花待ちびと〜さくら異聞奇譚〜
主人公が虐げられる場面が多々あり、それに対して本人が反抗の意志をあまり見せません。苦手なかたはブラウザバックをお願いします。
毎年、桜の季節に必ず文をくれるひとがいた。
それは上等な手漉き紙。几帳面な達筆で。
両親は物心ついたときからいない。宿場町で旅籠を営む養父母のもと、気づけば一緒に暮らしている私にとって、その手紙は慕わしく、すがりたいほど温かなものだった。
宿では朝から晩まで働き通し。養女と言っても、自分自身に私物と呼べる財はない。わずかな手間賃を貯めて雑貨屋で買った、手紙を入れるための文箱と硯。使い込んだ筆だけが心の縁だった。
――手紙の主の名と住まいがわからぬせいで、返事は一度も書けていないが……。
今年も、もうすぐ春が来る。
未明の薄闇にただよう朝の気配に起き出し、煮炊き所から草履を引っ掛けて庭の井戸へと向かう。
希望する宿泊客には朝餉を作らねばならぬ。
まかない女は自分だけではないが、こと、自分に割り振られる仕事が多い気がするのは、長年染み付いた感覚として仕方のないことだった。
――――いいかい。行き倒れのお前を拾ってやった恩を忘れるんじゃないよ。
――――なに、転んで擦りむいただと!? ばかかお前。そのうち、その顔で高値を付けようってのに……!
(お前)
(ばか)
もう何年も、そんな風にしか呼ばれたことはなかった。
同年代の子どもと遊ぶ機会はついぞなかったが、たまに訪れる家族連れを見れば、おのずと「子は可愛がるもの」という道理がわかる。
だから、私はあのひとたちにとって「子」ではないのだろう。血縁的な隔絶を差し引いても。
「さむ……、つめた」
汲みたての水は、手をつければ痛いほど。
それで米をとぐ。
しばらく笊にあけたあとは再び水にさらす。そこからの米炊きは通いの者の仕事だった。
着るものは襤褸。
清潔にしてはいるが、前髪はわざと目が隠れる長さで不揃いに切られている。養母の絶対の言いつけは、毎日申し渡される仕事以上に不可解で理解に苦しむものだった。
――――いいかい。とくに男の客には顔を見られちゃならない。お前は醜女なんだから。所構わずふらふらしてちゃ、うっかり廊下でご覧になったかたの気に障る。わかったね?
(醜女)
(気に障る……)
塵芥のような存在。だれも呼びはしない。
そんな自分の名を忘れずにいられるのは、毎年ひそかに届けられる文のおかげ。文には、決まってこうあるのだ。
“かわいい子。そなたが健やかであることをいつも願っている。いとしい、不憫な子。いつか……”
「……『いつか必ず。この文のように、桜が咲くころに』」
立ち上がり、庭の桜の枝に手を伸ばした。
手触りでわかる。
しっとりとした新芽が出ている。つぼみも。
ふぅわりと可憐にひらく幻の花びらのように、胸を掠める温かな光に眼を閉じる。
(いつか必ず。きっと、迎えに来る)
(たつき。それが私の名前)
◆◇◆
朝から、ちょっと浮かれてしまった私は、案の定住み込みの女中さんたちにどやされた。
女中さんたちは皆、若くて器量よしだ。『ねえさん』と呼ぶよう躾けられている。
彼女たちは、旅籠の朝の仕事はしない。起きるのはいつだって昼近く。しかも、それぞれが怒りっぽかったり、無気力だったり。どこか刺々しく、出口のない澱みのようで近寄りがたい。苦手だ。
それでも、ニ階にある彼女たちの部屋まで膳と湯桶を運ぶのが昼前の自分のつとめだった。
何度も何度も階段を往復しては繰り返し、最後に届けに上がったのは最年少の女中の娘。たぶん、自分とそう変わらないだろう。前々から悋気がひどかったが、その日の朝は格別だった。いきなり持ってきたばかりの湯をかけられ、空になった桶を投げつけられたのだ。
バシャッ!
――――ガタァンッ!
