7. 叶わない夢は見たくないのに
その後、アナベルは勉強に使う本を借りに図書室へ向かっていたところ、珍しくフェリクスと出くわした。
会釈して通り過ぎようとしたが、フェリクスに腕を掴まれて止められてしまった。
「フェリクス様、何かご用ですか……?」
目を逸らして尋ねると、フェリクスが怪訝な顔で言った。
「……目が赤い。どうしたんだ?」
まさかあなたに失恋して泣き腫らしたとは言えずに黙っていると、フェリクスがさらに表情を険しくした。
「さっきヴィクトル殿下が来ていたらしいが、まさか彼に何か言われたのか?」
どうやら、堂々と正面から帰っていったヴィクトルは案の定、色々な人に姿を見られていたらしい。
それにしても、だからといってすぐにヴィクトルを疑うとは、そんなに厄介な人物なのだろうか。
(たしかに、フェリクス様の悪口を仰ってたけど……。でも、泣いている私にハンカチを貸してくださったし、悪い方ではなさそうだったわ)
とりあえず、目が赤い理由はヴィクトルとはまったくの無関係なので、疑いを晴らさなくてはいけない。アナベルはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、殿下は関係ありません。これは昨晩ちょっと……自分が不甲斐なくて泣いてしまっただけです」
「本当に?」
「本当です」
「……そうか」
フェリクスは、ほっとしたような、困ったような表情で小さく息をつくと、アナベルの目尻にそっと触れた。フェリクスが触れたところから淡い光が溢れ、アナベルは思わず目を瞑る。次に目を開けると、目の充血と瞼の腫れはすっかりひいていた。
「……フェリクス様、ありがとうございます。昔を思い出しました」
小さい頃、アナベルが怪我をするとフェリクスがこうして神力を使って治してくれた。そのときのことを思い出して、つい懐かしむような口調になると、フェリクスが切なそうに微笑んだ。
「アナベル」
心地よい、けれど少し憂いのある声がアナベルの名前を呼ぶ。
「そんなに自分を追い詰めるほど無理しなくていい。君を巻き込むつもりはないから」
「巻き込む……? それはどういう──」
意味が分からず聞き返そうとしたとき、誰かの足音が聞こえた。
フェリクスはアナベルから手を離して距離を取ると、そのまま無言で振り返ることなく行ってしまった。
「フェリクス様……」
さっきフェリクスが触れてくれた場所をそっと撫でる。
昔と変わらない優しい触れ方だった。
自分のことを「アナベル嬢」ではなく「アナベル」と呼んでくれた。
たったそれだけのことで、胸が高鳴ってしまう。昨晩、フェリクスのことはもう諦めようと決めたのに、こんなことをされると彼も自分ことを大切に思ってくれているのではないかと、夢を見たくなってしまう。
「ずるいです……」
小さな呟きは誰にも聞かれることなく、静かな空気の中に溶けて消えた。
◇◇◇
途中で思わぬ出来事がありながらも、アナベルは元々の目的だった図書室へとやって来た。
今日は地理の本を探しに来たのだ。
入り口の扉を開けると、多くの蔵書がおさめられた巨大な書架が出迎えてくれた。
二階まで吹き抜けになった大きな図書室で、紙とインクの匂いに包まれている。
今日はあまりひと気がないようで、いつも以上にひっそりとしていた。
カウンターに向かうと老齢の司書が眼鏡のずれを直しながら会釈してくれた。
「今日はどのような本をお探しかな?」
「えっと、地理の授業の課題で本を探しているのですが……」
「なるほど、それならドゥシャンの『大陸と王国』が分かりやすくてお勧めだよ。その突き当たりを左に進んで、奥から三番目の書架にある」
「分かりました。ありがとうございます」
司書の頭の中にはすべての蔵書とその置き場所が記憶されているらしい。
長年の経験で培われたであろうプロの能力に感心しながら、言われたとおりに歩いていくと、目的の書架にはすでに先客がいた。
(あら、あの方はたしかベアトリス様の侍女の一人だったはず……)
ベアトリスは実家から侍女を二人連れてきていた。アナベルはそもそも没落した実家に侍女などおらず、自分と荷物以外に誰も連れてきていない。
「あの……もしかして、ベアトリス様のお使いですか?」
「ええ、そうです」
侍女に話しかけてみると、ツンとした態度で返事をかえされ、アナベルは苦笑した。
ベアトリスの侍女はみなアナベルに対して冷たい。きっと、自分の主人こそが本物の瑞花の乙女だと信じ、偽者のくせに図々しく瑞花の乙女候補になっているアナベルに憤っているのだろう。
(並んで探すと嫌がられるかもしれないわね……)
侍女が本を見つけた後で探そうと思っていると、侍女は意外にも「お先にどうぞ」とアナベルに譲るような言葉をかけてきた。
「いいんですか? あなたが先にいらっしゃってたのに……」
「いえ、お気になさらず」
「ありがとうございます」
お礼を言って書架に並ぶ書籍の背表紙を確認する。地理関連の本はすべて少し高い位置の棚に収められていて、目当ての『大陸と王国』もそこにあった。
背伸びをしても届きそうにないので、踏み台はないかと辺りを見回すと、ちょうどすぐ脇に踏み台が置かれていた。
ありがたく使わせてもらうことにし、階段のようになっている五段の板を一段ずつ上る。
最上段に足をかけると、ギシッと音が鳴り、ふわりと身体が浮き上がるような感覚があった。
一瞬、足を踏み外してしまったかと思って焦ったが、両足はしっかりと地面についているし、問題ない。
背後で侍女がヒッと息を呑む気配がしたが、アナベルがバランスを崩して落ちるかと思って驚いたのかもしれない。
踏み台を使ったおかげで、ちょうど目の高さに地理の本が並んでいて探しやすい。アナベルは目当ての本を見つけると手に取ってパラパラと捲った。
(司書さんが言ってた通り、挿絵が多くて文章も小難しくないし、分かりやすいわ。これなら課題も捗りそう)
『大陸と王国』の本を胸に抱えて踏み台を下りると、侍女が信じられないものを見たような表情でアナベルを凝視していた。
「……あの、借りたい本が見つかりましたから、どうぞ」
そう言って場所を譲り、カウンターへと向かうと、背後からバキッと木材が割れるような音が響いた。驚いて振り返ると、侍女が踏み台の上で固まっていた。どうやら最上段の踏み板が壊れてしまったらしい。
「大丈夫ですか!?」
アナベルが慌てて駆け寄ると、侍女が青い顔をしながら俯いていた。幸い、転倒するようなことはなかったようだ。
「私が乗ったときは何ともなかったのに……。お怪我はないですか?」
アナベルが侍女に尋ねると、侍女は大丈夫です、と早口で答えてその場を去ってしまった。
取り残されたアナベルが壊れた踏み台を眺めているうちに、物音を聞きつけた司書がやって来た。
「あの、踏み台が壊れてしまったみたいで……」
「おや、それは大変だ。この辺りはしばらく点検をしていなかったもので、すまなかったね。怪我はなかったかい?」
「はい、大丈夫……みたいです」
侍女が大丈夫だと言っていたのを信じて、そう答える。
「これはちゃんと修理しておくから。そういえば、本は見つかったかい?」
「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」
「じゃあ、また本を借りたいときはいつでもおいで」
「はい、また伺いますね」
司書の老人に手を振って図書室を出る。次の地理の授業までに、少しでも知識を増やさなければと、アナベルはぎゅっと本を抱きしめた。