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周姫(二の丸様)と小次郎元宜と毛利輝元の人生

 私は、昔より古刹の寺巡りが好きで今回は山口県周南市の興元寺を訪れた。

 興元寺の外観は石垣を巡らし、まるで武装寺院のようであり戦国時代を生き抜いてきた迫力が感じられた。

 庫裏に招かれ住職と対面した。住職は柔和な面持ちで様々な昔話を聞かせてくれた。

 最後に児玉の姫様と杉家の悲劇の物語を目を潤るわせながら語った。

 時は安土桃山時代から徳川時代の黎明期、毛利元就が中国地方の覇権を握り、孫の輝元、子の吉川広家、小早川隆景の時代に移りつつあった。

 その頃、毛利の家老職の児玉氏に美女の誉れ高い周姫がいた。ある日彼女に一目ぼれした武将がいた。

 輝元である。それを見て元就は、毛利家の女禍の元となると考え児玉氏の両親に娘を嫁に出すよう命を下した。 

 両親は泣く々娘の嫁入りを決め、中国山地(児玉氏の本拠)から野上庄(山口県周南市公園区から野上町に到る)の杉家に輿入れさせた。

 それからの彼女の波乱に富んだ32年間の生涯にスポットを照らしてゆきたい。

(周姫誕生)

 彼女は、中国山地の山奥の児玉氏の娘として生まれた。珠のように輝ける美しい幼子であった。

 母に連れられて城下を歩いていると、行き交う人はその華のような美しさに思わず振り返るが如くであった。

 当時、児玉氏は元良が当主を継ぎ毛利家の家臣として仕え、本領を安堵されていた。

 中国地方は、毛利元就が尼子氏を石見国にて滅亡させ、毛利家は全盛期を迎えていた。

 当主も世代交代を迎え、元就から輝元へと移行していた。

 輝元は生まれながらにして大大名の頭目として生を受けた。

 しかし、彼は幼少期に父の隆元を病で亡くし若くして太守の座に就いたが、実権は祖父の元就が握り、二人の叔父である吉川広家、小早川隆景が補佐する形式だけの若殿様であった。

 そのため、彼の結婚も元就が毛利家の箔を考え京都の位の高いお公家さまの娘を許嫁とした。

 輝元は、この許嫁が大嫌いであった。

 自尊心が強く、我がままで、見栄はりで元就と接遇する時と彼と話す時とでは態度が違い、明らかに見下していた。公家風を誇りとしていた。

(周姫の幼年期)

父の屋敷には、多くの近在の武士や農民が出入りしていた。

 可愛い彼女を見ては、皆が愛らしい顔になった。そのようにして、彼女は児玉庄で美しく育っていった。 

 特に母と乳母を連れ立って野イチゴ狩りに裏山へ出かけるのが楽しみであった。

 赤色と黄色の小粒の野イチゴを胸一杯抱きかかえて、口一杯に頬張るのを楽しみとした。

 そのような日々が何年も続いたとある日、毛利元就が児玉元良のもとを家臣団を伴って訪れた。

 屋敷中がてんやわんやの喧騒の中、両親、侍女、郎党が料理や酒を元就と摘孫の輝元及びその家臣団に振舞っていた。

 幼い彼女も多くの者に混じってめいっぱい接待に勤しんだ。

 母と乳母より鍛錬を受けた琴と横笛を披露した。

 毛利家の家臣団の武士達は口ぐちに周姫の美しさ、可憐さを褒め称えた。

 その中に成人に達した輝元がいた。この出会いが周姫と輝元の最初の出会いとなった。

 輝元は輝けるような姫の風貌、将来の美しく成熟するを予感させるような肢体、特にお尻の括れ、また小鳥が囀るような美声、穏やかな風に乗り流れるような黒髪のしなやかさに一目惚れした。

 彼女は、輝元の前に跪き、お酒を杯に注いだ。

 「周姫と申します。よう遥々おこしやす。お楽しみください。」と奏上した。

  輝元はこの幼女の挨拶に顔を赤らめ、思わず彼女の手を握りしめてしまった。

  彼女が「あ」と叫んだ。その瞬間、衆目を集めてしまった。輝元は強く欲しいと思った。

 隣で元就に酒を注ぎ談笑していた彼女の父、元良は輝元の目の輝きや所作に不安を覚えた。

  輝元が近い将来、娘を側室に望むのではと、たとえ迎えられても正室との確執に苦労するに違いないとも思った。跡継ぎを巡っては、娘の子と正室の子とが家督を争い毛利家を二分するのではとも。

元就も輝元の動揺にきずき、その大きな目でこの幼子を睨みつけた。

 周姫は恐怖に慄き、あとすだりし目に溢れんばかりの涙を溜め、泣き出した。

 元就は、元良を別室に控えさせこの幼子が将来毛利家に害をなすに違いないと説いた。

 早く他家に嫁ぐか自害させよと迫った。

(野上の庄への輿入れ)