「っ」
「あたしはねぇ! こんなとこ、さっさと出てくのよ! 奉公が何よ、嘘つき!! こんな、こんな……!」
ねえさん落ち着いて、と、部屋づきの小間使いの少女が布巾を持ってきた。じろりと私を睨む。湯びたしになった廊下を拭いておくように、素っ気なく命じられる。
幸い障子戸は濡れておらず、張り替えの必要はなさそうだった。ずぶ濡れなのは廊下と自分だけ。髪からは雫が垂れ、着物はぐっしょりと重い。被ったときは熱すぎるくらいだったのに、あっという間に冷えてきた。
つい、中途半端な前髪をかきあげてぼんやりと考える。
(いけない。はやく着替えないと風邪を…………あぁでも、言いつけが)
まごまごと尻もちをついていると、さらに間の悪いことに奥から客が通りがかった。
羽振りの良さそうな若い男は別の女中部屋から出てきたのだろう。胡散臭そうに顔をしかめて私を一瞥すると、驚いたように二度見した。「おや」と呟く。
それから、おもむろに近づいて手にした扇子で、くい、とひとの顎をもたげた。
――こんな視線は知らない。
頭の天辺から着物の裾がめくれた素足の爪先まで、じろじろと見られている。
しまった、と気づいたときには遅かった。養母の言いつけを破ってしまった。濡れそぼる髪はぺたりと貼り付いているし、顔が露わに違いない。
ただでさえ醜いのに、こんな有様では。
(どうしよう……、また怒られる? 叩かれる?)
身構えた私にお構いなしに、目の前の男は妙な機嫌の良さで笑った。
「なんでぇ、店主のやつ。こんな別嬪をうまいこと隠しやがって。お前。名は。若そうだが、年は」
「? え。あ、あの……?」
青ざめ、ぱくぱくと口を開け閉めする私に焦れてか、男はさっさと扇子を外した。
ひょい、と、器用に水浸しの部分を避け、階段を降りて宿の出入り口へと向かう。
取り残された私の耳に、より、体が凍えるような。
信じがたいやり取りが聞こえたのは、もう少しあとだった。
◆◇◆
「まったく! 何てことをしてくれたんだい。せっかく、もっと育って、見られるようにしてから上客をとらせようと思ってたのに。五年だよ……? それが、あの米問屋の放蕩息子なんて。とんだ番狂わせだ」
舌打ち。罵倒。苛々と悪口雑言を溢しながら、養母は不貞腐れたように私に着せる着物を見繕っている。
――……大店の娘が婚礼のときに身にまとうような、牡丹の綾錦を!
これは夢? 否、悪夢か。
私は為すすべもなく立ったまま、人形になったように立派な衣をあてられ、『当日』の衣装を決められた。髪も梳られて椿油を塗られ、不揃いだったところは鋏を入れられて。
あとは養母が手にする重たげな打ち掛け。あれを羽織らされるのだろう。
当日、とは何なのか。恐怖に身がすくむ。
あのとき、あの客は、階下の番台にいた養父に向かって「次、あの襤褸の娘を買うからな」と、挨拶のように告げていた。ちょっとした一悶着も聞こえた。
私は濡れた廊下もそのまま、階段の上から様子を伺った。
悪夢はそこからだった。
平身平頭で男を見送った養父は、すぐさま養母を呼びに行った。
口から泡を飛ばして力説する養父に、養母が手を振り上げ、渾身の力で頬を打ち飛ばしていた。
それから、知らされた。
拾い子ではない。昔、人さらいから買ったのだと。
そのころから文字の読み書きはできた。
身に付けたものは上等な絹だった。
どこかいい家の娘だったんだろうけどね、お前はうちの店で『出す』つもりで養ったんだから、と、目が合ったとたん凄まれ、ずぶ濡れのまま引きずり降ろされた。
一階の煮炊き所の隣りにある、みすぼらしい自分の部屋まで連れて行かれた。
そうそう。お前を買っちまったのは、この辺の遊女宿じゃお得意の三流旦那さ、と皮肉げに嘲笑われた。
ぴしゃりと閉められた戸の向こうでは閂の落ちる音がした。
あれから七日。食事だけは運ばれつつ、閉じ込められている。
◆◇◆
(桜……)
夜闇のなか、そもそも逃げる手立てなどない。
手の届かぬ高い位置に作られた格子窓から、月明かりと庭の桜の枝が見える。ほんのりと白い。開花していた。
春だよ。
春なのに。
きっと、来年なんてない。
どうやってか、あの文は桜の花弁がちらちらと窓越しに入る夜には必ず、一緒に落ちていたのだけれど。
きっと、住む場所を変えられる。
あの『ねえさん』たちみたいに、自分も二階の部屋付き女中にされてしまうのだ。いやなのに。
はらはらと花弁が舞った。
叫ぶことなんか、とうの昔に忘れた。絞り出したいほんとうの声を出せなくて、ただ頬を熱いものが伝う。
助けて。たすけて。
迎えに来てくれると言ったわ。あのとき。
……あのとき?
