生きたくないのに、生きている。

 いやでも本当は、生きたいのに、もうそれはしたくない。真っ白で何もないから。私の人生にはもう、何もない。

 でも何もなくてもいい。この先に何か希望があるなんて、そんなことを考えるのも嫌だった。そんなものは、打ち砕かれるか、かりそめの偽物だ。

 私の幸福は、恋人と母との暮らし以外になかった。

 だから、せめて想い出に浸りたかった。でも何故か私は2人の記憶を思い出すことが出来なかった。思い出せても断片的で、彼と食事をしている瞬間や、母との公園の散歩などを一瞬を切り取った記憶で、会話も何も思い出せなかった。

 だから私はいつしか、彼や母のことを思い出そうとするのさえ、やめた。

 何も考えず、何も見ずに、ただひたすら、滔々と時が流れるままに、過ごしていた。


 眠る時間が救いだった。睡魔がくると泣きそうなくらいに安堵する自分がいた。この世界から解放される。夢の世界でなら、彼や母に会えるかもしれない。でも、2人は私の夢には出てくれなかった。

 それでも時を経るごとに、寝て目覚めると、生きる気力がわいてくるようになった。それは起きてトイレに行って戻るとすぐに消えてしまうような微かなものだったけれど、でも日に日に、その気力は強くなっていった。

 覚えてはいない。でも、私は確かに夢の中で母と会っているという確信を心の奥で感じはじめた。

 でなければ、眠りから覚めるごとに、気力がわいてくることなんてないと思った。

 見えないし、記憶にもない。でも母と繋がっている。そのことが私の希望となって、私は徐々に生きる気力を取り戻していった。

 そうした日々の中で、ようやくベッドの上から起き上がり、家を出て、外の空気を吸い、街を歩くようになった時、私は商業施設を繋ぐ歩道橋の上で歌を歌う女性シンガーと出会った。

 他人のエネルギーの影響を受けるのが嫌で、それに自分の好きなことをして生きている人達への嫉妬もあって、私は生きる気力を取り戻しても、音楽やその他のエンターテイメントには触れずにいた。

 立ち止まって聴いていたのは、2.3人だった。歌は上手いとは言えないけれど、個性的な歌声だった。ルックスもエキゾチックで、それだけでも人を惹きつけられそうだったが、立ち止まる人はほとんどいなかった。

 私はでも、何故か彼女の前で足を止めた。

 それは彼女の歌声が心に響いたからではなかった。まるで逆の、何にも心に響いてこなかったからだ。

 歌い手から本来放たれる聞いて欲しい!聞いて欲しい!、私の想いよ届け!的なあてつけがましさが、彼女からは一切感じられなかった。

 歌声や詩が、心を素通りしていく。彼女は無心で、何も聴き手に求めず、歌っているようだった。そう感じた。

 彼女は、ウェーブした黒髪を肩までのばして、頭にはスポーツ選手がするような細いヘアバンドをつけていた。

 エキゾチックな顔立ちで、でもそのことはまるで気にとめていない立ち振る舞いをしていた。

 歌声や詩と同じく、彼女からは人を惹きつけようとするエネルギーを感じなかった。

 彼女は、自然体でそこにいた。何も与えず、何も求めず。それが私には心地良くて、私は彼女が歌い終わるまで、ずっと彼女の前に立っていた。

 彼女が歌い終わって、立ち止まって聴いていた数人にお礼を言い、気軽に話しかけてくださいと言ったので、私は気になったことを聴きたくて、彼女に話しかけることにした。

 他の人達は、特に彼女に興味はないのか、みんな散り散りに去っていった。

 「あの、歌、良かったです」

 当たり障りないことを言って、私は彼女と会話をはじめた。

 「ありがとうございます。下手な歌ですいません」

 彼女は苦笑しながら言った。自分の歌唱力のレベルは自覚しているようだった。

 「でも、何か自然な感じっていうんですか?エゴみたいなのをまるで感じさせない、心地良さっていうか、歌声と詩が、体を素通りしていく感じがして、私は凄く心地良かったです」

 「それって褒められてるのかな?ま、ありがとうございます。エゴがないのは、歌い手としてどうなのかとは思うんですけどねー。それは意識してるから、伝わる人には伝わるんですね」