 野上の庄は、現在の山口県周南市の旧徳山区域にあたり、大内氏及び陶氏の時代は野上氏が治めていた。

 やがて大内氏が陶氏の下剋上により滅亡し、その陶氏も厳島の合戦で毛利元就の奇襲により破れ滅亡した。

 その煽りは、当時野上の庄を陶氏より任されていた野上氏の元にも訪れ、毛利氏の大軍が陶氏を滅亡させた余勢をかって攻めてきた。

 野上氏は末武氏と共に野上の庄の東の境の末武川の西岸に陣取った。

 毛利氏の大軍が東岸に陣取るやいなや、川を挟んで矢合わせが始まり、騎馬武者どうしの斬り合いが始まった。

 野上氏と末武氏の連合軍は果敢に毛利軍に挑んだが多勢に無勢、やがて一人、二人と打ち取られ大将も最後の突撃を敢行した。

 二人の大将は雑兵の槍に倒れた。野上氏、末武氏はついに滅亡してしまった。

 その後直ちに、毛利元就による論功行賞があり、野上の庄は杉元相の杉一族に与えられた。

 野上の庄を受領した杉元相は、野上屋敷(旧野上氏居館)の改築と共に氏寺の興元寺の建立に着手した。

  そんな中、毛利家の家老内藤氏(周姫の母方の親許であり、代々美形の婦女子を輩出している。)が杉家の嫡男小次郎元宣に縁談を持ち込んだ。

 杉家としては、毛利家家老の斡旋した良縁に対し喜んで快諾した。

 しかし、この縁組を近習の噂話から聞いた輝元は、周姫を迎えたく築いた広島城で気の狂わんばかりに嫉妬した。

 元就の亡き今、彼の思いを妨げるものはなかった。

 輝元は、近習に周姫の婚礼の一団の行程と刻限を調べさせ後を追いかけることにした。

 輝元には、青年期に初めて幼き周姫に会った時の喜びが生まなまとが甦った。

 彼女がどの様に美しく可憐に成長したのかを自分の目で見たかった。

 数日後、輝元は周姫の輿入れの一行の後を追うべく広島城を屈強の近習を引き連れあとにした。

 当時の結婚は、家と家を結びつけるもので、新婦は新郎と会いまみえることもなく嫁ぎ先に侍女、乳母と郎党の武士を伴い遥々徒歩にて数日をかけゆくのが常であった。

 周姫が嫁いだのは盛夏の盛りで蝉がけたたましく鳴き、強い日差しが容赦なく照りつけていた。

 内藤家老の用意した輿に乗り中国山地の山奥を発し、3日をかけてようやく野上の庄に着いた。

 (大人に成長した周姫との再会)そのあとを騎馬の一団が静々と追いかけていた。

 その一団の中に殿と呼ばれる人物がいた。輝元であった。

 彼は、幼い周姫を心に思い浮かべながらひたすら周姫一行との距離を縮めようとした。

 そして、周姫の輿が物陰より見える所で馬を静かにとめ、馬から降り藪を掻き分け輿との距離を縮めた。

 輿の一行が野上の庄が見渡せる山道にさしかかった時、彼女は輿を降り自分が生涯を過ごすであろう山容や平野を見渡した。

 生まれて初めて海を見、そこに沈む夕日の美しさに目を奪われた。

そして、まだ見ぬ小次郎元宣の風貌に思いを馳せた。

 背は高いか、筋肉質か、胸板は厚いかと思えば思うほど小次郎への夢は膨らんでいった。

 性格はどうか、保守的であろうかそれとも開明派であろうか。

 武術の腕は、如何ほどのものであろうか。剣術、弓術、槍術、馬術、兵法どれをとっても戦場では直接命に係わるものばかりである。

 そんな光景を藪狭間より輝元はじっと凝視していた。

 彼は、周姫の輝くばかりの成長した姿に目を奪われその場に立ち尽くした。

 彼の脳は周姫の可憐な花のような美しさに焼き尽くされた。更に十二単の襦袢が風に吹かれ巻き上った瞬間、襦袢の下より漏れ出る白い肢体の艶めかさに驚いた。この世のものではなかった。

