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35. 黒い本に残された記憶2


 目が覚めると、周りに人の気配はなく、真っ暗な森の中で一人きりだった。

 体の調子はだいぶ良くなり、まだ少し全身が重い感じがするが、動けないほどではない。

 私は体を起こして辺りを見回した。


 すっかり日が暮れてしまって周囲の様子が分からないが、足下の石やすぐ横の木に見覚えがある。どうやら私は気を失った後、アンセルムに放置されたまま、ずっとここに倒れていたらしい。


 先ほどの出来事は、本当に現実のことだったのだろうか。

 もしかしたら瘴気が見せた悪い夢だったのではないだろうか。


 そんなことを考えながら森の中を歩いているうちに、私はあることに気がついた。

 瘴気が消えているのだ。


 やはり、あれは夢などではなく、本当に神がクラリスと引き換えに瘴気を封印したというのだろうか……。

 私は不安に震える体をなんとか励まし、元いた教会へと急いだ。

 そしてやっとの思いで教会にたどり着き、仲間の信徒に手を振ると、彼は目を見開いて驚いた。


「コンスタン! お前、生きてたのか! 一週間もどうしてたんだ」


 一週間……? まさかそんなに時間が経っていたとは思わなかった。

 でも、そんなことより先に確かめなければならないことがある。


 奇跡の生還を涙ぐんで喜ぶ彼にクラリスの所在を尋ようとしたが、私が聞く前に、その答えは分かってしまった。


「クラリスのことは残念だったな……。まさか瘴気に飲み込まれちまったなんて……。でも、教会で司教様が直々に祈りを捧げてくださったから安心しろよ」


 クラリスは、すでに死者として扱われていた。

 もしかすると、あの出来事は夢だったのではないか。本当はクラリスは神に連れ去られてなどおらず、この教会で私の帰りを待ってくれているのではないか。

 そんな淡い期待は無残に打ち砕かれてしまった。


「……アンセルムはどうなった?」


 私は今にも泣き叫びたい衝動を抑えながら、アンセルムについて尋ねる。


「ああ、アンセルムは無事だ。あいつはやっぱり凄いやつだったな。今や国を救った英雄だもんな」


 なんとクラリスを神への贄にしたアンセルムは今、司教の座に就いており、瘴気を封印した英雄として崇められているという。

 私はアンセルムがいるという部屋に向かい、扉を乱暴に開け放った。


「生きてたのか、コンスタン」


 アンセルムは悪びれた様子もなく、私の姿を見て面倒そうに眉を寄せた。


「お前のせいでクラリスが……!」


 胸倉に掴みかかろうとした私を、アンセルムが思い切り払いのける。


「悪いのは俺じゃなくて、クラリスに目をつけて連れ去った神だろう?」

「それでも、お前が婚約者のフリをして勝手なことをしなければ……!」

「じゃあ、あのまま瘴気が湧き出すのを黙って見ていればよかったのか? 俺の機転のおかげで瘴気を封印できたんだろう?」

「……!」


 アンセルムの言葉は、たしかに正論かもしれない。

 私たちは瘴気を抑えるために森へと向かった。

 国を滅ぼす瘴気を封じる方法があったのだから、乙女一人と引き換えにそれが叶うのなら、ありがたいことだろう。


 だが、それでも、私にとっては国の存亡よりもクラリスのほうが大事だった。

 幼い頃から想いを寄せていたクラリスと、これから幸せな家庭を築いていけると思っていたのに。すべてが儚く消えてしまった。


 それに、犠牲になったのはクラリスなのに、なぜそれが公表されていないのか。なぜアンセルムの手柄になってしまっているのか。私には到底納得できなかった。


 瘴気を封印したのはお前ではないだろう?


 クラリスの存在があってこそ瘴気を封印できたのだと、私が公表する。アンセルムにそう告げると、彼は大きな溜め息をつき、吐き捨てるように言った。


「やっぱり、お前もあのまま死んでいればよかったのに」

「なんだと……」

「お前ごときが、俺の計画を壊すような真似をするな」

「計画……?」

「ああ、壮大な計画だ。俺は英雄として名を馳せ、この教団を国一番の規模に拡大して教皇となる。地位と名誉と権力、そして莫大な財産を得てみせる。だから、お前に余計なことをされると困るんだよ」


 アンセルムが不敵な笑みを浮かべる。


「アンセルム……何を言っている……? まさか、そのためにクラリスを差し出したのか?」

「まあな。俺の力で瘴気を抑えられなかったのは想定外だったが、クラリスが役立ってくれて助かったよ。もうこの世に戻ってこないのなら、手柄だって必要ないだろう? 俺がやったことにして何が悪い」


 アンセルムのあまりに身勝手な考えに、私は底知れない憤怒と絶望を覚えた。

 こんな奴のせいで、クラリスを失ってしまっただなんて。


 怒りを込めた目で睨みつけると、アンセルムはカツカツと足音を立てながら、こちらに歩いてきた。そして鼻先が触れそうなほど近くに顔を寄せて囁く。


「コンスタン……真実を公表しようだとか、おかしなことはするなよ」

「……お前に止められる筋合いはない」

「へえ、いいのか。そんなこと言って。お前の母親の病が悪化しないでいられるのは、誰のおかげだったかな? あと、たしかお前の姪も体が弱いんだったか。俺だったら無償で治療してやれるけどな」


