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6月18日の夜に。

作者: ようこ


 暑くなってきたとはいえ、六月の夜風はまだひんやりとしている。

 開け放した窓から入ってくる涼しい風を頬で受け止めながら、あたしは薄闇の中、ごろりと寝返りをうった。


 静かだ。

 耳をすますと、かちっ、かちっ、という時計の秒針の音がする。あとは遠くから時折静寂を破るようにやってくるかん高いバイクの排気音。

 手元の目覚まし時計に手を伸ばすと、そっけない角ばったデジタルの数字が、今は夜中の三時だと告げた。

 ゆっくりと足を動かす。冷たいシーツの上を滑る感覚が、心地いい。

 そろりと立ち上がった。別室では両親が寝ているので、起こさないように注意して (もしくは起きている両親に気取られないように注意して)、 リビングへ向かう。

 当たり前なのだが、やっぱりリビングもしんとしていて、無愛想な冷蔵庫がぶー…んと音をたてるだけだ。


 唐突に、ああ一人だ。と思った。

別にあたしはこの家に一人でいるわけでもなんでもなくて、ただ物音がしないだけなのだけど、 今この瞬間あたしのことを考えてくれている人はいないんだろうなあ、と思うとすごく寂しくなった。ばかばかしいことだけど。

 いたたまれずに、テレビの電源をつける。

 白黒の画面の中にヘップバーンの姿を見つけて、チャンネルを変える手を止めた。

 ぱちくりとした目を瞬かせて、ヘップバーンは男を困らせていた。『ローマの休日』だった。そういえば男の子と初めて観た映画はこれだったなあ、と思い出す。

 ベンチで眠るヘップバーンをテレビが映している間、あたしたちは制服を着たまま、小鳥がついばむみたいな小さなかわいいキスをした。


 テレビをつけたまま、ベランダに出る。

 ぽつねんと立った電灯が、ひとりぼっちで頼りなげに闇夜を照らしている。

 ベランダから見る限りでは今日の夜空はとてもきれいだ。

 店の立ち並ぶ国道からちょっと中に入ったところにあるあたしの家はそれだけで十分静かだし、 周りはちょうど住宅ばかりで余分な明かりが少ない。それこそ、ちっぽけな電灯以外何にもない。

 だから、ひときわ星がきれいに見える。黒というよりは水色みたいな風が吹く。今日は涼しい。

 空気が冷たい夜は星がきれいに見えるらしい。

 何かの本で読んだ。ということは、冬がいちばんきれいに星空を見られる季節だということなのだろうか。


 ひとりでぼおっとベランダに立ったまま、どうでもいいことばかり考えていた。 星を見に行くならアラスカとかがいいのかな、やっぱり。とか、今すぐ外に出かけたいけど夜中にうろうろしたら危ないかな。あたし、見るからにさらいやすそうだしな。とか、浩は今頃何してるのかな。あ、寝てるにきまってるか。とか。

 短パンのポケットにカギと携帯を突っ込む。

 リモコンの電源ボタンを押すと同時に、テレビの中のローマはかき消えた。

 Tシャツの上にぶかぶかのカーディガンをひっかけて、家の人を起こさないように静かに玄関のドアを閉めた。


 素肌の上をさらっさらっと風がぶつかっては離れていく。

 マンションの廊下は足音が反響しやすい。

 適当につっかけたのが、白いヒールのサンダルだったことにちょっと後悔しながら階段を降りた。

 エントランスに出る。

 ガラス張りの自動ドアを出て、植え込みの横の段差に腰をおろした。携帯を開く。ディスプレイに浮かぶ「ヒロ」の文字と十一桁の数字。1000000000分の1の確率でようやく彼に繋がる数列。 唸り声ともうめき声ともつかない声をあげて、ディスプレイを閉じる。すごく声を聞きたくなった。正直にいえば、声を聞くだけじゃなくて、会って触りたかったけど、ただそれを頼むにはひんしゅくものの時間だ。

「えい」

 しかし、迷いはものの数秒で消えた。

 まずは、ごめんなさい、だ。ごめんなさいの一言が大事だ。

 呼び出し音の鳴っている間、不機嫌な浩になんと言い訳しようか考えながら、暗闇に浮かぶ白い足から視線を真上に上げて、夜空を見上げた。




 静寂をたたっ切る傍若無人な呼び出し音が、薄っぺらな闇に響き渡った。

 煎餅布団から這い出して、耳障りな電子音を鳴らし続ける携帯電話に手を伸ばす。 ディスプレイを開いた瞬間、あまりの明るさにぱっと眼をそらした。 誰からなのかもろくに確認せずに、僕は不機嫌なまま電話に出た。