 その時、周姫は侍女を伴って輝元の方へ近ずいてきた。

 侍女は彼女を覆うように板を立てた。彼女は小水が催したようだ。

 板の狭間より彼女が襦袢をたくし上げた。

 輝元はその光景を見て興奮し、それを配下に悟られまいと思わず木の上の雉に目をやった。

 輝元は、彼女に露見してはいけないと思いその場を速やか立ち去った。

 やがて一行は、山を下り平野部に出て左手に興元寺を見ながら杉家の館(徳山動物園付近)を目指した。

 (周姫と小次郎初顔合わせと婚儀)数刻後、一行は杉家の居館に到達した。門前には、杉親子、親戚筋、一族郎党、侍女が衣装を整え待っていた。

 周姫は駕籠の御簾より真っ先に夫である小次郎元宣を見た。それから杉一族の人達をしげしげと眺めた。

 小次郎の印象は、背高く鼻筋が通り筋肉質で逞しかった。

 髷を美しく結い面長の凛々しい顔立ちの武者の姿であった。

 周姫は駕籠より降りて初めて小次郎と真向い、お互いを見合った。

 小次郎は、周姫の潤んだようで大きく見開いた目、大きく上を向いた乳房、やや大きめの上品な臀部そして柳に流されるような腰つきに驚かされた。

 長い黒髪は、風に流れてゆらゆら舞い上がっていた。

 噂には聞いていたが周姫のあまりの美しさに、この世の者かと見惑うばかりであった。

 小次郎は、周姫のつぶらな瞳に魅入られ赤面してしまった。

 なんとか体面を保とうと大人びたふりをした。そこに鶯が囁くような周姫の声が聞こえてきた。

 周姫を見た小次郎の父は、藩の中で真しやかに囁かれている噂が急に真実味を帯びてきているようで、不安になった。

 大殿が青年期に幼き周姫に恋心をいだき、自分の側室に迎えたいとの野心を現在ももち続けているという実しやかな噂である。

 周姫とその一行は、杉家の屋敷で履物を脱ぎ皆各々疲れをとった。

 お供の衆は交代で湯を浴び、垢を落とし新しい衣に袖を通した。

 周姫は、御付の女中衆と乳母に伴われ杉家の殿湯に向かい、そこで汚れた旅装束を脱ぎ、檜風呂に入る前に乳母に湯船の湯を掛けてもらい体の隅々まで手拭で拭いてもらった。

 乳母は、周姫に対し早晩婚儀の後にするであろう床入りの儀の話を手振りと言葉を交えて教え込んだ。

 乳母は、思いの外の周姫の反応に驚いた。聞いてみると児玉の里から出立する前夜、悲しみに咽ぶ御母堂から同衾をせがまれ強く抱きしめられながら、跡取りを設ける方法を身を挺して教え込んだようである。

 乳母は、幼さを残した周姫の心の内面の成長ぶりに喜びを隠せなく、つい涙ぐんだ。

 その後、周姫とその一行は、宴会場に誘われ各人は指定された席に着座し、周姫は中央の右手に小次郎は左手に席をとった。

 宴席の料理は、海産物を中心に猪肉の燻製物を添えた膳が供された。

 小次郎の父より周姫一行の遠路遥々訪れへの感謝の弁が述べられ、次に小次郎自らが武勇に励み杉家を盛り立ててゆくとの誓詞を述べた。

 次ぎに、周姫側の武者頭より丁寧なる出向かいと豪華な宴席、料理に対し感謝の弁が述べられた。

 最後に、周姫が小次郎の妻として杉家を盛り立て、両親を敬い、跡継ぎを設けると誓った。

 宴は一晩中つずけられた。

 宴が二日目を迎えた頃、突然毛利本藩の騎馬武者が伝令を持参し、杉家へ出兵の命令を下した。

 筑前国(福岡県)で小早川隆景の与力として布陣し、大友宗麟の軍と戦うことであった。

 しかしこの出兵には裏があった。。

 事前に輝元は九州に参戦中の小早川隆景を広島城に呼び、自分が児玉家の周姫をいかに愛しているか、周姫なしでは生きてゆけないこと、側室に迎え子供をつくり毛利家の跡取りにしたいととくとくと隆景叔父上に懇願した。

 隆景は、輝元に対し部下への不義理は毛利家に従ている武士の離反をまねくと反対した。

 毛利家当主の強い懇願に対し隆景も渋々同意した。

 そして、大友氏との戦の中で杉小次郎元宣の憤死での殺害を小早川隆景に、周姫の誘拐を配下の佐世元嘉に命じた。

 そのような命が下っているとは露しらぬ杉家では、急遽宴席を中断し、小次郎、父元相、杉家の一族郎党及び児玉家より遣わされたの武士が、各々の家に帰り、武器と甲冑を纏って杉家の庭に参集した。

 女達は、道中食する保存のきく干し飯、日干し肉と日干し魚を急遽作り、運搬用も小型の甕になみなみと水を注いだ。

 周姫も婚礼衣装を脱ぎ、麻衣に着替え袖をまくり女共に混じり戦支度を手伝った。

 そして戦支度が整ったところで、小次郎とその郎党一党は天にも響く掛け声をあげた。

 小次郎はひそかに周姫を呼び、必ず生きて帰り二人だけの夜の宴を催し、やや子をもうけることを約束した。

 周姫は,頬を赤らめ下を向き頷いた。

 小次郎の瞼にも一瞬涙が零れ、この姫を置いて絶対に死ねないと誓った。

 その後、一行は野上の庄の浜辺に行き、毛利本藩が用意した戦船に乗船した。

 小次郎は、彼方に見える生まれ育った屋敷と周姫のことを思った。

 小次郎は、この景色と周姫にまみえることが最後の運命にあることを知らなかった。

 小次郎と郎党を乗せた戦船が赤間が関を通過して、初めて毛利の戦奉行より船の行き先が知らされた。       那の津(博多)の小早川隆景の陣の与力として、豊後の雄である大友宗麟と戦うよう告げられた。

