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8. 言いたくなかった

 数日後。ベアトリス・エルランジェは豪華に整えられた自室で優雅に紅茶を嗜みながら、ある人物のことを考えていた。


 アナベル・コレット。没落男爵家の冴えない娘。

 淡い亜麻色の髪と紫の瞳、ほっそりとした体付きに、どことなく庇護欲をそそる雰囲気を感じないこともないが、貴族令嬢としての教養もない田舎娘で、女としての魅力は圧倒的に自分のほうが上だ。


 それなのに、あの貧相で身の程知らずな娘は、瑞花の乙女の徴が現れたからといって、この国の権力者である教皇の側に侍ろうとしている。

 そこは、華やかな美貌を持ち、貴族令嬢として完璧なマナーと礼節を弁えた自分の場所でなくてはならないのに。


 しかも気弱そうな見目に油断していたが、風の神殿であの娘は、あろうことかこの自分を階段から突き落とそうとした。

 自分ではないと必死に言い訳していたが、あのとき、確かに明確な害意を感じた。


 初めはあの娘に毎日嫌味でも言い聞かせて、二人の埋められない差を分からせ、自ら大聖堂を去るように仕向けようかと思っていたが、あちらが実力行使に出てくるなら、こちらもやり返して然るべきだ。

 自分に劣るところしかない没落家の娘にいいようにやられるだなんて、決して許してはならない。


 だから図書室で踏み台から転げ落ちるように仕掛けをして罠に嵌めてやった。それなのに……。


「なぜ失敗したのかしら……」


 ベアトリスは忌々しそうに美しく整った眉を寄せた。


 確実に罠に嵌るように、侍女にも監視と誘導を任せたというのに失敗するなんて。

 誘導を任せた侍女は、アナベルが宙に浮いていただなんて馬鹿なことを言っていたが、言い訳でデタラメを言っているか、そうでなくても目の錯覚に決まっている。


「まったく役に立たないわね……。あんなに怯えていては使いものにならないし、別の侍女と入れ替えなくては」


 一度目の計画は失敗してしまったが、まあいいだろう。まだ機会はたくさんあるし、この間いいものを見つけた。


 先日アナベルがこっそりハンカチを洗濯しているのを見かけ、没落貴族の娘はそんなことまで自分でしなくてはならないのかと哀れに思いながら眺めていたのだが、ふとハンカチの隅に施された刺繍が目に入った。


 あの女には似つかわしくない、金糸をふんだんに使った華美な刺繍。


「……あれは、王家の紋章の刺繍だったわ」


 どうやってあのハンカチを手に入れたのかは分からないが、こそこそと隠すようにしていたので、やましいことがあるに違いない。


「フェリクス様に教えて差し上げないといけないわね」


 ベアトリスは、ふふっと口角を上げ、温かく芳しい紅茶に口をつけた。



◇◇◇



 アナベルとベアトリス、フェリクスがいつものように聖堂での礼拝を終えた後、ベアトリスはその場でアナベルに尋ねた。よく通る声が聖堂内に響く。


「アナベル様、この間見かけたのですけれど、素敵なハンカチをお持ちなんですのね。どちらで買われましたの? 紋章のような刺繍がされていたみたいですけれど……」


 アナベルがハッとして固まる。まさかハンカチのことをベアトリスに知られていたとは思わなかった。

 誰にも気づかれないようにこっそり返そうと思っていたのに。


 ヴィクトルから貸してもらったことを正直に言ったほうがいいだろうか。

 アナベルが無言のままためらっていると、ベアトリスが口に手を当て、大袈裟に眉を上げながら言い放った。


「やだ、ごめんなさい! もしかして言ってはいけないことでしたか? まさか殿方と隠れて逢瀬とか……」

「ち、違います! そんなことしていません……!」


 あらぬ疑いをかけられ咄嗟にそう反論すると、ベアトリスが嫌な笑みを浮かべた。


「あら、ではどうしたんですの?」

「ただ、人からお借りしただけで……」

「どなたに?」

「そ、それは……」


 知ってか知らずか容赦のない質問にアナベルが口ごもっていると、フェリクスが低い声で尋ねた。


「ヴィクトル殿下か」

「──はい、そうです……」


 確信を得たように名指しで問われれば答えないわけにはいかない。アナベルが認めると、フェリクスは冷たい眼差しを向けた。


「なぜ言わなかった?」


 それはヴィクトル殿下と会ったことだろうか。それともハンカチを借りたことだろうか。または両方かもしれない。


 でも、言いたくなかったのだ。


 失恋のことも勘づかれたくなかったし、ヴィクトル殿下と会ったことを変に誤解されたくなかった。誤解されるほどフェリクスから興味を持たれてもいないかもしれないが。


「……申し訳ありません」

「謝る必要はない。なぜ言わなかったんだ? 何を話した?」

「……大したことではありません。泣いていた私に通りすがりの殿下がハンカチを貸してくださっただけです」


 嘘は言っていない。……けれど、フェリクスの突き刺すような視線が痛い。

 フェリクスはしばらく黙り込んだ後、苛立ちを抑えるかのように静かに息を吐いた。


「ハンカチはどこだ?」

「え?」

「部屋にあるのか?」

「あ、いえ、ここに……」


 次にいつヴィクトルに会えるか分からない。また偶然出会ったときにもきちんと返せるよう、あれから毎日持ち歩いていた。


「このハンカチです」


 アナベルが綺麗に畳んだハンカチを手渡すと、フェリクスがぼそりと独り言のように呟いた。


「大事に持ち歩いているんだな……」

「え?」

「──いや、殿下には私が返しておく」


 フェリクスはハンカチをぐしゃりと握りしめると、そのまま一人で聖堂を出ていった。

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