5. 風の神殿
ヴェリテ教には、水、火、風、土の四柱の神をそれぞれ祀る四つの神殿がある。何か大きな出来事や危機があったときは、神々への報告と加護を願うために各神殿を訪れて祈りを捧げることになっていた。
そして二人の瑞花の乙女が現れた今、この国を護り育む神々に仕えることを誓うため、アナベルはフェリクスとベアトリスとともに、ヴェント渓谷にある風の神殿を目指して馬車に揺られていた。
馬車の中では御者側の座席にフェリクスが、その向かいにアナベルとベアトリスが並んで腰掛けていた。
風の神殿までの道中は、基本的に無言の時間が多く、たまにベアトリスがフェリクスに話しかけ、一言二言返事があるといった程度だった。
アナベルが大聖堂で一週間を過ごして感じたのは、フェリクスは自分と距離を置こうとしているのではないかということだった。
手紙のやり取りでは話しきれなかったことなどをお喋りしたいと思っていたが、二人で話す機会がなかなかなく、ごくまれに二人になれても、フェリクスは目を逸らしたまま、まるでアナベルを避けているかのように、すぐにその場を去ってしまうのだった。
初めは、瑞花の乙女候補二人を公平に見極めるためかと思ったが、ベアトリスに対しては無愛想ではあるものの、避けるような振る舞いはしていないように見える。
普段、ベアトリスからフェリクスとの会話の内容を聞かされたり、こうして目の前で何度も言葉を交わしているのを見るたびに、胸がつきりと痛むのだ。
(……私、過去にフェリクス様を傷つけたり、怒らせたりするようなことをしてしまったのかしら……?)
まったく思い当たる節はなかったが、何か理由があってのことなのだと考えなければ耐えられなかった。
「──到着いたしました」
御者の声で、アナベルはハッと我に返った。いつの間にか風の神殿に到着したらしい。
馬車から降りると、目の前には切り立った崖が広がっていた。分断された陸地の向こう側に壮麗な神殿が見える。
「風の神殿へは、この吊り橋を渡っていく」
崖の間には、風の神殿へとつながる大きな吊り橋が掛かっていた。吹き抜ける風が、物悲しい歌のような音を立てている。
「まあ、なんて恐ろしい……。フェリクス様、手をつないでくださいませんか?」
ベアトリスが怯えたようにフェリクスの上着の裾を握りしめ、上目遣いでねだってみせる。
「……アナベル嬢は平気か?」
フェリクスはベアトリスには答えずに、アナベルを気にかけるような言葉をかけてきた。
正直に言うと、吊り橋を渡るのは初めてなので怖くて仕方がないが、自分までそんなことを言い出したらフェリクスが困るだろう。
「私は一人でも大丈夫ですから、ベアトリス様と一緒に渡ってあげてください」
「……分かった」
フェリクスとベアトリスの後ろを、アナベルはロープに掴まりながら恐る恐るゆっくりと進み始めた。
うっかり下を見てしまい、眩暈がするような高さに恐ろしくなって前を向くと、ベアトリスの手を取り、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩くフェリクスの姿が目に入った。
美男美女で本当にお似合いの二人だ。
まるで自分が邪魔者のように思えてしまう。
(一人で大丈夫って言ったのは自分なのに、勝手に傷ついて馬鹿みたいね……)
二人の姿をなるべく視界に入れないよう気をつけながら、なんとか吊り橋を渡り切ると、すぐ近くでフェリクスとベアトリスが待っていた。
「お一人で渡らせてしまってごめんなさいね。わたくしはフェリクス様のエスコートのおかげで安心して渡れましたわ」
ベアトリスが頬に手を当てながら、謝罪のような自慢のような言葉をかけてきたが、もうフェリクスと手をつないでいないのを見て、アナベルはほっとした気持ちになった。
「……それはよかったです。では、神殿にまいりましょうか」
◇◇◇
フェリクス先導のもと、神殿の中へと足を踏み入れる。
風の神殿というだけあって、神殿内部に風の通り道が作られており、建物の中なのにひんやりとした風が頬を撫でて気持ちがいい。
また、通路にはガラスでできた鈴がいくつも飾られていて、リィンと涼やかな音を立てていた。
通路を抜けて最奥にある祈りの間に着くと、フェリクスはそのまま立ち止まることなく祭壇へと進んでいく。そして祭壇の前で足を止め、高い位置に飾られた宝珠を仰ぎ見た。
フェリクスが宝珠に向かって神を讃える定型句を述べる。
その次は、アナベルとベアトリスの番だった。瑞花の乙女として挨拶をし、これから誠心誠意仕えることを誓い、捧げ物の鈴を奉納するのだ。
神はみな美しいものや楽しいものを好むらしく、教皇が訪れる際は必ずこうして捧げ物をするらしい。
奉納を終えると、宝珠が淡い緑色に輝き出し、後ろに控えていた神官たちがどよめくのが聞こえた。
「いつもはこんなことは起こらないのに」
「瑞花の乙女のお出でをお喜びになっているのだ」
どうやら、普段は宝珠が輝いたりすることはないらしい。
(歓迎してもらえているみたいでよかった……。私ではなくて、ベアトリス様のことだけかもしれないけど……)
なんとなく卑屈な気持ちのまま神殿の外に出て階段を降りていると、突然ベアトリスが目の前でバランスを崩して足を踏み外した。
「きゃあっ!」と悲鳴を上げ、階段から転げ落ちる寸前だったのをフェリクスが咄嗟に腕を掴んで助けた。
「フェリクス様、ありがとうございます……! 今、誰かに背中を押されたような気がして……」
ベアトリスが後ろにいたアナベルを振り返り、怒りのこもった目で睨む。
「ち、違います! 私は何も……!」
たしかにアナベルはベアトリスの後ろにいたが、背中を押したりなどしていない。必死に違うと首を振っていると、フェリクスが小さく溜め息をついた。
「ベアトリス嬢の勘違いだろう。……もしくは風に押されたか」
「そんな、勘違いなんかでは……!」
「では、距離を取って歩こう。アナベル嬢は離れてついてくるように」
フェリクスが静かに命令する。ベアトリスは勝ち誇ったような表情をアナベルに向けると、甘えるようにフェリクスの腕にしがみついた。
「フェリクス様、また一緒に吊り橋を渡ってくださいませ。一人では怖くて……」
フェリクスはベアトリスの頼みを断ることもなく、腕を取られたまま吊り橋へと向かっていった。
(フェリクス様は私のことを庇ってくれたのかもしれない。でも……)
フェリクスは、アナベルがベアトリスを階段から突き落とそうとするはずがないと信じて、取りなそうとしてくれたのだろう。
頭では分かっている。
でも、たとえそうだとしても、ベアトリスを優先するように振る舞われたことが、アナベルはショックだった。
(こんなの自分の我儘だって分かっている)
分かっているけれど、こんなにも辛くて胸が苦しい──。
アナベルは涙が滲むのを堪えながら、また一人ゆっくりと吊り橋を渡り始めた。