「もしもし……」

『もしもし?』

 美帆だ。

「……お前、今何時だと思ってるんだよ…」

 文句を言う声にも力が入らない。枕もとの時計に目をやると、午前四時半を指していた。僕の怒りは正当だ。

『ほんとにごめんなさい』

「ごめんなさいじゃないよ……」

『ほんとにほんとにごめんなさい』

 あくびをかみ殺す。蛍光灯のヒモを引っ張った。ジジジ…という音がして何度か点滅を繰り返した後、ようやく部屋は明るくなった。

「で?何か用があったからわざわざ電話してきたんだろ?」

 まだ十分に回らない頭で、あ、今のは少しキツすぎたかなとうすぼんやり思った。

『さっきテレビつけたらね、ヘップバーンが出てて。あ、もちろんオードリーの方だけど。

「ローマの休日」。観たことある?…ヘップバーンがね、薬が効いてきて、あ、催眠薬のせいなんだけど、正体がなくなって酔っ払いみたいにベンチで寝ちゃうとこで』

「なあ、美帆」

 話を無理やりさえぎった。 このまま夜が明けるまで『ローマの休日』の話をされたんじゃかなわない。 それに何より、今は深夜だ。はやく、あの懐かしく温かい布団の中にダイブしたい。

「なんでもないんだったら、もう切るから。明日の朝、ちゃんと」

『会いたいな、今』

 そこだけ切り取られたようにくっきりと美帆の声が響いた。

『すごく』 


 なぜだか、眠気は一気に吹き飛んだ。



 ドラッグスターに跨って、ほとんど車の姿がない国道を走る。

 美帆は淡白な奴だと思っていた。こういう言い方をしていいのか分らないが、物分かりのいいやつだと思っていた。

 僕の七つ下で、まだ高校生だが面倒くさいことはほとんど言わなかった。

 仕事が立て込んで会えなくなった時期も文句は言わなかったし、好きだの愛してるだのは言ったことも言われたこともない。

 もちろん友達に紹介したいと言われたこともない。

 僕が高校生だった時と比べると、あの頃の僕が笑えてくる。恋愛なんてバカになってしょうがないものだと思っていたあの頃。

 ただその物分かりの良さが不安でもあったのだ。何せ僕は社会人で彼女は高校生であるわけだし、僕には想像もしえないことを、彼女は感じたり思ったりしているはずなのだ、きっと。

 身体の重心をずらす。やや細い道に入って、ブレーキを握った。

 マンションの植え込みの横で、膝を抱えて座っている美帆の姿が、安っぽい電灯の明かりに照らされていた。

 バイクのスタンドを立て、ヘルメットを脱いでいると、僕に気づいた美帆が歩み寄ってくる。

 僕が何か言う前に、美帆がぎゅっと抱きついた。背中にまわした手が、僕のジャケットをきつくつかんでいるのが分かった。


「…美帆?」

「こんな時間にごめん。……でも、来てくれてありがとう」

 僕の腕の中でじっと見上げてくる。返事の代わりに軽く頭をなでた。

「ほら、あたしまだ思春期だからね。いろいろ不安定なの」

 美帆は他人事のようにさらりとそう言ったが、

「違う。うそ。なんでか分からないけど会いたくなったの、すごく」

 それだけ言うと、あっさりと僕から離れた。

 僕はと言えば、彼女に振り回されているにも関わらず、ずいぶん満ち足りた気分でいることに気づいた。

 考えてみれば、こんなこと、二人の間では初めてなのだ。

 久々に見た美帆はずいぶん小さな子のように見える。 甘くてやわそうな唇をすぼめて何か考え事をしている。 今の美帆の肌は、すっぴんだからなのか、それとも明るい電灯の下だからなのか、ぺかりと優等生のようだった。


「明日は仕事?」

「いや、日曜だから休みだけど」

「海行かない?」

「海って…今から?」

「そう。今から」

「俺はいいけど…海ってここから三十分はかかるよ。家、大丈夫?」

 美帆は、時折、僕の思考の枠をいとも簡単に飛び越える。

「いいの。明日日曜だからみんな遅くまで寝てるし、何か聞かれたら朝早くから出かけてたって言えばいいでしょ」

 別にうそついてるわけじゃないもん、もう五時前なんだから。

 部屋着らしいショートパンツから伸びた足が軽く地面を蹴る。 美帆は笑った。 今更ながら、美帆がずいぶん薄着なことに気づいた。 いくらなんでもこれでバイクに乗ったら風邪をひく。 着ていた上着を脱いで、彼女のカーディガンの上からかけてやる。

 細い肩だった。

「それにしてもなんで今から海?」

「日の出が見たくて」

 サイズの合わない上着を着て、美帆がぐるりと回って見せた。 僕はしばらくあんぐりと口をあけていたが、やがてため息を吐きだして美帆の手をひいた。 彼女はそのまま、タンデムシートに跨って、僕の腰にぎゅっと手をまわした。

「そういや、美帆は乗ったことないよな、うしろ。しっかりつかめよ」

「お手柔らかに」

 美帆がくふふと笑うのを背中で聞いて、小さく息を吸った。


 目を閉じる。

 バイクのエンジン音に夜闇の黒が溶けて、視界に広がるのはきっと鮮やかな朝焼けのオレンジだ。




  -THE END-


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