 小次郎は相手にとって不足なしと思い、全身に気が漲、血が張り巡らされるようであった。

 半日が過ぎたであろうか、船は那の津湾に入港し、桟橋より軍馬、将兵、郎党、鎧箱、武具を次々と下していった。

 小次郎と郎党は、兜をかぶり鎧を身に着け、武具を携え、毛利の兵卒に誘われ小早川本陣に赴いた。

 大将の隆景、毛利家の侍大将とその場で水杯を交わした。

 そこで戦仕立ての説明が隆景と侍大将からあり、小次郎と郎党は戦の最前線で敵の本体を側面から突撃するよう命じられた。

 隆景は、その時輝元の頼み込む顔と哀れな小次郎のことをおもった。

小次郎の若武者ぶりに心苦しさと後悔を覚えたが、毛利藩のことを思うと我慢せざるをえないと思った。

 早朝、小次郎は大友の主力の立花氏の軍と那珂川を挟んで対峙した。

 小次郎は気が高揚し、全身に力が漲るとともにふと眉目で秀麗な周姫の姿が脳裏に一瞬浮かんだ。

 戦は、両軍の矢合わせから始まった。

 小次郎は矢襖に見を隠し、矢合わせが終わると見るや愛馬に騎乗し那珂川に入り、一番槍を付けた。

 それを見た立花軍の騎馬が単騎で小次郎の元をめざして向かってきた。

 両者は接触するやいなや、小次郎は身を翻して敵の槍をかわすとともに手に持つ槍で相手の脇腹を衝いた。

 敵将は那珂川にどっと落ちた。

 小次郎一党は尚最前線で奮闘し、敵に野上の杉氏ありと印象ずけた。

 その日の夕刻に戦は終わり、小次郎は本陣の隆景の前にいで、金子と恩賞(与地の証文)が与えられた。

 そしてなぜか帰還命令が下った。

 その頃、野上庄の杉家の仏壇の前で小次郎の安否をきずかう周姫の姿があった。

 彼女はこれから小次郎の身の上におこるであろうことも、また自身の身に起こる悲惨な運命を露知ることはなかった。

 まさに、彼女の運命を変えるであろう広島からの輝元の命を受けた佐世元嘉を乗せた軍船が野上庄の櫛ヶ浜に着岸しようとしていた。

 佐世元嘉は杉家に赴き、周姫に小次郎の陣屋に行き小早川軍の裏方を手伝うようとの輝元の命令書を手渡した。

 周姫は、恭しく命令書を受け賜ったことを佐世に伝えた。

 佐世は、周姫の美しい所作、小鳥が鳴くようなその声、可愛らしくうぶらな瞳、夏用の薄絹の着物の下に透ける長襦袢のたおやかな姿に目を奪われた。

 佐世には、大殿が恥も外聞も捨てて一人の女に執着する理由が察せられた。

 周姫が、初夜を迎える前にぜがひでも奪い去るとの大殿の強い意志が佐世の背を強く押した。

 佐世は、周姫の乳母を別室に呼び、大殿の命を伝え、眼をみはるほどの黄金をさしだした。

 そして、乳母に大殿の命に従い黄金をとるか、それとも死を賜るか返答を迫った。

 乳母は、顔を紅潮させ震えながら賛同の意をしぶしぶ伝えた。

 乳母は、早速周姫に櫛ヶ浜へ行き、沖に停泊中の毛利家の軍船に誘った。

 周姫は乳母と供回りの侍従を従えて軍船の船倉に入った。

 彼女は生まれて初めて船を見、船内の畳敷きの居所に身を置いた。

 彼女が畳の上に着座するやいなや、船の碇が引き上げられ帆を巻き上げる者達の掛け声が響き渡った。

 船は飛沫を上げ野上の庄を後にした。姫は船の水切り音とその疾風の如き加速に酔いしれた。

 小次郎のもとへ駆けつけている喜びとまだ見ぬ戦場に思いを馳せた。

 しばらく疾駆した後、船は急旋回して東の方向を目指し始めた。

 さすがの姫も異変にきずき、乳母に変事が起こっているのではと不安げに尋ねた。

 乳母は佐世と事前に協議したことを姫が納得するように述べた。

 広島城に赴き、大殿より小次郎との婚儀に祝辞を受け、引き出物を賜るとのことであった。

 姫は納得し、初にお目見えする大殿に思いを馳せた。

 自分よりずいぶん年長者であることは薄々わかっていた。

 しかし彼女には大殿が自分に対して極度にご執心で小次郎から奪い取ろうとしているとは露思わなかった。

