番外編2・もっと近くに(ヴィクトル)
24話と25話の間の頃のお話です。
ヴィクトル・オーレリアン・フェネオンは珍しく焦った様子で、大聖堂の回廊を急ぎ足で歩いていた。
王国の第二王子として、余裕がなく見える振る舞いは慎むべきだと分かっているが、どうしても気が急いてしまう。
今朝がた用事があって王宮に戻ったのだったが、用を終えて大聖堂に戻ろうとした際、ちょうど通路で出くわした公爵夫人に捕まってしまった。
見目の良い男に目がなく、長話で有名な年配の女性で、彼女と顔を合わせてしまった瞬間、ヴィクトルは自分に狙いが定められたことを悟った。
今までだったらそつ無く夫人のお喋りに付き合ってあげて、今後のためにも高位貴族である彼女に好感を持ってもらえるよう、手の甲に口づけるくらいのサービスはしていただろう。
それなのに今日は、早く解放してもらいたくて仕方なかった。もしかしたら顔にも出ていたのかもしれない。
いつもならあと10分は喋り続けるところを、今日は珍しく『殿下もお忙しいようですから、そろそろ失礼いたしますわね』などと言われて、話が終わったのだった。
……まあ、それでも長い時間拘束されてしまったことに変わりはないのだけれど。
おかげで大聖堂に戻るのが随分遅くなってしまった。
本当は30分前に戻ってきて、約束の時間の10分前には待ち合わせの場所に行くつもりだったのに、もう15分も遅刻してしまっている。
(……せっかくのアナベルとの時間なのに)
フェリクスとベアトリスが一緒にいる間、フェリクスの目を盗んでアナベルと二人きりで過ごす大切な時間。
ダンスを練習したり、彼女の勉強を見てあげたり、誰にも邪魔されることなくアナベルを独占できる貴重な時間。
それが15分も失われてしまったことにヴィクトルは苛立ちを感じたが、同時にそんな自分を可笑しくも思った。
(前の僕だったら、約束に遅刻するのは当たり前で、令嬢たちを待たせてばかりだったのに、たった一度の遅刻でこんなに焦るなんて……)
それが今、アナベルと一分一秒でも長く一緒にいたくて、必死に早歩きしている。
あまりの変わりように自分でも笑えてくる。
なんてみっともなくて、なんて滑稽なんだろう。
……それでも、そんな自分が嫌ではなかった。
「アナベル嬢、遅れてしまってごめん……」
やっとのことで、いつもの裏庭に到着し、アナベルに遅刻の謝罪をしようとしたヴィクトルは、ハッとして口を噤んだ。
アナベルが木陰に座り、幹に寄りかかって眠っていたからだ。
今日は暖かくいい気候だし、彼女は毎晩遅くまで勉強をしているらしいので、ヴィクトルを待っている間に、ついうたた寝をしてしまったのだろう。
うっかり起こしてしまわないよう、足音を立てずに近づいて、すうすうと小さな寝息を立てながら眠るアナベルの正面にしゃがみ込む。
女性の寝顔を眺めるなんてとても失礼だとは分かっているけれど、どうしても目が惹き寄せられてしまう。
伏せられた睫毛は木漏れ日を浴びてきらきらと輝き、滑らかな頬も、ふっくらとした小さな唇も、とても可愛らしい。
どうしてこんなにも特別に見えるのだろうか。
自分はもっと華やかな美人が好みだと思っていたのに。
そういう女性と付き合いすぎて飽きてしまったから、今度は控えめな見た目の娘を求めてしまうのだろうか。
(いや、違う。……アナベルだから惹かれてしまうんだ)
気ままで軽薄な王子であろうとすることで誤魔化していた劣等感を、彼女の純粋な心が救ってくれた。
アナベルだから、その外見も声も笑顔も、何もかもが特別で愛おしく思えるのだ。
あどけない顔で眠るアナベルを見つめながら、ヴィクトルが呟く。
「こんな風に無防備にされたら困るよ。……キスしてしまいたくなる」
今までの自分だったら、こんなチャンスは絶対に逃さないはずだ。
でも、アナベル相手だと、ずっと心の奥に閉じ込めていた真面目な部分が顔を出してくるのだ。
彼女はこれまで付き合ってきた令嬢たちとは違う、好き勝手に触れていい娘ではない、と。
ましてや意識のない間にキスするなんて言語道断だ。
万が一そんなことをして起こしてしまったら、きっと彼女はひどく驚くだろうし、怯えてしまうかもしれない。
せっかく少しずつ距離が縮まってきたのに、ここで我慢ができなくて嫌われてしまっては最悪すぎる。
ヴィクトルはアナベルの唇から目を逸らし、キスしたい衝動を何とか抑える。
ふと、彼女の亜麻色の髪に木の葉がついているのに気がついた。
そっと取ってやると、その瞬間、アナベルが少しだけ微笑んだような気がして、ヴィクトルの心臓が小さく跳ねた。
「……好きだよ、アナベル」
心の声が、ぽろりと漏れる。
彼女がフェリクスを好きなことは知っている。
それでも、彼女の気持ちを手に入れたい。彼女に好きになってもらいたい。
そうなれたら、思う存分彼女に触れて、キスをして、たくさん甘やかしてあげよう。
きっと幸せにする。だから、この気持ちを受け入れてほしい。
祈りにも似たこの想いは、いつか叶う日が来るだろうか──。
「う……ん、ヴィクトル殿下……?」
アナベルが目を覚ましたのは、それから五分後だった。
「も、申し訳ありません……! うっかり眠ってしまったみたいで……」
失態に気づいて慌てるアナベルに、ヴィクトルが優しく返事をする。
「気にしないで。そもそも僕が遅刻したのが悪いから」
「すみません……。あの、もしかして寝顔とか見られたり……?」
恥ずかしそうに尋ねるアナベルが愛らしい。
でも、寝顔をまじまじと見てしまったことは言わないほうがよさそうだ。これは僕だけの秘密にしよう、と狡い自分が顔を出す。
「そんなに見てないから安心して。疲れているんだと思って起こさなかったんだ」
「ありがとうございます……。もう大丈夫なので、練習をお願いできますか?」
「うん、もちろん。じゃあまずは昨日のおさらいからしてみようか」
「はい、お願いします」
ヴィクトルが差し出した手を取って、アナベルが微笑む。
自分だけに向けられた笑顔と、彼女の柔らかな手の体温が、どうしようもなく愛おしい。
(今はまだ、この距離でもいい。でもいつか、もっと近くに君を感じられたら……)
そんなことを願いながら、ヴィクトルは穏やかな笑顔を浮かべた。
番外編もお読みくださってありがとうございます!
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