37. 諦めない
アナベルがいなくなったという知らせに、ヴィクトルは焦りの滲む声で尋ねる。
「どういうことだ? 王宮内で見失ったということか?」
「いえ、それが……王宮のすぐ外の森にお連れしたところ、淡い光とともに忽然と消えてしまわれたのです……」
騎士からの報告を聞き、フェリクスが堪えきれずに問いただす。
「なぜアナベルを森へ連れて行った? 殿下、俺は森に行かないよう言ったはずです」
「すまない。まさか僕に言わずに出かけるとは思わなくて……」
騎士が深く頭を下げる。
「……アナベル様が落ち着いて考え事をしたいので、自然のある場所に出かけたいと仰ったのです。それで私と侍女が供をして森にお連れしたのですが……。申し訳ございません」
悔いるように顔を歪ませる騎士をヴィクトルは責めなかった。
「いや、お前たちのせいではない。僕の配慮が足りなかった。──教皇殿」
ヴィクトルがフェリクスの目を見る。
「君なら、アナベルを連れ戻すことができるだろうか」
ヴィクトルの問いに、フェリクスが苦しげに眉を寄せる。
「今までは、すぐそばにいたから間に合っていましたが、今回は距離も遠いし時間も経っている……ですが、やってみます。アナベルを犠牲になど絶対にさせない」
フェリクスは、神が瑞花の乙女を迎えるという鏡の前に立ち、傷ひとつない滑らかな鏡面に静かに手を当てた。
「この鏡は、神の住む世界に繋がっているはずです。ここからアナベルの気配を探ってみます」
フェリクスが目を閉じて神力を流し始める。鏡の向こう側に通路のようなものが長く続いているのを感じ、どんどん奥までたどっていくが、アナベルの気配は掴めない。
「どうだ? アナベルの気配は見つかったか?」
「……いえ」
「くそっ、僕がちゃんとしていれば……!」
ヴィクトルが悔しそうに拳を握りしめる。そんなヴィクトルを見つめ、フェリクスが言った。
「……殿下、私が向こうの世界に行ってみます」
「は? そんなことが可能なのか?」
「分かりません。ですが、もうそれしかアナベルを助ける方法はありません」
「だが無謀すぎる。君だって無事では済まないかもしれない」
ヴィクトルの言うとおり、神の世界に乗り込むなど無謀でしかない。上手くいくかも分からないし、成功したとして生きて帰れる保証もない。
でもやるしかなかった。
アナベルを諦めることだけは絶対にしたくなかった。
「……そうかもしれません。でも、アナベルだけは必ず助けてみせます」
アナベルさえ助けられれば、それでいい。
フェリクスがアナベルへの思いを込め、さらに強く神力を放ったとき、フェリクスの体が淡く輝きながら透け始めた。
「教皇殿、体が……!」
「上手くいったようです。……殿下、アナベルをよろしくお願いします」
そう言い残し、フェリクスの体は鏡に吸い込まれるようにして消えた。
◇◇◇
鏡の向こうには、どこまでも続く光の回廊があった。
永遠にも感じるほど長い回廊を進んでいくと、やがて強い光とともに、広い場所に抜け出た感覚があった。
フェリクスがゆっくりと目を開けると、目の前には真っ白な衣をまとった長い銀髪の美丈夫が立っていた。
「……人の身でここまで来たか。その才能と努力は買うが、人間が招かれもせずにこちらの世界に来るなど、死んでもおかしくないぞ」
男の隣には、不安げな表情のアナベルがいる。
フェリクスは、目の前の男が神であることを悟った。
「……アナベルのためなら、何度だって来ます。アナベル、心配しなくていい。必ず助ける」
「必ず助ける、か。偽者まで用意していたな。私に刃向かったのは、お前が初めてだ」
(フェリクス様……!)
アナベルが潤んだ瞳でフェリクスを見つめる。
考え事をしようと森に出かけたら突然、体が光に包まれ、気がつけば一人きりで知らない世界に来ていた。
その上、目の前には美しいけれど得体の知れない男が立っていて、アナベルのことを妃だと言う。元の世界に返してほしいと頼んでも聞く耳を持たず、心細くて堪らなかった。
そうして心の中でフェリクスに助けを願ったとき、懐かしい温かな光に包まれて、フェリクスが現れたのだった。
(フェリクス様が、私を助けに来てくださったなんて……)
水の神殿での別れの後、自分のことなど忘れられていると思っていた。フェリクスを責めるようなことを言ってしまったのだから、嫌われていても仕方ないと。
それなのに自分を助けに駆けつけてくれるなんて、信じられない気持ちと、泣きたくなるくらいの嬉しさが胸に込み上げてくる。
そんなアナベルの隣で、神がわずかに笑みを漏らした。
「邪魔をされるのは腹立たしいが、愉快でもあるな。……たしか、アンセルムといったか。あやつとは正反対だ」
「彼と一緒にしないでください」
「あやつのおかげで瘴気から国が救われたというのにか?」
「最悪の方法です」
「ならお前はどうする? アナベルを返すなら、瘴気の封印は解くしかない。そういう契約だ。瘴気で国が滅んでもいいのか?」
整いすぎて冷酷にも見える顔に、何の感情も浮かべることなく神が問う。
「ええ、アナベルが犠牲にならなければいけない国など滅べばいいと思います。でも、俺はアナベルに幸せに暮らしてほしい。だから……俺が犠牲になります。俺ではアナベルの代わりにはならないかもしれませんが、強い神力を持っている。何かの役には立つでしょう」
「それは、アナベルが私の妃になるのと、どう違うのだ?」
「アナベルは、瑞花の乙女の役割があなたの妃になることだなんて知らなかった。俺はすべてを知り、自分の意思でここに留まると言っています。……アナベルが助かるなら、俺は何だってします。力を失ってもいい。命だって捧げられる。だから、どうかアナベルだけは──」
フェリクスが懇願する。
今まで見たこともない彼の必死な姿を目の当たりにし、アナベルはたまらずフェリクスの側に駆け寄った。
「やめてください! フェリクス様が私の代わりに犠牲になるなんて嫌です!」
「アナベル……俺のことは気にするな。君を助けられるなら、俺はどうなっても構わない」
「フェリクス様を犠牲にして、幸せになんてなれません」
「……ヴィクトル殿下が君を幸せにしてくれる。だから、俺のことは忘れるんだ」
「嫌です! フェリクス様がいなければ意味がありません。私は……私が愛しているのは、フェリクス様なんです……!」