 船は、上関で水と食糧を積み込み休憩後出港した。

 姫も船旅にようやく慣れ、島々の景色を眺める余裕ができた。

 やがて宮島の巨大な赤鳥居が見え、海に浮かぶ神殿の全容が分るようになった。

 宮島を後にして、船はいよいよ広島湾に入り埋立地に町並が出来始め、その中心に広島城の雄姿が見えた。

 一方小次郎とその郎党は、突然の帰還命令が発せられ渋々那珂川の主戦場を毛利の軍船であとにした。

 船に乗船するとき、小早川隆景自らが周囲を圧倒するような勝鬨で小次郎一行を鼓舞し華やかな門出を演出した。

 同時に、隆景は軍船の戦目付を物陰に呼び出し大殿の密命を伝えた。

 戦目付は、隆景に再度密命の中味を確認し毒殺のための猛毒の塗り薬を船に持ち込んだ。

 やがて軍船は、下関海峡に達し港で食糧と水を補給した。

 それから、佐波の中の関で人を下した後いよいよ野上の庄の沖合に達した。

 戦目付は小次郎と郎党に杯を渡し、今回の戦闘にたいする労いの言葉をかけ酒をなみなみと注いだ。

 戦目付と毛利水軍の郎党も一緒に同じ酒が注がれた。船の中で乾杯の音頭が一斉に発せられた。

 酒肴も鯛のさしみと焼き物が用意され、皆が酒と一緒に嗜んだ。

 小次郎と郎党の杯には内側に無味無臭の猛毒が塗り込まれていた。

 まず郎党の一人が体を震わせながら苦しそうに血を吐いた。

 そして目剥きながら息絶えた。次々と郎党も同じように息絶えた。

 小次郎も同様に戦目付に対し「だまし討ちとは卑怯なり」声を張り上げ、「何の遺恨があってこのような仕儀にいたりたやと。

 息絶え絶えの小次郎は、長刀を抜き戦目付に切りかかった。

 戦目付は小次郎の長刀をかいくぐりながら、「大殿の主命でござる、お覚悟のほどめされい」と抜刀するなり小次郎を袈裟懸けにて切り倒した。

 その後、遺体を櫛ヶ浜の沖合十余里の海中に投じられた。

 小次郎は沈みゆくなかで、新妻の眩しいばかりの周姫の姿と故郷の山野、両親のことが蜃気楼のように思い出され、やがて記憶のかなたへと霧散していった。

 海上は血みどろとなり、その夜は青白い人魂が跋扈しているのを漁師はくちぐちに語った。

 その頃周姫は疲れたのか、夕日に沈む宮島沖の景色をうとうととしながら見、やがて深い眠りに落ちた。

 彼女の夢の中で、海の上を騎馬に乗った武者とその一団が遠くから青白い人魂に導かれながら近ずいてきた。

 よく見ると武者は、血みどろかつずぶ濡れで暗い表情をして姫に近ずいてきた。小次郎であった。

 姫が何か語りかけたが、小次郎は何も語らず恨めしそうに姫を眺めていた。

 姫は恐怖のあまり、突然目が覚めた。

 姫は、小次郎の身に何か不都合なことが起こったのではと急に不安になった。

 乳母にそのことを話したが、姫さまの取り越し苦労に違いませんとこたえるばかりであった。

 しかし、乳母には確信があった。小次郎が死んだと。姫を見ると、後ろめたかった。

 しばらくして、船は広島湾に入り河を遡り広島城に到った。

 翌日野上の庄の櫛ヶ浜に小次郎達の遺骸が打ちあがった。

 無残なその姿に漁師達が憐れみ、杉家に報告し、すぐに小次郎の両親がすぐにかけつけた。

 厳かに葬儀が行われ、遺骸は氏寺の興元寺に葬むられた。

 その頃、何も知らない周姫は船を降り、広島城への桟橋の上を歩んでいた。

 なぜか桟橋から入場門までの両側に毛利家の家臣団が隙間なく並び、周姫が前を通過するたびに一人ひとりが一礼をした。

 それは城内に入っても続いた。家老級の武士が城内を説明しながら二の丸へと向かった。

 周姫は乳母に不安を打ち明けて、なぜ全ての武士が自分に傅き羨望の目で眺めるのかを尋ねた。

乳母は、佐世の方を見ながら示し合せのとおり姫様が小次郎様の代役として大殿に拝謁し、小早川隆景の与力として那の津(現在の博多)の戦に参陣させてくださったことへのお礼を言上しにあがったと述べた。

