6. 破れた心
大聖堂に帰る頃にはもう空は暗く、月が昇っていた。
部屋に戻ってぼんやりと夜空を眺めていると、静かな室内にコンコンとノックの音が響いた。
「……ベアトリス様」
扉を開けると、そこには不機嫌そうに腕を組んだベアトリスが立っていた。
「あなた、やってくれたわね」
「ち、違います。本当に何もしていません……」
何度も誤解だと説明したが、ベアトリスは信じようとしなかった。
今までは、多少のトゲは感じたもののアナベルにも淑女らしいマナーで接してくれていたが、風の神殿での一件で完全に敵だと見做されたのか、すっかり態度を変えられてしまったようだった。
「ふん、まぁいいわ。フェリクス様の妻の座を取られると思って嫉妬したんでしょう?」
「妻の座……?」
妻とは一体どういうことだろうか。アナベルが不思議そうに首を傾げると、ベアトリスはふふっと嘲るような笑みを漏らした。
「瑞花の乙女は大聖堂上位職の妻になるのが慣例なのよ。今なら年齢的に教皇聖下であるフェリクス様の妻になれるはずよ。でも、フェリクス様の妻になるのはわたくしなのだから邪魔しないでちょうだいね」
「フェリクス様の……妻?」
瑞花の乙女の仕事とは、神に仕え、大聖堂の仕事に従事するだけではなかったのか。
初めて耳にする話に、アナベルは驚きを隠せなかった。
「あなたは本当に何も知らないのね。ほら、王子妃というのもいい響きだけれど、公務が多くて面倒でしょう? それに比べて教皇の妻なら仕事はほとんどしなくていいし、地位も名誉も手に入れられて最高よ。それに、フェリクス様はお顔もよくて素敵だし、自慢の旦那様になるわ。ねえ、知っていて? フェリクス様の大きな手。少し体温が低くていらっしゃって、わたくしがこの手で温めて差し上げたくなるの」
ベアトリスが吊り橋でフェリクスにつながれた手を差し出しながら、うっとりと囁く。
(……そんなの、私のほうがずっとよく知っている)
フェリクスの綺麗な手はいつもひんやりしていて、その手に触れられるのがアナベルは好きだった。でも、もう三年も触れてもらえていない。
「没落男爵家のあなたでは、身分も釣り合わないでしょう? 身のほどを弁えることね」
何も言えずに立ち尽くすだけのアナベルに、ベアトリスは最後にそう言い残して去っていった。
アナベルは力なく壁にもたれかかった。
(フェリクス様が私を避けていた理由が分かった気がする……)
きっと、自分を妻にするのが嫌だったのだ。
自分などよりも、美貌も教養もあるベアトリスが妻となるほうがいいに決まっている。
瑞花の乙女の見極めだって、普通に考えれば彼女が選ばれるはずだ。
そもそも、瑞花の乙女が二人現れたのも異例だというし、自分が瑞花の乙女と認められたのも何かの間違いだったに違いない。この首の痣も、瑞花の乙女の徴でもなんでもなくて、ただの珍しい形の痣にすぎないのだろう。
考えれば考えるほど、自分がとんでもなく愚かで惨めに思えてくる。
(自分が瑞花の乙女だなんて話を鵜呑みにして、のこのこ王都までやって来て、フェリクス様のために頑張ろうだなんて……)
きっとアナベル一人が空回っていただけで、彼にとっては迷惑でしかなかったはずだ。
「本当に、馬鹿みたい……」
どんどん溢れてくる涙を右手で拭う。
「私、こんなにフェリクス様のことが好きだったのね……」
望みのない想いは、一体どうすればよいのだろうか。
心の中に仕舞ったまま忘れたふりをすれば、そのうち本当に忘れられるのだろうか。
縋るように見上げた月は、ただ清らかな光を降らすだけで、アナベルの問いには答えてくれなかった。
◇◇◇
翌朝。アナベルは両手で箒を握りしめ、庭園の鋪道の掃き掃除に勤しんでいた。
昨晩たくさん考えて、フェリクスへの想いは彼には告げずに胸にしまい、ベアトリスが瑞花の乙女に選ばれたら故郷に帰って静かに暮らそうと決意した。
まだフェリクスのことを考えると胸が痛むが、きっと時間が癒してくれるはずだ。
フェリクスへの未練をかき消そうとするかのように、一生懸命に箒を動かしていると、突然目の前の木の葉ががさがさと音を立て、アナベルはびくりと肩を揺らした。
鳥でも飛んできたのだろうかと思って見上げてみると、木の枝の上には鳥ではなく、金色の髪をした見目麗しい青年が腰掛けていた。
「あなたは……ヴィクトル殿下?」
「こんにちは、アナベル嬢。久しぶりだね」
ヴィクトルがにっこりと微笑む。なぜ朝から大聖堂の木の枝に座っているのか気になったが、王族にそんなことを尋ねてもよいのか迷い、結局別の質問をすることにした。