 「なんでそうしてるんですか?」

 「私自身が苦手だから、エゴとか強い思いが込められた音楽っていうのが。音楽に歌声なんてない方がいいと思うくらい。歌声ってどうしても、その人を感じちゃうからね」

 「ああ、わかります。私もそれが嫌で、この4年くらいまったく音楽聴けなかった」

 「4年も!?まぁ、嫌になる時はあるよね。他人のエネルギー感じるのが」

 「そうなんですよ。それが受け入れられないくらい、心が疲弊しきってたから」

 私は言って、彼と母のことを思い出して、涙が出そうになった。

 「そういう時って、もうただ自分のことを愛して大切にするしかないですよね」

 「ああ、うん。私は、死んだ母がまだ自分を愛してくれてるって信じられたから、立ち直れたんだけど」

 「あーわかる。私も両親もう亡くしてるから。でもずっと繋がってると思ってるから、孤独は感じないな」

 「そうですよね。繋がってますよね。いなくなっても」

 「理屈じゃなく感じるよね。温かいのものが包みこんでくれてるの」

 「そうそう。心が満たされていく」

 「それが大事ですよね。心を満たして、今この瞬間を幸せに生きて、そうやって日々を過ごして行く。いつ死んでもいいように」

 「ええ?そんなに若いのに?」

 「年齢なんて関係ないですよ。人の人生はどれだけ幸せに生きたかだから、幸せのうちに死ねたら、幾つだっていいと思ってる。私はね」

 「私は、まだ死ねないかな。それほど満たされてもいないし、まだ何かやりたいこととか、見つかるかもしれないし」

 「私はやりたいことは出来てるかなー。歌手として成功したいって夢もあるけど、それは叶っても叶わなくても、私の幸せとは関係ないし。私は夢は叶わなくても、自分が幸せに生きているなら、それで人生成功したようなものだと思ってるからね。負け惜しみみたいだけど、他人がどう思うかはどうでもいいから」

 「まぁ確かに成功=幸せとは言い切れないかもしれないけど」

 「今この瞬間が幸せなら、明日死んだってかまわない。そう思ってたら、別に成功なんて意味なく思えたりもするからね」

 「そんな若いのに明日死ぬとか言わないで」

 「ってそういうお姉さんもまだ20代ですよね?」

 「まぁアラサーだけど」

 「十分若いじゃないですか」

 彼女は言って、ははっと小さく笑った。

 「色々あって、もう20年くらい老けた気がする」

 「きつい時ってそうですよね。でも何か得した気分になりません?時短で人生経験積めた感じで」

 「ええっー。ただ老け込んだだけな感じがする」

 「まぁ、人それぞれですよね。感じ方は。あ、私そろそろ片付けますから、ごめんなさい」

 彼女はそう言って、しゃがみ込んでギターケースを開けた。

 「あ、こちらこそごめんなさい。長々と。あの、名前伺っていいですか?」

 「雨音って名前で活動してます」

 「あまね。本名ですか?」

 「違いますよ。流石に本名は言えません」

 彼女は苦笑しながら、ギターをケースに入れた。

 「そうですよね。じゃあ、すいません、ありがとうございました」

 私は頭をさげて、歩き出した。

 「私もありがとうございました。ご自愛くださいねー」

 雨音さんに背中から言われて、私は肩越しに振り返り、会釈して手を振り、その場を去った。


 今この瞬間が幸せなら、明日死んでもかまわない。

 今の私にはそうは考えられないなぁ、と思いながら、私は歩き続けた。

 いつかそう思えるのだろうか。自分を幸せで満たして、いつ死んでも幸せでいられるように。

 でもきっとそう思えたら、寂しさも孤独も乗り越えていける気はする。

 自分で自分を愛して幸せでいれさえすれば、誰かの愛を求めることもなくなっていくだろうから。

 私は立ち止まり、夜空を見上げた。

 また会う時は、幸せな私で会いにいくね。

 私は母に心で呟き、また歩き始めた。

 心が温かくなり、母が愛で応えてくれていると感じながら。

 滔々と流れる時の中を、私は愛に包まれながら、また生きはじめる。


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