周姫は二の丸に入ると一段低い下座に座り平伏し、頭をたれた。

欄間の隙間より滾るような視線を感じた。輝元である。

視線は姫の色鮮やかな衣とそこから匂い薫る色気、衣の下より襦袢の透けた体形を追っていた。

しかし、黒髪豊かで美しい彫の深い顔がよく見えなかった。

輝元は、高座のよこの木戸をあけて姫の前に着座した。

 輝元は早く姫の顔見たさに、拝謁の礼を促した。

 姫は恐る々顔を上げ大殿に黙礼し、小次郎の那珂川の戦いへの参戦への心ずかいに対し御礼の言葉を述べた。

 輝元は、姫の彫の深く色白で二重瞼の大きい眼を見て驚愕し、その鳥の声でさえずるような口上に感銘を受けた。

 輝元は姫の円らな視線に思わず赤面してしまった。

 「参内、ご苦労」と近習に悟られんように返答し、姫に対して鼈甲の櫛、純金の髪飾り、香道の薬等を下賜し、姫の顔色を窺った。

 姫は大殿が自分に対しかような奢侈で豪華な下賜品を賜る理由がわからなかった。

 後ろに控える乳母に、どうしたものか目配せをしながら尋ねた。

 乳母は、姫の問いかけに慇懃に礼を失わないよう戴くよう促した。

 その後、豪華な夕食膳が振舞われ、姫は礼にのっとって鯛、サザエ、鮑、鱧の西京焼に箸を付けた。絶品であった。

 席の後ろに控えている乳母が姫に大殿に一献を献じるよう促してきた。

 姫は大殿の席前に鎮座し、酒を捧げた。

 輝元は姫の両手首を握りしめ、腕を引き寄せ腰にておかけた。

 姫は驚き抵抗したが、いかんせん男女の力差ではいたしかたなく、抱きかかえられそうになった。

 姫は「大殿、私めは婚礼をあげたばかりで主人に対し操を守ってきました。ご容赦くださいませ。」と叫んだ。

 輝元はより強く抱きしめたと同時に襦袢の下に手を入れてきた。

 姫は、急遽懐剣を取り出し自分の首元に刃を突きつけた。僅かに鮮血がほとばしった。

 驚いた輝元は、姫に詫びをいれ席を立ち、二の丸を後にした。

 姫はその席で泣き崩れ、乳母に泣きついた。

 早く二の丸を出ようと障子を開けると輝元の侍女、小姓が逃げられぬよう立ちふさがった。

 その夜は、二の丸御殿で乳母と共に眠りにつき不安な夜をあかした。

 朝起きると脇に小姓が運んだのか、御粥、貝汁、卵焼きそれと沢あんの朝餉が用意されていた。

 姫は食欲がなかったが、乳母のすすめもあり食した。

 二の丸で静かに過ごしていると小姓が小次郎の安否について緊急の伝令が広島城に届いたことを告げた。

 伝文には小次郎が那珂川の戦闘で奮闘空しく敵の刃にかかり、馬上から落ちたところを雑兵に首をとられたと記されていた。

 姫は失意のあまり懐剣を取り出し自害をしようとしたが、乳母と小姓が身をていしてとめた。

 姫はその日は二の丸で失意のうちに涙が止まらず、大きな瞳を一日中覆っていた。

 翌朝、大殿が二の丸を訪ね、このたびの不幸に対し弔意を述べ、小次郎の働きに対し領地の加増の褒賞をすると下命した。

 そして、姫が失意から回復し元気がもどるまで、輝元は二の丸に行くのを止めて、やがて一週間が過ぎようとしていた。

 姫は広島湾を眺め、白い海鳥が飛び立つのを白馬に跨った小次郎にみたてながら見ていた。

 涙が次々と溢れ、食事もままならず少しずつやせていった。

 そんな時、大殿が乳母を従えてやってきた。

 大殿は同情しながら、乳母を通じてこのまま二の丸に側室として留まってほしい旨を下した。

 姫は自分が野上の庄の杉家の正室であり、これからは小次郎の菩提を弔いながら剃髪して尼寺に居を構えたいと言上した。

 輝元は息をこらしながら、周姫に対しそなたの運命は側室として私に仕えることであり、これは上意であると言い放った。

 姫は、頑なにこの上意は小次郎に対し不義理であり理解できないと言上し、懐剣を喉先にあて自刃しようとした。

 怒り心頭の輝元は、上意に背けばそなたの生まれ育った児玉家を取り潰すとすごんだ。

 そなたの為に両親、兄弟、侍従、郎党、全てが領地を離れ流浪することになろう。

 それでも上意を拒みつずけた為、輝元は児玉家へ御取りつぶしの使者を派遣した。

 流浪の武家となった姫の兄ぎみから児玉家の窮乏を伝える使者が、広島城に入り二の丸で姫に文を渡した。

 姫は、文を見ながら両親、兄弟のことを思い涙がとまらなかった。

 姫は自分の運命を呪いながら、流れにまかすことを決めた。

 その夜、輝元は初めて二の丸の寝屋を訪れ姫と酒と酒肴を食し、両者がほろ酔い加減になったところで姫に「参る」と一言発し彼女を軽々と抱きかかえながら、蚊帳に覆われた絹布団に彼女を横たえた。

