番外編1・甘い時間を君と(フェリクス)
エピローグ後のお話です。
「では、行ってきますね、フェリクス様」
「ああ、気をつけて」
隠しの間の鏡の前でアナベルが微笑みながら手を振る。するとそのまま淡い琥珀色の光に包まれ、鏡に吸い込まれるようにして消えてしまった。
アナベルの姿が見えなくなった途端、フェリクスの顔からは笑顔が消え、寂しそうな眼差しが鏡に向けられる。
「また出かけてしまったな……」
最近、アナベルはたびたび妖精の国へ出かけるようになってしまった。
それは森の妖精王であるリュミエールと約束していたことである上、毎回きちんとこちらの世界に帰らせてくれているので問題はない。
アナベルはいつもしっかり自分の仕事を終わらせているし、出かけるのもフェリクスが仕事をする時間だけだ。
そう、別に何も問題はないのだ。……ただ、フェリクスが寂しいだけで。
(……俺といるより、妖精の国にいるほうが楽しいのだろうか)
あちらには、だいぶ年が違うが同じ瑞花の乙女──妖精の愛し子であるエミリアがいるし、アナベルのことが大好きな小さく愛らしい妖精たちがいる。リュミエールの様子はよく分からないが、エミリアへの態度から考えると、アナベルにも優しく紳士的である可能性が高い。
大聖堂は静かで退屈だろうし、自分のような面白みのない男といるよりも、向こうで過ごすほうが楽しいと感じても不思議ではない。
「アナベル……」
フェリクスは鏡に映る切なそうな表情をした自分を一瞥すると、溜め息をつきながら仕事へと戻っていった。
◇◇◇
「ただいま戻りました」
ちょうどフェリクスの休憩時間にアナベルは帰ってきた。
「おかえり、アナベル」
フェリクスがあからさまにほっとした表情で出迎える。
「ちょうど今から休憩するところだったんだが……」
一緒にお茶でもどうかと誘おうとしたところで、アナベルが焦ったように言った。
「フェリクス様、すみません。先にお部屋で休んでいていただけますか。私はあとから行きますので」
「……分かった」
早くアナベルを独り占めしたかったフェリクスは内心がっかりして落ち込んだ。
申し訳なさそうに眉を寄せて見送るアナベルを離れがたそうに見つめながら、渋々自分の部屋へと戻っていった。
「フェリクス様、お待たせしました……!」
急いで支度を済ませてきたのか少しだけ息を弾ませて、アナベルがやって来た。
茶器と菓子の載ったワゴンを押しているのを見ると、どうやらお茶の準備をしてきたらしい。
「そんなこと、他の者にやらせたのに」
そう言って手伝おうとするフェリクスを、アナベルがやんわりと手で制して、ソファに座るよう促した。
「いえ、これは私がやりたかったんです。憧れというか……」
「憧れ?」
お茶の準備の何が憧れだというのだろうか。意味が分からず首を傾げるフェリクスに、アナベルが恥ずかしそうに教えてくれた。
「前に妖精の国に遊びに行ったとき、皆さんとお茶をしたんです。エミリア様が紅茶を淹れて、それをリュミエール様が美味しそうに召し上がって、二人で微笑み合っていて……。その光景がとても穏やかで温かくて、素敵だなぁと憧れていたんです」
アナベルが柔らかく目を細める。
「だから、私もそんな風にフェリクス様に紅茶を淹れてあげたくて、実はエミリア様にお願いをして、美味しい紅茶の淹れ方を習っていたんです」
(……ああ、最近よく向こうに出かけるのはそのためだったのか)
まさか自分のためにわざわざ習いに行っていただなんて考えもしなかった。
(アナベルが、俺のために……)
そう思うだけで、言いようのない嬉しさが込み上げる。
「それで、今日やっとエミリア様から合格をいただけたんです。なので、今日は私が紅茶をお淹れしますね」
アナベルが手際よく紅茶を淹れ始める。
ティーポットに茶葉を入れ、お湯を注ぎ、蒸らしている間のアナベルの手つきや一生懸命な表情に見惚れていると、いつの間にか紅茶が出来上がっていた。
「フェリクス様、どうぞ召し上がってください」
アナベルに笑顔で見守られながらティーカップを手に取り、口元へ運ぶ。
ゆっくりと一口飲めば、まろやかで深みのある味わいが口に広がった。
「……美味しいですか?」
期待と不安が入り混じったような眼差しを向けるアナベルに、フェリクスがうなずいて返事をする。
「とても美味しい。美味しすぎて、今まで飲んでいた紅茶の味を忘れてしまった」
「ふふ、フェリクス様ったら大袈裟ですね。でも、美味しそうに飲んでいただけて嬉しいです。エミリア様に習ったかいがありました」
憧れの場面を体験できたおかげか、アナベルが幸せそうに笑う。
そんな彼女の屈託のない笑顔をこんなにも近くで見られることを、フェリクスはとても幸せだと思った。
「そうだ、お菓子もありますからね」
焼き菓子の載った皿をテーブルに置くアナベルの腕に、フェリクスが優しく触れる。
「アナベルも、こっちに座って一緒に飲もう」
「え、でも……」
なぜか向かいの席ではなく、フェリクスが座る二人がけのソファの隣の席を勧められ、アナベルは戸惑ったようだったが、断るのもよくないと思ったのだろう。やや距離を置きながらも隣に腰掛けてくれた。
「このくらいでいいですか……?」とでも尋ねるように上目遣いで様子を伺うのが可愛らしい。
けれど、欲を言うなら、あと体一つ分、こちらへ来てほしい。
「もっと側においで」
そう言うと、アナベルは「は、はい……」とぎこちなく返事をして、真っ赤になりながら側に寄ってくれた。
(……本当に可愛いな)
自分に照れてくれているアナベルを目の前にして、最近感じていた不安など吹き飛んでしまったし、彼女に触れたくて仕方ない。
フェリクスがアナベルの頬に触れ、優しく横を向かせる。
「……アナベルが一緒にいてくれて、本当に幸せだ」
「フェリクス様……」
頬を染めたアナベルに潤んだような瞳で見つめられ、フェリクスは愛おしい気持ちで胸がいっぱいになるのを感じた。
そうして、気がつけばアナベルに口付けていた。
柔らかな感触に、彼女がちゃんとこの世に存在して、自分のものになってくれたことを実感する。
まさに奇跡のような出来事だ。
「アナベル、これからもずっと俺の側にいてほしい」
「わ、私でよければ……」
少し上ずった声で謙虚な返事をするアナベルがたまらなく可愛らしくて、フェリクスは思わず笑ってしまう。
「アナベルでなくては嫌だ」
そう言って、目の前ではにかんだように微笑む最愛の人に、もう一度口づけた。
番外編第2弾はヴィクトルのお話を予定しています。
しばらくお待ちください!