「あの、もしかしてフェリクス様に会いにいらっしゃったとか……?」
今日は公式な面会予定はなかったはずだが、もしかしたらお忍びで遊びに来た可能性もある。
先日は少し不穏な空気が流れていた気もするが、二人は同い年で地位も近く、親しいからこその遠慮のなさだったのかもしれない……とアナベルは思ったのだが。
「まさか。僕、あいつのこと嫌いだから」
アナベルの推察は一瞬で否定された。
「昔からあいつばかり天才だとか神童だとか褒めそやされて、大人はいつもあいつと比べて説教してくるからうんざりなんだ。あいつもお高くとまって僕のことを見下してるみたいな態度だし、顔を見ているだけで腹が立つ」
そのままフェリクスの悪口を言い始めるので、アナベルがなんと返事をしてよいか困っていると、ヴィクトルが戸惑うアナベルに気づいてくしゃりと笑った。
「ごめんごめん、つまらない話をしたね。今日はさ、あいつじゃなくて、君に会いに来たんだよ」
「わ、私ですか……?」
「うん、君」
ヴィクトルはそう言うと、木から飛び降りて華麗に着地した。王子というのは木から飛び降りる姿も様になるらしい。
しばらく呆然とヴィクトルを見つめていたアナベルだったが、ふと我に返り、慌ててヴィクトルに駆け寄った。
「あの、お怪我は……」
「こんなことで怪我なんてしないよ……って、君、目が赤いよ。どうしたの?」
「あ、これは、なんでもありません……」
昨晩泣き腫らした目が、朝になっても治らなかったのだ。人に見られたことが恥ずかしくて思わず赤面する。
「ふうん。あいつに何か言われたの?」
「いえ、何か言われたわけでは……。私が勝手に落ち込んだだけで……」
そうだ。フェリクスに何か言われたわけではない。自分が勝手に好きになって、勝手に失恋しただけだ。
また涙が滲みそうになるのを堪えていると、ヴィクトルが思いがけない質問をしてきた。
「君、あいつの幼馴染でしょ?」
「え、どうしてそれを……」
大聖堂にやって来て以来、自分からはフェリクスと幼馴染だという話はしたことがないはずだ。しばらく一緒に生活しているベアトリスも知らないのに、フェリクスが話したのだろうか。
「数年前に君たちが手紙のやり取りをしてたのを知ってるんだ」
何気なく言って、ヴィクトルは目を細めた。
「そうだったんですね。でも途中でフェリクス様からはお返事が来なくなってしまって……やっぱり、迷惑だったんでしょうか……?」
「どうだろう? よく分からないけど、手紙を眺めながら溜め息をついているのを見たことがあったかなぁ」
「──そう、ですか……」
傷ついたような表情のアナベルがじわりと涙を浮かべるのを見て、ヴィクトルは内心でほくそ笑んだ。
「手紙を読んで溜め息をついた」。
嘘は言っていない。フェリクスが「アナベル・コレット」という差出人からの手紙を大事そうに読んでいたことを伝えていないだけで。
今、目の前の彼女の様子を見て理解した。彼女はフェリクスのことが好きらしい。そしてどうやらフェリクスの気持ちが自分に向いていることを知らないらしい。
最高に楽しい状況だ、とヴィクトルは思った。
これまで散々苛つかされてきたが、ようやく気持ちよく意趣返しできそうだ。あのいけ好かない男から、大事な大事なアナベルを奪ってやろう。
フェリクスはなぜかアナベルに素っ気なく接しているようだが、先日の様子からも本心では気にしていることは明らかだった。
こうしてすれ違っている間に、自分の手の中にあると思っていた彼女が奪われたら、あの男はどんな顔をするだろうか。間違いなく、最高に見ものだろう。
絶望に染まるフェリクスの姿を想像して自然と溢れそうになる笑みを隠しながら、ヴィクトルはアナベルを気遣うように眉を下げた。
「余計なことを言ってしまってごめんね。これで涙を拭いて」
ヴィクトルがハンカチを出してアナベルに手渡す。ハンカチの隅には王家の紋章の刺繍がされていて、見るからに高級品だ。普段アナベルが使っている麻のハンカチとは明らかに手触りが違う。
「あの、お気持ちはありがたいですが、畏れ多くて受け取れません……」
「気にせず使って。また会いにくるから、そのとき返してくれればいいよ」
ヴィクトルはそう言って、片手をひらひらと振りながら、今度は堂々と神殿の中を通って帰っていった。
「また会いに……?」
嵐のように現れ、去っていくヴィクトルの後ろ姿を、アナベルは困惑したまま見つめていた。