 彼女は両目を閉じ、大粒の涙をながしながら輝元をうけいれた。

 輝元も彼女の紅潮した顔の涙をそっと掬ってやり、その肢体に対しても自分を抑え優しく接した。

 蚊帳の中で二人は遂に結ばれた。濃厚な夜が終わり、朝を迎えた。

 鶯であろうか、その甲高い鳴き声に二人とも目を覚ましたようであった。

 彼女にとって長い初夜がようやく終わりをとげた。

 二人は静かに無言で起き、各々乳母と従者が見繕いし朝餉の間に誘われた。

 朝餉には、瀬戸内産の鯛の干物、上質の焼き海苔、新鮮な卵焼き、炊き立てのご飯が用意されていた。      姫にはみるからに御馳走で、空腹をかきたてられた。

 着衣をいまいちど正し、大殿に礼を尽し昨夜の温情に対する感謝の意を伝えた。

 大殿が朝餉に箸を付けると姫は、乳母に自分も朝餉を食してよいか目視で尋ねた。

 その時輝元より言葉にて朝餉を食すよう指示された。

 姫は若さゆえであろうか空腹感に耐えきれず、昨日の失われた体力を取りかえそうととにかく御馳走に箸を運んだ。

 輝元は姫の食事中に「昨夜は大儀であった」と一言放ち、中座して部屋を出で臣下の挨拶を受ける大広間に向かった。

それからの姫の一日は、朝二の丸の庭から広島湾の島々を眺め、白鳥の舞う姿にふと亡き夫の白馬に跨った武者姿を思い浮かべた。

昨夜のことを天国にいるであろう小次郎に祈るように許しを請うた。

たまに昼餉のあと乳母と女中と近習を従え広島城下を巡った。

それから、正室である南の方に挨拶に訪れた。

部屋は、二の丸と違って豪華で飾り物も金銀をふんだんに用い、庭には山紫水明を表した滝、石灯籠、巨大な庭石、白い玉砂利が配されていた。

 南の方は、周姫を睨みつけ強い殺意を感じたが、表には表わさずしずかに上から目線で挨拶を受けた。       周姫は、雰囲気を察し退出の辞を述べて、すり足であとすだりし襖を開け退出した。