 私はあまりの怒りに拳を固く握りしめた。

 これは私の身内を人質に取った脅しの言葉だ。


 アンセルムの言う通り、母の不治の病が悪化せずに生きていられるのは、アンセルムの癒しの力のおかげだったし、病弱な姪もアンセルムが力を貸してくれるなら、寝たきりにならずに暮らしていけるだろう。今まではクラリスが癒しの力を使ってくれていたが、彼女はもうこの世にいない。


「……安心しろ。お前の親族は俺が面倒を見てやるよ。お前も俺の付き人にしてやる。だから、しっかりと立場を弁えるんだぞ」


 アンセルムは、黙ったまま拒否できずにいる私に向かってにやりと笑い、部屋を出て行った。


「くそっ、どうして……!」


 なぜ、こんなことになってしまったんだ。

 クラリスを奪っていった神と、そう仕向けたアンセルムが憎くて堪らない。


 でも、一番腹立たしいのは自分自身だった。

 大切なクラリスを助けることができなかった。

 そして今も、アンセルムの脅しに逆らうことができない。

 弱くて無力な自分が心底情けなかった。


「……クラリス、すまない……」


 そして私は、真実を公表できないままアンセルムの側近となった。


 彼の側近となった私は、その異例の出世を一番近くで見ていた。

 彼は癒しの力を「神力」と自称し、その力で瘴気を封印したのだと主張した。


 アンセルムの思惑通り、教団は瞬く間に国民の信頼を得て国中に広まり、ついには国教として定められるに至った。

 彼は初代教皇となり、大聖堂の主となった。人々から尊敬され、やること成すこと賞賛を受け、爵位を賜り、高位貴族の家門から妻を娶り、彼が求めていた地位と名誉、権力と財産を容易く手に入れた。


 そして五十年後。瘴気の発生が近づくと、アンセルムは天啓を受けたと言って、花の形の痣のある乙女を見つけ出し、国に平和と豊穣をもたらす神の使いだとして『瑞花の乙女』と呼び、大聖堂で預かることを国の定めとして決めさせてしまった。


 もちろん、瑞花の乙女など出鱈目で、瘴気を封印できていないこと、自分にその力がないことを露見させないために神に捧げ物として差し出すという、卑劣な計略に過ぎない。

 哀れなクラリスの二の舞だ。


 今では、アンセルムは自分の息のかかった数名を上級神官に任命し、肝心なことは伏せたまま、この欺瞞に満ちた企みに加担させている。


 こんなことを許してはいけない。

 そう分かっているのに、私はまた何もすることができなかった。


 姪が健やかに過ごすには未だにアンセルムの力が必要だったこともあるし、告発するには歳を取りすぎた。

 それに、もはや私が何をしようとどうにもならないところまで来てしまった。


 ……いや、これも結局はただの言い訳に過ぎない。ただ私が諦めてしまっただけだ。


 しかしそれでも、私が死ぬ前にせめてもの償いとして、ここに真実を書き記し、アンセルムの手の者に見つからない場所に隠そうと思う。

 いつか心ある誰かがこの本を見つけ、不幸な乙女を救い出してくれることを切に願う。



◇◇◇



「……この本に書かれていること、教皇殿は信じられるか?」


 古語で書かれた長い文章を黙々と読み進めること数時間。

 最後のページを読み終えたヴィクトルが大きな溜め息をついた。


「おそらく、ここに記されていることこそが事実でしょう。そのほうが納得できます」


 黒い本には、アンセルムの側近コンスタンがその目で見た、瘴気の封印と瑞花の乙女の真実が綴られていた。


「まさか、英雄アンセルムがこんな男だったとは……。教皇殿が瑞花の乙女にアナベルを選ばなかったのは正しかったんだな」

「……ベアトリス嬢が偽者であるのは、どうせすぐに気づかれますから、ほんの少しの時間稼ぎにしか過ぎませんが」

「それでも、そのおかげでアナベルを失う前に真実を知ることができた。……これから、どうするつもりだ?」


 ヴィクトルが問うと、フェリクスがためらいながら答えた。


「……私が古の契約を違えたことで、()から何らかの反応があるはずです。大聖堂に瑞花の乙女を捧げるための部屋があるので、そこで待ちます」

「それなら僕も行こう。こうなったら最後まで見届けたい。でも、アナベルは大丈夫だろうか。神ならいつでも攫うことができるんじゃ……」

「いえ、王宮にいれば大丈夫だと思います。……おそらく、彼は土の神。水の神の領域である王宮にいれば手は出せないはずです」

「分かった、信じよう」


(アナベル、必ず助ける──)


 大聖堂へと向かう馬車の中で、フェリクスは固く拳を握りしめた。



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