「うっ」
ずき、とこめかみが痛んで手を当てた。瞳を閉じると、見たことのないひとが眼裡に浮かぶ。
――――いや、違う。
ひとじゃない。
見たことだってある。あれは……!
ずき、ずき、と加速する痛みに胸が軋んだ。掻きむしられる。
これは喪失の記憶だ。奪われた、失った時間の空隙に思わず息を飲む。ぽっかりと空いた、虚ろでしかなかったここでの五年間。その向こうに、たしかに『あのひと』は、いた。
喉からの激流があふれる。まことの“声”になる。
真心の。
「!!! きて。いまこのとき、目覚めて。私を迎えに来て。淵王君…………!!」
「――遅い」
はっ、と声がしたほうを振り返った。窓の下にいた自分を通り越し、まさに月光そのもののような顔でしゃあしゃあと部屋に佇む美丈夫がいる。
流れる滝のようなぬばたまの黒髪。見るものを射抜く金の瞳。通った鼻梁、意志のつよい口元。額から生えて節くれだって伸びる角は、紛うことなき龍のもの。
下界では便宜上ひと型をとるのだと、昔、教えてくれた。妻問いのときだけは、と。
はらはらと涙が止まらない。
しゃくりあげることしかしない私に、淵王君は音もなく歩み寄った。肩に触れられ、やっと震えていたのだと気づく。
堪え切れず、目の前の胸に飛び込んだ。背に手を回し、がむしゃらに着物の袷に顔を擦りつける。
「ばか、ばか、ばか……!! 待ってたのよ。なんでこんなに遅いのよ」
「そなたが言うか」
呆れたような泰然とした呟きにつられ、顔を上げる。
視線が絡んですぐに唇を落とされた。
触れては離れ、そしてまた。
「ときどき――龍族の女は人間の女の胎に宿る。俺たちはそのたび、番いを見つけるために下界に降りねばならん。もう、何度繰り返したことか……」
「でも。私でなければならないんでしょう? あんなに力を削がれても。…………ごめんなさい」
「もういい」
「だって」
「いいと言っている」
――龍姫、と形の良い唇が動いた。
(!!)
囁きに乗せて息吹が。力が満ちる。指の先々まで戻ってゆく。
ああ、そう。龍姫。それが私の名。安直なまでの真名だ。
うっそりと微笑む私に、まるで桜を見つめる人の子のようなまなざしを向けた淵王君は、さらりと裾引く袂を揺らした。
「おいで」
「……はい」
手を引かれる。懐に抱き寄せられる。
固く固く。もう、決して離れない。
――――――――
早咲きの桜が、街道沿いに建っていた旅籠の庭を。うち、外れの小部屋いっぱいを埋め尽くすほどの花びらを一夜にして散らした。
桜の精が住処の仙界へ還ったのだと、まことしやかに語り継がれた『さくら異聞奇譚』。
もとい、本当は龍の夫婦が再び契りを交わした夜だった。
ひとの世とは異なる層。
仙界と言えなくもない、はるか天の高み。涌き出ずる泉の源。木々の葉がいたずらに織りなす影の蔭。
龍たちが睦みまどろむ常世においては、出会えたふたりのしあわせを末永く寿祝ぎ、『龍姫さくら奇譚』と。
〈了〉