 そして乳母と共に足早に二の丸へ歩を進めた。

 二の丸について乳母と南の方の殺意についての恐怖を覚えた。

 城内で食する菓子、食事、飲料水に毒を盛られるのではと不安になった。

 その頃、輝元の下命により故郷を追われた児玉氏一族、郎党、妻子は、姫の嫁ぎ先である杉氏をたより野上の庄を目指していた。

 一月後に杉氏の館につき、野上の庄の中ほどの田畑を拝領した。

 現在の周南市児玉町から児玉公園に到る区域に該当する。

 広島城の二の丸に拘束され、夜は輝元の寵愛を受け続け、昼は乳母と共に瀬戸内海の島々を眺めながら、ようやく1年が過ぎようとしていた頃、彼女の身に異常が起こった。

 食事を取ろうとして、匂いをかいだ時突然嗚咽しそうになった。

 不安になった姫は、乳母に相談した。乳母は、速やかに御典医を呼ぶよう侍女に指示した。

 御典医は、姫の手首に布をあて指先で滑脈の状態を確認した。

 そして、姫に向かって「ご懐妊おめでとうございます。」と述べた。姫は愕然とした。

 自分には、不義の子が宿ってしまったと思った。

 小次郎とその両親、また児玉家の両親に対し面目が立たないと思った。

 御典医は、輝元と正室の南の方にそのことを報告した。

輝元は歓喜して喜びを表し、一方南の方は表面上は笑みを浮かべ祝辞を述べ、心のうちは怒りと嫉妬と強い殺意が生まれた。

 城中は殿の跡継ぎが生まれるに違いないという噂でもちきりであった。

 そのような中でとんでもない事件が起きた。

 二の丸で殿と姫が朝食を飯あがる前に、事前に毒味役が御膳を試食していると突然吐血し、悶絶し絶命した。

 城中は大騒ぎとなり、直ちに犯人を捜しに調査役が饗場に向かうと、女中が自害していた。

 姫もこの事件があり、これまではお腹の子供のことを恥ずかしく疎ましく思っていたのが急に愛おしく自分が守らなければと思うようになった。

 南の方の仕業であることは薄々かんじていたので、まず乳母に相談し次に彼女付きの家老、最後に輝元本人に相談した。

 城中での出産には不安があり、また毒を盛られはしないか、刺客に襲われないかと訴えた。

 姫は、輝元に城外の知己の土豪の屋敷で出産したいと願い出た。

 姫は、輝元にのみ隠れ屋敷の場所を知らせた。

 実家の児玉家が親しくしている長門国の小野村(山口県宇部市)の財満就久の屋敷で出産したいと申し出た。

 輝元はその申し出を快く受け、護衛として腕の立つ影武者を十数名付、また財満家には十分の金銭の援助を約束してくれた。

 翌日の夜、姫と乳母と侍女と護衛武士を乗せた戦船は広島城の桟橋より誰にもきずかれない様離岸し、海に漕ぎ出た。

 厳島神社の鳥居を以前とは逆方向にみながら西進し、やがて上関港(山口県玖珂郡上関)に着いた。

 そこで、水や食料を積み込み漕ぎ手を休ませて中関港(山口県防府市)に向かった。

 そこには、予め知らせてあった実家の児玉の兄上と侍女、その郎党並びに杉家の武士が待ち受けていてくれた。

 そこから徒歩で小野村に向かった。

 山陽道を西に進み、途中駅舎にて昼食をとり、次の駅舎の本陣にて一行は夕食をとり風呂で汚れを流し眠りに着いた。

 姫も是までにない疲れを感じ、乳母の腕枕にて熟睡した。

 翌朝鳥の声と共に目が覚め、寝間着を着替え朝食をとり本陣を出発した。

 昼には小野村まで半日の距離にある駅舎に着いた。

 そこで昼食を取ったのち小野村の財満家へ日暮れ頃に到着する旨の使者を遣わした。

 一行は半日程歩いて財満家に着き、姫が当主の財満就久にお世話になりますと慇懃に挨拶をした。

 財満家では、一行に対し新しい衣装を与え、道中の汚れをとるための入浴を世話し、豪華な食事を用意し寝床まで準備した。

 その頃、広島城の中では姫が失踪したとゆう噂が盛んに囁かれた。

 南の方は、姫が隠れて出産するとみて、自分の配下の武将に隠密を放ち、隠棲場所を突きとめた後は刺客を送り殺害を指示した。

 刺客団は、黒装束に身をやつし鎖帷子を肌着につけ三十余名が広島城をたった。

 姫が海路で辿った痕を船で追い、上関、中関と追尾し、中関からは徒歩で山陽道を西に向かった。

 その頃、小野村の財満家では防御用の柵を築き、夜は松明を焚き、毛利、児玉、杉、財満家の武士を各々在所に手配りした。

 姫と乳母は、二階の隠し部屋に身を潜め絶えず外の物音に耳をこらした。

 それから三日後の夜半、ついに刺客団と姫を守護する侍との血を血で洗う戦闘がかいしされた。

 まず、弓合わせから始まり黒装束の武士が次ぎ次に敵方防御陣地を突破し、槍を得意とする武士団の防御陣地に達した。

 ここで壮絶な戦いがあり、黒装束の武士の半数が討死し、なお残りの半数が財満家の屋敷に攻め込んだ。

 屋敷に対し火矢が撃ち込まれ、屋敷内の武士達が消火に手間取る間に黒装束の武士は襖越しに切り込み、児玉、財満、杉家の武士と凄まじい斬り合いとなった。

 姫の居所からは、剣戟の凄まじい音が鳴り響き乳母と抱き合った。

 黒装束の武士達が優勢になった時、突然白馬に跨り長槍をかかげた武士が黒装束の武士を次々と身ねうちにして屋敷を去って行った。霊となっても姫を守ろうとした小次郎であった。

 暫くして戦闘が止み、屋敷の消火も終わり、検分がなされ、六人の黒装束の侍が捕まった。

黒装束の侍は、青白く恐怖の形相の小次郎を思い出し、主犯が南の方であることなど全てを自白した。

 時はたち、姫は無事にお産を終え嫡男の秀就を生んだ。

 この後姫は、広島城の二の丸御殿にて輝元の手厚い庇護のもと、無事、長女竹姫(後吉川広正の正室)、二男(就隆、後の徳山藩初代藩主)を生んだ。

 この後、歴史は大きく流転し、輝元は関ヶ原の西軍の総大将として家康より中国地方の領土全てを召し上げられ、東軍に味方した吉川広家に周防の国、長門の国を下げ渡した。

 それに対し広家は、輝元の赦免状と毛利本藩の再興を家康に願い出た。

 家康は主君に対する忠義の念に篤い広家の志に免じて毛利家の再興と輝元の赦免を許可した。

 その後輝元以下毛利藩の主従の侍は、広島城を出でて周防長門の国の山口に萩城が完成するまでの16年間割拠した。

 その頃の周姫はとゆうと、輝元や南の方、毛利家一門と分かれ7歳の秀就、2歳の竹姫、乳飲み子の就隆を連れて周防国山口の覚皇寺に居を定めた。

 周姫はようやく毛利家からのじゅばくから解放され、親子の充実した日々を過ごした。

 ただ、温暖の地の広島から寒暖の差の激しい盆地にある山口の地は、彼女の体を蝕んでいった。

 山口に移ってから1年後の冬、この年は希にみる寒さで雪深く、それがもとで彼女は労咳を病んだ。

 肌が透き通るように白くなり、咳が徐々に荒くなっていった。

 彼女は別室に控えている子供たち一人ひとりに声をかけ、涙を流した。

 自分は無念にもそなた達と永遠の別れをせざるをえないが、母はいつもあの世から見守っているぞよと。

 それから1年後の西暦1604年冬、享年32歳で輝元と3人の子供達に見守られながら息を引き取った。

 彼女の意識が遠ざかるにつれ、白馬に跨った小次郎が現れた。

 小次郎は優しく微笑み、彼女を軽々と抱きかかえ馬に乗せ天に向かって登って行った。

 現世では結ばれなかった二人は、お互いに笑みを浮かべ見合った。

 そして、そのまま透けるように消えて行った。

 彼女は死後、清泰院と称され関ヶ原後の毛利家の藩祖二人の生母であったが、毛利家の墓地には葬られず、地方の寺に庶民と共に葬られた。

 明治維新後、山口の毛利家の墓地の裏側に秘かに改葬された。

 彼女の人生は、喜びと苦難が繰り替えされた戦国時代の烈女であった。



 

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